第25話 八百長打ち
昨日の試合に続き3連戦の第2戦目を迎える。シェパーズは昨日ジャイアンツが負けた為、首位と1ゲーム差の2位。一方、フォエールズは昨日の敗戦でクライマックスシリーズへは絶望的である。今日の試合、唐沢は初めて4番を任された。初回のフォエールズの攻撃は、呆気なく3者凡退に終わり、唐沢は守備機会がなくホッとしてベンチに下がる。
シェパーズは初回からチャンスで唐沢の打席を向かえる事になった。ランナーを3塁において、アウトカウントはツーアウト。この場面、一塁が空いているため、作戦として唐沢を歩かせても良い。チームにとってはそれでも悪くはないが、そうなれば、獲物は逃げる。
「歩かされるな、唐沢」
「一塁が空いているし、アウトカウントもツーアウト。一塁を埋めた方が守り易い」
宮野は、祥子を凝視した。
「さっちゃん、どうしたの?凄いね」
「私も、真剣に唐沢さんと一緒にやってきたのよ。これくらい分かるわ」
「へ~、そんなに好きなの」
「そうじゃないわ。お給料頂いているのだから、ちゃんと勉強しないと」
宮野は微笑んで、直ぐにそれを消して続けた。
「監督によってはこの場面勝負してもいいと思うけどね。いくら打者が唐沢でも打率10割じゃないからね。でも、相手の監督藤堂なら間違いなく敬遠を選択するだろう」
「藤堂監督ってそんなに手堅いの?」
「ああ、だから生涯打率、年間打率、年間最多安打、など覚え切れない程の記録を持っている。緻密な計算と努力の賜物だ。監督としても徹底してデータ野球をベースに堅い采配を振るう。まあ、観ているほうは物足りないけどね」
祥子は、宮野の意見を軽く聞き、ホームベースに居るキャッチャーを注目したが、じっと座ったまま、立ち上がろうとしない。
「宮野さん、あれはどう言うこと?」
「そんな馬鹿な。藤堂監督がこの場面で唐沢と勝負とは・・・しかし、これで・・・」
唐沢は、追い込まれるまで一度もバットを振る気配を見せない。それでも、ピッチャーは警戒し、カウントはフルカウントまで進んだ。そして、6球目を唐沢は、空振りし、三振を喫した。罵声が起こるはずの一塁側からは、交通事故を目撃した様なこの場所にそぐわない溜息が漏れた。その時祥子の携帯にメールが届いた。現金は新宿駅のロッカーに置いたと。鍵の所在とロッカーの番号が書かれていた。宮野は直に吹石に連絡し、そして、守備に就く唐沢に合図を送った。唐沢は、右手で帽子の鍔を触り宮野に返した。
「さっちゃん、もう後には戻れないよ」
「この仕事をやろうって決めた時から後に戻る積もりなんてないわ。前に進めばいいじゃない。でも、分からないわ。唐沢さん、どうやって進むつもりなの?出口まで」
宮野にもそれははっきりしていなかった。昨夜、唐沢は言っていた。俺の感が当たれば今日の試合もしチャンスで打席を迎える事が出来れば決着がつくだろうと。
唐沢は守備機会に備えて一塁から投げられるゴロを軽快にさばいて一塁に返した。それを観ていた宮野は言った。
「あいつ随分とうまくなったな。一塁までちゃんと投げているよ」
デビュー当時と比べると唐沢の守備は見違えるほど良くなっていた。こんなに進歩する必要はないのだが。
「もったいないな。あいつならプロ野球で本当にやっていけたのに」宮野の言葉には実感が籠っていた。
「宮野さん。それは無理よ」祥子は言った。「だってあまり楽しそうじゃないもの」
試合はテンポよく4回裏のシェパーズの攻撃を向かえる。依然として試合は、両チーム無得点のままである。
ポケットに入れていた宮野の携帯が震えた。
「宮野です」宮野は祥子に合図をした。「そうですか・・・。ありましたか」宮野は祥子にOKを左手で示した。祥子は、唐沢がこちらを向いたのを確認し、両手で大きな丸を送った。
「吹石刑事からで現金を確認したそうだ」
「それで、犯人は捕まえたの?」
「それはまだのようだ。今、防犯カメラを確認している」
