第13話 帰還兵
暗雲立ち込める空の下を歩く男が一人。これは見事にも演劇の舞台のように整った情景であったが、その男にとってはさぞ気分の悪いものであるだろう。
その男はバルボア、正しくはエル・バルボアと言う。彼はマクシミリアンによって設定された休日を使い、帰郷の道についていた。
そう帰郷。別段不思議な話ではないが、この男は例外である。なぜなら、バルボアは特異な過去を背負っているからだ。
バルボアは軍人として恵まれた巨躯を持つ者ではあるが、父は役人、母は修道女、とつまるところ文民の両親から生まれていた。そのため、幼少期のバルボアにとって勉強とは机に向かってするものでしかなく、剣術の練習など許してもらえるはずがなかった。
しかし、不幸なことにバルボアは文民にはまったく不向きの類であり、文字の読み書きですら他の子供に数年も遅れを取る始末であった。そのため、父母はバルボアを見限り、彼の兄弟にだけ目を向けるようになった。
バルボアにとってこれは余りにも悔しく、劣等感を感じられずにはいられない出来事だった。そして、彼は成人するや否やたまらず家を飛び出し、目的のない放浪の人生を歩みだした。
それは確かに自由である。父母からの圧力から解き放たれ、兄弟からの嘲笑はどこにもないバルボアが求めた自由な世界だ。ところが若きバルボアにとって自由な世界とは想像の何倍も広く、そして陰惨なものだった。
職など炭鉱での肉体労働しかなく、世間からは厄介者や能無しなどのレッテルを貼られ、冷たい風がバルボアの頬を常につたわるので涙すらも直ぐに自分の元を離れていった。
自ら選んだその日暮らしではあったが、それは酷く惨めであり、バルボアは帰る家があった頃よりも悲壮感に包まれている己を意識せざるを得なかった。
そうしてバルボアが何年かを浮浪者として過ごした後に始まったのが、先の大戦である。
開戦当初、バルボアの頭にあったのは戦時による不景気が起きないかどうかの心配だけだった。しかし、イシュメールの演説でその心情はがらりと変化する。イシュメールは国民に呼び掛けた、「私が、国家が、歴史が諸君らを必要としている! 諸君らに秘められた力を信頼しているのだ!」と。
そう、バルボアはこれを受けて軍人になることを決意したのだ。世間から邪魔者扱いをされ続けてきた彼はついに自分を必要としてくれる存在を見つけたのだ。
そして、彼は突撃兵として最前線に配置された。彼の初陣は死亡率を三割も超える激戦区だった。彼の周り者はそのほとんどが既に戦意消失しており、脱走兵も後を絶たなかった。しかし、バルボアは、人生に一度絶望した男は違う。
四肢を貫く弓矢、全身を焼き焦がす魔術、腹を裂く鋭い剣、そのどれもに打ち勝ち、戦場で必死にもがいた。それは生きるためではなく、自分の存在価値を証明するため、自分を必要としくれたイシュメールに勝利をささげるための闘いであった。
そして、彼は初陣で銀薔薇十字勲章を得た。これは初陣にしては珍しいことであったものの取り立て貴重というわけでもない。しかし、バルボアの涙腺が切れるには十分すぎる程の出来事だった。彼は前線で行われた簡易な授賞式で、大量の、大粒な、その大きな手にも余る、涙を流した。また彼は万の星が輝く天に向かって叫んだ、「俺は一生国と陛下に忠を尽くす!」と。
その後、自分の居場所を見つけた彼は戦場を回り続け、前線で師と仰ぐことのできる者に体系化された剣術を教わると、敵軍の将の戦術にも影響するほどの力を持ち、下級兵士からは成り上がり軍人の象徴的存在に祭り上げられ、最終的にはクルセイダーにまで選ばれた。
そんな彼が故郷に帰るというのだ。自分を決して認めてくれなかったあの家族に会いに行くというのだ。
空に立ち込める暗雲を吹き飛ばすかのような足取りで、人を愉快にさせる下手くそな鼻歌まじりで、家を飛び出したときの道と全く逆の方向にバルボアは進んでいく。
右手には初陣で貰った銀薔薇十字勲章を、左手には戦後に軍から貰った報奨金がある革袋を。右手のものは家族に喜んでもらうため、左手のものは家族に謝るため。
特に何かきっかけがあったという訳でもない。ただ、黄昏時の焼けた空を見つめていたらふと家族の顔を思い出し、なぜだか無性に声が聞きたくなっただけだ。しかし、数年ぶりに会うとなれば結局色々と伝えたいことがあるうえ、家族関係を取り戻すいい機会だともバルボアは考えたのだろう。
だからこそ、口角はそっと上がり、すっかり傷付いた両目は虹を優しく描いているのである。
バルボアは故郷の入り口にやってきた。
