ある山寺の落日 ~わらべ唄 山寺の和尚さん より~

竹尾 錬二

第1話


山寺の和尚さんが

毬は蹴りたし 毬はなし

猫をかん袋に 押し込んで

ポンとけりゃ ニャンとなく

ニャンがニャンとなく ヨイヨイ





 坊主は、寺の本尊の石仏が嫌いであった。坊主は、村外れの山寺を一人で切り盛りする住職である。

 陽が昇り、陽が落ちる。潮が満ち、月が欠ける。そんな天然自然の理と日々を同じくして幾星霜。

 境内の様子も、今や狐狸妖怪の棲家ともつかぬ破れ寺である。

 されど、坊主は俗世を離れ悟りを開いた碩徳の僧と呼ぶにはまるで当たらない

 村の和尚さんと呼べば通りは良いが、小僧の頃から何ら変わらぬ作務を日々繰り返すまま、齢だけを徒に重ねた平々凡々たる坊主だった。

 葬式や年忌法要があれば乞われて村に出向くが、村人の「和尚様」という挨拶もおざなりで、坊主は村人からの敬意も己ではなく、己が纏った袈裟に向けられたものである事を知っていた。


   

 先代の頃はそうではなかった。

 坊主の師匠――先代の住職は、寺小屋を開き村の子供らに読み書き算盤を教え、身寄りの無い幼子を引き取っては養育していた。

 村人からの信頼も篤く、毎朝誰かしらが長い石段を登って朝とれだちの野菜を届けに来たものだ。

 寺の境内は子供たちの黄色い笑い声が絶えず、坊主も小僧の頃は寺男や子供らと毬を蹴って遊んだものだった。


 しかし、先代の住職が有徳の聖人しょうにんだったかと言えば、これもまた違う。

 坊主は小僧の頃に、般若湯と称して師匠が酒を嗜んでいるのを何度も目にしたし、夜半に寺に村のやくざ者が集まり、丁半の壺振りの博打を楽しんでいた。

 先代はやくざ者達から、文字通りの寺銭として所場代を受け取り、これを寄進と称して何ら恥じることはなかった。

 また、ある晩のことである。

 小便に起きた小僧は、丑三つに近い刻限にもありながら、師匠の部屋から明かりが漏れているのに気が付いた。

 部屋からは、くぐもった声が聞こえてくる。

 恐る恐る破れ戸の隙間から師匠の部屋を覗き込めば、己の師は養育している稚児の内、一際顔容かんばせの整っている童を組み敷くように覆いかぶさっていた。

 師の荒い息遣いと、稚児の押し殺した泣き声。

 蝋燭の明かりに照らし出され、白々と闇に浮かんだ幼子の小さな尻は、今なお坊主の脳裏に焼き付いている。


 先代は、不惑を待たずにこの世を去った。

 梅の病という仏弟子にあるまじき死にざまであったが、村人は寺の和尚の死を嘆き悲しみ、集まった寄進は寺の財布を大いに潤した。

 

