鳥と鎖

プラナリア

🕊️

 部屋の扉を開けると、黄昏の光が部屋中に満ちていた。夏の終わりの、燃え上がる太陽。穏やかな青が嘘だったかのように、黄昏の空はあらゆる色を飲み込んでいく。その光景は世界の終焉を思わせた。真っ赤な空が裂けて、新たな世界の幕が上がる。

 けれど、間もなく闇が全てを覆い隠すのだろう。何も無かったかのように。

 怜里れいりは僕の椅子に座り、机に積んだ参考書を弄んでいた。端整な横顔に西陽が差して、その影が深くなる。彼が欲した麦茶のグラスを置くと、礼も言わずに口をつけた。細い喉を鳴らし、乾きに堪えかねたかのように飲み干してしまう。 

 「温い。もっと氷入れてよ」

 そう言って笑う怜里に、僕は曖昧な笑みを返した。二人で会うのは久しぶりだったが、怜里は以前と変わらぬように振る舞う。無邪気に、無頓着に。何も無かったかのように。

 僕は床に座り込み、椅子の上の彼を見上げた。華奢な背中。見慣れた夏服のシャツが、夕陽に染められ異国の衣装のように見える。

 怜里は僕を見ずに口を開いた。

 「今日も塾だった?」

 「当然。天王山の夏だろ」

 くすり、と怜里は笑った。どこか自嘲的な笑みだった。

 「……怜里。いい加減、志望大学決めたのか?」

 「決めてたんだけどね。別れたから、またやり直し」

 またか、と言いかけて飲み込む。怜里の隣で微笑んでいた幾人もの少女。その姿が陽炎のように揺らぎ、記憶から零れ落ちていく。

 高校3年生の夏。僕は県外の大学を志望しており、来春には家を出る予定だった。怜里も、きっとそうなるだろう。隣同士の幼馴染。ずっと一緒に歩んできた僕らの道は、遂に分かれることになる。

 怜里はパラパラと参考書を繰った。頁の余白に僕の殴り書きが見える。幾重にも重なった乱雑な線。焦燥に襲われる度、叫び出しそうになる度、心を切り裂くようにして書いた。本当の気持ちを押し殺し、偽りの自分をまとうために。

 怜里の細い指が、書き殴られた線をなぞる。心のひだに触れるように。

 不意に強い渇きを覚えた。立ち上がり、机に置いた自分のグラスに手を伸ばす。飲み干す麦茶は確かに温くて、疼くような渇きは消えなかった。

 僕らの季節がまた一つ終わる。薄れゆく陽射しが、遠退く蝉の声が、僕を追い詰める。

 二人で会えるのは、これが最後かもしれない。

 傍らで俯く怜里の、表情は見えない。きっといつもと変わらぬ笑みを浮かべているのだろう。柔らかな髪から目を背け、僕は呟く。


 「志望大学くらい、自分で決めろよ。カノジョとだって、すぐ別れずにいい加減きちんと付き合ったら。一体どんな相手ならいいんだよ、怜里は」


 怜里に寄り添う少女を思い浮かべようとしても、その姿は像を結ぶ前に弾け飛んだ。

 心をねじ曲げ、僕は偽りの言葉を紡ぐ。苦く掠めた想いを封じるように。


 「もしかして、女がダメなんじゃないの?」


 荒々しい音がして、怜里が椅子から立ち上がった。嘲笑を浮かべたまま、僕は心の中で呟く。それでいい。怒りの言葉と共に、全てが霧散してしまえばいい。

 けれど次の瞬間、僕は息を呑んだ。目の前の彼は、表情が抜け落ちていた。

 ごめん、と言いかけた僕の肩に怜里の手が乗る。その重みに、心が震えた。


 「……女だから、ダメなんじゃない」


 怜里は無表情のまま、僕の眼鏡に触れた。そのまま、眼鏡が外されていく。露になった瞳に映る世界の輪郭が滲む。時が止まったようで、僕は身動きができない。怜里の長い睫毛、青ざめた頬。その瞳に、深い哀しみを見た。

