第26話 引退

 2人はいつもの様に事務所で待っていた。いつもと違うのはこれからひと仕事待っている。シャワーを浴びるのは後にした。

「唐沢さん、打っちゃったね!」祥子の目は潤んでいた。

「ああ。会心の当たりだった」唐沢は、祥子を抱き寄せた。

「おいおい。何を感傷的になっている。俺もその輪にいれろ」

「宮野、吹石さんから連絡はあったのか?」

「ああ。防犯カメラの方はバッチリだったよ」宮野は得意げな表情で言った。

「それからあいつの滞在先が分かった。吹石さんから連絡によると六本木のXホテルに泊まっているらしい」

「あいつって誰なの?」祥子が聞いた。

「電話の相手だよ。俺に八百長をやらせたやつだ」

「さっちゃん。これから会いに行くよ」宮野は車の鍵を見せた。


 宮野の運転で3人は六本木に向かった。車はスムーズに目的地までの距離を縮めた。助手席の唐沢は宮野に聞きたい事があったが、話し始めるのを躊躇した。どうして、祥子は誰に会いに行くのか聞かないで居るのか不思議であった。エントランス前には見覚えのある男達が立っていた。吹石と田村である。宮野は車の鍵をホテルマンに預けた。

「吹石さん。田村さん、ご無理を言ってすいません」宮野は言った。

「これくらいの事はさせてもらいますよ」吹石は唐沢を見た。そして、続けた。「もう1人の方は既に確保した。緊急時は直ぐに連絡頼みますよ。直ぐ外で待機していますから」そう言うと吹石は田村に目を配り、ホテルの入り口を指した。3人は、ドアマンが開ける扉からホテルに入った。


「ここに居るのね?」祥子は言った。

「ああ、やつはこのホテルのスイートに泊まっている」

「じゃあ、行こうか」唐沢は先頭に立ってエレベータに乗り込んだ。最上階で3人はエレベータを降り、スイートルームへ向かった。そして、唐沢はドアをノックした。ドアはゆっくりと開き中から大男が現れた。

「監督!」祥子は叫んだ。

「唐沢、、、か」

「中に入らせてもらいます」

藤堂は、慌てた様子もなく、開いていたノートパソコンを閉じた。

「やっぱり球史に名を残す人は凄いですね。スイートなんて初めてです」

「これくらいお前にとってもたいしたことないだろ」

「そんなことはないですよ。最終戦を最後に引退しますから・・・」

「何を馬鹿なことを。そんな下らない嘘を言いにきたのか」

「本当の事を言っているのですが」

「何故、引退をする。これからお前が歴史を作るのに」

「おかしな事をおっしゃいますね。歴史を止めようとしている貴方が」

「ほおお、自信たっぷりだな」

「そのパソコンに証拠が入っていますよ」

「なんだと」

「今、貴方が準備をしているFAXの事ですよ。明日、マスコミに流すのでしょう」

藤堂は、何も言わず、薄く唇を釣り上げた。

「貴方は、昨日と今日の試合でミスを犯した。いや、ミスと言うより僕が憎すぎた」

「お前を憎んでいることは確かだが」

「昨日の試合までは、貴方だとは確信が持てなかった。1打席目、僕には連続安打記録が掛かっていたにも関わらず、ピッチャーは全球ストレートを投げてきた。投球前キャッチャーはベンチを見ていた。あれは貴方のサインだった。そして、3打席目のツーアウト一,三塁の場面。あの場面で僕はファールで粘り四球で歩いた。貴方はベンチで怒りを爆発させた。あれはピッチャーにでは無く僕に対して怒ったのでしょう。だから、最後の打席は僕を敬遠した。何故なら僕が打たない確信が無かった。そして、今日の最終回、あの場面ではっきり分かりました」

「何だと」

「あの場面で僕を敬遠しないのは、僕が八百長をすることを知っている人間以外にいない。荒川さんの時と同じだよ。荒川さんの八百長と告発された試合のVTRを観たときに思ったのだ。何故、荒川さんは敬遠されなかったのかと。あの場面どう考えても勝負はしない、いや、出来ない」

