エスペランサ

G2MA2-88

下書き

































   エスペランサ































 オレはオレ自身の錯乱を整理したくてキューバにやって来たんだ、とその痩せた女は繰り返すばかりだった。きれいな女だった。だが、女はどこか破綻しており、そのために世の中の遍くから切りはなされているように見えた。ほとんどまばたきをしないし、目の焦点は合っていなくて、口元は常に薄ら笑いを浮かべて、最初に会ったとき遊星ははっきり狂っていると思った。

 女はバルセロナからの直行便でここヴァラデロに来たが、ツーリスト・カードなど入国に必要な書類はちゃんとそろっているにもかかわらず、その挙動がおかしかったために、ヴァラデロの、しかも空港の近くに住んでいる遊星に連絡があったというわけだ。遊星がキューバにやってきたのはつい一か月前で、きっかけは長年つきあっていた恋人との別離だった。巻いた赤毛のかわいかった恋人は遊星が結婚を考えだしたころになって、ごめんなさい、でもやっぱりあなたのこと幼馴染以上に考えられないの、と告げた。彼の若い精神は悉く傷つき、割れて粉々になったガラスの上を踏み荒らされたような気分になって、ぬくい水たまりのような故郷からどことも知れぬ南国に旅立ち、最初はハバナからサンチャゴまで安ホテルを泊まり歩いてうろうろしていたのだが、どういうわけか今はヴァラデロに家を借りて住んでいる。職業は一応大学生なのだが、現在は留学という扱いで一年の休暇を取っているので、毎日サルサを横耳にじゆうに羽を伸ばす日々が続いている。ヴァラデロはキューバ随一の施設と規模を誇るリゾート地で、首都ハバナから車で二時間強という位置にあって、国際線が発着する空港も備えている。

 ハバナには大使館も含めて十数人の日本人が住んでいるが、遊星の知る限りヴァラデロにはひとりだけだ。二世や三世も含めればもっといる。ここには昔、デュポン財閥総帥の住居と広大な庭園があって、日本人の入植者が働いていた。

 遊星はお人よしではない。キューバという国はいろいろな意味で強烈な国で、十九歳のお人よしが住もうと思っても、ひょんなことですぐにはじき出されてしまうだろう。だから、もしその見るからにおかしな旅行客が男だったら、すでに三十万キロも走っているぼろぼろのメルセデスを走らせてこんなところに来なかっただろう。また、その旅行客が女優であると名乗り、それを裏付けるような容姿でなかったら、この旅行客は頭がおかしいから手に負えないとでも言って、さっさと家に帰っていた。しかし旅行客は女で、飛び切りの美人で、しかも自分のことを女優だと名乗った。

 女はがりがりに痩せて眼だけが大きく見えたが、とてつもなく美しい女だった。鼻筋はするりと通ってその頭にうすく光の筋を載せるほどだったし、切れ長な瞳は時間をかけて蒸かした甘いもの類を思わせた。棒切れのような細い脚には赤いハイヒールを履いていて、そのすぐにも折れそうな様子が、どうしようもなく男の欲を掻き立てるものだろうと遊星は思った。また、なんと表現すればいいものか、その女には妙な緊張感と、それから威厳のようなものがあった。

「きみは誰だ? ヨハンの知り合いか?」

「いえ、俺はここに住んでいる日本人です」

 それが二人の、最初の会話だった。女は脚を組んで、人気のないヴァラデロ国際空港の入国管理官待合室にいた。遊星は顔をしかめた。部屋は病院のようなリノリウム張りでしかも管理官たちが吸うキューバのたばこの匂いでいっぱいだった。そんな臭く不愉快な部屋の中で、女は遊星に対してすっきりとはりのある声で問いかけた。

「俺は不動遊星。大学生です。あなたはどんなご用事でここへ?」

「なあ、ヨハンに伝えてくれないか、オレはオレ自身の錯乱を整理したくてキューバにひとりでやって来たんだ、オレははやいとここいつと決着をつけなくちゃなんなかったんだ、錯乱を整理するんだ、ヨハン」

 女はここに来る途中管理官にフランス語で話しかけていたらしいが、だれ一人彼女の言っていることを理解できなかった。だから遊星が呼ばれたというわけだ。しかしもしフランス語を解する管理官がいたとしても、彼女の言っていることは誰一人理解できなかったに違いない。

「ヨハンはサプライズがすきだって知ってたけどさすがに今日は遅すぎやしないか、いつのまにこんな男雇ったんだよ、ヨハンが言うならオレはいつだってなんでもするのに男なんて雇ってさ、ああでもそれじゃサプライズにならないもんな、オレも男に生まれてたらよかったけど男だったらちゃんとセックスもできないし街中で手つないだりすることもできないもんな、ところでおまえは誰なんだ? ヨハンの知り合いか?」

 入国目的さえわかれば解放してやれるんだがな、こわもてを崩した管理官が言ったが、もし女が今すぐ立ち上がってこの管理官にキスでもすればすべて解決するだろうにと遊星は幻想した。キューバの管理官はアメリカやカナダなんかよりもよっぽど実直でまじめだったが、いわゆるいい女というものに弱かった、それはこの国の性質かも知れないし、このむさくるしい職場に疲弊した男たちの悲しいさがかも知れなかった。

「観光にいらしたんですか?」

 と遊星は女に尋ねた。

「おまえはほんとうに誰なんだ、いいからヨハンに伝えてくれないか、ヨハンが言ったんだ、十代が行くならオレは先回りしてヴァラデロで待ってるよ、だから追いかけて来いよな、って、だからオレはここに来たんだ。いったいここはどこなんだ? オレはこんなところになにをしにきたんだ? いや、いわなくていい、わかってる、お願いだから答えないでくれ、そうだ、オレはオレ自身の錯乱を整理するためにこのキューバとかいう国にきたんだ、ヨハンはどこだ? おまえは誰なんだ」

 その女を残してさっさと帰るべきだったのだ。関わり合いになるべきではなかった。遊星には帰れば自らを迎えてくれる安息の我が家があったわけだし、現状の生活に満足していたので、べつに慈善活動じみた救済の手を女に差し伸べなくてもよかった。もっと言えば、彼は本物の女の肉の感触がなくても液晶画面で家族の写真を眺めていれば満足できる、そういう男だった。俺には手に負えない、そういうふうに正直に告げて部屋から出て、海沿いの道を走り、家に戻ってコーヒーでも沸かし、読書でもして、すべてを忘れることもできた。女の身柄は空港当局に拘束され、日本大使館の協力のもとにいずれパスポートに記載されている住所か本拠地に送還されるだろう。女の名前は遊城十代といった。ゆうきじゅうだい、ふしぎな響きの名前だった。

 しかし、そこで遊星は考えて、ヨハンとかいう人とはお知り合いではないし、俺は彼の使いではありません、と答えた。それは、会ってすぐに彼女のムードに魅き付けられたからだった。女には、気品と、相手にも緊張を強いる独特のオーラがあった。こんな女を言葉の通じない官憲の保護下に置くのは忍びない、と遊星は思ったのだった。

「そりゃあそうだ」あっけらかんとして、彼女が言う。瞬きひとつするともう彼女は別人だった。理知と機転に富んだ、賢い女の表情になっていた。

「ヨハンはもう死んだんだから」


 遊星は女の身元保証人になって、入管手続きと税関でのチェックを済ませ、スペイン人とドイツ人とベネズエラ人の団体客で混雑している空港を出て、彼女のツーリスト・カードにあるホテルまでメルセデスで送っていくことにした。身元保証人ということは、もし女がキューバに敵対する国のスパイだったというような場合には、遊星も日本へ強制送還されてしまう、ということだ。遊星は隣を歩く女の横顔を見てひやりとした。狂った女の仮面を取った女は、そういった職業に手を付けていてもおかしくはない、と遊星を不安にさせた。

 ヨハンは死んだ。沈黙に耐えかねたらしい女は、第一駐車場からメルセデスが運ばれてくるまでにそういうような話をした。

「ヨハンはすごくいいやつで、オレが知っている中でも一番のいい男だった、あれ以上の男には終生出会えないだろうと思わせるほどいい男だった、あいつはすごくやさしくて、最後までオレのそばにいてくれて、オレはあいつを愛していたんだ、たまによこしてみせる涼しげな流し目が好きだった、抱きしめてくれる腕が好きだった、だが死んだ、ほかの死んでもいいような人間を押しのけて、短い人生を全うしちまった、世の中には死んでいい人間と、そうでない人間と、死んだほうがいい人間とがいるが、ヨハンは生きていなければいけない人間だった。あいつとこの国で過ごした時間はオレに錯乱を与えた。例えばこの国には涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうのがあってヨハンはそれを愛してた、見ろよ、十代、キューバの夕日はきれいだろ、とか言って浜辺のど真ん中でオレの肩を抱くんだ、でもオレはヨハンしか見てないからうまくへんじができなくて、ああそうなのかとか生返事をするんだ、十代はばかだなあ、ヨハンは笑ってオレの頭をなでてくれる、十代はばかだけど世界一かわいいもんな、そういう風に言うときのあいつの顔がいちばんすきでオレはずっとずっと見とれてた、だから夕日のことは全然覚えてないんだ、夕日も、身体にねっとりと絡みつくような熱も、スコールも街並みもぜんぶだ、ただヨハンの笑った顔と錯乱だけが残った、オレは、この錯乱を整理するために、この国に来たんだ、自分を罰するためでも、旅行気分できたわけでも、ない」

 話し方に魅力的なリズムがあり、気持ちのいい声なので、遊星は、そして何を言っているかわからないはずの周りの観光客までもが、物音を立てず静まり返って彼女の話を聞いた。それは劇的なパフォーマンスで、まるで異様だった。映画の一シーンや白昼夢のようだった。

「恋人だったんですか?」

「わからない」

 そう答えると、彼女は話すのをやめてしまった。

 女は遊星のメルセデスに近づくと、恐ろしいほど自然な動作で、後部座席に近づき、乗り込んだ。つまり遊星は彼女のためにドアを開けてやったということだ。遊星は生まれてから今までそんなことはしたことがない。恋人がまだ遊星のところにいたときでさえ、彼女のために、どうぞ、なんて言って後部座席を開けてやったことなどなかった。十二月のキューバにしては太陽が強烈な日で、湿度も高く、暑さに慣れているはずの遊星も発展途上国の空港ならではのひどい混雑と無秩序な群衆の間を抜けてターミナルまで歩く間に、目がかすむほどの汗をかいてしまっていたが、彼女は違った。長袖の、手のひらを覆うタイプのブラックドレスと、黒のストッキングをはいているのに、一滴も汗をかいていなかった。そして、背筋をピンと伸ばして車の前に立たれれば、たぶん誰だってドアを開けるだろうという雰囲気があった。遊星は自分の、女のために愛車の後部座席を開けてしまった手と、ミラー越しにすました顔で発車を待つ女の顔を見比べて、ようやくアクセルを踏んだのだった。

 女のツーリスト・カードに載っていたホテルはカサ・クレマといって、スペイン資本の完成したばかりのところだった。海沿いのハイウェイを走りながら、遊星は彼女といくらか話をした。「中には何が入っているんですか」彼女の少ない荷物を見て、遊星が最初に切り出したのが、これだ。

「帽子だよ」

「帽子?」

「雨季が来ればここはずいぶん暑くなるだろう。日差しも強いし、皮膚によくない、ってヨハンが」

 無言で続きを促すと、彼女は遊星を見ないまま、ヴァラデロの海の青と水色がくっきり分かたれた、そのさかいにまなざしをむけたまま、言葉を継いだ。

「あとは羽織り。最初にここに来た時ヨハンがくれたやつ、オレたちはここに来るときまってヴァラデロにホテルを取ったけど、乾季は夜が冷えるから、身体を冷やしたりなんかしたらだめだ、って言って。どうせオレたちは夜が一番熱いタイプの人間だったし、羽織りはレースの穴だらけのやつで、そこまで使いやしなかったけど、いまはたぶん必要だ。あいつは自分がいなくなったときのことをちゃんとわかっていて、いつでも先回りしてオレにものを買った。帽子もそうだ。帽子も、ブランケットも、眼鏡もコンドームもある」

「コンドーム」

「きみみたいなやつと出会ったときのためだよ。ヨハンは、オレを抱くときにゴムなんかつかったためしがなかった、それはオレがあいつのものだってちゃんと理解していて、そのうえでさらに征服するためだ、貪欲な女の身体を、まるでアリでもつぶしてやるみたいな気軽さで、こうして」細い指が輪を作り、「こうする、そうするとオレが喜ぶんだってちゃんと知ってるんだ、あいつはばかなオレを愛してたから、愛してたかどうかはわかんないけどたぶんそうだ、オレが単純なことで喜ぶとあいつも喜んだ、十代、十代はかわいいなってそればっかり、でもいやじゃないんだ。愛してるからさ。そんなヨハンが、オレにゴムを買ってくるんだよ」

 女の眼もとは涙ではないなにかで光っている、女がヨハンのことばをしゃべるとき、つながれていた糸が切れるように、突然別人の顔をするので、メルセデスのエアコンはもちろん壊れていたが、汗が冷たくなっていくのがわかった。女はヨハンの声でしゃべる、知らないが、おそらくそうだ。遊星はおかしくなりそうだった。それははるか昔の日本映画を思い出させた。京都のフィルムセンターとかそういう場所でしか見られない、溝口健二や小津安二郎といった、そういう映画だ。主演女優はくぐもった声で明瞭に力強く話す、それは昔のマイクロフォンの性能に原因があるらしいが、奇妙な迫力があって、耳にまとわりついて離れない、という声としゃべり方になる、気品があるのだ。しかしどこか狂っているようにも聞こえる。

「ヨハンは、いじわるなんだ。オレはあいつ以外見ちゃいなかったのに、あいつはほかの誰かを好きになるオレを見てたよ……」


 部屋はベッドルームとリビングルーム、キッチン、バスルームを備え、何十キロにもわたる美しいヴァラデロ・ビーチを望む、ここでもいちばんに高いところだった。遊星は彼女を送り届けてやっただけではまだ飽き足らず、ごくしぜんにパスポートとツーリスト・カードを渡されホテルのチェックインを済ませ、荷物を運びこむところまで済ませてしまった。彼女のパスポートの写真はいまと寸分たがわぬ、がりがりの痩せた女が写っていた。ただいまよりもすこし血色がよく、はにかんだ表情には少女の恥じらいというものが見て取れた。親しい誰かに撮られたものなのだろう。遊星はヨハンにカメラを向けられてはにかむ、痩せた少女の姿を想像してみた。彼女は上半身に大きなシャツを着せられて、それ以外なにも身に着けることを許されておらず、彼女の股の間では絶えずローターが振動して彼女を苦しめる。撮るぞ、とヨハンが言う、その声だけで彼女は絶頂してしまう。その横に、几帳面な字でサインが書かれている。ユウキジュウダイ。意外にも、彼女の文字は半年間通信教育でペン字を学んだまじめな受付嬢の書いたようだった。彼女はロビーでヨーロピアン模様の三人掛けソファに座っている。つばの広い帽子が海からの風に揺らされて、まるで呼吸でもしているみたいに左右に揺れているのが奇妙だった。渦を巻く天井の模様を眺めたりほかの観光客の挙動を観察したりしていたが、遊星がすべてを終えて彼女に近づくと、座った姿勢のまま右手だけを差し出した。遊星はその手を取って腰を抱いた。誰かに何かをやらせるしぐさだけが自然だった。

 遊星はふと、なんで俺はこんなことをやっているんだ、ギャラをもらわなきゃ割に合わないぞ、と思い始めた。ユウキジュウダイは部屋に入るとオーシャン・ビューのダブルを見渡して、素敵、と声を出した。素敵、という言い方だが、非常に特殊だった。言葉はその意味からだいぶ外れた語られ方をすることがあって、そのお手本みたいな発声の仕方だった。たとえば恋人のために少ない生活費を貯金して旅行をプレゼントした男がいたとして、その恋人にチケットを渡したとき、今のような言い方で素敵、と言われたら、最悪の場合自殺するのではなかろうか。そういう言い方だった。遊星ははやいところこの女から離れて家に帰り、今度こそコーヒーを沸かして昼寝をしようと画策していたのだが、女の素敵、でその決意もだめになってしまった。彼女は人の決意をだめにする演技ができる、しかも、それを演技だと思わせずに。

「こっち来いよ」

 かろやかな声が、遊星をバルコニーへといざなった。ユウキジュウダイは白く塗られた竹編みの椅子に座って、また海を眺めていた。遊星は彼女の隣に座った。近くで見ると、薄く化粧を施された肌はぞっとするほどにすべらかで、日差しを浴びて皮膚の小さなしわ一つ一つが輝いて見えた。真っ白で小さな顔の中で唇だけが赤い。

