第44話 夜明け

 


 曇天の空に、荒涼とした大地。

 時折、冷たい風と薄い霧が吹きつけて来る。


 巨大な樹の根が空から伸びて突き刺さっている泉のほとりで、私はベックと再会した。

 ベックが旅立ってから半月も経っていないはずなのに、もう随分長いこと会っていなかったような気がする。


「ソフィ、迎えに来たよ」


 座り込んでいる私のもとへ、ベックが近づいて屈み込んだ。

 ふと視線を落とせば、泉の水面に先程の異形の黒い影が私に覆いかぶさるように映っている。

 私は突然、ベックが見た目とは違う、異質の恐ろしいものだと感知して背筋がゾッとした。


「……どうしたの?」


 ベックが首を傾げると、水面の影も首を傾げた。

 水面の影には大きな鰐のような口が開きノコギリのような歯が並んでいる。

 私など、たった一口で飲み込まれてしまいそう。

 

 突然、キーンという耳鳴りがした。

 そして誰かが――優しい女の人の声で私にささやいた。


(こちらにいらっしゃい、愛しい私の子供たち。母の腕の中でゆっくり休ませてあげましょう。あなたはもう十分に辛い世界に耐えて来たのだから)


 その時、私の傍らでぐったりと横たわっていたアロイスが、ぱちりと目を開いた。

 銀色の長い睫毛をしばだたき、私とベックに焦点を合わせると肘をつきゆっくりと上体を起こした。


「アロイス!」


 私は蒼ざめやつれた彼に縋るように抱きついた。

 もう二度と彼は目覚めないんじゃないかと、私から永遠に失われてしまったのではないかと、どれほど怯え怖れていたのかを、この瞬間に思い知る。


 ああでも、血で汚れた軍服の下にある傷は癒えてはなかった。

 彼の頬に霧で湿った銀髪が幾筋か張りついているのを指で払い、真紅に光る瞳を横から見つめる。

 アロイスはベックから目を離さず私の背中に手を回すと、庇うように背後に押しやった。


「お前は何者だ? 吟遊詩人ではないだろう」


 もう戦う力など残されていないのに。

 アロイスは強い視線で、圧倒的に不利なこの状況を打ち負かそうとするかのように、ベックを睨みつけている。


「我が名は、義憤に燃えニーズうずくまるものヘッグという。この世界樹を守る竜だ」


 ベックは天を仰ぎ、巨大な根を指さす。

 空気がビリビリと震え始め、靄がかかってベックの姿を覆い隠した。


 靄の中はバチバチと火花が散り、大きく膨れ上がっていく。

 時折靄から垣間見れる翡翠色ジェードグリーンに光る鱗、蝙蝠のような飛膜の翼、巨大な鉤爪、金色に光る瞳孔は縦に長かった。


 靄が晴れれば、そこに在るのは見上げるほどの巨大な緑竜だった。

 強大で神々しいまでのオーラを纏い、神々の御代より存在するという古代竜。


森の民ヴィーザルの聖女ソフィ。よくぞ世界樹を守り育て、見事に花を咲かせてくれた。今、我はお前達にその借りを返そう」  


 伝説の竜を目の当たりにして凍り付く私たちに、しゅるしゅると光の紐が巻きつけられると、ぐい、と竜の背中に引き上げられた。

 空気中の魔素が竜の元に集められる。

 緑竜は翼を広げ重力を無視して、魔力によってぶわりと空へ舞い上がった。


 身を切るような風、胃が突き上げられるような衝撃と眩暈。

 眼下には霧の大地が広がっている。

 蟻のような人々の群れが列をなして大地の裂け目に向かって歩き、その暗黒の奥底へと行進している。


 再び、激しい耳鳴りがした。


(私の愛しい息子よ、戻っておいで――!)


 白い霧が密集して、美しくも恐ろしい冥界の女神ヘルの形を作る。

 緑竜よりも、何倍もの大きさの巨大な手がこちらに差し伸べられた。


冥界の女神ヘルが、呼んでいる!」


 アロイスは狂ったようにもがき、女神に差し出された手にその身を投じようとした。


「ダメよ、行かないでっ」


 私はアロイスにしがみつき、必死に彼を宥めた。

 飛翼が旋回し、女神の手をすり抜けた。

 光の紐はしっかりと私たちを固定し、竜の背から落ちないようにしている。


 やがて、霧の大地と冥界の女神ヘルは遥か彼方へと去って行った。

 

 