「…………」
バルボアは薄暗い溜息をついて、顔を両手にうずめる。そこは故郷というより遺跡であった。予想通りではあったものの故郷は随分とその形を崩しているのだ。戦争被害という魔の手がここにもさし伸ばされていたのであろう。
しばらくの間、バルボアは入り口に立ち尽くしていた。苦々しい想い出しかない故郷とは言え自分が育った土地が瓦礫と化している姿は見たくないのだ。しかし、今更のこのこと引き返すのも憚れることであり、彼は自分なりに感情と折り合いをつけると再び前へと歩き出す。
往時の『ウォール街』の住人のように暗く沈んだ者たちにバルボアは度々目をやりつつ、ひっそり閑とした広場を通る。目的地が近づくにつれて彼の歩幅は広くなり、歩調はその勢いを増していった。
ノスタルジックな気持ちには何の縁も受けいられない、バルボアはそんな男であったが、実際にこうして懐かしの地に戻ってくると自然に懐郷の念が浮かんでくるのであった。そう、ここでの彼の記憶の中にもまだ綺麗な何かが残っているのである。
そして、バルボアは遂に帰ってきた。
家は見るも無残な姿へと変わり果てていた。煉瓦造りの屋根はところどころ崩れており、庭の草はぼうぼうに伸びきっている。また、天からの光は雲に全て遮られ、辺りがしんと静まり返っているという正に不幸が起こるにはうってつけの舞台だった。
誰もいないのかもしれない、バルボアは家を見て即座にそう思う。しかし、家の中から上がる白い煙と鼻に伝わる獣を煮る臭いがその考えを打ち消してくれる。
バルボアは木製のドアをそっと押そうと手を伸ばす。もう迷いはなかった。希望的観測であったと言ってもいい。すると、ドアがぎいいっと音を立ててバルボアを誘うかのように奥へ開いていく。そして、彼は足を踏み入れるのだ。
そこには酷く背中の小さい老人が鍋の中を混ぜている姿があった。
「……?」
バルボアは一度目を凝らしてからその姿を捉え直す。なので、彼にはその老人が誰か分かった。
父だ。頬は瘦せこけ、腕は枯れ枝にようになっているがそれは父の姿だ。
「なっ……」
バルボアはこの事態にたじろぎ、こういうときの為に用意していた言葉が頭から一挙に抜け落ちた。しかし、自分など外見がもっと変化していることを考えると、それがさして重要なことではないように思えてくる。
理由はいつでも聞ける、とりあえずは挨拶だ、と心の中で呟き、
「よぉ、親父、俺だよ、エルだ」
「…………」
父はその時は初めてバルボアの姿に気が付いたようで、見開いた眼でバルボアの方を向くと、
「エ、ル……?」
しわがれた声で言った。
「そうだ、背は少し高くなったし、身なりも変わった。へへっ、それに今は髭なんて生やしてみたもんだから分からねぇかもしれないけど、俺はエルだよ。帰ってきたんだ」
バルボアの相も変わらず間延びした口調は、父に息子の姿を思い出させるには十分なことだった。
父ははっと息を呑み、父も父とてこういうときの為に用意していた言葉をはっきりとした意識で口に出す。
「帰ってくれないか?」
その時、バルボアには父が何を言ったのか分からなかった。いや、正確に言えば、分かりたくなかったのだろう。そのため、彼はわざとおどけてみせながら、
「な、何だって?」
それに対して、父は喉から絞り出すような声で、
「帰ってくれないか、と言ったんだ!」
どうやら自分は招かれざる客なのかもしれない、バルボアは父の言葉を聞いてそう思った。そして、バルボアは床に視線を落とし、秘めやかにため息をつく。外ではひゅうひゅうと小さく鋭い風が吹き始めた。
しかし、数回まばたきを繰り返してよくよく考えてみれば父の行動は妥当だとバルボアは考えた。なので、どうにか父に心を開いてもらおうと、バルボアは恭しく、
「別に金を工面してもらい来たってわけじゃないんだ。俺にはそんなことする権利はねえよ。ただ、その、俺は――」
バルボアは左手を少し持ち上げて、
「――俺自身の言葉とこいつで家出のことを謝ろうと思って訪ねたんだ」
すると、父は岩肌がすっかりと見える険しい高山のような形相で、
「軍の報奨金か? そんなもの十日分の食事代にもならない!」
直後、バルボアはけたたましい衝撃を受け、顔からはさっと血の気が引いていく。そして、俺が軍に入ったことを親父は知っているのか、それどころか勲章をもらっていることさえもか、なら親父はそれに何を感じているのか、と彼の疑問は休止期間を知らない間欠泉となった。外の風はごうごうと音を立てて、より勢いを増し始める!