 遊星はしばらくユウキジュウダイの顔を眺めていた。そして、彼女もまた、遊星の目を覗き込むように見返してくる。

「毎日海を見ている目だ」彼女がつぶやく。

 薄くすべらかな皮膚に覆われた、まるで今しがた作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのようなふたつのやさしい手が、遊星の鋼と油ばかりを味わってきた掌へとそっと滑らされた。いたわるようなしぐさで豆だらけの硬い肌を繰り返しなぞり、長い指先で付け根のあたりを愛撫して、握っては離れ、また触れ合い、ぎゅっと強くこすり合わされて、離れる。遊星は、見慣れたものより一回りほど小さなその手を取り、新雪のつんとした温度を思わせる真っ白な手の甲へと、自らの乾いた脣を寄せた。まるで気高い女王に下男が畏れてするようだった。女は途端に表情を厳しいものに変え、遊星の手を強く振り払った。

「悪いけど、帽子を置いてきてくれないか」

 なにごともなかったように帽子を脱ぎ、遊星に手渡す。そして、遊星がベランダから部屋に戻り、帽子をベッドの上にそっと置こうとすると、ヴァラデロ・ビーチが凍り付いてしまいそうな悲鳴を上げた。遊星はびっくりして心臓を抑え、何があったのかと振り向いた。

「ベッドの上に帽子を置くと死んじまうんだぜ」

 ユウキジュウダイはベランダからそう叫んだ。

「ああ、まだ置いていないんだな、びっくりした」

 びっくりしたのはこっちだ、と思いながら帽子をライティングデスクに置いた。爆発物を扱うようにして置いた。

「きみはあの映画を見ていないのか」

「映画?」

「ほら、『ドラッグストア・カウボーイ』だよ、あの映画の中でベッドの上に帽子を置いた女がヘロインの打ちすぎで死んだだろ?」

 その映画は見たことがなかった。そんな映画は知りません、と言ったが、ユウキジュウダイは海のほうに顔を向けて微笑んでいる、

「うそだよ」

 ユウキジュウダイはそんなことを言う。

「オレが女優だっていうの、嘘なんだ。なんてことない嘘だ。でも女優でいるあいだは本当に生きた心地がするよ、人間は普通に生きていても狂ってる、オレも、きみもだ、ただヨハンだけがこの世でふつうだったんだ、ヨハンはこの世にあって天使みたいなやつだったからふつうでいられたんだ」

 彼女はまばたきをし、遊星のほうを一度も見なかった。過去のことを語ろうとするくせに、彼女は過去を見る目をしない。現代起こっていることか、未来にあるかもしれないことを見る目をする。そこにはふしぎな魅力があった。逆光で陰ったユウキジュウダイの横顔に、遊星は見入った。早く話を中断させて家に帰れ、そんな声が遊星の心のどこかで響いたが、身体はその部屋から一歩も動こうとしなかった。もっと彼女といっしょにいたいとさえ、遊星は思っていた、それはどこか倒錯的でマゾヒスティックな感情だった。

「ヨハンは、オレたちは、ヨハンは、ヨハンと一緒にいるときだけオレは人間でいられた、人間は普通は女優じゃないし女優でいなくても人間でいられる、でもオレは違う、オレは人間でも女優でもない、演技すればその両方でいた、ヨハンといるときは人間だった、なぜならそこにあいつの許容があったからだ。ヨハンはオレがなんであっても許してくれると言ったけど、あいつにはそうでないものもしぜんに人間にしてくれる力があった。オレは結局あいつに何もしてやれなかったけど、そういうふうに、オレたちの関係はみたされていた。物語があるだろう、人間はもともと四つの足と四つの手と二つの頭がある生き物で、地を這って生活していたのが、木の上の果実をとるために二つに分かれたんだって、だがどうしても半身のことが忘れられない人間は、やっとの思いでそいつを見つけたとき、運命の人、って呼ぶんだ。そんなバカげた話があってたまるかよ、でもヨハンはそういうのを本気で信じてた、キリストをいたく敬虔に信じたくらいだから、簡単に物事に真実を見ることができるんだろうな、そんなヨハンは長い時間をかけて物語を語った後、こう締めくくった、だから俺は、十代のことを運命だと言うんだ、ってね、オレはその通りだと思った、ヨハンが持たなかった澱をオレは持って生まれた、ヨハンは光に愛されて生まれた、そういうことだ、ヨハンは真実を分かっていただろうか、わかって言ったのならすごくいじわるだけど、いいんだ、同じものだって言ってくれたらうれしかった。ヨハン、世界で一番美しい男」

 告白をするあいだ、ユウキジュウダイはずっと微笑み続けていた、遊星は人間が長い時間微笑みをキープできることを知らなかった。言葉と言葉の合間に、また音節と音節の間に、ユウキジュウダイは〇.一ミリの狂いもなく同じ顔をして微笑む。「きみは」彼女は間を置かずに続ける。

「運命を信じるか?」

「……信じません。運命だと思っていたひとはそうでなかった」

「ふつうはそうだ、運命なんか存在しない、運命、くそみたいなことば、人間をなめ切った傲岸なことば、でもヨハンがそれを言うとき、あまりにもだいじそうに発音するものだから、う、ん、め、い、発音するから、信じたくなる自分がいるんだ、運命ってやつがオレのまえにもきちんと存在していて、微笑んでくれるものなんだって信じたい自分がいるんだ、きみにはそれがわかるか?オレは、わからない、いやわかるからこういう話をしているんだな、運命のことがわからなくても、ヨハンの前にひろがった運命のことを信じたい自分がいることはわかる、ヨハンはもう死んだ、でもヨハンは笑顔と錯乱だけを残した、笑顔と錯乱は、ヨハンになりうるだろうか?遊星、きみ、遊星っていったな、オレにはきみがヨハンに見えてならないことがある、ヨハンとほかの人間を比べることは罪だ、でもきみはヨハンによく似てるんだ、顔とか、しゃべりかたじゃない、目だ、毎日海を見てる目だ、ヨハンがオレの上をいったりきたりする浅瀬なら、きみはオレのうえに重たくのしかかる深海だよ、だからこうしてしゃべりたくもないことを延々としゃべってる、遊星、不動遊星、きみは運命を信じるか?オレがヨハンとこうしてもう一度出会ったことを、運命と呼ぶべきだと、そう思うか?」

 はじめに遊星の胸に去来したのはユウキジュウダイに初めて名を呼ばれる甘美で陰湿な喜びでも運命に投げかけられた問いの答えでもなく、この女は何を言っているんだ、という混乱だった。遊星はヨハンではない、そしてヨハンは遊星ではない、そしてその混乱は遊星のうちに都合よく作り替えられ、すなわち好意というものに置き換えられてしまったのだった、ヨハンと繰り返す甘い声、遊星は、その時点ですでに、ユウキジュウダイを愛していた。

 遊星はキューバに来て一週間がたったころに見たサンテリアと呼ばれる原始的な秘密宗教の儀式を思い出した。それはハバナから車で二時間ほど走った田舎の町で行われていた。もちろん日本人の大学生が気軽に招待されるものではない。ハバナのレストランで豚のすね肉のグリルを食べアトウェイというアルコール度数が異様に高いビールを飲んでいた時に、見るからにいかがわしいキューバ人の闇煙草売りが、十ドル出せばサンテリアの儀式に連れて行ってやると言ったのだ。その頃はサンテリアについて何も知らなかった。郷土芸能みたいなものだろう、そんな知識しかなかった。サンテリアには非常に多くの宗派というより種類があり、その実態を正確に把握している人は誰もいない。ハイチのヴードゥーもその一種だし、ブラジルにも同じようなものがある。アフリカの、ナイジェリア、コンゴ系の、ブラックマジックやホワイトマジックを含む、複雑極まる原始宗教で、奴隷たちは出身地の部族から切り離されて別々に住まわされたためにそれらはさらに細分化され多様化して継承されることになった。基本的には健康を願うものでたとえば薬草については大変な知識を持つが、当然呪術や占い師が登場することもあり、中には秘密結社に似た性格のサンテリアもある。それぞれが独自の打楽器やリズムパターンそれに歌や踊りを持ち、毎年決められた時期に儀式を行う。

「ヨハンは言った、十代、俺はおまえのそばにいる、ずっとだ、おまえが俺を呼ぶ限りオレはおまえのそばにいる、って、オレは嘘だと思った。だからあいつの枕をびしゃびしゃにぬらして泣いた、でもいまきみの目にヨハンを見てるオレがいるのは、きっとそういうことなんだろうな」

 儀式と言っても一様ではなく、数万人が集まる大規模なものから一軒の家で十数人で行われるものまで様々だ。遊星が十ドルで招待されたのは最も小規模なタイプだった。小規模でも儀式は神聖なものだから、普通は金をとってツーリストに見せたりしない。だが、その昔黒人奴隷はお互いに助け合って生き延びようとしていたので、違う部族、あるいは違う周波でも、救いを求めて儀式に参加したがる者がいれば許可されることが多かった。そういう伝統を利用して、好奇心がありそうなツーリストを儀式に案内しようとする金目当てのガイドが存在するわけだ。遊星は一軒の家に案内され、打楽器の背後から踊り続ける何人かの黒人たちを眺めることになった。一人の、ひときわ体の大きな黒人がいた。彼は粗悪な布地の綿のズボンをはき、上半身は裸で、タイルを敷いた十畳ほどの広さの居間で踊っていたが、明らかにトランス状態にあった。彼はすでに二時間以上踊り続けている、とガイドが教えてくれた。男の足から血が流れていた。床のタイルはところどころむけたところがあり、その淵で足の皮膚を傷つけたのだろうと遊星は思った。部外者をシャットアウトするために窓も全て閉められて、隣室には煮えたぎった鍋が炭火にかけてあり、部屋は恐るべき暑さだった。鍋の中はよく見えなかったが匂いからすると動物の臓物のようだった。すぐにポロシャツが汗でべっとりと肌に張り付いたが、遊星は足から血を流して踊り続ける男を見ているうちに暑さを感じなくなっていた。男は陶酔して顔にはうっすらと微笑みを浮かべていたが、知覚を放棄していたわけではなかったらしい、その証拠に、お前は誰だ、というようにしばらく遊星を見た。遊星はガイドによってサンテリアの研究をする日本人学生と紹介されたが、部屋の空気を乱す異端者であることに変わりはなく、男はその気配に敏感に気が付いたのだった。やがて男は、左手と右足、右手と左足をそれぞれ上と横に振り上げるというシンプルで美しいステップを続けながら遊星の前まで近づいた。そして遊星を見下ろし、踊り続け、汗がはじけ飛んで遊星の顔にかかった。そうやって一時間近く踊っていた。圧倒的な緊張感と、妙に冷めた感じが遊星と男の間にあって、遊星は凍り付いたように動けなかった。トランス状態で、神と交信しようとする人間は覚醒の極みにあるのだと初めて知った。もし間違ってその踊りを中断させてしまうようなことがあれば、その男に、ではなく、彼が交信しようとしているものに殺されてしまうだろう、と遊星は思った。

 ユウキジュウダイのしゃべるのは、あの男の踊りに似ていた。彼女はしゃべり続けることで、彼女のどこかにいるヨハンと交信しようとしていた。

 どうすれば彼女の告白を止められるだろうか?遊星は、このヴァラデロのホテル群のはずれにある、デュポン財閥の旧邸を改造したレストランで、ロブスターとスペインワインを楽しみながら、もっと普通な感じで告白の続きを聞けたらどんなにいいだろう、と思っていた。自分でも信じられないことに、遊星は彼女の告白の内容に興味を持ってしまったのだった。たとえば遊星が耳をふさいだり、声を上げたりする、そういうことをすると、とりあえず告白はやむ。だが、ユウキジュウダイはきっと二度と本質的な話をしなくなるだろう。それでもいいじゃないか、今すぐベランダから立ち去って部屋を出ていきこの女から離れて二度と近づくな、という遊星の中の声はもうほとんど聞こえなくなるほど小さくなっていた。

「ヨハンはそこにいる、涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうののなかにヨハンがいるんだ、これは錯乱だろうか?なんでもいい、オレはヨハンに会いにきたのかもしれない、ヨハンがいなくなって、半身がいなくなった本能的な苦しみから逃れようとしてこの国に来たのかもしれない、きみ、遊星、きみに会うためだ、きみは頭のおかしいオレを空港から脱出させるためにわざわざ車を走らせてここに来たんだ、それは運命とよんでもおかしくはないような、そういうものなんじゃないか、ヨハンはわかっていてオレにう、ん、め、い、をのこしたんだ、そうだろ、ヨハン、そうだと言ってくれ。……そんな顔するなよ遊星、ちゃんとわかってるさ、きみはヨハンじゃないんだ。不動遊星。いい名前だな。遊星?」

 遊星は、彼女の肩をつかみ、驚いて半開きになったこぶりな赤い唇へ噛みつくようにキスをした。ユウキジュウダイは抵抗しなかった。ヴァラデロ・ビーチの水平線のかなたに、暗い銀色の雲が沸き上がり、それが徐々にこちらに近づきつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女優はベッドで眠っている。

 服を着たまま、ベッドカバーの上で、身体を横向きにして、目を閉じたかと思うとすぐに寝息が聞こえてきた。

 告白がやみ、遊星が彼女の上からそっと離れると、十代は、あっ、と息を吐いて、照れたように笑い、背伸びをして、何か飲みたいな、と言った。まるで、カット、の声がかかった後に、自らの演技に照れる俳優みたいだった。遊星は部屋の冷蔵庫からビールとコーラを出し、ベランダに持って行った。どちらにしますか? と聞くと、十代は、また声を出して笑った。それは人間としてごく自然な、やさしい笑い方だった。

「ビールに決まってるじゃないか」

遊星はキューバのビール、アトウェイの缶を手渡した。十代は飲む前に缶に描かれたインディアンの顔の絵をしばらく眺めた。

「アトウェイ?」

「そうです」

「きみ、この絵のインディアン、だれだか知ってるのか?」

「アトウェイという名前の首長です」

「この人は殺されたんだ」

「知っています、焼き殺されたんです、死刑で」

「最後までスペイン人に抵抗して」

「その通りです」

 キューバでは、過酷な労働と天然痘のためにインディオは全滅した。アトウェイは征服者に最後まで武力で抵抗した勇敢な首長だったが、結局、火あぶりで殺された。十代はその伝説のインディオを、奇妙な表情で眺めていた。そのビールのラベルにも告白の芽が宿っているのだろう、と遊星は思った。「ヨハン」と呼ばれる男との思い出がアトウェイにも宿っているのだ。

「これ、あんまり強くないんだ?」

 喉を鳴らして半分ほどビールを飲んでから十代は言った、アトウェイには、十四度、とか十七度とかいうアルコール度の非常に強いものもある。遊星が十代に渡したのは六・五度という、あまり強くないものだ。

「アトウェイと、もう一つ、ビールがあるだろ」

「クリスタル、ですか?」

「そう、緑色の缶のやつ」

ビールを全部飲み、空になった缶を握ったまま、十代はハイヒールを脱いで足をぶらぶらさせ、それからストッキングをくるぶしまで下した。腸詰にしたソーセージのように細く引き締まった脚のさきにはワインレッドカラーのマニキュアが塗ってあった。割れた爪の赤い色がヴァラデロの景色の中でよく目だった。十代は自分の足元を見ながら、またくすくすと笑った。