◆◇


 ――長い夢を、見ていたのだろうか。


 白い花びらが羽毛のように、私たちを優しく覆っている。 

 薬草園の世界樹の根元に、私はアロイスと臥していた。


 東の空が白々と明るくなり始め、星々が一つ、また一つと消えていく。


 彼の冷たい唇に口付けた。

 アロイスは目を閉じたまま、身じろぎもしない。

 冷え切った彼の身体を温めようと、私はぴったりと寄り添った。

 こうしてアロイスの身体を温めれば、また目を開けてくれるかもしれない。

 涙が零れ、アロイスの頬に落ちた。


 ブンブンと蜜蜂の羽音が煩く鳴っている。

 まだ夜も明けていないというのに。

 羽音のする先を見ると、そこにはベックが立っていて、彼が手にした容器に無数の蜜蜂が世界樹の花蜜を運んでいた。


 一瞬私は、何が現実で夢なのかあるいは幻なのか、分からなくなってしまった。

 ただ、アロイスの冷たい手だけが、否応もなく厳しい現実へと引き戻す。



「……もういいよ、蜜蜂さん。ありがとう」


 蜜蜂たちは巣箱に帰って行くと、ベックは座っている私に気づき、こちらに向かって歩き始めた


 菫色の空から、流れ星が光の尾を長く引いて落ちている。

 私はハッとしてアロイスを見た。

 

「伯爵は大丈夫だよ、ソフィ。まだ、間に合う」


 ベックはアロイスの側に跪いた。

 手にしたガラスの杯に、キラキラ光る鉱石の欠片を入れ、息を吹き込んだ。

 すると杯の中の液体が泡立ち、黄金色に輝き始めた。


「神酒、世界樹の花蜜、不死鳥の心血、賢者の石、竜の息吹……錬成すると万能薬エリクサーが完成する。さあ、これを彼に飲ませて」


 ああ、なんて香しく神々しいお酒だろう。

 私は受け取った杯からその天上の御酒を口に含み、アロイスに口移しで少しずつ飲ませた。

 アロイスの舌に万能薬エリクサーが落ち、喉へと流れ込んでいく。


 効果はすぐに現れた。

 蒼ざめた頬に赤みが差し、胸の痛々しい傷が塞がり始めた。

 万能薬エリクサーの効果は全身に及び、アロイスの身体は微かに発光していた。

 やがて四肢が痙攣し始めると、私は不安に駆られてベックを見た。


「彼は生まれ変わるんだ。再び生身の血が、全身に流れるようになる」


 アロイスの手を取り、両手で握りしめる。

 目を瞑り、森と光の神々、全ての神々に祈りを捧げた。

 そして――。


 ――お願い冥界の女神ヘル、どうかアロイスを私から奪わないで……!


 握りしめていた手が、いつしか私の手を握り返していた。

 恐る恐る目を開くと緑柱石エメラルドに輝く瞳が、私を見つめていた。


 鼻の奥がツンと痛み、涙があふれて視界が滲んでいく。

 まばゆい朝日が射し込み、私たちを照らした。


「僕は再び太陽と出会い、朝日の中で君をこの腕に抱いている……これは、夢を見ているのだろうか?」


「現実よ」


 私を抱きしめる、温かなアロイスにそっと答えた。

 

 ふたりの時間が再び流れ始めた――。

 



◆◇



 吟遊詩人ベックこと、緑竜ニーズへックは世界樹を守護するために真紅の薔薇ブラッディローズ城に留まると宣言した。


 ベックを仲介にして人間側(主に不死者の抵抗組織『光の民』のメンバー)とサシャ王、そしてクレモンの西の辺境と抗争中の魔族たちとも話し合いの末、それぞれ協定が結ばれた。


 そうしてこのノワールの地を、人間が治める自治区として王国に認めさせることに成功した。

 また魔族たちにはベックがにらみを利かせ、川を越えて侵略しないことを約束させた。



 もう不死者ではなくなったアロイスは、これまでの善政から領民たちの支持を得て、ノワール自治区の領主を続けることになった。

 副官パトリスはアロイスに仕えることを選び、他の不死者たちの多くはこの地を去って行った。


 アロイスの弟のヨハンは一人前の冒険者になり、侍女のアンヌと結婚した。



 ベックは相変わらず飄々としている。

 城の薬草園の世界樹の根元に寝そべり、昼寝ばかりしている気がする。


「どうして貴重な万能薬エリクサーで、アロイスを助けてくれたの?」


「そりゃあ、決まっているさ。ソフィとアロイスと、いずれはその子供たちにず――っと世界樹の世話をしてもらわなきゃならないからね!

 俺はもう過去の過ちは、絶対犯さないつもりだよ」


 いたずらっぽく私にウィンクをして、ベックはまたすぐに寝てしまう。

 それでもいざという時――大型の魔獣が出現すると、竜化して退治してくれるのだ。



 ……だから、私たちは世界樹と緑竜ニーズへッグを守り神として大切にしている。





―― 完 ――



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真紅の薔薇城~不死者に支配される世界で聖女と呼ばれ~ 雪月華 @sojoyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