3番打者のバレトンが凡退した時、宮野は言った。
「今回は駄目か」
「どういうことなの?」祥子は宮野に問うた。
「チャンスで唐沢に回らないと始まらない。このままだと相手の思う壷だな」宮野は焦っていた。宮野以上に唐沢は焦っていた。
唐沢の2打席目は、ツーアウトでランナー無しの場面で回ってきた。デビュー以来、唐沢は平凡な場面で好成績を残せていない。ファンもそれを知っているのか先ほどの様なムードが一塁側スタンドを占領することは無い。ファンにとって観たいのは好機での唐沢である。唐沢は焦っていた。勝敗はどうでも良いがチャンスで回ってきてほしい。結果的に勝利に繋がるのだから。
犯人逮捕には確かな証拠がいる。唐沢は呆気なく三振を喫した。先ほど同様祥子の携帯にメールが届いた。今度は、渋谷駅のロッカーに現金を置いたと告げていた。宮野は、先ほど同様、吹石に連絡した。吹石は、現金をロッカーにおいた人物の特定はまだ出来ていないと宮野に告げた。
「あと、チャンスは2回。延長になれば打席数も増えるが・・・」
宮野の焦りはピークに達していた。唐沢は、既に三振を2回喫している。その見返りに現金を受け取った。唐沢には現金が入った訳ではないが、三振をした事は紛れもない事実である。たとえ現金を運んできた犯人を逮捕しても、その男が口を割らなければ唐沢は八百長で荒川と同じ運命を辿る事になる。祥子は吹石からの伝言を唐沢に伝えた。唐沢は、次の打席に期待した。
フォエールズの先発三浦は今シーズン最高のパフォーマンスを示していた。フォエールズファン誰もがこの投球を開幕戦で期待していた。三浦は、エースピッチャーであり、開幕戦を任された。しかし、責任回数5回を持たず打ち込まれた。フォエールズにとって今日の試合は消化ゲームである。今日、好投をしても誰も評価しない。下手をすると逆に評価を下げる事になる。記録的には同じ1勝に違いはないが。
プレッシャーのない三浦は7回の先頭打者、1番の木下をセカンドゴロに打ち取った。
「いよいよ追い込まれた」宮野は初めて弱気な表情を祥子に見せた。
「宮野さん。勝負は下駄を履く迄分からないって言うのよ」
一瞬、宮野の時間が止まった。時間が止まる事はあり得ない。確かに時間は進んでいる。祥子が言った言葉があまりにも古すぎて、進んでいる時間と祥子の台詞が引力となり、宮野の時間を止めた。
「納得した」宮野はボソリと言った。
「何を?」祥子は問うた。
「唐沢がどうしてさっちゃんを選んだのか」
2番の上田も凡退した。気合いが空回りしているのが、ネクストサークルで観ていた唐沢には分かった。唐沢は第3打席もランナー無しで回ってきた。唐沢は、ここまで好機で打順が回らないとは予想外であった。打席に入りただ打つだけだった唐沢にとって、初めて筋書きの無い野球の怖さを、思い知った。唐沢は初めてチームメイトに期待した。チームプレイの難しさを痛感した。そして、到底、荒川の代わりなぞ勤まらないと悟った。ただ、打つだけでは試合に勝てないと。唐沢は祈った。他の選手の為に。俺の前に塁に出てくれと。
唐沢は3打席目もランナー無しで打席に立った。そして、呆気なく三振した。先ほどと同じ事が繰り返された。ただ一つの違いは、今回で残されたチャンスが後1回しか無い事である。
試合は、興奮と緊張が入り混じる接戦となり、シェパーズは1点ビハインドで最終回の攻撃を向かえる事になった。ベンチに戻った選手には諦めの表情は無かった。この時、球団関係者が血相を変えてベンチ内に飛び込んできた。
「荒川さんからの伝言です!」
男はそう言うと伝言を呼び上げた。
『恐らく、この場に、俺がいたらこんな試合にはなっていなかっただろう。こんな大事な試合でチャンスすら作れない、だらしがないお前達。俺がいたらホームランを打っていただろうから塁に誰もいなくても勝つ事は出来るが、唐沢にそれを期待するのは酷だよ。しかし、ここまで良くやった。まあ、ここまでがお前達の実力だ』