「昔、よくキューバにきてたころ、あれは何回目のキューバだったかな、初めてクリスタルを買ったんだ、十代、自分で買って御覧、ってヨハンが言ったからオレはヨハンと食事に行くために買ったナイトドレスを着ていかにもチンピラ然としたタクシーの運転手に近づいた、キャンアイヘルプユー、そいつが言って、オレは、アイ、ニード、クリスタル、売人は当然売っちゃくれないよ、やつらは用心深いからまずはマリファナから買わなきゃいけないんだ、麻薬捜査官から逃れるための策がそれさ。そうやってお互いに安心させないと買えない仕組みなんだ、そんなものはないと言われてオレは泣いた、往来の真ん中でだ、タクシーの運転手に女が縋り付いて泣くんだ、なぜなら身体はもうあの粉をいっぱいに身体に吸ってからヨハンに抱かれる喜びを知ってたからさ、ヨハンはホテルの窓からそんなオレをじっと見てるんだ、オレの安っぽいナイトドレスに覆われた身体の中で居場所のない熱が荒れ狂ってるのを、じっと、見てるんだ、こう、まるで全部抉り出すみたいに見るんだ、オレは泣きながら言う、ヨハンという男を知りませんか、オレはその人に命じられてここに来たんです、それがないとオレは死んでしまうんです、お願いします、だが運転手はそんな人は知らないと言う、オレはまた泣きながらそこをはなれて、せめて代用品を手に入れようと思う、ホテル街のはずれの浮浪者やらホームレスやらがたむろする廃ビル、その地下に降りて、バーがあるんだ、売人御用達のバーでヨハンは何度もオレをそこに連れて行ったから知っていた、女のバーテンダーに近づいて、アイ、ニード、クリスタル、だが売っちゃもらえなかった、何故ならそんな呼び名はこの国じゃ通用しないからさ、オレは下手に知識を詰め込んだだけの麻薬捜査官と勘違いされて男のバーテンダーに取り押さえられたが、そのころにはもうオレのあそこはぐちょぐちょだった、あらやだはしたない、たぶんそういう風に言われたんだな、そこの汚いハイヒールがおれのあそこを蹴った、客が笑って、オレはまた泣きたくなった、ヨハン、ヨハン、そういうふうに名前を呼びながらオレは客にめちゃくちゃにされて、そうだ、あのときそうやってぼろ雑巾みたいに扱われていたオレを、ヨハンはカウンター席の端でじっと見ていたんだ、いつのまにいたんだろうって考えている暇なんてなかった、あいつの美しいエメラルド・グリーンの髪が蛍光灯の黄ばんだ光に反射してきれいだった、ヘドロの匂いのするバーの中でも、ヨハンはきれいだった、浅瀬色の目がオレを見ている、ヨハン! オレは叫んだ、叫びながらイった、なぜならあいつのことを愛していたからだ……」

 そういう話をしたあと、十代は、疲れたから少し横になる、と言って、ベッドに横たわり眠ったのだった。遊星は十代の寝息を聴きながら四十分近く、アトウェイのビールの缶をぼんやりと眺めていた。

 

 かなたの雲はゆっくりと近づいてきて、やがてビーチの上空を熱く覆った。フリスビーを楽しむ若い白人たちの濃い影が消えている。雨が降り出す気配はないが、曇ったビーチは急に活気を失い、物憂げな閉塞感に包まれた。夕暮れが間近いこともあってホテルに戻る支度を始める観光客も多い。キューバ人の物売りたちも商売道具を片付け始めている。彼らが一日中ビーチを歩いて売ろうとするのは、黒珊瑚やオウムガイで作った装身具、大量の民都トラムでできるカクテルのダイキリ、トロピコーラというキューバで作られているコーラ、キューバのサルサバンドのカセットテープ、そして手作りの楽器、そういうものだ。

 水平線のあたりでわずかに雲が途切れている箇所があって、そこだけが鈍くオレンジ色に輝いている。海の法から吹いている風は湿っていて少しずつ涼しくなっていく。遊星はベランダのガラス戸を半分閉め、エアコンの送風も最弱にした。十代は身体を横向きにして、手足をおりまげ、ぐっすりと眠っている。

 午前七時、日が完全に沈んで、シャワーがヴァラデロのビーチを軽く濡らした後で、十代は目を開けた。二時間と少し、眠ったことになる。

 目覚めて、ここがどこなのか、自分がどこにいるのかわからない、といった不安げな表情を見せていた十代は、ライティングデスクに座って雑誌を読んでいる遊星を見つけると、体を起こして、微笑んだ。唇がヨハンを呼んだ。部屋はとても静かで、羽虫の飛ぶ音や二人分の呼吸音、ランプが接触不良を起こして鳴らすじじじという音、それからエアコンのモーターの音などがそれぞれの領分をわきまえたかたちでその静寂を守っていた。さっきウエイターが運んできたウエルカムフルーツがテーブルに載っていて、甘ったるいのと酸っぱい匂いが部屋に満ちている。

「おはよ、遊星」

 三十分後に、十代はやっと声を出した、

「何か食べに行こう」

 デュポン財閥の旧邸に遊星は十代を案内した。シャワーを浴びて、濡れた髪のまま十代は紅色のミニのワンピースを着た。ストッキングは付けずに、くるぶしまでの短い革のブーツを履いている。ブーツには銀色の留め金がついて、デュポン邸のアラベスクのタイルによく似合った。

「ここはきれいなところだな」

「そうでしょう。きっとあなたも気に入ると思っていました」

「庭園がいい、よく手入れされている。オレはこういうのすきだぜ」

「そうですね。あのバラなど、いまのあなたにそっくりです、十代さん」

 二人はそういう話をしながら黒い服のウエイターに案内されて玄関の大広間を横切り、アンティックな陶器を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、小さなボールルームを改装したレストランについた。客はほかに三組いて、十代は注目された。トップモデルのように均斉のとれた肢体に紅色のミニのワンピースをまとった、美しく若い東洋人の女、財閥の旧邸に非常にマッチしているようであり、非常に場違いなようにも見える。

「なにか強い酒を」

 十代は、七年もののラム酒をストレートで注文し、それを一息に飲んだ。白くて、薄い皮膚に包まれた喉を琥珀色のラムが滑り落ちていくのが見えるようだった。

「ヨハンは、こんなところにオレを連れて行かなかった」

 二杯めのラム酒を飲み干して、十代は言った。

「ヨハンは基本的に金を持たない主義で、ちょっとでも彼の目に届かないところに金が増えるとみんなどこかへやりたがる難儀な性格をしていた、切り取られた金はかわいそうな子供のところに行くこともあったしオレの装身具になることもあった、オレはいろいろなものを買ってもらったけどこういうところに連れていかれたことはない、ヨハンは自分で料理ができたし娯楽にはセックスがあればよかったからだ。だからいまこうしてきみと食事をしているのが奇妙に思えてならないんだ、何度も言うがオレは気を抜くときみにヨハンの影を見る、ヨハンがこんなところにおれを連れて行こうとしたのだと錯覚してしまうだろう、だからこうして線を引こうとするのかもしれない。ヨハンがオレを連れて行くのはたいていが屋台のがましってくらいマズい飯屋か気のいいおばあちゃんが経営しているような小さい飲食店だった、あいつは食事をすることよりもそこの人間とオレを会話させるのが好きだったんだ、

 十代、ごらん、彼の顔に傷があるだろう、

 傷?

 そうだ、彼はキューバ独立戦争でホセ・マルティに従った勇敢な戦士なんだ、

 ホセ・マルティって誰だ?

 訊いてごらん、

オレはそのウエイターの男に話しかけてみた、一八五センチもあったヨハンが顔を上げなきゃ視線が合わないくらいの大柄な黒人の男だった、もうずいぶん歳がいっているように見えたがそんなこと気にさせないくらい大きくて、確かに顔には風化して引き攣れた切り傷のあとがあった。ホセ・マルティって誰なんだ?オレは何の前置きもなくそう訊いてしまった、気分を害したかもしれないと焦ったが別にそんなことはなかった、

 お嬢さん、ホセについて知りたいのかい、

 うん、

 ホセは英雄だよ、ホセ・マルティ、俺たちみんなの太陽だ、

後で知ったがホセはキューバ人にとっての神様みたいなもので、記念館やら像やらがそこかしこにあった、百合の花に名前がついているのを見たこともある、これでいいのか、って俺がヨハンに聞くと、ヨハンは満足そうにして俺の頭をなでてくれた、実際に何をした人なのかとかどうして英雄なのかとか聞きたいことはたくさんあったけどヨハンにそうされたらオレはもう屈服するしかなかった」

 十代は、チリ産の赤ワインを飲みながら、前菜、スープ、メインディッシュ、それにデザートまで、残さずにすべてきれいに食べた。前菜はランゴスティン、つまりロブスターのカクテルだった。スープはランゴスティンのクリームスープで、メインはランゴスティン一匹丸ごとのグリル、デザートははちみつに付け込んだ蒸しパンだった。十代は、おいしいのか不味いのか不明な表情のまま、それらをきれいに食べた。かなりの量だった。特にロブスターは、巨大で身が詰まっていて、遊星は少し残してしまった。十代は、空腹だったのだろうが、がつがつとむさぼったわけではない、はたで見るとフォークとナイフを上手に使って、時折ナプキンで口元をぬぐいながらほとんど優雅とも言える食べ方で食べた。この女だけがレストランに似合っている、と遊星は思った。

「なあ、遊星はどうしてこの国に来たんだ?」

 巨大なランゴスティンの白い身をナイフで切りフォークで口元に運びながら十代はそんなことを聞いてきた。

「大学生って言ったら、まだ学生じゃないか。ええと、遊星、いくつ?」

「十九歳です」

「まだ未成年か。驚いたぜ。留学ってわけじゃなさそうだし、かといって留年しているようにはとてもじゃないけど見えないから」

「恋人と別れた傷心を癒やしに来たんです。別にこの国じゃなくても、どこでもよかった。大学には留学に行くと言って一年間の休暇を取っています」

「わるいやつ。まじめな優等生かと思ったら、きみ、へえ、そうなのか。オレは大学に行かなかったんだ。ずっとヨハンのそばにいたから大学の雰囲気は知ってるけど、実際どうなんだ」

「研究するのは、高校時代に想像していたよりずっと楽しいです。同じ志を持った仲間と、愛してくれる女の子がいてとても幸せだった」

「女の子?」

「ここに来る前に別れました」

 ふうん、そりゃ災難だったな、と言って、十代は一定のペースでロブスターの身を食べ続ける。ほかの客が、それも男たちが遊星のほうを時々羨ましそうに見た。彼らが連れている女よりも十代のほうが数段美しいからだ。熱帯のリゾート地では十代のような真っ白な肌は本来似合わないが、レストランの中では違った。十代はその白く滑らかな肌から緊張感を促すオーラを発して、ほかの、よく日焼けした女たちの存在を平凡で希薄なものに変えた。大理石やワインやレストランに等級があるように、人間の女にもランクがあるのだとその場に居合わせた者たちに思い知らせる強さと美しさを十代は持っている。遊星は恐ろしくなった、こうして話しているだけで、遊星は「ヨハン」に罰せられる危険を案じた。十代はそんな恐れなど存ぜぬといった様子で、遊星の目を見て話し続ける。

「オレはもう何度もこの国に来てるけど、遊星ははじめてか?」

「はい。彼女の記憶から逃れたいと、その一心だったので。できれば思い出のない、知らない土地が良かったんです。思い出せば、それこそ首をつってしまいそうだった」

「……なんというか、きみ、一途だなあ」

 十代のその笑顔が、遊星にはまぶしかった。あんなに執心していたはずの恋人との思い出が、きよらかな水に洗われ、純度を取り戻していく、遊星はこんな笑い方をする女を知らない。演技しているときの、一ミリも狂いのない笑いとは違って、汚いものや穢れたものを一切許さない、そうであれば粉々に砕いて純度の高いものに再構成させるような、そういう厳しい笑い方だった。

「一途な男はお嫌いですか」

 追い立てられたような気分になって、遊星は言った。まぶしすぎて眼がつぶれそうだ、と思った。

「好きだぜ」

 遊星が手洗いに立ち、帰ってくると、一人になった十代は別の男に声をかけられて首をかしげていた。男は、おきれいですね、と十代をほめ、十代はありがとう、と返事をした。男の言葉がまるで響いていないのは明らかだった、美しい彼女はヨハン以外のどうでもいい相手からの言われ慣れた言葉になど興味もないのだ。遊星は彼女の笑っているのを見た。面白がっている。

 彼女は男と二、三言葉を交わし、遊星の目の前で店を出た。あとでわかったことだが、遊星が財布を開けるころには、レストランの会計はすべてすんでいた。

 

 ホテルの部屋から電話をかけてみることにした。キューバの電話事情は最悪で、遊星の家にも電話はあるが、外国人専用回線ではないので国際電話はもちろんのこと、市内電話もかかりにくい。

 遊星は十代に鍵を預かっていた。ロックを解除して部屋に入り、スラックスのポケットから紙切れを取り出し、眺めた。十代の帽子の裏に挟まっていたものだ。何十回、何百回と開けて、そのたびに几帳面に折りたたみなおしたのだろう、ファクシミリ用紙独特の光沢はすでに消えかかり、表面は黄色く変色していて、折り目は破れかけていた。遊星は何度も十代の不在を確かめ、折り目でちぎれないように丁寧に紙切れを開けた。スタンドの明かりで、ヨハン・アンデルセン、という文字が見えた。

 八回のコールのあとで、低い、不機嫌そうな女の声が聞こえた。

「ママ?」

「え?」

「もうかけてこないでって言ったでしょ、わたし、結婚したのよ。大丈夫だからもうやめて」

「失礼ですが、アンデルセンさんですか?」

 遊星は声が大きくなった。雑音が多く、相手の声は聞き取りにくい。

「え?」

「もしもし、実は今、キューバからこの電話をかけています」

「何をおっしゃっているのかよくわからないわ、あなたは誰?」

 声が聞きとりにくい。キューバでは、電話はいつ切れてしまうかわからない不安定な通信手段だ。遊星の実家は長野にあるが、キューバからの電話を母親が切ってしまったことが何度もあった。交信状態の悪い電話は基本的に相手に不快感を与えるらしい。

「俺は不動といいます、大学生で、キューバに留学しているものです」

「ママじゃないの?それはママの電話でしょ?」

「ママというのは、ユウキジュウダイさんのことですか?」

「そうよ。そして、わたしはあなたのことを知らないわ」

 電話口の女は十代の名前に反応した。しかし、不機嫌そうな声は変わらない。

「誰かは知らないけどママに伝えてちょうだい。パパはもう死んだ。わたしはもうママの子じゃないし、この家もママのものではない。もう電話してこないで、って。ママ、そこにいるんでしょう?」

「いえ、俺は独断であなたに電話をかけたんです。十代さんはいません」

「あなた本当は誰なの?」

あなたがどんなうそをついてもわたしにはわかるのよ、女の言葉にはそういうニュアンスが含まれている。この電話を早く終わらせたいと遊星は考え始めていた。

「ママと寝たの?」

「十代さんと、ですか?」

「そうよ」

「いいえ」

「じゃあ、あなたはママとどういう関係なんですか?」

「知り合いです」

「名前をもう一度言ってくれる?」

「俺ですか、不動です」

「本当にキューバなの?」

 本当に、ママがキューバにいるの、と、そう問われているような気がした。遊星は喉と胃のあたりに強い不快感を覚えた。恥ずかしさとか自己嫌悪とかコンプレックスとか理由のない不安とか、そういうマイナスの神経をポイントで攻撃してくるようなしゃべり方だった。催眠術をかけられたようになって、遊星はベッドの端に座り込んでしまった。

「そうです、キューバです」

 はやくこの電話を終えたい一心で、やっと声を出した。

「ふーん、そういえばこの、微妙な音声信号の遅れと、やや音楽的な雑音がそれっぽいわね、キューバなのね」

「そうです」

「たばこの包み紙みたいなセロファンを左手でくしゃくしゃってもんで受話器に近づけながら話すと人工的に雑音を作れるのよ、あなた今、セロファン紙を片手に握ってない?」

「え?」

「雑音を作ってない?」

「そんなことはしていません」

「キューバのどこ?」

「ヴァラデロという街です」

「ヴァラデロ、ああ、きれいな海があるところね、古いお城みたいな、オレンジ色のレンガ造りの家のある海岸で、三人で泳いだ記憶があるわ、ものすごくビーチが長いのよね、五キロ? もっとだったかしら」

「二十キロです」

「ハバナじゃないのね」

「ヴァラデロです」

「ビーチサイドのホテル?」

「そうです」

「海は見える?」

「目の前にあります」

「ちょっと、受話器を海に向けて、波の音を聞かせてくれませんか?」

「わかりました」

「懐かしいヴァラデロの、波の音を少し聞いてみたいの」

「わかりました、ちょっと待ってください」

 遊星は電話を移動させ、受話器をベランダに突き出して海のほうに向けた。

「もしもし、聞こえましたか?」

 電話は、切れていた。

 

 日付が変わってしばらくしてから、十代は帰ってきた。ミニドレスから露出したすべらかな項からバニラビーンズのボディソープの匂いがして、それはこのホテルには置いていないものだった。遊星はシャワーを浴びて着替えているところだったが、ドアのノックを聞くと、裸のまま彼女を出迎えた。

 十代は裸の遊星を見ると特に詮索もなくそのわきをすり抜けて部屋に入っていった、肩に掛けていたピンクゴールドのハンドバッグを奥のベッドに放り投げ、靴を脱いでベッドのサイドテーブルの下に入れ、息を大きく吐き出しながら身体を投げ出して唸った。

