今は川と星を見つめて。
高村 芳
今は川と星を見つめて。
物々しい音をたてて自販機が缶を吐き出した。火傷しそうになるほど熱い缶の、甘ったるすぎて飲めやしないミルクティー。これは必需品だ。俺は乗り慣れたマウンテンバイクに跨った。缶を突っ込まれたジャンパーのポケットは熱を帯びている。
ついこの間まで薄い長袖一枚着ていれば事足りる気温だったのに、気付けばもう上着が必要な季節になっていた。夕日はとっくに沈みきっていて、自転車で走る横を流れる川の水面は、黒い絵の具を溶かしたように見えた。ハンドルの真ん中で道を照らすライトが、少し頼りなく感じる。
俺には完全にバレているのに、なぜ、奈穂美は毎回河原にしゃがみ込んでいるのだろう。誰かに隠れて泣くのなら、俺にわからないところで泣いてほしい。じゃないと、毎回俺が迎えに行くことになるのだ。
予想通り奈穂美は、いつもと同じ橋のたもとでいつもと同じように三角座りをしていた。自転車のライトの光が、奈穂美の背中を照らしている。奈穂美は川を睨んでいた。俺は河原の斜面にライトをつけたままの自転車を寝かせてから、奈穂美からは少し離れた同じ高さの斜面に腰をおろした。
「いい加減帰れって」
一通り泣きつくした後なのか、もう嗚咽は聞こえていない。ただ川をまっすぐに見据えて動かない。
「おばさん、心配してたぞ。今日はカツ丼だってさ」
おばさんが心配していたというのは半分嘘だ。もちろん帰ってこない娘のことを心配しているのだろう。けれど、いつものことだ。河原にいることもわかっているし、毎度ちゃんと帰ってくることをわかっている。今日もカツの香ばしい香りが漂う玄関で、俺に「ごめんねえ、今日もよろしくね」と、困ったような笑顔で迎えを頼んできた。
奈穂美は何か落ち込むと、必ずこの川にやってきていた。中学生の奈穂美が背伸びして付き合っていた高校生にフラれたときもこうだった。叫ぶわけでもなく、石を放り込むわけでもなく、真っ黒な川の流れにただ目を向けているだけだ。
そんな奈穂美を毎回同じように慰めている俺も、全くのお人好しだ。
「……馬鹿だと思ってるでしょ」
声色がまだ揺らいでいて、掠れて聞き取りにくい。でも幼い頃からずっと一緒だったからか、俺は奈穂美の言葉を聞き逃したことはないのだ、悔しいことに。
「わかってんなら聞くなよ」
足元の小石を拾って川の方へ投げた。街灯の光は川まで届いていないのでよく見えなかったが、小さく水に沈み込む音が聞こえた。
手足を投げ出し、地面に直接寝転がった。頬に触れる柔らかな野草は少し湿っていた。奈穂美の丸まった背中が視界に入る。相変わらず折れそうな肩だな、と思う。視線を頭上に向ければ、ちらちらと光を放つ夜空が広がっている。まるで真っ黒な砂の中に砂金が散りばめられているように見える。
「アンドロメダ座が見える」
俺がぽつりと呟くと、奈穂美は少し躊躇いながら空を見た。
真南の夜空にある秋の四辺形。その北東の星、アルフェラッツを頂点としてアルファベットのAの字のように連なる星の並び。
奈穂美が落ち込んだとき、いつもこの川で南の夜空を見上げることになった俺は、星座の本を手に取るようになっていた。いつだったか、ふと「星が見える」と声に出したとき、奈穂美が空を見上げたからだった。それ以来、真っ黒な澱みに目を向ける奈穂美の視線を、頭上に向けさせるために、俺はいくつもの星座を覚えることになった。
「帰る」
奈穂美は袖で顔を拭うと、何事もなかったかのように立ち上がり、ジーンズについた草を払った。涙の筋は乾いているようにみえた。俺はひとつ息を吐き、家の方向へ歩いていこうとする奈穂美の後を追った。自転車を起こし、ライトで奈穂美が行く方向を照らしてやる。
「ん」
奈穂美に追いついたところで、ポケットにしまっていたミルクティーを取り出す。奈穂美は俺を一瞥してから、缶を受け取った。歩きながら一口飲んだ奈穂美は、
「ぬるい」
と、眉根を寄せて微かに笑った。文句言うな、と言って、奈穂美の頭を軽く叩いた。
今は川を見て、星を見ていてくれればそれでいい。
その視線の先に俺はいなくとも、俺は隣で同じものを見ることができればいいと、心の中で思うのだ。
今は川と星を見つめて。 高村 芳 @yo4_taka6ra
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