バルボアのその崩れた表情筋でかろうじて出来ることは深呼吸のみで、それを好機と見たのか否か父は突如として弁士に様変わりする。
「私はお前ら軍人が大嫌いだ。軍の使いからお前が入隊したという話を聞いた時は虫唾が走ったさ! 私の血が流れている奴があんな愚かなことに手を染めてるなんて悲劇でしかない」
「…………」
「四年間戦っておいて、結局もらえたのはたったそれぽっちの金なんだろう? みじめすぎる。まぁ、それがお前の価値というのであれば笑いものだが」
バルボアは調子の外れた声で反駁する。
「俺には金なんかよりも大切な勲章があるよ……」
「勲章? あんなものただの飾りだ! 腹は満たせん!」
父は言葉を吐き捨てた。そして、その言葉はバルボアにとってあまりにも屈辱的であるため、彼は瞬く間に毛を逆立て、父を大きく指差す。
「ふざけるな! 勲章は俺の存在価値の証明だ。あなたは俺を認めれくれなかったが、国は、軍は、陛下は、俺の働きを見てくれたんだ!」
このとき、バルボアは無意識でありながらも意図的にあなたという言葉を使った。
「愚かな戦争だった。そして、それに盲従したお前らも愚かだ。所詮は、やくざな連中が集まった愚連隊まがいの集団でしかない」
バルボアには分からない。父の態度が全く理解できない。しかし、この言葉ばっかりは見過ごすことができない。
「ま、まぁ、戦争は恨むのは仕方ないかもしれない。だがっ! 俺たち軍人をぞんざいに扱うのは許せねぇ! 俺たちは戦場で泥水をすすった、畜生どもの反吐も食った、そして闘ったんだ。俺たちは精一杯生きたんだ!」
バルボアは叫んだ。それは父に向けた言葉でありながらも、己の中に常々抱えていた心情でもあった。昔の彼は誰かに認めてもらいたかった、今の彼はそれを維持したいのだ。しかし、彼が持つ剣はまだ折られる必要があるのだ。
「だが結局は負けた!!」
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父は額に血管を浮かび上がらせて言った。そして、さらに続ける。
「お前たちが勝ってくれれば、それだけで私はこの生活の苦しみも、家族の死の悲しみも乗り越えられたんだ。だが私は間違っていた。最初からお前らなんぞ信用しなければよかった……」
父の声は次第にかすれていっていた。そして、バルボアは家族の死を理解した。そうなのだ、父の異様な軍人嫌いやバルボアへの乱暴な態度は全てそれが原因なのだ。
敗戦を知るまでは自分の周りから消えたあらゆるものをコラテラルダメージと割り切ることができたが、それを知ってしまえばもう我慢しきれなかった。父は大きな犠牲の後に何も得られなかったことを認められる強い精神だからこそ心が荒んでしまい、感情の矛先を軍と戦争に向けたのだ。
一方、バルボアの心には静けさが宿った。しかし、それは竜巻が過ぎ去った後に残る荒地のようなものだ。
バルボアは無言で父に背を向け、家を再び出た。天から降り落ちる大粒の雫がバルボアの身体を激しく打ち、バルボアはみすぼらしくなる。しかし、理性的であった。バルボアは父との会話で「これでもう帰らないのではなく帰れなくなった」となんとなく感じたのだ。
なんであろうと血のつながりのある父や家族にも自分を認めてほしかった。それはバルボアにとって否定しようのない感情だ。しかし、彼らにもそれをすることができない悲惨な理由がある。
バルボアは父に同情を感じた。そして、バルボアは父や家族の存在を忘れると決意した。できることなら父に寄り添ってあげたかったが彼にはそれができない。彼には、国への、軍への、陛下への、感謝と忠誠心があるため、父の言葉を受け入れることはできないのだ。
ここにも一つの
戦争が終わったことで再び世間の厄介者扱いをされることをバルボアは酷く恐れている。しかし、軍のおかげで努力が報われることを彼は知ることができた。だから、彼は父や家族との繋がりを断ち切ってでも自分が信じた道を、自分が信じた方法で歩くのである。
最後、バルボアは左手の革袋を草むらに投げ捨て、右手を強く握りしめた。
異世界転移――そして絶望 ゴシック @masyujpn
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