「遊星」

 ため息交じりに遊星の名前を呼ぶ。

「何か飲み物をくれないか」

「水でいいですか?」

「そうしてくれ」

 彼女はだいぶ酔いが回っているようで耳から首筋に至るまでが赤かった。そのラインの上に、露骨な鬱血痕があるのを見て、遊星は顔をしかめた。コップを置き、十代のほうへ歩み寄る。

「どこへ行ってたんですか」

「どこだっていいだろ」

「教えてくれないといやです」

 十代は壁に押し付けられて、不機嫌そうに眉を上げた。それは遊星への嫌悪感というよりは、眠たいから寝かせろよ、という不満に近いように思われた。ベッドサイドのランプだけが光源になっていて、彼女の小さな顔や弱々しく力を失った手首、化粧の落ちた唇などが、こまやかにオレンジ色に輝いて見えた。久しく味わっていない女の身体だ、と、遊星の本能が耳の下のあたりでさざめいた。

 抱き上げると、細い身体はとても軽く、とてもではないが先ほどのロブスターの身を完食した女の肉体とは思えなかった。抱きしめれば折れるどころか小麦粉のように崩れてしまいそうだ、と遊星は夢想した。

「あの男に抱かれたのか。俺というのがいながら」

「きみ、なんのつもりだよ」

「好きです」

「へえ?」

「出会ったばかりのあんな男に抱かれるなど許さない、オレのところにいてください、十代さん、好きです」

「おかしなことをいうんだな」十代は、笑わなかった。「きみだって、今日出会ったばかりの他人じゃないか」
































 その夜、非常に奇妙な夢を見た。遊星の夢はたいてい平凡だが、その夜は違った。疲れていて、それも変な疲れだった。頭というか、神経というか、今まで使ったことのない部分が消耗していた。具体的に言うと、目と、右のこめかみと、脳の奥のほうだ。身体は強く睡眠を要求していて、何十回となく眠りに引き込まれそうになるが、十代の背中のイメージがそれを破る、その繰り返しだった。

 彼女の背中は濡れていた。年季の入った蛍光灯の照明で、髪の生え際のあたりから背骨の隆起にかけてを白くてからせているのが、なんとも形容し難く、エロティックだった。すべらかで美しい、真っ白な背中。それとなく上気した形の良い耳。その凄艶な雪原の上に、ぽつぽつと椿の花弁が散らされている。遊星はこの背中をすぐ好きになった。唇を押し付けるとほのかに血色を滲ませ、呼吸にも肉慾が篭りだすのがなんともいじらしく、熱っぽかった。潤みきったヴァギナを甚振り、きれいなかたちをした乳房に顔を埋めていたりすることももちろん好かったが、ともすればあの背中を思い出し、どうしようもなく愛おしくなって指を走らせるものだった。雪原はどこまでも広がっていた。

ああ!彼女は遊星を見ないまま、後ろから挿れられて身体を仰け反らせた。ああ、ああ、ああ!甘く喘ぐたびに、背中の皮膚は緊張し、緩み、また緊張した。まるでそれじたいが、遊星に媚び、誘い、歓待しているかのようだった。美しいイメージ、つまり、昨夜の出来事なのだが、どうやっても消すことできず、最後には怖くなってきた。気になることがあった夜にそのことを忘れて眠りにつくいい方法を昔祖父に聞いた。目を閉じたときそういうものはたいてい映像としてあらわれる、それを、例えば井戸の底や深い谷に落とすのだ。何度かそういうことをやると、ばかばかしくなって、緊張しきった神経が心地よく緩む、脳と身体が一瞬リラックスして、そういうとき口元は微笑んでいる。そういう神経の裂け目を作ってやると、眠りはそこに入り込んできてくれるのだ。遊星は後片付けをすべて終えてから、そのやり方を何百回と試したが駄目だった。深い井戸の底から、十代の声が、遊星、と呼んだ。それは彼女がセックスをしているあいだ切羽詰まって縋り付いた男の名前ではなく、レストランで向かい合って食事をした男の名だ、そんな気がした。

 もう明け方近くだったのではないかと思う。二、三時間眠って、その夢を見た。ハバナだと思われる、原色のペンキで塗られたバルコニーに遊星はいる、強い香料の匂い、キューバの女が好むバニラに似た匂いがどこかから漂ってくる。外は日差しが強くて、あらゆるものの影が強い。外から家の中に目を戻すと、あるいはそれとは逆に視線を変えても、強いめまいが起きる。バルコニーだから、遊星は二階にいることになるが、家の中で行われていることをあえて見ないようにしている。音楽が聞こえているので、たぶんダンスのレッスンとかそんなものだが遊星は見ない。また目をつぶっているわけでもなくて、見ない。何も見ないという意思で、見ないようにしていた。バルコニーの下で、何か残酷なことが行われる予感がする。ヴァニラの香りのように、その組成が科学的にわかっている物質の、細かな粒子として、予感が漂ってくる。その予感に導かれるようにして、遊星はバルコニーの下の通りを見下ろす。そこには、ほとんど牛ほどの背丈の大きな山羊と、ターバンを巻いた老人がいた。老人は片方の手にナイフをもっている。半月形の、細く長いナイフだ。遊星は何が起こるかわかっているが、目をそらすことができない。老人は、その動作を何十年も毎日やってきたというような滑らかなやり方で、ナイフで山羊の首を落とした。遊星は前もって知っていたからこれが斬首だとわかったのであって、老人はただ山羊の首をやさしくなでただけに見えた。それにずいぶん長い間、山羊の首は胴体から離れることなく、一滴の地も流れなかった。首が地面に落ちる寸前まで、八木は首を動かして、青い草を食んでいた。地面に転がった山羊の首を見て、遊星は絶句した。山羊の首の断面に人間の顔が埋まっていたからだ。そうなんだ、というふうにターバンを巻いた老人が、遊星に向かって笑いかけ、うなずいた。こいつはさっき人を食ったばかりなんだよ。山羊の首に埋まっている人の顔は何か消火器から出続ける分泌液で溶けかかっていた。溶けた顔の残骸はクリーム色の汁となって山羊の首からの地とまじりあい昼間の地面へと流れ出て、ターバンを巻いた老人の影と見分けがつかなくなった……

 

 遊星がようやく起床するころには彼女はシャワーを浴び終わっていて、寝ぼけ眼で体を起こした遊星を見ると、空いてるぜ、と微笑みさえよこしてみせた。それは自らの領域を一晩のうちに許し、不躾な土足の世話をしてやった女が浮かべる、一種の愛情を含んだ笑みだった。遊星はおかしくなりそうだと思った、この女と、まさか同衾することになるとは、強烈な罪悪感と後悔が一度に襲ってきたが、顔を覗き込まれ、キスをされると、それすらどうでもよくなってしまうのがなんとも恐ろしかった。

 彼女はまだ裸だった。リネンカーテンの、半分空いた隙間から差した朝日が光芒を作り、彼女の白い身体のすべてを照らしていた。浅黒さにほと縁遠く、この常夏の地でむごいほど色白の肌は、冷泉の潮にたえず洗われて滑らかに引締っている。お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、芙蓉色の一双の蕾をもちあげていた。まるで名工が王に献上すべく作り上げた賭命の彫刻の、今まさに磨き上げられたばかりのようだ。彼女の強い魅力に思考すら手放した遊星が最初に行ったのは、彼女の身体を持ち上げて、強く抱きしめることだった。

「どうしたんだよ」

 くすぐったそうに笑いながら、十代は抱き返してくれる。それは遊星に過ぎ去った幸福な日々を連想させたが、それすらもう問題ではなかった、柔らかい身体を抱くと、まるでふわふわの羽毛を何枚も重ねた上を歩いているみたいに、おぼつかない心地になった。あつくるしいぜ、と、十代は軽く抵抗したが、本気で抜け出そうとはしていないみたいだった。

「おはようございます」

「うん、おはよ」

「よく眠れましたか?」

「きみの腕が枕にしてはものすごくかたいこと以外は、快適だったぜ」

「そうですか、それは、すみません」

「電話したんだろ?」

「……はい」

 昨日遊星が無断でヨハン・アンデルセンの電話番号にコールしたことについて言っているのだということはあきらかだった、彼女はちゃんと気づいていたのだ。

「で、欲しい情報は手に入ったか?」

「いえ、ただあなたの娘と名乗る女性につながっただけでした」

「その子はアンナ。ヨハンの娘だ」

「ヨハン、さんは、ご結婚されていたんですか?」

「里子だよ」

 アンナという固有名詞は十代の顔をさみしく、醜くした。睡眠不足にもかかわらずきのうとは比べ物にならないくらい十代の前でリラックスできるようになったのは、応対に慣れたわけではなく、彼女が抱えているさみしさに気づいたからだ。ほかの人間にも共通にあるものをその人が持っていることがわかれば、安心できて、それがリラックスにつながる。

「アンナとは来た時からそりが合わなかった。オレはヨハンが取られた気がして悔しくて、アンナはやっとできた父親にいかがわしい愛人がいることが許せなかったんだ。それでもママと呼んでくれてうれしかった。この国にも何度も三人で来たし、分かり合えると思うときもあった、手をつなげばつなぎ返してくれた、そういう関係だったんだ。でもヨハンが死んで、オレたちには何のかかわりもなくなって結局絶縁した、ただヨハンとの思い出の家は正式な相続人のあいつに引き渡されてもう二度と入れない、アンナは最近結婚したみたいで自分の父親の愛人を夫に紹介することを怖がっている、違うんだ、ちゃんとおまえの父親を愛してる、おまえのことも愛してるよ、って伝えたかったけどおれたちには時間がなかった。ヨハンが死に急ぎすぎたんだいまだってちゃんと伝えたい。でもオレはもうヨハンのことしか覚えていない、あいつのことしかみていなくて、あいつの、笑顔と錯乱、それだけだ、それだけしかオレにはない」

「きちんとはなせば、わかってもらえるときがきますよ」

「いいんだ」彼女は音もなく息をつめた。そこにあるのは、海外で暮らす日本人の女の顔によくある、独特の寂しさだった。「わかってる」

「なあ、遊星」

「なんですか」

「オレは今年で六〇になる」

 十代は遊星の驚く顔をまじかに見ながらそう言った。十代の顔は、きのうとは少し変わっていた、その変化は何かを覚悟したような目つきであったり、固く引き結ばれた唇であったりした。

「四か月前は五十九だった。その一年前は五十八だ。オレはきみが思うほどきれいな人間じゃないんだ。ほんとうはこうして抱かれる権利もない、やさしいきみの腕の中で眠ってそういうことがわかったよ、きみは、ヨハンじゃない、それなのにオレが覚えているヨハンのふりをする、オレはもういい年したおばさんなのに、むかしの出来事から逃れられずにずっと、ずっとだ、出会った時からずっとお前に甘えている、こんなオレを軽蔑するだろう、してくれていいんだぜ」

「十代さん」

「きみの腕がオレをとらえて、抱きしめられたとき、オレはオルガズムの絶頂にいながらヨハンのことを考えていた、オレを置いていったヨハンのことを考えていた、ヨハンだけじゃない、友達も先生も知り合いも、いずれオレを置いていく、きみもだよ、遊星、きみもきっとそうなるさ、理由はもう覚えちゃいない、大事な出来事、人生の転機になるような大事な出来事だったはずなのに覚えていないのはきっと脳が覚えていたくないからなんだって思ってる、よっぽど怖い出来事だったんだ、ただずっとこのままなんだって告白した時のヨハンの顔は覚えてるよ、

 ええ、じゃあ十代、死ねないのか、

 そういうことになるみたいだ、

 エクスタシーをいっぱいやってもそれはだめってことなのか、

 ごめん、ヨハン、

 まったくだぜ、俺を一人にするつもりか?

でも結局オレが一人になったよ、ヨハンは、ヨハンは生きていたころには手に入れられなかった美しさを得て、オレのところを離れていった、オレはヨハンの不在を受け入れられない、だからきみに、ごめん、遊星、ごめんな」

 十代はうなだれて、もう一度、ごめん、と言った。彼女の美しい唇と目許は涙ではない何かで濡れて光っていた。

「へんなんだ、遊星、オレはきみに、なにをしてほしいのかわからなくなってる、ヨハンとしてそばにいてほしいのか世話をしてほしいのか、それともただ単に不動遊星としてそばにいてほしいのか、わからない、でも少なくとも昨日は悪い気分じゃなかった。むしろ幸せだったと思う」

 十代は指を組み、ひざの上でぎゅっと結んだ。骨ばって皮膚の薄さがわかるのは、十代が痩せているからだ。強くやりすぎて爪が食い込む白い手の甲が赤色ばんでくるので、遊星はそのうえに自らの手のひらを重ね、細くたよりない肩を自分のほうへ優しく引き寄せた。至近距離で目が合い、十代の瞳の中に、遊星が映っているのがみえ、それは遊星に歓喜と激情をもたらした。顎を救い、見つめあう、十代は表情を変えないまま浅い呼吸を繰り返していたが、まるで人形が傾けられて目を閉じるときのようなしぐさで、その睫をそっと頬へ向けた。遊星の指が薄く色気づいた肉を行き来する、そして薄く開いた唇へ、やさしくキスをした。

 そして長い沈黙が二人に訪れた。二人はまるで愛し合う恋人同士のように、事実愛し合っているのだと遊星は思った、何度も何度も触れては離れ、互いの存在が、同じ世界に存在しているということを確かめた。彼女のうるんだ瞳の表面から下瞼へにじむように涙が伝い、それは裸の胸の上をしっとりと濡らした。

「今、はっきり聞きますが、俺のことは必要ないんですか、もしあなたが必要ないと思っているのなら、今、言ってください、俺は帰ります」

 距離を取ってすぐ、まだぼんやりと、うっとりと遊星の顔を見る女の肩をつかんで、そのように言った、彼女は、遊星をしばらく眺めて、やさしく微笑み、悲しそうに首を振った。その間、海からの風でブロンドに近い茶髪が揺れ、顔を覆っていた濃い影がまるで生き物のように動いた。最高のライティング効果を持った魅力的なしぐさだったが、遊星は冷静さを保った。女優は、誰かを演じるときだけ、女優としての力を発揮するのだ。

「そんなことない」

「ならそれだけでいいんですよ、どうかあなたのお役に立たせてください、十代さん、年が何ですか、たとえあなたがなんであろうと、俺には関係ない。あなたを愛しているのだから」

「でも」

「だから他人なんて悲しいこと言わないでください」

 手の甲にキスをしながら遊星がそう懇願すると、十代は、まだ引きずってんのかよ、と笑う。

「わかったよ」

 そう十代は言った。

「きみにアテンドを頼もうと思う」


 朝食のあと、散歩に誘う十代をビーチに残して遊星が部屋に戻ったのは、アンナ・アンデルセンに再び電話をかけるためだった。それは彼女にアテンドを任された身としての責任感からかもしれないし、はたまた一人の男として、愛する女を守ってやりたいという身勝手欲望からかもしれなかったが、とにかく遊星は十代に部屋へ戻る旨を伝え、黒のロングワンピースを着て鍔の広い帽子をかぶった魅力的な彼女をビーチに残して、鍵を借り受け、こうしてひとり固定電話の前に立っている。

 電話は特に何も変わったところはなかったが、用紙排出口から、まあたらしいファクシミリ用紙が出ているのを発見した。とりあげるとそれはまだ排出されたばかりのようで、文字の上を指でなぞると、黒いインクがかすれた尾を引いた。

 

 十代へ、

 手紙を読んだ、

 馬鹿なことを言うんだな、

 愛が不滅だとか、そんなこと誰が教えたんだ、

 不滅なものは偽物だ、 

 不滅なものなど、どこにもないんだ、

 これは、一時期を共に生きた男からの最後のサジェッション、最後の愛情の一滴だと思ってくれ、

 甘えてはいけない、

 十代、

 自分自身なんかどこにもいないんだよ、

 いるのは、仕事とともにある自分、他人の隣にいる自分、誰かに抱かれている自分、関係性の中でおびえ、ある一瞬歓喜に震える自分だけだ、

 無人島に行ってごらん、

 思い出にふけるときと、救助されるであろう未来を考えるとき以外は、自分なんかどこにもいないことに気づくだろう、

 俺とまだ一緒にいたい?