 窓の外で夕陽が沈んでいく。最後の光が、彼を、僕を、この世界の全てを同じ赤に染め上げていく。



 僕らがまだ幼く、自由だった頃。

 僕らはいつも一緒だった。庭の片隅で、放課後の教室で、秘密を分け合い二人の思い出を重ねていった。

 黄昏になると、僕らの世界は一変した。

 怜里の家庭の内側は、荒廃していた。両親は互いへの憎悪を剥き出しにし、怒りの矛先は時に怜里に向いた。それは、体が傷つくより深く彼の心を抉った。

 「帰りたくない……」

 夕陽が沈む頃、他に帰る場所を持たぬ君は、僕の部屋で膝を抱えていた。僕は傍らで、嗚咽を押し殺す君を見ていた。

 血を流す君の心をくるむように、「大丈夫だよ」と呟いた。

 僕が傍にいるから。ずっと、いるから。

 口には出せぬまま、繰り返し、その柔らかな髪を撫でた。

 あの頃はそれでよかった。僕らは羽を寄せ合う雛鳥だった。肩を寄せ合えば、そこは安心な僕らだけの世界だった。

 あれは何時だっただろう。

 黄昏の君の髪に触れようとして、手が止まった 。華奢な君の体躯は少しずつ形を変え始め、僕の腕は君の全てを抱き締めたいと願うようになっていた。

 もう、僕らは雛鳥ではいられなかった。

 全てが赤く染まる世界で、僕は僕らを断罪する眼差しに気付いた。知らぬ間に、僕の身体には鎖が巻き付いていた。幾重にも重なる鎖は身体の奥まで食い込み、その冷たさは僕の心をも縛った。そして、僕の腕から伸びた鎖は、君の細い腕にも巻き付いていた。

 君はゆっくりと顔を上げた 。哀しい瞳。君が僕に向けて腕を伸ばす。鎖がこすれ合い、僕らを締め付けていく。震える声が君の唇から零れる。


 「俐仁りひと


 それでも、僕は君に触れられなかった。

 君の瞳から涙が零れ、そっと頬を伝った。君が静かに立ち上がり、扉が閉まる重い音が響いた。黄昏の世界には、僕だけが残された。

 やがて君は黄昏の街を彷徨うようになった。君の傍らには、美しい少女がいた。甘やかな髪、柔らかな肢体 。移り変わる彼女達の無邪気な微笑。鎖が冷たく疼き、僕は君から目を逸らした。


 もう僕はあの頃に戻れない 。君の哀しみを、孤独を受けとめられない。

 囚われ飛び立てぬ僕らに、自由な空はあまりにも遠い。鎖から逃れる術は無く、もがけばお互いを傷つけ合うばかり。

 君を断ち切るか、僕自身を殺すかだ。



 全てが曖昧に溶けた世界で、近づく君だけが鮮やかに映る。背後には暮れなずむ光。最後の季節が過ぎる。

 そっと唇が重なる。まるで昔からの約束だったかのように。柔らかな君の感触。慈しむように僕の頬に触れた手。込み上げる熱い疼きに、鎖が重く軋んだ。

  怯えるように顔を離して、歪んだ君の顔にあの日の濡れた瞳が重なる。

 歯を食い縛った僕の、視界が歪む。握りしめた手が震える。冷たい眼差しが僕らを見つめている。糾弾の声が近づく。

 閉ざされていく世界に、掠れて震える声が響いた。


 「俐仁りひと


 君の頬を伝う、涙。


 僕は力の限り腕を伸ばした。食い込む鎖が肉を破り、身体中に焼けるような痛みが走る。断罪する眼差しに抗い、声の限りに叫んだ。僕は、僕自身を解き放つのだ。焼き尽くされ砕け散ったとしても、この想いは残る。僕は、君の傍にいたい。叶うなら、君と共に生きたい。君のために、僕自身のために。

 君に向けて伸ばした、腕の先で。

 張りつめ軋む鎖が、澄んだ音を立てて切れた。解かれた翼が広がる。僕は血まみれの腕の中に、強く君を抱きしめた。


 「怜里」


 赤く染まった僕らは、夕陽の中でひとつになる。僕らの身体に境目は無くて、優しく溶け合っていく。

 全ては黄昏の幻だと、凍てついた月が呟く。闇が世界を覆い始める。辿り着いたのは世界の終わりで、もう何処にも行けないのだろうか。僕らが引き裂かれたアンドロギュノスならば、祝福されてひとつになれただろうに。

 背中にくいこむ細い指を、僕を求める君の嗚咽を、どんな言葉で表せばいいんだろう。

 人は恋とは言わないかもしれない。愛とは呼ばないかもしれない。けれど。

 柔らかな髪に触れると、あの日の君が微笑んだ。重ねた手の温もりに、知らず涙が零れる。大空に放たれた鳥は、どこまでも羽ばたいていく。僕は君の唇に、永遠の刻印を刻む。祈りを捧げるように、僕は君の魂を抱く。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳥と鎖 プラナリア @planaria

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