 坊主が住職についた頃、先代と入れ替わりのように、本尊である石仏が寺に運ばれてきた。

 元々は名もなき石工が堀ったとされる摩崖仏だったが、嵐の夜に剥がれ落ち、村の信心深い男が仏さんが可哀想だと、背なに負って山寺の石段を登ってきたのである。

 坊主は信心深い男に丁寧に礼を言って石仏を引き受けたが、その仏は一目見るだに気に食わぬ顔をしていた。

 梅の病で命を落とした先代の死に顔のように、鼻が欠け落ちていたのである。

 以来、坊主は石仏のことを、胸中で「お師匠さん」と呼んでいる。


 坊主は、先代の如き破戒は決して行うまいと心に決め、住職としての務めを果たそうとした。

 念仏帰りの酒は断り、境内で博打を開くことなど、決して許さなかった。

 戒を犯さず、悪事をなさず。

 養育していた幼子達には指一本すら触れることなく、立派に育て上げた。

 我が寺は、己が代にて更なる徳を積み上げるだろう。

 坊主はそう信じて疑わなかったが、寺小屋に集まる子供は年々数を減らし、寄進は減り、身寄りの無い子供が預けられる事もなくなり、境内で遊ぶ子供たちすら居なくなった。

 一体、己に何の不徳があったものか。坊主は首を捻れど答えは出なかった。

 己が修行の功徳を、仏様がいかに評するかは坊主には分からぬ。

 しかし、人徳に於いては坊主が先代に遥かに劣った僧であることは、疑いようの無い事実だった。


 誰も居なくなった境内で、坊主は胸を締め付けられる程の孤独に悩まされる夜も度々だった。

 子供たちと毬を蹴って遊んだ小僧時分を懐かしめど、寺の境内には老いさらばえた己が身一つ。

 あの頃追い回していた、錦の糸で彩られた毬もすでに無い。

 坊主の粥の残りにあずかろうという、意地汚い灰毛の猫がただ一匹鳴くばかりである。



 坊主は白髪が抜け落ちる歳になるまで寺に務めど、仏道に関してはほとほと疎い。

 先代から教わったことは、念仏の唱え方と檀家帖だんかちょうの捲り方ぐらいのもので、仏の道なるものを説かれたことは終ぞなかった。

 作務が終わると、師匠の真似をして結跏趺坐けっかふざを組んで瞳を半眼に閉じ、時折むにゃむにゃと念仏を唱えるだけが坊主の仏道だった。

 お陰で坊主は己の寺がどんな宗派に属しているのかすらも知らぬ。

 ――日がな座っておりますので、禅宗の一派だとは思うのですが。

 西国三十三ヶ所の霊場を巡っているという遍路の男に一晩の宿を求められた折に、それとなく尋ねてみたことがある。

 ――ではおそらく曹洞の流れを汲む教えなのでしょう。

 そんな答えが返ったきた。

 坊主には、とは一体何かとんと分からず、かと言ってこれ以上己の無知を晒すのは憚られ、ご教示頂きこれ幸いと返答し、それっきりであった。

 そうどう。遍路の男の言う通り、坊主は破戒の道に走らず、清廉潔白に僧としての道を歩んできたつもりであった。



 坊主の齢は、もういつ帰寂してもおかしくない頃合いに差し掛かっている。

 それでも、坊主の心境は大悟入滅には程遠く、長年思い煩っている疑問が、ただ胸中を吹き抜ける。

 ――己は、お師匠さまに比べて何が劣っていたのだろうか。

 己が徳が、破戒を成した生臭坊主であった先代に遠く及ばぬという事実は、坊主にはどうしようもなく納得いかぬことであり、この疑問が解けるまで死んでも死に切れぬというような、俗人と何ら変わらぬ妄執すら抱いていた。

 

 今日もまた、いつもと変わらぬ陽がゆるゆると山際に落ちようとしていた。

 灰毛の猫が、坊主の足元に擦り寄ってなーおと声を上げる。

 浅学な坊主であったが、ふとどこかで耳にした経典の切文が脳裏に蘇った。


 ――悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや


 坊主は親鸞の「し」の字すら知らぬが、悪人なほ往生す、の一節が耳から離れず、この切文を意味も分からず記憶していたのである。

 老いて巡りの悪くなった坊主の脳裏に、かっと血が巡った。


 ――あるいは、最初から順序が逆だったのかもしれぬ。

 坊主は思う。何故あんな悪人だった師匠が功徳を積めたのか、ではない。

 師匠は悪人だったからからこそ、功徳を積めたのではないか。

 己がここで何一つ功徳も人徳も積み上げぬまま朽ち果てようとしているのは、虫一匹殺す程の悪徳も積まなかったからではないか、と。

 

 ――あるいは、己も――  


 そこに思い至り、深い皺の刻まれた坊主の顔が狂相を浮かべる。

 血走った瞳で左右を見回す。

 境内の賭場はこの手で潰した。寺には酒の一滴たりとてない。

 美童を手籠めにしようにも、坊主のいちもつはとうに萎び果てている。

 ならば。

 その眼が、境内でだらしなく腹を見せている灰猫に狙いを定めた。

 坊主は弓手で境内の塵を集めていたかん袋をひっ掴むと、馬手で猫の首筋をつまみ上げた。

 灰猫は、きょとんした顔をして坊主を見上げ、なーおと鳴いた。

 かん袋は猫を押し込むには幾分寸足らずのように見えたが、袋の口に猫を落とすと、灰猫はにゅるりと体を丸め、その身をすっぽり納めてしまった。

 猫の入ったかん袋の重みは、小僧の頃に蹴って遊んだ毬を想起させしめた。

 坊主の萎びた腕に、ぷつぷつと鳥肌が立つ。 


 坊主はかん袋から両手を離し、落下する袋を小僧時分の毬蹴りの要領で、呵責無く蹴りつけた。

 にゃん、と一声、猫の鳴き声。

 

 坊主の脛の上をぬるりと柔らかい猫の体が滑っていった。

 猫はかん袋を破って抜け出し、にゃんがにゃん、と鳴いたが、何かしらの痛痒を感じた様子は無い。

 当然のことだろう。坊主の老いた体は膝も腰も油を切らした蝶番のようにガタついて、とりわけここ数年の膝の痛みは酷く、結跏趺坐すら組めずに半跏で済ませる有様だったのだ。

 小僧時分の毬蹴りのように、猫を蹴り飛ばせる道理など、どこにもない。

 猫は何食わぬ顔で坊主の足に体を摺り寄せ、喉を鳴らして餌をねだる始末である。

 坊主にとって来世を畜生道に貶める覚悟で行った大悪行であったが、猫にとっては唯の変わった戯れに過ぎなかったようだ。 

 ――矢張り、悪事も成せぬ半端な坊主では、徳も積めぬか。

 坊主は破れたかん袋が風に攫われるの見送ると、ちゅうちゅうと猫を招いた。

 窯の底にこびりついた粥を木べらで掻き取り、小皿に入れて差し出すと、猫は尻尾を揺らしながらそれを舐めた。

 坊主は、朽ちかけた本堂に足を踏み入れ、半跏に膝を組んでお師匠さんの石仏の前に座る。

 法界定印に親指の先を揃え、半眼に瞑ると世界は薄靄に包まれた。

 瞼の裏の薄闇が、緩々と明度を失っていく。

 また、陽が暮れるのだ。

 


 了

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