 ふざけたことを言うんじゃない、

 十代、言ったじゃないか、

 俺はそこにいる、

 お前が見つめる先に、俺はずっとずっといたじゃないか、

 俺の不在を受け入れろ、

 おまえがなにを思おうが、だれといようが、俺はずっとお前のそばにいるよ、

                           ヨハン・アンデルセン、

 

 日付は約一年前で、手紙の最後には自立を促すアンナの付記があった。ヨハンは死ぬ前に自分の行く先を悟り、十代に手紙を書いたが、今まで届かずにアンナの手元にあったのだ、

 俺の不在を受け入れろ、

 遊星はヨハンの返信を読んでわけのわからない嫉妬を覚えた。ヨハンと十代の関係が濃密で、それが実質の支配と被支配に貫かれているからではない。積極的にお互いの不在を受け入れようとしてそれを果たせないでいるからでもない。遊星は、アメリカ西海岸、メキシコを経て音楽に対する考え方が変わった。L・Aであるラップグループの写真を撮っていた。ダウンタウンの黒人ゲットーで人気のあった破滅的で破壊的なラップでメンバーは全員二十代の初めだったが、遊星が写真を撮り始めてから半年後に三人がエイズを発症し一ヶ月の間に三人とも死んだ。L・Aで最も過激だと評判だったそのグループは三人のメンバーを失って当然消滅してしまい、残りの二人もその三か月後に死んだ、エイズではなく、スーパーマーケットに強盗に入って自警団に撃たれたのだった。彼らは、音楽におけるメロディを憎んでいた。ラップやハウスは大体機械的なビートや騒音に近い電子音がそのサウンドの大部分を占めている。メロディは干渉を発生させる装置であり、基本的には旧世界とそれに属する有産階級と最下層民のものだとラップやハウスのミュージシャンは知っているのだ、遊星はその態度を潔いと思ったが、ずっと聞き続けるのは苦痛だったし、何より日本人の彼とは相いれないコンセプトだった。キューバの音楽は違った。キューバには信じられない種類の音楽があり、それらは分断されていない、一部のくだらないメッセージソングを除けば、キューバの音楽は凶暴なビートに支えられている、そしてそれは、永遠に終わらないものとして演奏される。アレグロ。アンダンテ、アレグロ――またはアレグロ、アダージョ、アンダンテ・カンタービレというような旧世界の音楽の物語性から最も遠いビートだ、キューバのビートにはまってしまってから遊星はその原型とされるナイジェリア・ヨルドのパーカッションも聞いた。明らかな違いはキューバのほうが複雑でしかも厳密だということだ、今もその生まれた土地に住むものよりも、古郷や土地から切り離されたもののほうが強くビートを求める、すべてのシンコペーションを明らかにして、ピンポイントでそれを際立たさねばならないのだ。もちろんキューバにもメロディはある、ヨハンと十代の関係性は、キューバ音楽におけるメロディに似ている、感情の奴隷にも奴隷の感情にもならない、ただ複数のビートを連絡させるものとして、ある。だからそれは常にシンプルだ。ヨハンの手紙は、的確でシンプルだった。非常に残酷な感じもした。これは最後のサジェッションだ、最後の愛情の一滴だ、ヨハンはそう書いていた。最後、愛情、一滴、ふつうそんな言葉が三つも出てきたら人はみんな笑ってしまう、しかしヨハンの言葉は誠実で、嘘がない、ヨハンのサジェッションは不在を受け入れろということだった、遊星はこの手紙を、十代に渡すわけにはいかないと思った。

 帰ってこないでね、

 アンナの言葉は乱雑に締めくくられている、

 十代の帰る場所にはそこにはない、と遊星は声に出して言った。なぜなら今日から遊星が彼女の帰る場所だからだ。


































 オープン・ヒップ・ツイスト、 ホッキー ・ティック 、 オープン・ベーシック 、チャチャチャのステップは、十代の細い身体によくにあった。チャチャチャというのはマンボを源流とするキューバのダンスで、マンボよりもスローだ、そのために美しく軽快なステップが踏める。十代はそのすべらかな背中をしならせて、木の実をむしろうとする白鳥のように、アレマーナステップを踏んだ。そのまま二人輪になってくるくると回る。

 ヴァラデロの広場で歓声が沸いた。十代は肩で息をしながら、観客の白人からドミニカ産の甘くて強いリキュールをもらい、一息に喉に流し込んだ。キューバの、伝統的なダンスを踊るアジア人の美しい女、それだけで十代は、この真昼の広場で注目を浴びた。

 白く張りのある、病的なほど美しい肌は、熱帯のギラギラとした太陽にさらされ焼かれても汗ひとつかいていない。長く肉感のある手足はミニのブラックドレスからすらりと伸び、切れ長で大きな目許はすずしげだ。遊星は彼女を眺め、微笑んだ、遊星は彼女のことを愛していたし、おそらく、彼女も遊星のことを愛してくれていた。

「遊星!」

 白人のところから戻ってきた十代が、遊星の首に抱き着き、キスをする。

「十代さん」

「へへ、遊星、おつかれさま。一杯どうだ?」

「ありがとうございます」

 遊星がグラスを受け取ると、十代は表情をうれしそうなものに変え、乾杯、と言って自分のグラスをぶつけた。 

「今日も絶好調でしたね」

「きみのおかげだよ。オレはここのダンスなんか知らなかった、きみが教えてくれなきゃ、遊星……」

 また、キスをする、そうすると町の喧騒や人々の歓声すら遠くなって、意識のかなたへ消えていく。二人は見つめ合い、なんどかふれあいを重ねて、五回目のキスのあとに遊星は十代に言った。

「車に、戻りましょうか」


「服を脱いでください」

 遊星はダッシュボードにもたれかかったまま、そういうふうに命令をした、よく見えるようにひじをついて顎を載せ、十代を見つめる。彼女は恥ずかしそうに睫を伏せ、ちらっと自分を見つめる男に視線をよこし、またためらいがちにうつむいてから、ようやく、スカートの裾に手をかけた。

 まず、ドレスの留め金を外す。いつものように甘えて、はずして、なんて言っても恋人が許さないことを十代は知っている、長い腕を伸ばしてとはずしていく、ひとつ、ふたつ、三つ目で、彼女は手惑った。否、そういう演技をしているのだと遊星にはわかっていた、金属のホックに彼女の赤く塗られた長い爪が引っ掛かり、はずれない、というふりをする。遊星は半分まで露出した、下着をつけていない彼女の乳房を視姦する。白魚の腹を思わせる、美しくすべらかな乳房だ。いまはまだ厚い生地に覆われているかわいらしい乳頭のことを想った。

「えっち」

 彼女が笑う。また、キスをする。五つ目まで外すと、彼女は窮屈そうに体を折り曲げながら、それは無理やり狭い虫かごに入れられたオオムラサキが、うまくもがこうとする姿勢によくにていた、ドレスを脱ぎ捨て、ショーツだけになった。遊星のメルセデスは裏通りに停められていたが、いつ人が通るかわからない状況に彼女は興奮していた。

「はやく」

 熱っぽく息を吐きながら、言う、

「堪え性のないかたですね」

「だって遊星が」

「俺が何ですか」

「いじわる……」

 いじらしく身体を縮こませ、十代は乞う、自分を昂らせ、どうにかしてしまう男の手をだ、遊星は唇ばかりに笑みを載せながら、その細っぽいがりがりの身体に触れた。こうして情を交わすことは初めてではなかったが、いつまでも彼女はうぶだったし、遊星は彼女をまるで触れるだけで割れてしまいそうな露玉のように扱った。

 十代は自分からショーツを脱いで見せた。

「足を開いてください」

 恥じらいながら膝を割る。

「違います、こうです、そうしないとよく見えないでしょう」

「はずかしい」

 薄桃色の肉を割り開き、傷付けぬようやさしく指を行き来させると、彼女は身を捩らせて抵抗するそぶりを見せた。座席シートの、頭をささえる部分を抱きしめ、必死に声を殺している。

 はじめのうち、まるで砂に埋れて久しい二枚貝のように奥ゆかしくぴたりと閉じられていたその入り口は、微弱な快感に少しずつ貪欲になっていく。ざらついた指の腹が触れるたびにかすかに震え、かわいらしいうぶな色の花弁を開き、いまや欲しい欲しいと口を開けて涎を垂らしていた。緩みきった空洞に骨張って太い指を突き入れると、色のない分泌液が音を立てて泡立ちなんとも卑猥である。彼女が細い腰を揺らめかせ、口先では否定の言葉をつらなせながらも、時折甘くじっとりと湿った吐息を漏らすのに遊星は得もいわれぬ心地を覚える。左指を右指のすぐ上に添える。

 先ほどから爪の先ほども触れられず待ちきれなくなってしまった花芯は、すこし擦っただけで過剰なほどに反応を示した。とろりと溢れ出る濁った愛液、魚のように跳ねるしなやかな身体。遅れて、押し殺しきれなかった絶叫が夜半の空気に漣を起こし、冷静だった遊星の脳髄を熱くぐずぐずに侵した。「だめ」たおやかで繊細な指先が、遊星の手の甲に添えられる。細やかに震えている。「だめ、これ以上されたら、もう」

 はじめてでもないくせに、彼女はこういったことにいまだ慣れぬといった様子を度々見せた。そしてその無力な抵抗を力でねじ伏せ、優しい言葉で恐怖を取り払ってやり、結果的に流してしまうのに遊星は仄暗い優越感を覚えるのだった。大丈夫ですよ、彼女を怖がらせないための言葉をひととおり覚えた嘘つきな唇がもっともらしく言う。

「俺は、ここにいます」

 とがった先に口付けると、絶叫は音を失った。掠れた空気の出ていく気の抜けた呼吸音ばかり断続的に響いた。熟れた芯を嬲り、食み、歯先で擦り合わせるように甘噛みする。彼女は泣いていた。汗と涙とで美しいかんばせをどろどろに汚し、余裕のある平生の彼女を完全に失って、そこにあるのはただ一人の男の愛を待ち望む一匹の雌の姿だった。

「ぁ、ゃ、」

「十代さん……」

「ゆ、せ、ゆうせ、ゆうせ……」

 花蜜を舌先で舐りながら、なんとか探り当てた指先に、神聖な契りでも交わすかのようにていねいに触れ、撫で、そっと握る。すべらかな薄い肌はひやりと冷たく、それでいて伏流する血潮の気配を漂わせ、かすかに汗ばんでいた。彼女は気の抜けたような喉声を出し、赤ん坊が乳をねだるみたいな調子で無邪気に遊星の掌を握り返してくる。指の間の付け根のあたりを擦り合わせ、強く引き寄せては離れ、先の細くなったあたりをしつこく摘んでは、また情熱的に握り合う。遊星の、日常的に金属を握り硬くざらついた手首から指先までが皮膚を行き来するだけで、感じやすい彼女は官能の存在を強く覚えるらしかった。吐く息が熱い。手ばかりが先に愉しんでいるかのようだ。

「駄目だ……」

 彼女の股座から離れると、期待と不安とで飴玉さながらの艶を帯び、微光をすべらせ淡くかがやく二つの眼が、そろって遊星の方を窺った。

「すみません、俺も、余裕がなくて」

 薄く椿色を乗せた皮膚に、愛を。繋がったままだった手にはより強く結びつきを求めさせ、呼吸すらままならなくなってきた彼女の脣に噛みつく。重ねられた肉びらの隙間から熟しきった喘ぎが溢れ出していく。シートへ押し付けた肩がたよりなく震えるのが、どうしようもなくいじらしく、かわいかった。

「はやく、はやく、遊星」

「……」

「あァ!」

 十代を抱き上げ、運転席に座る自分の男性器にはまるように、その身体を引き下ろす、ちょうど路肩を通りかかったスパニッシュの男に痴態を目撃されてそれだけで十代は絶頂した、十代を犯しながら遊星はいままで関係を持ってきた女のことを思い出していた、そうしてダッシュボードに入れてあったクリスタルの袋を歯で乱暴に開け、十代に吸わせ自分も吸い、身体に回るエクスタシーに浸りながら、これ以上の女はかつて今までいなかった、と思った。まず美しかった。十代は美しく、けなげで、すこしだけおかしいところがあったが、それもよしと肯定できるほどに女としての器量に富んでいた。

 子宮口を押し上げると、とろけるような声を上げて身体を折り曲げ、快感を逃そうとする。だめです、と腹を持ち上げると、暴れながら抵抗した。完全に我を失っている。遊星はそんな痴態にほくそえみ、彼女の膝裏を持ち上げて、桃色の膣口を指で押し広げて彼女に見せた。「どうです?」

 いじわるっぽく問いかける。

「ほしくてほしくてたまらないって顔していらっしゃいますね、もうじゅうぶんさしあげてるというのに、十代さんは欲しがりだから」

「やァ……遊星、や、」

「どうしてほしいんですか?」

「う……」

「どうしてほしいんですか?」

「は、はやく、出して、出して、遊星、出して、おねがい」

「はい」

 腰を上下にグラインドさせて壁を叩くと十代は美しい旧市街に響くほどの大声を出して泣いた、

「遊星の赤ちゃん、赤ちゃんほしい、あう、あ、あ」

 それはここ数日で、何度も聞いた言葉だった。

 彼女は最近、ことあるごとに遊星との子供を欲しがっている、大きな絶頂が近づくと、我を失ったように叫ぶのだ。

「ゆうせ、はやく、はやく、はやく」

「……、わかってますよ」

「あァ――、いく、いく、い、ぐぅ、あ、赤ちゃんほしい、遊星、ゆうせい!」

 十代を強く腕に抱いたまま、遊星は意識を失った。


「どう思ってんの?」

部屋を取っているホテルへと車を走らせる遊星の横顔に、神妙そうな声で十代が問いかけた、美しい彼女はまだ裸だった。何がですか、と遊星は答える。

「いや、オレ赤ちゃん欲しいんだけど」

「それはまた唐突な申し出ですね……」

「いつもおねがいしてるじゃん」

「それもそうですね。しかしどうして今?」

「うん、遊星、どう思うかなって」

「俺は、別に」

「ヨハンは、そういうのすごく嫌がったんだ。子ども? 俺はいやだよ、そういうの、ってさ、どうしてなのかはいまだによくわからない、ヨハンの言うことにオレは逆らえないから、そんなことはいまやもうどうでもいいんだけどさ、ただヨハンは養子を取るほどオレに子供を産ませることが嫌だったみたいだ、それでずいぶんと苦しい思いをしたのはきみも知ってるだろ、だからオレはセックスのあといつもヨハンのがこぼれないように横になってみた、いろいろと迷信を信じてキャベツを食べたりもしたんだけど結局特に何も起こらなくて今オレに子どもはいない、どうしてだか、わかるか? わかるわけないな、何故ならオレにもわからないんだからさ」

 ホテルについて、部屋に帰ってからも十代はしゃべり続けた、

「どうして、できてくれないんだろう、一度でいいから自分の子供をこの腕に抱いてみたかった、ミルクを上げて、ママだよって呼び掛けてみたいと思っていた、でも子供はできないしヨハンは言うんだ、

 子ども? 何言ってるんだよ、

 でも、ヨハン、

 俺はおまえがいれば十分だよ、

 そうだよな、ありがとう、ヨハン、

いつもそうだ、いつもそうしてヨハンは話を終わらせてしまう、ヨハンは、ずるい、そういえばオレがあきらめることをよくわかっていた、ヨハンをすきなオレを知っていた、ヨハンのことを好きなのはいつものことだったけど、その時ばかりは、いや、その時も好きだった、大好きだったよ、今も好きだ、ヨハン」

 十代がヨハンの台詞をしゃべるとき、幼児番組の女性司会が鬼とかサルとかお爺さんの声の吹き替えをするときのように、わざとらしくデフォルメしてしゃべるので、最初吹き出しそうになり、そのあとで奇妙な心持に陥った。十代の帽子を受け取り、移動するために上に着せていたジャケットを受け取って、遊星は彼女にキスをした。しかし彼女は話すのをやめない。

「なあ十代、十代、俺と一緒にいるのが不満ならそういえよ、いいか、ものごとってやつはな、はっきりいわないとつたわらないんだよ、思ってるだけじゃ伝わらないんだ、はっきり言えよ、そしたらもう別れるよ、オレはあいつが喜んでいるところを見るのが好きだったんだ、だから首を振って、そんなことない、ただ可能性の話をしていただけなんだ、そう言った、言葉にすればそれは本当にように感じられてきてたしかにヨハンといる間それは本当だった、オレはただヨハンといればそれでよくて赤ちゃんが欲しいだなんてそれ以降思いもしなくなった、たまに通りがかった家族を見て切なくなるだけだった、遊星はどう思う? オレが赤ちゃんが欲しいと言ったら嫌がるか? そうだとしてもオレはきっとお前に従うよ、なぜなら、きみはオレの、」

 遊星はフルーツのかごからマンゴーを取って裸でベランダの椅子に座る彼女のためにナイフで皮をむいた。マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれていやな音を立てた。ビーチでは大勢のツーリストが日光浴を楽しんでいる、海で泳ぐもの、飲み物や土産物を売るキューバ人、バレーボールやフリスビーを楽しむ旅行客、白い波が寄せては砕ける音がここまで響いてくるが、十代の話を聞いていると、それらはまるでシンセサイザで作った合成音のように聞こえてしまう。遊星はマンゴーを無心になって剥いた、マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた。遊星の手は果汁でべとついてマンゴーも滑った、そのあいだも十代の告白は続く、

「オレの大事な、」

 マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた、

「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」

 十代は言う。

「あなたの、なんですか」

「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」

「俺はあなたのことを愛しているんだ」

「オレもだよ」

 本当だろうか?