藤堂は黙っていた。

「特に貴方の様なセオリーを重んじる監督は」

藤堂は沈黙を貫いた。


「どうして、荒川選手を狙った?」宮野が割り込んだ。藤堂は、ようやく口を開いた。

「やつみたいな男に俺の残した記録を破られてたまるか。俺の記録は永遠に球史に刻まれ、賞賛され続ける。俺が死んだ後も。そうなるべきなのだ」

「あんた、何を言っている。記録なんて誰かが破るに決まっているだろう」

唐沢は呆れていた。

「記録を邪魔した時点でその記録はもう破られたも同然だよ。貴方が野球ファンを愛しているなら」

「貴様!」藤堂はテーブルのグラスを掴み、祥子に向けて投げつけた。唐沢はそれを素手で掴もうとし、グラスはシャボン玉の様に壊れ、唐沢の手から赤い血が垂れた。

「唐沢さん!」祥子が唐沢に歩み寄ったが、唐沢はそれを制した。

「貴様!お前は何者だ!」藤堂の声は、震えていた。

「僕はただの探偵ですよ。その僕があんたの記録を破ろうとしていたのさ。こんなちっぽけな人間の枠の中で決められた記録に何の意味がある。まあ、あんたに何を言っても無駄だろうけどな。人を感動させられないやつには・・・」


 その時部屋のドアが開いた。

「藤堂監督、お前を逮捕する」

宮野の合図で、吹石刑事と田村刑事が入ってきた。田村は、唐沢の手から出血しているのを見て、戦闘モードに入ったが、藤堂以外に誰もいないことを確認して、戦闘モードを解除した。藤堂は、スイートルームを逃げ回った。年にしてはなかなか動きが早い。

「藤堂、観念しろ。お前の共犯者が全てを話したよ。植田殺人についても」

藤堂は抵抗を諦めた。

「吹石さん。やったわね!」祥子は握り拳を作った。河口湖で見せた時より力強く。

「共犯者の前田がすべてを話しました。荒川さん宅に悪戯をする所を植田に目撃されたため、植田を殺害した事も」田村は冷静に伝えた。

「どこまで卑劣なやつらだ」宮野は、目を閉じた。

「それからもう1人お客さんを呼んである」


 吹石は田村に合図し、田村は招き入れた。現れたのは荒川である。

「藤堂さん、やっぱり貴方でしたか」

荒川は藤堂を睨んだ。藤堂は、無言である。

「なぜですか?」荒川の鬼気迫る目に藤堂は無言を続ける事は出来ない。

「俺にとっては記録が全て。何か文句があるか!」藤堂は声を荒げた。

「記録に何の意味がある」荒川は対照的に冷静である。

「何だと!」

唐沢は黙って2人のやり取りを聞いていた。偽プロ野球選手に本当の記録の意味は分からない。

「たとえ破られない記録があったとしても中身が無い記録など人の記憶からはなくなる。それにどれだけの価値がある」

「お前には分かるまい。所詮、記録を作った事のないやつには」

「それを邪魔したのは貴方じゃない!」

祥子は思わず言った。荒川は祥子に微笑み、ゆっくりと答えた。

「貴方の記録を抜くのが無理なら私は引退などしない。分かったのですよ。このまま行けば貴方の記録を抜く事が出来ると。私が引退しても今後誰かが塗り替えると確信した。貴方の記録は誰かの射程圏内にある。それに、私は八百長はやっていない。私が打てなかったのは精神力が足りなかったからです。植田さんが殺害されて・・・だから、打てなかった」

荒川はそう言い終えると部屋を後にした。


 吹石は、荒川と体を入れ替える様に藤堂の前に出た。そして、藤堂が使っていたパソコンを操作した。直ぐに2つのファイルを探しあてた。1つ目は、これから送信しようとした、唐沢の八百長についての文章。もう1つは、荒川の八百長をマスコミに送った文章であった。犯行の証拠となる文章までを残していた事に対して藤堂の執念を感じた。吹石は、藤堂を連行し部屋を出て行った。


「さてと、俺たちも行こうか」宮野は言った。

「唐沢さん、明日の試合も出るの?」

「いいや。やめておく」

一件が落ち着いたことで、先ほどグラスで切った手の痛みがたまらない。


 唐沢は、翌日の試合ではベンチを温めた。唐沢の目的が達成出来たのだから試合に出る必要はないし、もう引退してもいい。三枚堂監督に故障だと伝えると相当にがっかりしていた。包帯を取って見せろ、とまで監督は唐沢に迫った。プロテストで唐沢を見た時の監督には想像も出来ない。


 シェパーズは一旦ジャイアンツと同率首位に並んだが追い抜く事は出来ない。最終戦を前に順位は決まっていた。優勝は、ジャイアンツそしてシェパーズは2位に甘んじた。2日後の最終戦も唐沢は故障としてベンチを温めても良かったが、唐沢にはやり残した事がある。祥子にはそれは何かと尋ねられたので唐沢は『もちろんだよ。新人王がかかっているから』と答えた。


