第2話

 グレインが降っていた。

 傘を差さずに歩いていた私に声をかけたのは奇妙な「物体」だった。

「濡れてしまいますよ。お姉さん」

 多様なものが歩いていることがもはや当たり前である 30――年だが、それは物体、としか言いようがなかった。私の持っている語彙では表現できない「ソレ」はごく普通に喋った。

「今時珍しいですね、NAKED で歩くのは」

「こっちの方が気楽でいいの。私は古い人間なのかもしれないね」

「まあ、こんなナリのぼくも言えたことではないですね。あはは」

「それでなに、ナンパ?私は『お姉さん』じゃないかもしれないよ?」

「ナンパじゃないですよ。いや、そうかな。グレインの日はなんだか寂しくて。見た目なんてどうせ関係ないですし」

「だからってリアルで声をかけなくてもいいでしょうに」

「いえ、だからこそですよ」

「君は面白いね。乗った。そこに行きつけのカフェがあるの。リアルでよければ、どう」

「リアルを望んでいたところですから」

 そういうわけで私たちは古びた喫茶店に入った。ここのマスターは今時珍しくリアルにこだわっていて、私のような数寄者の間では有名な店だった。店内は旧い盤面(データ)に刻まれている初音ミクの歌声が繰り返し流れている。科学の限界を越えて。まるで終わった街に機械だけが生き延びているような、繰り返される、声。

「ところで君のそれは何?どこかで配布されてるの?」

「違いますよ。自分で作ったんです」

「なるほどね。なんとなく君は若そうに見えるけど、違ってたらごめんね。あ、珈琲来たよ」

「どうも。…14 歳です」

「わー思ったよりずっと若かった。珈琲飲める…?」

「VR でなら…」

 そう言って「ソレ」はカップに口をつけ、

「…苦いですね」

 眉根を寄せた。…かどうかは判らないが、そう見えた。

「お姉さんは?」

「私は 28 だよ」

「だったらお姉さんもギリギリアバターのネイティブ世代じゃないですか。え、それ、アバターですか?」

「それとは失礼な。違うわ。だって何者か分からないのは不安でしょう?」

「どっちかというと NAKED で歩いてる方が今はセキュリティ的に不安ですけどね。健康的にもそうですよ。グレインの日に遮断傘も差さないなんて」

「私には君の方がよっぽど不思議に見えるよ。それ、何」

「ソレ」はテーブルの向こうからずいと“身体”を寄せてきた。

「何に見えます?」

「何って…分からない。私には君の姿を形容できない」

「実はこれ、相手の見たいように見えるようになってるんですよ。最近はひよこが流行ってるから、そう見えてる人も多いかも」

「え?もしかして君、こないだの i-パピルスに載ってたあの天才少年!?」

「バレちゃいましたか。でも『何にも見えない』ひとはお姉さんが初めてですよ。あなたはまるで『この世界では何も見えていないことが正しいこと』だと思っている」

 無表情な声で言う。

「お姉さんこそ何者ですか」

 私は答える。私という存在として。

「私は『存在』だよ。この世界に普遍に存在しているもののうちの 1 人」

「…驚いた。年齢鯖読み過ぎです。リアルの“保持者”でしたか」

「バレたか。今となっては私たちの方が特別になってるけど、私は今のこの世界が嫌いなんだ。もっと有機的で、自然なものであるべきだったのさ。それを人間がこんなふうに」

 珈琲を啜る。

「グレインは私にとっては最後の『リアル』なの。それがどれだけ汚染されていようとも」

「けれどリアルはもう」

「それでも私は人間と世界に期待している。君は私たちが求めていたモノ、即ち『世界から自分がどのように認識されているかという問い』、それに限りなく近づこうとしている」

「ぼくの試みは正しかったですか」

「君は「感想を書け」という宿題に「書くことがないのが感想です」と書くような生意気な子供だな」

「あはは」

「人間は自分や他人が何者か分かる、分かったつもりになっていることに疑問を持つことが私たちの求めていた『人間の思考レベル』だったけれども、人間は皆それを安易に解釈し過ぎてしまった。何かに見えさえすれば安心するんだろうね。でも君の答えはずるいな」

「ぼくが何にも見えないお姉さんも人のこと言えませんよ」

「そうかも。私も宿題に小賢しいことを書く子供だったなー」

 窓の外で降り続いていたグレインはいつの間にか小降りになり、太陽が見え始めていた。切り取られた景色の向こう側には、およそ人間の認識しうるもの全てが行き交っていた。

「あれが本物の太陽であると君は信じる?」

「お姉さんが信じるなら」

「全く…君は友達が少ないでしょう」

「失礼な」

 珈琲を飲み終え、カップを置いた。静かで確かな音がした。

「小賢しい同士のよしみで答えてあげよう。私は君が『偏屈で愚直な少年』に見える」

 少年は笑って言った。

「ぼくもお姉さんが信じる世界を信じます。あの太陽は『本物』だと」

「では、愚直な君の未来は明るいよ。また会った時はグレインの日が寂しくなくなっていますように」

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「愚直な少年」 なとり @natoringo

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