「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」

 マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた、

「もう一回しよう」十代の柔らかな胸が、狭い視界を覆う。


 忘れたわけではなかったが、久々に電話した幼馴染の声は、あんなに恋い焦がれていたのが嘘のように褪せて聞こえた。

「遊星、あなた騙されてるのよ」彼女は言った。

「切ってもいいか?」

「待って、まだ切らないで、あのね遊星、わたしはあなたのことを心配していっているのよ、きっとそれ結婚詐欺か何かよ、いい、あなたとよりを戻そうなんて思ってないし、判断を後悔したことなんかないけど、そんな馬のいい話なんかないって思うの」

「十代さんを悪く言うな」

「だから、遊星、あなたどこかおかしいわ」

 彼女は理性的で知的な女性だった、遊星の、少しひねった話も飽きずに聞いてくれる、数少ない知り合いだった。だからこそ、残念だ、と遊星は思った。十代さんの魅力がわからないのか。

「先ほども言ったが、十代さんは、そんないかがわしい存在ではない、この世にあって俺が見つけた天使なんだ、あれ以上の女性には終生出会えないだろうと思わせるほど素敵な女性なんだ、すごくやさしくて、いつも俺のそばにいてくれて、愛しているんだ」

「遊星……」

「アキ、まだ何か言いたいことがあるのか」

「いいえ、遊星、告白するわ、私あなたのことがまだ好きだったの、あなたと別れたこと今でも後悔してる、あなたと別れてからあなたがやさしくしてくれたこととかかけてくれた言葉とか思い出してむなしくなったわ、どうして振っちゃったんだろうって、ごめんなさい遊星、だから帰ってきて、もう一度やり直してほしいの、あなたがそのジュウダイさんをすきならもうそれでもいいわ、ただ私をもういちど女として見て、遊星、遊星?」


 気づくと遊星は眠っていて目を覚ますと夜になっていた。彼は寝返りを打ち眠る十代を眺め、そのうつくしいまぶたやベッドサイドの明かりに照らされてぼんやりと光を戴く鼻頭などを見た。洗いざらされたようなむだのないシルエットを描くうなじから耳裏にかけて、遊星が色濃く濃厚に愛した証拠が残っていた。シーツは彼女の腹までをしか隠していない。何もかもに取り残された孤独で美しいからだ、その乳房が遊星の前に露出されている。音をつけてしゃぶりつくと彼女はいつも首を振ってよがる。しかし今はどうしてかそんな気分になれなかった。彼女は無防備に、遊星のわきのあたりに頭を載せて安らかに呼吸を繰り返していた。

 遊星は彼女の栗色の髪を小さな頭にそっとなでつけた。ずっと、こうして眠るのが夢だった。彼女は用心深かった。近くで見ていると、彼女は男を魅了し甘く誘いながら、どこかで愚かな生き物を眺めるようにつめたく見下している感じがした、つけた仮面の奥で常に人をうかがっているようだった。しかもそうと気づかせずに万物を欺く演技ができるのだ。出会ってから数日は、彼女は遊星と共寝をするときに寝顔を見せたりなんかしなかった。いつも起きるのは彼女が先で、シャワーを浴びたての素肌で遊星を誘惑した。しかし、今、彼女は遊星の腕の中で安らかに眠っている、子供のようにあどけない表情で、起きているときのふるまい、たとえばヨハンについて語る唇や貪欲に遊星を受け入れる子宮など、そういうものを感じさせない、ミルクを飲んで満足した赤ん坊の顔をして眠っていた。やっとこんな日々がやってきたと遊星は思った。彼女の帰る場所が自分であるように、自分の帰る場所もまた彼女なのではないかと、そういう風に考えられるようになったのだ。

「ん……、遊星?」

 頭をなでられて気持ちよさそうに目を細めながら、彼女は遊星をぼんやりと見つめた。遊星は彼女のすべらかな手の甲にキスをし、自分でも驚くほどやさしい声で彼女に挨拶をした。

「おはようございます」

「ゆうせ……今何時?」

「二三時です。十代さん、飲みに行きませんか?」

 七年物のラムをストレートで二杯立て続けに飲んだ。喉と胃が気持ちよく熱くなったが全然酔えない。バーは吹き抜けになったロビーフロアの一番奥まった場所にある。夜のヴァラデロビーチから冷えて乾燥した風が吹いてくる。

 フロアには二人と黒人のバーテンダー以外に誰もおらず、奇妙に静まり返っている。遊星はそっと十代の横顔を盗み見た。小ぶりな真珠を二つ耳たぶの上に着け、足首まである黒のドレスを身に纏うと、昼間のかわいらしく淫乱な彼女の姿は鳴りを潜め、遊星の心底ほれ込んだ、美しく気高い、しかしどこか破綻を見せる女優の姿が浮かび上がってくるようだった。カウンターの天井に取り付けられた淡いオレンジの照明が彼女の長い睫を照らしている。十代はけなげにも遊星に注文を頼み、彼はドライマティーニをロックで割ったものを彼女のために用意させた。強い酒を飲み、彼女はすぐに遊星を求めた。

 チェックインカウンターのすぐ横にある手洗いに入って、よく掃除のされた個室の、マリンブルーのタイル壁に彼女の肩を押し付けた。冷えた石の感触に十代はひくりと息をのみ、しかしそれも一瞬で、すぐにドレスの裾を太ももまで引き上げて遊星の官能を誘った。

「ヨハンがな」

 遊星が乳房に触れるのを受け入れながら、彼女は耳元に語り掛けてきた。

「オレをトイレで抱くとき、いつも、オレに口ですることを要求した、オレがじゃないぞ、あいつがしたがって、オレはその要求を受け入れた、オレはヨハンの顔は見れないのにただ気持ちいいだけで終わるからそういうのは好きじゃなかったんだけど、ヨハンが喜ぶからいいやと思った、きみがするいつものじゃなくて、ずっと、それだけでおわるんだ、オレは嫌がって途中から泣いちまうんだよ、だってヨハンの顔が見たいんだ、でもヨハンは許してくれなくて、そのうち気持ちよくてオレはもっと大声で泣く……」

 遊星がかがんで彼女の性器を愛撫すると、彼女はいつもより少しばかり高い声で泣いた。

 彼女を先に部屋に返し、遊星だけが残ってさっきのラムの残りを飲んでいると、笑いながらバーテンダーが話しかけてきた。彼は、あの女は恋人なのか、と聞いてきた。

「それが何か?」

「悪かったな、見るつもりはなかったんだ、ただ気になってな、あれは誰なんだ?」

「女優だよ」

 とびきりのな。スペイン語をしゃべっただけで遊星はほっとした。そのバーテンダーと会話するだけで、なにかどろどろした重いものが身体から出ていくような感じがした。言葉には大変な力がある。女優は言葉で遊星に魔法をかけたのだ。

 遊星はかいつまんで彼女の話をした。美しい人だが、美しすぎて、どこか変にも思えるんだ。元恋人と話をしてから遊星の心の中にはどこか不快な違和感が残っていた。

「キューバ人か?」

「日本人だ」

「あんたのことは見たことがある、このあたりに住んでいるんだろう」

「そうだ、俺は学生だ、ここには留学に来ている」

「なぜあの女をカルドーソのところに連れて行かないんだい」

「カルドーソとは誰なんだ?」

「占い師だ、チャンゴーと話ができる」

 チャンゴーというのはアフロの神の中の一人だ。

「カルドーソは物事をはっきりさせるんだ、その人間が本当は何者なのかはっきりさせる、カルドーソはチャンゴーの力を借りて、その人間があるべき姿を示す、それ以外にはその人にはありえないという姿を見せてくれる」

 その女は女優なんだが女優でも大丈夫だろうか、と遊星は聞いた。

「その女が本当は何者なのかわかるよ」

 バーテンダーはそういって何度もうなずいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チャンゴーというのは雷の神だ。サンテリア、つまりキューバンウードゥーは個人あるいは集団の信仰であり、同時に、より一般化されて芸能としても残っている。

「どのくらい、かかるのか」

 と遊星はバーテンダーに聞いた。

「おまえたちの場合、外国人だから、当然ドルで払うことになる、この前スペイン人が千ドル払ったと聞いたな、女優なんだから、そのくらいの金は持っているだろう」

「あんたはカルドーソに診てもらったことがあるのか」

「冗談を言わないでくれよ、俺みたいなバーテンのどこに金があるっていうんだ」

「それは、すまなかったな」

「おまえもついでにカルドーソに診てもらえばいいじゃないか」

 バーテンダーが、四敗目のラムを遊星のグラスに注ぎながら言う。

「千ドル払えば、きっとおまえのことも診てくれると思うよ」

 カルドーソというシャーマンは何も未来を占うわけではなく、その人が本来何者であるかを示すのだという。遊星のスペイン語ではその詳しい意味が分からない。

「それは、職業なのか」

 そう遊星は聞いた。あなたは女優には向いていない、例えばそういうことを言われるのだろうか。

「職業のことを言う場合もあるが、それだけではない、俺は人の話を聞いただけなので詳しいことは知らないが、俺たちは、一つの肉と一つの精神ですべての人生を生きているわけではない、その中のどれが本当の自分なのか、カルドーソは教えてくれる」

「例えば人殺しの俺がいて、カルドーソがそれを本当の俺だと言ったら、どうすればいいんだ」

 遊星がそう言うと、おまえは怖がっているんだなと、バーテンダーは笑った。もし俺だったら、とバーテンダーはカウンターから身をのりだし遊星の耳元にささやいた。

「もし俺だったら、何事もはっきりさせたほうがいいと思うね、カルドーソに限らず、ほかのシャーマンに関しても、いいことばかり言うわけではない、聞いた話だが、カルドーソに診てもらった人間の中には自分の命日を教えてもらったやつもいるそうだ、どんな方法で聞いたのかはしらないが、俺はそれでもいいと思うけどね、物事ははっきりしたほうがいい」

 遊星はそのバーテンダーに五ドルのチップをやって、カルドーソというシャーマンの住所を聞いた。カルドーソはハバナの旧市街に住んでいた。

 部屋に戻ると、十代はすでに眠っていた。遊星のジャケットを握りしめていたので、その背中を抱きすくめるようにして遊星も眠った。

 

 エアコンの壊れたメルセデスの窓を開けると、生温い風が吹き込んでくる。ヴァラデロからハバナまでの道は、ハイウェイという名称がついているが、路面から一瞬も目が離せない。あちこちでコンクリートに亀裂が入り、舗装が割け、大小の穴が無数にある。中央分離帯もないし、路肩も大きく崩れている箇所がある。だが景色は悪くない。ハイウェイの両側には延々と遥か彼方までサトウキビ畑が広がり、農民がマチェーテと呼ばれる半月型の鎌を持って悠然と馬を進め、いたるところで牛やヤギが草を食んでいる。

 遊星はそのようすを横目で眺めてため息をついた。喜びからのため息だ。

「あのさ」

 ハバナに行こうと思うんですがどうですか、今朝、そういう風に切り出した遊星の弁解を、声を上げることで十代は阻んだ。

「どうしたんですか」

「赤ちゃんができたんだけど」彼女は言いにくそうに首を曲げ、遊星の手を握ってつぶやく。

 遊星が何か言おうとする前に、十代は矢継ぎ早に言葉を並べてみせた。

「その、けさ、遊星がトイレに行っている間、どうしても気分が悪くてベッドから出られなくて。最初は病気だと思ったんだけど、なんだか体験したことのない気持ち悪さでさ、胃がひっくり返って本当のオレが中に入っていってしまうみたいな、そういうきもちわるさだったんだ。で、もしかしてって思って確認してみたら、できてて、あの、遊星がそこまでやるきじゃなかったってことはわかってるんだ、きみ、すごく生真面目だろう、拒絶されたらどうしようって思って、それで言えずにいたんだけど、俺ばっかり一人でうれしくて、その」

 冗談だろうか?しかし十代の表情は真剣で、その目じりにはかすかに涙がにじんでいた。「きみとオレの子だよ」

 彼女は遊星を見た。下瞼は赤く色づき、この予想もしなかった喜びに上気してふわりと優しい温度を呈していた。

「ほんとうに?」

「オレがきみに嘘を言うとでも?」

 白い手を取って、その温度を確かめる、丸みを帯びた細い腰は触れても何の変化もないようで、しかし、その手のひらにめぐる血潮の中には確かに遊星の遺伝子が入りこんでいて、彼女の薄い腹の中に、実るものを実らせた、という。

 抱きしめてみると、彼女は珍しく嫌がった。赤ちゃん、つぶれちゃうから、と抵抗する。

「十代さん」

「遊星……」

「十代さん!」

 朝の陽ざしが差してきて光芒を作るなかに二人は立って、しばらく抱きしめあっていた。

 十代がほほえんだ。そして、遊星の首のあたりに頭を載せ、深く息を吐いた。それはまるで人間が安心した時にやる呼吸だった。

「うれしいです」

「本当に?」

「はい。あなたと、俺の子ですか、実感がわくとなんだかうれしくなるものですね。よかった。あなたの願いをかなえることができてよかったです」

「遊星!」

 大好き、と叫んで、十代は遊星の肩を突き飛ばしベッドへと雪崩こんだ。

 目が痛くなるような青い空を雲が非常な速さで流れている。風はサトウキビやオリーブの灌木を揺らし、草原全体、丘陵ぜんたいがやさしく波を打っているようだ。

 一時間ほど走って、シェンフエゴスという街を通り過ぎた。美しい歴史的な街で、コロニアルな建物の周りを運河が巡り、その上を名前のわからない白い水鳥が一斉に舞い上がる。町を右手に見ながら走っていると、十代は、オレはここに来たことがある、と言った。

「ここはなんていう町なんだ」

 シェンフエゴスです、と遊星は教えた。

「ここで、古い古い、バンドを見たんだ、メンバーはおじいちゃんばっかりで、ギタリストは目が不自由だった、が、とてもロマンチックな演奏をした、演奏は子どものころに見た社交ダンスのおねえさんを連想させた、オレはメンバーの一人と踊ったんだ」

「それは、どこかのナイトクラブですか?」

「いや、どこかの、まるで夢のように美しいボタニカルガーデンだった」

「パティオ?」

「そう、小さな噴水があって、緑に覆われていて、白い壁の向こうには濃いブルーの空があって、白い壁だから空の青が目立ってとてもきれいなんだ、昼間だった、それも真昼だったんだろうな、スカートのすそをひらひらさせながら踊っていて、影がものすごく短かったのを覚えているから、近所の人たちがみんな集まってきて、レモネードやワインや、そのほかのお酒を飲んで、みんな踊っていて、とても楽しそうだった」

「それは誰かのパーティーか何かだったんですか」

「いや、違う、ヨハンがキューバの音源を集めていて、音楽家はヨハンのために演奏したんだ、どこの町に行ってもミュージシャンや歌手やバンドがヨハンのために音楽を披露した」

 横目で助手席の十代を見ると、窓の外を眺めながら、涙を流していた。涙はほおの薄い皮膚の上を流れ、細い顎を伝って、まるで雨だれのように垂れていた。十代は、自分が泣いていることに気づいていないようだった。涙を拭こうとしない。化粧の上に涙の筋ができていた。十代は表情を変えずに、つまり顔をゆがめたりすることなく、また声を出すこともなく、シェンフエゴスを通り過ぎるまで泣いていた。

 道路には、子供連れや、荷物を持った人が立っている。ハバナへ行くバスもあるが、いつ通るかわからない。ヒッチハイクをする人々の中には軍人も目立つ。ハイウェイを通る車の数は決して多くない。時々荷台に人をいっぱいに乗せたトラックが通る。

「昔、この道路を、夜に通ったことがある」

 十代がそう言った。窓からの強い風で涙が乾いて、顔にピエロのような線ができてしまっている。だが、遊星は十代の顔をきれいだと思った。

「信じられなかった」

 十代は、かすかな微笑みを浮かべて言った。

「夜の空を覆いつくすように、星が輝いていたの」


 シェンフエゴスの町を過ぎると、道路の両側の景色は赤土と草とオリーブのまばらな林に戻った。道路は強い日差しに照らされ、まるで銀色のレフ板のように輝いてサングラスをしても目を細めなくてはならなかった。十代は身体を伸ばすようにして、開け放した窓からの風に髪を揺らしながら遊星との対話に興じている。