 1日移動日を挟んでシェパーズは最終戦を向かえる。相手はジャイアンツである。通常、この試合は消化試合になるはずだが特別な意味合いを持っていた。ジャイアンツの先発が辻本なのだ。現時点の新人王レースの行方は辻本と唐沢に絞られていた。優勝が決まって辻本優位に傾いたが唐沢の圧倒的な活躍は、優勝チームのボーナスを加算しても確定とまでは行かなかった。野球の女神の悪戯か、最終戦に直接対決の舞台を用意するのだから。


 唐沢は、最終戦で志願の先発出場を果たした。監督は、なぜ出場するのか疑問に思っていたが、来年も唐沢には活躍して欲しいため、唐沢の意思を尊重した。


 試合は、シェパーズの本拠地の為、試合開始に合わせて唐沢はゆっくりと守備位置に向かった。ホットコーナーには似つかないクールな打撃と危なっかしい守備。


 唐沢がこれまでに残してきた輝かしい成績と名声は今日、八百長と言う焼却炉で煙へと変わる。しかし、唐沢には、一瞬で大気に溶け込んでしまうような単なる煙でなく、広域で顔を顰めてしまう程の悪臭を放つ決心がある。間違いなく今日の直接対決の結果次第で新人王が決するであろう。勝負の世界、直接対決ほど、フェアなやり方はない。


 辻本は最終戦という気負いや緊張は無く最高の滑り出しを切った。1番、2番を三振に切って取った。3番、唐沢はゆっくりと打席に入った。唐沢は打席から辻本を睨んだがそこには前回とは別人の辻本が立っていた。優勝を決めた事が大きいのか、それとも2桁勝利を挙げた実績が作り上げているのか分からない。


 辻本は打席の唐沢を警戒するでも無くゆっくりと足を上げた。そして、真ん中にストレートを投げ込んだ。ゴルフボールより小さい丸い球が唸りを上げ、唐沢の目の前を通過した。唐沢は、仰け反りそうになったが辛うじてこらえた。『これがプロのストレートか。荒川さんはこんな球を打っていたのか』辻本は2球目も同様にストレートを投げ込んだ。全く反応出来ない。1球目と違い、仰け反る事は無かった。3球目、同じストレートを唐沢は空振りした。バットとボールが相当離れていたと思う。

「新人王、おめでとう」

唐沢は、そう言って打席を後にし、監督に交代を頼んだ。唐沢が再びこの舞台に立つことはないであろう。唐沢は、試合終了を待つことなく、球場を後にした。


 翌日、2つのニュースが世間を賑わした。これ程大きなニュースが同時に発生する事は希である。ひとつは、藤堂監督の逮捕である。そして、もう一つは、唐沢の引退である。例のニュース番組は、藤堂監督の逮捕については、7割方真実を伝えていたが、唐沢の引退については、局の想像と、適当な解説者と、目立ちたがりの唐沢のの証言で構成され、殆どが真実から懸け離れていた。


 引退報道の2日後、姿を見せなかった宮野が唐沢事務所を訪ねてきた。宮野は手に明日の新聞とDVDを手に持っていた。宮野はそれを唐沢に手渡した。唐沢は、それには目を通さず、祥子に渡した。内容は、これまでの報道を根底から覆す真実が書かれていた。

「唐沢、俺の大作を読まないとはどう言うつもりだ!」宮野はそう言いながら持ってきたDVDをセットした。

「俺はもう引退した」

「その件だが、俺は随分と怒られたよ。球団社長の林に。何としても唐沢に野球を続けさせろ、と」

「もう十分やったよ」唐沢にはやる気はない。

「岡本に至っては、来年の年俸を提示してきやがった」

唐沢の表情が変わった。

「それは興味深い」

「何をいっているの。そんな事は知らなくていいの」

「さっちゃん、心配しなくても断っておいたから。じゃあ、引退セレモニーと行こうか」

宮野が再生したのは、唐沢の最終打席だった。

「祥子、家具新調しない?」

「何言っているの。今回の年俸は宮野さんに半分支払わないといけないし、これから仕事があるかも分からないのだから駄目」

「さっちゃん。いいよ。こっちは、それがあるから!」宮野は祥子が手にしている明日の新聞を指さした。

「そうだよ。宮野には払う必要なんて無い」

「でも、無駄遣いは駄目」

「それじゃ、新婚旅行に行こうか!」

「それなら、考えてもいいかな・・・」


 3人は、唐沢の事務所でビールを片手に唐沢の最終打席を観て笑っている。能力を使わないと全くだらしない、唐沢のスイングが流れていたのだから。

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