 遊星は陽炎が立つ前方の道路に危険な穴がないか目を凝らし、風に乗って運ばれてくる強い草いきれの匂いを嗅ぎながら、十代の言葉に相槌を打った。彼女の話題はもっぱら遊星との子どものことになっていた。「遊星は、子ども好きか?」町を過ぎてだいぶ過ぎるころには、そういうことを嬉しそうに身を乗り出して聞く彼女の姿があった。遊星はいとしいものを見る目で優しい笑みを浮かべ、頷いた。

「はい」

「男の子と女の子、どっちがいい?」

「あなたとの子ならどちらでも。ああ、でも男の子だとあなたをもっていかれてしまうかもしれないから、女の子がいいです」

「なに言ってるんだよ、馬鹿だなあ、遊星は」

 牛の群れが道路を横断していた。遊星はメルセデスのスピードを緩め徐行したが、対向してやってきたトラックは激しくクラクションを鳴らし牛の群れの間をすり抜けるようにしてそのまま通り過ぎた。トラックのせいで牛は一度隊列を乱したが、ヤシの葉で編んだ帽子をかぶった牛追いの二人の少年は何事もなかったようにゆっくりと道路を渡った。一人はマチェーテというサトウキビ狩り用の半月型の鎌を持ち、背丈の低いもう一人はオリーブの小枝を持って牛を追い立てていた。二人は一つのマンゴーを手渡しながら交互に運んでいる、マンゴーは熟れていて彼らの小さな手の上でつるつると滑った。

 遊星は親になった自分と十代の姿を想像した。そうすると、二人の少年の背を追ってゆったりとついていく、一組の夫婦の姿が浮かび上がってきた。男性はグアヤベラというキューバの民族衣装に身を包んでおり、傍らで二人の少年を見つめる女性の肩を抱いて悠然と歩いていた。女性の腹は大きく膨れており、妊娠していることは明らかで、少年たちの弟か妹になる子供がいるのだろうと遊星は思った。

 彼らは少年たちに追いつくと、二人の手に新しいマンゴーをやった。そして四人で道の向こうへと消えていった。十代は、赤土の草原からオリーブの灌木の間に牛の群れが連なっていくのをずっと見ていた。灰色の牛たちはその間一度も鳴かなかった。こうやって車で走っていても、キューバでは何もかもが、色と輪郭のはっきりとした残像となって目の裏側に刻まれるような気がする。空はあらゆるものを圧倒して青く、かなたまで広がる大地は目を刺すような赤だ。樹木は、グリースで濡れているかのように濃い緑を際立たせている。

「このあたりに、公園があるだろう」

 牛たちの群れが消えていなくなると、干からびた道路のひびを数えながら、十代はそういうようなことを聞いてきた。

「公園ですか」

「公園があるところなら、安心して育てられると思わないか」

 十代の話し方は穏やかで、混乱も少ない。何百回と一人で練習した台詞や出来事ではなく、ふと思い出したことを話しているからだろうと遊星は思った。

「真夜中に、その公園でひとりのおばあさんに出会ったんだ」

「おばあさん?」

「そう、やせていて、パンクロッカーみたいな黒いシャツを着たおばあさん、ヨハンが音源を集めるために尋ねた、伝説の吟遊詩人だ」

 なまえはイザベラと言うらしい。ヨハンは十代を伴ってヴァラデロからシェンフエゴスへ行き、その帰りにイザベラの家へ寄った。彼女の家は坂道にあり、もう真夜中だったが、娘と名乗る人が出てきて、イザベラはこの時間はいつもすぐ近くの公園にいる、と教えてくれた。ヨハンと十代は車を降りて歩くことにした。坂道を横に折れ路地のような細い通りを歩いた。雨が降った後で地面は湿ってぬかるみ、十代はヨハンの腕にしがみつきながら足を進めなければならなかった。イザベラの家から教えられた公園まで、街頭は一本もなく、わずかに明かりが漏れている家が二軒あるだけだった。フィレンツェやウィーンの旧市街に似た中世の様式の、レンガが半ば崩れかけた街並みが、弱々しい黄色の明かりと、点滅するブルーの明かりに照らし出されていた。目が暗さに慣れてくると、町全体が、夢の中に沈んでいるように見えた。路地の両側に建物が密集しているために、空は一部しか見えなかった。細長い長方形に切り取られた空を、雲が滑っていくように流れていた。白っぽく見える厚い雲だった。

 こういう場所では、と歩きながらヨハンが言った。こういう場所では、夜を近くで感じることができる、ふつう南の国の夜は柔らかくて暖かいし、北の国の夜は硬く、とがっている感じがするものだ。でもここは違う。キューバの、夢のような南国の夜は、昼間のうちに人々が吐き出した呼気を思い切り吸い込んだせいで湿っていて窮屈だ。粘ついた液体になってしまった空気を取り入れ、なまった身体をむりに動かそうとすると、夜がいきもののようにしてこの街に横たわっているのだとわかる。今俺たちは夜のいろいろな器官に触れながら歩いているんだ。そういうことをヨハンは十代に言った。夜がいきものだと人生の中で何度感じることができるかと俺はときどき思うことがある。

 公園はまるで夜という生き物の陰部のようだった。暗く、湿っていて、いろいろなものが混じったいやらしく甘い匂いがしていた。熟しすぎて捨てられた果物、どこか茂みの中で死んでいる小動物、ビンが割れて地面にしみこむ強い酒、貝殻を砕いて作った砂の石灰質、夜光虫の群れ、風を受けて呼吸する肉の厚い植物、それらが混じったような匂いだった。こんな暗いところでどうやってビデオカメラを回せって言うんだ、と笑いながらヨハンが十代に言った。映るのは亡霊だけかもしれない。

 イザベラはベンチに座って酔いつぶれていたが、二人を見つけると立ち上がった。キューバの伝説的な吟遊詩人というより、パンクロッカーのようだと十代は思った。右手にギターを持ち、真っ暗な公園でサングラスをかけ、背が高く、痩せていて、無地の黒いティーシャツを着て、黒のジーンズをはき、すり切れた革のサンダルを履いていた。この国では弦を自由に買うことができない、とそういうようなことをいいながらイザベラは二人に近づいた。あなたたちはどうしてこんな時間に来たんだ、わたしはもうくたびれてしまった、ヨハンがイザベラを抱きしめて、あなたに日本から会いに来たんです、と耳元で言った。するとふいにイザベラがヨハンを突き飛ばすようにした。拍子にギターの弦がなって気味の悪い音を立てた。イザベラは頭の毛を逆立ててヨハンや十代を汚い言葉でののしった。あまりに汚い言葉だったから、そのスペイン語は十代にもヨハンにも理解できなかった。そのあと、彼女は乱れた格好のまま十代の前に歩いてきて、ヨハンを顎で示し、あなたはこの男を愛しているのか、と言った。

 正直に答えろ、ヨハンが十代にささやいた。彼女はすぐに嘘を見抜く。嘘をついたとわかると絶対にうたわない。わたしは、と十代は、知っている限りのスペイン語を組み合わせてイザベラに言った。膝は震え、十代の顎から汗が伝った。

 わたしは、彼を、愛しています。

 イザベラはそれを聞くと、顔をゆがませて怒った。十代は混乱した。オレは嘘を言ったのか?オレはほんとうはヨハンを愛していないんだろうか、これでこのおばあさんはもう歌を歌ってくれないのではないか、イザベラはまた二人をののしった後、酒があったら飲ませて欲しい、と言った。ヨハンが、バッグに入れていた七年物のカリビアンクラブ・ラムの封を切って、まずサンテリアのまじないをした。新しいボトルの封を開けるときは、野外だったら地面に、室内だったら部屋の隅に、神のための一滴をこぼさなくてはならないのだ。ヨハンの儀式を見たイザベラは、それを指さして笑った。

 ひどくかすれた声で笑うイザベラをヨハンはじっと眺めていた。それは悲しいものを見るときの目だと十代は思った。イザベラは純粋で強い人のように十代には思えた。だからどうしてヨハンがそういう目でイザベラを見るのか十代にはわからなかった。ヨハンはビデオの準備を始めた。こんなに暗いのに撮れるのだろうかと十代は思った。ビデオカメラが三脚に固定されようとしているのを見て、イザベラが空を指さした。人差し指が月の光に照らされ、またすぐに雲の影に覆われた。雨になるから、あの建物の影に行こう、イザベラは公園のすぐ横の建物のテラスを指さした。その建物は民家ではないようだった。作りが大きいし、屋根も高い。町の図書館だとイザベラが教えた。

 図書館は大きな白い石を積み上げたアラベスクの作りで、ちょうど一回と二階の間に、建物をめぐっている階段がせり出したような形でテラスがあった。こういうところに勝手に入って行っていいんでしょうか、十代は、錠が壊れているらしい鉄製の扉をイザベラがこじ開けるのを見てそう言った。ヨハンがそれに対して何か言おうとしたとき、ニュアンスで分かったのか、イザベラが、気にしなくてもいい、と十代の手を取って、案内するように石の階段までエスコートしてくれた。わたしはここで何十回もコンサートしてるんだから。植物と貝と天使の模様がある鉄製の門から石の階段まで歩く間、イザベラは十代の手を握りながら短い曲をハミングした。ハミングする声も、酒でやられた喉から出るようにひどくかすれていて、この人は本当に歌えるのだろうかと十代は思った。石の階段は二人並んで上がるには幅が狭すぎたから、十代が先頭で一人ずつ上がることになった。階段に足をかける前にイザベラが、はいていたサンダルを脱ぎ、まねをするようにと十代の足を指さした。とても気持ちのいい石で作ってある、ここを素足で歩くのはこの町でも贅沢なこと。目が慣れてきて十代にはイザベラのハミングする口元が見えた。十代が靴を脱ぐときイザベラが初めてサングラスを外した。

 ハバナまであと七十キロというところにファストフードのドライブインのような新しい店ができていて、遊星と十代はそこで休んだ。遊星はアイスクリームを食べ、十代はその場でサトウキビを絞ったジュースを飲んだ。鉄のローラーが上下に並んでいて、その間に数本のサトウキビがさしこまれ、上半身裸の男が汗びっしょりになってハンドルを回しローラーを回転させる。サトウキビから搾り出た汁は機械の下に置かれたブリキの桶にたまる。そのサトウキビのジュース屋はドライブインの建物の外にあって、ヤシの葉で編んだ屋根とブルーのペンキを塗ったコンクリートのカウンターの間に鳥かごが下げてあり、中には緑色の羽とクリーム色のくちばしのオウムがいた。オウムはサトウキビの搾りかすと茶色に変色した何かの肉の塊をつついていた。聞きもしないのに、店員がサトウキビを絞る手を休めて、それはネズミの肉だ、と教えてくれた。十代はゆっくりとサトウキビのジュースを飲み、ネズミの肉を食べるオウムを眺めた。ヤシの葉を編んで作られた屋根から光が薄く漏れて、十代の顔に細かいハイライトができていた。遊星はその顔を写真に撮りたいと思った。女の顔を撮りたいと思うのは本当に久しぶりだった。

 イザベラは十代の足をじっと見ていた。十代は自分の足が嫌いだった。ヨハンは十代とセックスするときに、その足を舐めることがあった。またよくアンナと十代の足を比べて、アンナの足をきれいだとほめることがあった。十代は車に戻ってからも話し続ける。石で作った階段を上り始めて、本当に足の裏が気持ちよかった。冷たくて、乾いていて、ちょうどいい具合にざらざらしていた。一段一段の階段の端に肉厚な植物の鉢植えが置いてあって、十代が触れると、ぷりぷりと身を震わせた。生暖かく湿った風が吹いてきて十代の髪をさらい、やがて乾いた石にかすかな斑点ができ始めた。それまでキューバで何度となく見たものすごいシャワーが来るのかなと十代は思った。雨が、降り始めるのではなく、町全体が嵐の中に迷い込んだような、あっという間に道路が川のようになり、雨粒が車のフロントガラスに砕けちるように落ちてくるキューバのシャワー。十代の心を読んだかのように、ここの雨は優しい、とイザベラがつぶやいた。

 イザベラはテラスで、「ラグリマス・ネグラス」をうたった。黒い涙という意味の歌で、ヨハンがリクエストしたものだった。イザベラの声はそれまで十代が聞いたどの歌手とも違っていた。トロンボーンのような声だった。鼻にかかっていて、柔らかく、豊かで、かすかにかすれていて、そして金属的だった。テラスからは、白とクリーム色とオレンジ色の建物の連なりが夜に沈んでいるのがよく見えた。十代はその景色とイザベラのしわだらけの細い喉とを交互に見た。喉の血管が、高い音を出すたびに震えた。喉の奥に、声帯ではなく中世の鐘があってそれが鳴っているのだと十代は思った。イザベラが黒い涙を歌い終わり、ヨハンと十代が拍手をすると、イザベラは突然怒り出した。わたしは歌い終わった、次はあなたたちの番だ、だいたいあなたはなんなんだ、そう大きな声できかれて、十代は答えられなかった。ヨハンの恋人ではなかったからだ。イザベラは高い耳障りな声で笑った。売春婦だ、売春婦がやってきたんだ、私はね、朝の儀式で最低の売春婦が来るってわかっていたんだよ、会う前からね、十代はやめてください、と言った。するとイザベラは売春婦が泣いている、と叫んだ。ヨハンは、十代、彼女に何を聞かれても答えるんじゃない、と言った。十代はどうしてヨハンが自分を止めるのか、なぜイザベラが怒り出したのか全く分からなかった。イザベラはわめき続けている。声は金属的で、聞いていると脳みそまでを引っ掻き回されるような気分だった。どうしてこんな男と一緒にいるんだ、おまえは男を愛しているといったがそれは嘘だ、耐えきれなくなって、やめてください、と十代が顔を上げると、口に含んだラムを思い切り顔に浴びせかけられた。あんたは呪われている、そういって、イザベラはギターを抱えて階段を下りて行った。

 その夜、ヨハンを二度射精させたあと、十代は彼に言われた。なぜ言う通りにしなかったんだ?

 耐えられなかった、オレがヨハンを愛していることを、否定されるのが怖かった、

 でも、十代、本当はオレのことなんか愛していないんじゃないか、

 どうしてそんなこというんだよ、

 だって、おまえはさみしがりやだからさ、イザベラと一緒だ、

 オレをあんなのと一緒にするのか、

 ちがうよ、でも、あのばあさんはさみしがり屋なんだよ、あれが歌手だ、あれが本当の歌手なんだよ、十代、あれくらいの声帯を持っている人間はこの世にごまんといる、でもああいう声で歌えるのは五人といない、そういうものだ、十代、おまえはさみしがりやで、ばかだからかわいいんだ、でもな、いつかおまえは俺のところを離れてほかの誰かの恋人になる、これは予言だ、遊城十代、おまえは俺のなんなんだ?

 十代は答えられなかった。

 二人は様々な形でセックスをした。ラム酒を飲み、ひどく酔って、ヨハンは幾度となく十代にきいた。おまえは俺のなんなんだ。アンナがよく、あなたはパパの奴隷よ、と言っていたのを十代は思い出した。だから十代は答えた。ヨハンはまじめな顔になって、おまえは奴隷じゃない、と十代に言った。

「お前は奴隷なんかじゃない」

「それじゃオレはおまえのなんなんだよ」

「少なくとも、奴隷じゃない」

 十代が、本当は何なのかわからないけど、でもオレはおまえの奴隷でもあるんだよ、それだけは確かなことなんだ、というと、ヨハンは、悲しそうな表情になった。

 夕方になり、道路の凹凸もよく見えなくなったので、遊星は小さなホテルで一晩を明かすことを十代に提案し、十代はそれを許可した。一番小さな部屋を取って、そこにはベッドとテーブルだけがある簡素な部屋だったが、愛し合うふたりにとってはそんなことはどうでもよかった。大きく海のほうに開けた窓からはウインドサーフィンを楽しむ数人の若者の姿と、宵闇に黒ずんだ島々が見える。かなたのほうに悠然とココ島の隆起が浮かんでいた。

 遊星と十代はそこで何度かのセックスを楽しんだ。途中でウエルカムフルーツのパイナップルのみずみずしい味わいを楽しみ、切り落とされた芯でしばらく遊んでから、口と手とで奉仕をさせ、かつてない情熱的な情交を楽しんだ。

 遊星が目を覚ますとすでに真夜中になっていた。たちならぶ灌木から虫の声がまるで壊れた蓄音機を無理やり動かしているみたいに響いてくる。

 体を起こせば、どこかから歌が聞こえてくるので、一瞬、遊星はイザベラのことを想像した。なぜならその歌は鼻にかかっていて、柔らかく、豊かで、かすかにかすれていて、そして金属的だったからだ。しかし、すぐに違うとわかった。声が高い。しかも、はりがあって若々しい。聞き覚えのある、真鍮のベルのような声だ。汚れたショーツが、バスルームに入った遊星のすぐ足元に落ちている。彼はその上を黙って通り過ぎ、十代のいるシャワーボックスへ向かった、ガラスでできた壁面は曇っていて中を伺い知ることはできなかった。

「十代さん」

 歌が止んだ。

 彼女は床に座り込んだままシャワー水に打たれていた。青い透明なガラスタイルを嵌め込んた美しい意匠の石床は精液で汚れ、水が押し流そうとするのと混ざって排水溝へ道が続いている。マニキュアでルージュに塗られた指先は身体を洗うわけでもなく、白くなった膝の上に軽く触れるばかり。

「ゆうせい。おはよ」見上げてくる目はぎとぎとに濁りきって、表面ばかりつやめいてみえた。

「おはようございます」

「うん。起こしちゃって悪かったな」

「ディナーの予約を取っていたので、何れは起きなければと思っていたんです。あなたのことも起こすつもりだったので」

「ディナー?」

「ホテルのレストランです」

 彼女は、ふうん、と気の無い返事を返すと、シャツを着たままの遊星の腕を掴みシャワーボックスの中に引きずり込んだ。はだかの足がぬめった精液に触れていやな音を立てた。「でももう行く気なんかない。そうだろ」

 ひえた背中が胸板に押し付けられる。この身体を抱くとき、遊星はいつも罰せられるのではないかと思った、それくらい魅力的な身体だった、痩せていたが、ほんとうにすべらかだった。濡れた髪が耳の後ろで縮こまっている。首から肩にかけてが上気して赤い。白魚の、鱗でびっしりと覆われた銀色の腹を思わせるすべらかな乳房が、彼女の細い腕から零れ落ちんばかりになっていて、遊星はその奥に彼女のどうしようもない熱情がみえるような気がした。股の間から精液を垂れ流しぬるいシャワーを浴び続け、どういうわけか彼女は興奮していたのだ。

 遊星はぴったりと閉じられていた十代の膝に触れ、そっと広げてやった。するといろいろなものが流れ落ち、タイルを汚したので、いやらしいですね、と言ってやった。そのままあらわになった頸にキスをしてやる。やさしく、こどもにするような幼いふれあいを繰り返しながら、股座を弄る。十代は恥ずかしそうにうつむいて笑う、そして震える舌で声を出そうとする。

「そうです、十代さん、あなたが俺をおちょくるような真似をするから、俺はディナーなんかどうでもよくなりました。俺にはあなたしかいないのに、あなたが、あなたもそうじゃなかったんですか」

「なんのことだかさっぱりわかんねえな」

「言ったでしょう。あなたを愛しているんです。俺には、あなたしかいないんです」

 十代はけたたましく笑って、細い腕を遊星の首に絡ませた。耳元で熱い呼吸が繰り返され遊星はにわかに自分の内側から熱が吹き上がる感覚を覚えた。遊星は張り付いた十代の体を引き剥がした。そしてびっくりして目をまん丸に見開いたその小さな頭を乱暴に引き寄せて、かじりつくようにキスをした。呼吸すら許さぬ、嵐のようなキス。唇同士がぶつかり、離れてはまた零距離をとる、歯と歯が触れ合うほど深く深く、十代が暴れても、その腕をとって硝子におしつけ動きを封じた。とても嬉しそうな声を上げながら彼女は肩を震わせて絶頂した。

 朝、遊星がべとべとになったベッドの上で眠気を追い出すのに苦心していると、バスルームから悲鳴が上がった。あまりにも大きな悲鳴だったので彼はノックもせずに脱衣所に飛び込んだ。どうしましたか、と遊星は叫んだ。十代は喉のあたりで悲鳴になり損なった息を上下させながら、裸のまま遊星の腕にしがみついてきた。汗ばんだその肉体に欲情する暇はなかった、十代の指差す先を見やると、タイル床の上で黒い塊がもぞもぞと蠢いているのがわかった。注視すれば、それは何万匹という蟻の群れだった。脱ぎ捨てたショーツのかたちに盛り上がっている。

 その蟻は開け放たれた窓の桟から入ってきて、ひび割れた石の壁から彼女の足元までに列をなしていた。塊は不規則に動き、せわしなく形を変えた。表面に無数の突起があり、時折細やかに音を立てながら、それはまるで強い日の光で顕れた影のようにも見えた。十代はとうとう泣き出してしまった。ここを出ましょう、と遊星は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハバナについてしばらくしても、ふたりはカルドーソに会えなかった。彼の住所は変わっていて、教えられた家に行くと、そこでは太った女と三人の子どもが一枚のピザを取り合っていた。部屋の中では火がたかれていて、ペルシアのタペストリーが、暖炉の周りをオレンジや茶色やクリーム色に飾っていた。前にここに住んでいた人を知りませんか、と遊星は聞いた。知ってるけど、行先までは知らないよ、と女は答えた。この国では、誰も去るものの存在など意に介さない。

 ハバナに滞在しているうちに、十代は四か月を迎え、腹が目立つようになり、物好きな日本人の旅行客に話しかけられることもしばしばである。遊星は南国で気が浮かれている男から彼女を守るのに躍起になったが、彼女はそのたびに、馬鹿だなあ、遊星、とおもしろそうに言った。「オレはおまえしかみてないよ」優美な曲線を描く桃色の唇が、そういうことをうそぶく。

「あなたはまたそういうことを……」

「ほんとだぜ」

「知ってますよ、十代さん」

「ん」

 レジデンシア・サンタ・クララというホテルのスイートルームは、もっぱらふたりの愛の巣だった。床や壁には独特の模様が描かれていて、ピカソの落書きのような絵画がベッドの後ろに飾られている、ハバナでも一番の部屋だった。そして二人の間には常にセックスがあった。食事をとり美しい旧市街を見て回り海と浜辺を行き来して遊ぶ時間以外のすべてをふたりはセックスに捧げた。朝起きてすぐにシャワールームで、そのあと運ばれてくる朝食をとってからすぐにベッドにもぐりこみ、昼食を忘れ、夕方が過ぎて美しいトパーズ色の空の上に厚い雲が浮かぶころになってようやく夕食を取る、そうしてまた朝方までベッドの中にいる、その繰り返しだ。十代の性器を舐めながら遊星がマスターベーションをすることもあったし、十代が遊星を射精させることもあった。そうして怠惰な日々は過ぎていき、ふたりは一つのものより深くまじりあったが、それでお互いのことに飽きたり、きらいになったりすることがなかったのは不思議なことだった。

 ある朝、クリスタルの残りを全部吸って激しいセックスに興じたあと、遊星がベッドでまどろんでいると、久方ぶりに携帯のバイブレーションが鳴った。発信元はわからなかったが、電話番号には覚えがあった。上半身だけで起き上がり、まだ眠りから抜け出せていない十代を残してベランダに出る。

「もしもし?」

 その声には聞き覚えがあった。まだ甘い少女の名残が残る、サクランボのような女性の声だ。

「アンナよ」

 アンナ・アンデルセンだった。

 あれから、数回連絡を取り合った仲になって、アンナが年相応の、感じやすい女の子であるということがわかってきた。アンナはただ臆病なだけで、話してみれば元恋人と何ら変わらない普通の女の子だった。十代が寝ている間、あるいはほかの男に誘われてパーティに出ている間、遊星はアンナとたわいもない話をした。彼女はうれしかったことをしゃべるとき、語尾がかすかに跳ね上がる癖があった。

「ママは元気?」

「ああ。十代さんは元気にやっている。アンナもうまくやっているようで、よかった」

「当たり前じゃない」

 アンナはフン、と鼻を鳴らして、

「ねえ、遊星」

「どうした」

「私、今どこにいると思う?」

 彼女の背後では人のしゃべり声と足音と車のクラクションとが絵の具を混ぜられてきたない色になりながらこねくりまわされた粘土のようにごちゃごちゃになって聞こえてくる。そしてそれは彼女が身体を揺らす音とともに絶えず変化し、遊星ははじめ、そこがどこだかわからなかった。だが、劣悪な回線がだんだん回復してきて、彼女の息遣いまでがはっきり聞こえてくるようになると、それがどこか聞き覚えのある喧噪だということがわかってきた。遊星は耳をそばだてた。そうすると、十代と一緒に何度も歩いたオールドハバナの中心街の光景が、彼の頭の中に浮かんできた。道の左右には土産物を売る露天商たちが店を並べている。バザールのような市で、いろいろな人種の男たちが所狭しとテントを並べて商売をしている。売っているのはどれも手作りの素朴な土産物ばかりだ。貝殻で作った装飾品、綿のレースの刺繍、ヤシの身を削って作った動物の置物、木と紙でできたガレー船の模型、珊瑚のブレスレットやネックレス、ガラス玉を研磨した指輪、柄に彫刻したサトウキビ刈りの刀、古い絵はがき、ゲバラをプリントしたティーシャツ、山羊の角を加工した装飾具、クラーベやマラカスやグィーロなどの打楽器、

 アンナが、電話の向こうでクラーベの音を鳴らしたので、遊星はびっくりして声を上げた。彼女は正確にルンバのリズムを刻んだ。そしてパラパラと拍手の音。

「まさか。来ているのか?」

 彼女はいたずらっぽく言った。

「カテドラルの斜め向かいのカフェで、待ってるわ」


 アンナ・アンデルセンは、十代にそっくりだった。声は全く似ていないが顔ばかりがそっくりで、たとえばこぼれおちんばかりにつぶらな瞳であったり、跳ね上がった特徴的な髪であったりが強烈に十代を思わせた。黄金色の美しい虹彩がハバナの強い光に照らされて輝く。

 濃いセルリアンブルーのミニスカートを身に纏ってやってきた彼女を、遊星は素直にきれいだと思った。そういうふうに感じたことを伝えると、彼女は照れたように微笑み、ありがとう、と言った。そのころには、遊星は彼女に初めに感じていた恐れや奇妙な違和感を感じなくなっていた。

「別に好きでママに似てるわけじゃないわ」

 マドラーでモヒートのミントをつぶしながら、つまらないことを言うように彼女は呟いた。

「パパがママに似ている私をえらんだの」

「卑屈になる必要はない。おふたりは君を愛していたんだろう」

「そうだけど。最初に私たちの院に来たとき、パパは私を一目見てはっきりと言ったわ、この子がいい、って。私はうれしかった。だって私の人生はいつでも切り捨てられるばかりで、誰かに選ばれるなんてこと、生まれて初めてだったんだもの。でも今思えば、あれは愛する人間の代わりを探す目だったんだわ」

 遊星は彼女の話を聞きながら、キリマンジャロブレンドの苦い飲み口を楽しんだ。彼女が悲しんでいないことはその話し方や表情からも明らかだった。彼女が自分の人生を悲観していないのはいいことだと遊星は思った。「ねえ、ママを愛してる?」

「十代さんを?」

「もう寝たの?」

 苦い液体をのどに詰まらせるところだった。

「なんてことを聞くんだ、君は」

「寝たんでしょう。ねえ、ママはかわいかった?ひどいだみ声とかじゃなかった?」

「はっきり言うが、十代さんはこの世のどの女よりもかわいかったさ、君は知らないだろうが、十代さんは魅力的な女性なんだ」

「ごめんなさい、怒らないで、ねえ、私がどうしてあなたに会いに来たかというとね」

 アンナは指を組み、ひじをついてその上に顎を載せる魅惑的なポーズで遊星を見つめた。彼女の赤い髪がカフェの空調でかすかに揺れた。彼女がその顔に浮かべているのは三歳のころから練習してきたというような微笑みで、実際そうなのだろうと遊星は思った。どこかから有名で古典的なルンバの調べが聞こえてきて、その曲に合わせて、客たちが踊りだすのが背後に見えた。キューバ人はどこにいても曲がかかれば踊りだしてしまう。その中で、踊りださないアンナと遊星は異質だった。アンナはその表情とポーズを数秒の間完璧にキープした。「どうしてあなたに会いに来たかというとね」と、アンナはもう一度繰り返した。

「私、ママのことは嫌いだけど、あなたのことはすきよ、遊星」

「何が言いたいんだ」

「私と旅をしない?」

 この国を、と付け足し、アンナは首をかしげてみせた。遊星は驚いて言葉も出なかった。君には母国で待っている男性がいるのではないか、とか、俺には十代さんがいるのだから、とか、言うべきことは山ほどあるはずなのに、そのすべてが細められたアンナの琥珀色の瞳に吸い込まれていくようだった。彼女は遊星を見た。

 

 

 (とばす)

 

 

 シャーマンが住む家はごく普通の民家だった。オールドハバナの端にあり、ちゃんと空調もきいていたし、置いてある家具も調度品も贅沢ではなかったが清潔で趣味がよかった。連れられて遊星と十代が訪ねると、こぼれるような笑みとともに奥方らしき白人の女性が迎えてくれた。とろりとした濃厚なマンゴーのジュースを飲んでいると、そのカルドーソという名前のシャーマンが、着替えを終えて部屋に入ってきた。

 居間の棚にはアルトサックスが飾ってある。音楽をやっていたんですね、と遊星は聞いた。

 「そうだ、わたしは小学校のころからずっとミュージシャンになりたかった、いろいろな楽器を勉強したよ、家に音の出ないピアノがあったんだ、ハンマーがだめになっていて鍵盤だけが残っているピアノだった、ピアノと呼べるかどうかは疑わしいが、わたしはその鍵盤を弾いては、歌を歌うように音を出して練習したものだ、高校でサキソフォンを始めた、ジャズが好きで、音楽家の友人がたくさんいたので、レコードを借りてリー・コニッツやポール・デズモンドをよくコピーしたよ」

 カルドーソは葉巻をくゆらせながら、よく響く低い声で話す。歳はわからない。髪に少し白いものが混じっているが、黒人やムラートの歳は外見ではよくわからない。奥方の年齢は五十代の終わりか六十代の初めだろう。カルドーソは紫色のポロシャツを着て灰色の綿のズボンをはいている。白人の奥方は紺色の麻のワンピースだ。キューバの初老の男女のオーソドックスなファッションだった。シャーマンとその妻にはとても見えない。羽飾りをつけ貝殻や動物の骨で作った首飾りをして鶏の生き血を飲む、そういうシャーマンを遊星は想像していたのだが、全く違った。黄色と緑のビーズのブレスレットをはめていて、それはエグレアの魔よけだが、べつにシャーマン特有のものとは言えない。キューバ人は誰でもその黄色と緑の腕輪をはめている。まだ半分も飲んでいなかったのに、マンゴーのジュースをお替りするか、ときかれて、遊星はていねいに断った。ものすごく濃密なジュースだった。その半固体のようなジュースを十代がじっと見つめているのに気が付いて、中庭にマンゴーの木があってそこからとれるものを自分たちで絞って作っているのだと奥方が教えてくれた。遊星がそのことを訳すと、十代は軽く首をかしげて微笑んだ。なんて美しいんでしょう、と奥方は十代を褒めた。あなたの奥様でしょう? 遊星は、そうです、とスペイン語で答えた。もうすぐこのハバナで結婚式を挙げる予定です。

「サキソフォンはかなりの腕前だったんだよ、有名なバンドから、うちで吹かないかと誘いもたくさんあった、わたしは迷った、わたしの家は代々シャーマンだった、神との連絡係だと思ってくれればいい、神の声を聴いてそれを正直にみんなに伝える、昔ナイジェリアのヨルバに偉大なシャーマンがいた、彼は信じられないほど多くの若者が白人たちに船で連れ去られていくことにひどく心を痛めていた、貴重なシャーマンだった彼は部族の中で大切に保護されていたが、ある日、決心をした、自ら白人の奴隷狩りにつかまり、どこか遠くの町に連れ去られた同胞たちのもとへ行こうと考えたんだ、ヨルバの地に後継者はいるが白人たちの町にはシャーマンはいない、自分はその役目を果たそうと彼は思ったのだ、そうやって新大陸に偉大なるシャーマンがやってきた、彼はほかの奴隷たちと同じような過酷な労働に耐えながら神の意志と慈悲を伝えた、

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エスペランサ G2MA2-88 @G2MA2-88

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