一塁側のベンチには沈黙が流れた。誰一人として荒川を憎む者はいない。自分達の不甲斐なさに腹が立っていた。選手達がバッターボックスを観ると既に9番の相川がサードゴロに倒れていた。続く、1番の木下も力が入りすぎて敢え無くキャッチャーフライに倒れた。
「追い込まれたな」宮野は言った。
「野球はツーアウトからって言うの、知っていた」祥子はベンチにいる唐沢から目を離さない。
2番の上田は無言でバッターボックスに入った。打つ気配が充満している。上田は、初球のストレートを三塁側へバントした。ボールはゆっくりと三塁側へ転がり、上田は、ヘッドスライディングで気迫を見せた。9回ツーアウトからバントをしてくるとは、誰も予想していなかった。
次に控えるのは3番のバレトンである。ここまで一度も4番を外れた事がない。バレトンにも意地がある。バレトンは初球を捕えた。ボールは左中間を真っ二つに破った。打球が良すぎて上田はホームまで帰る事は出来ず、三塁に止まった。ツーアウト二、三塁で唐沢を向かえる。
「ようやくチャンスで回ってきた!」宮野は言った。「さっちゃんならどう思う?」
「間違いなく、敬遠だわ」分かりきったこと聞かないで、と祥子は宮野を見た。
「敬遠されるとまずい事になる」宮野はニヤッとした。
キャッチャーはタイムを要請し、マウンドに駆け寄った。キャッチャーとしては唐沢を歩かせる積もりであった。唐沢のチャンスに置ける打率と次の打者を天秤にかけると、唐沢が圧倒的早さで天秤を押し下げる。次の打者は5番であるが、穴がある。コントロールさえ間違わなければ必ず打ち取れる。この場面、方針をチーム内で確かめる必要がある。キャッチャーの菊川は敬遠を確認した。マウンドに集まった選手は頷いた。マウンドに出来た輪に三塁側から重たそうに近寄る藤堂監督に満員の観客が注目した。
「何かしら」
「恐らく次の打者への攻め方と守備位置の指示だろう。それとも、この回をゼロで抑えたら特別ボーナスでも出すつもりかな」
監督は、必要以上に険しい表情でピッチャーに何やら指示している。ピッチャーは頷き円陣は四方八方へ散らばった。キャッチャーはホームベースの定位置に座り込んだ。
『キャッチャーが座りました!勝負のようです!』アナウンサーは幻でも見ているかのようにただ目の前の状況だけを伝えた。解説者も呆気にとられ仕事を忘れていた。
「宮野さん、これって!こんなことって有りなの?唐沢さん悔し過ぎるよ」
宮野は、黙ってバッターボックスを睨んでいる。宮野の身体が微妙に震えていた。唐沢は、バッターボックスを外し、ウエイティングサークルからロジンバックを手に取り、バットのグリップ当たりを2度、3度叩いた。白い粉が舞った。そして、三塁側のベンチで踏ん反り返っている藤堂監督を覗き観て、ロジンバックの着いたグリップを握り締める。バッターボックスに入る前に一塁側スタンドに目をやり、祥子に呟く。
「・・・・・」
「唐沢からの伝言、か」
宮野もそれを受け取っている。
場内からは、唐沢向けの応援歌は陰を潜め、変わりに球場内が一つのノイズを生んでいる。ノイズの元は色々ある。三振への期待、野次、勝負するピッチャーへの尊敬、そして”サヨナラヒット”への期待である。
ピッチャーは、唇を舐める。顔は引き攣っている様に映る。この場面で唐沢と勝負が出来るのだ。こんなに痺れる場面はプロに入ってもそんなに経験出来ない。
ピッチャー絶対不利。桶狭間の戦いか。これに勝利すれば名勝負としてプロ野球の歴史に名が残る。真のプロフェッショナルな選手、つまり人気の出る選手、MLBで言う所のビジターでブーイングが起こる選手になれるかの大一番である。ここで、萎縮し四球を出せば、笑われる。プロ野球選手が現場で笑われる程の屈辱はない。
キャッチャーは先ず様子見の意味を込めて外角スレスレにボール球を要求した。ピッチャーはそれを見て二段階で頷く。頭では分かっていても、場内の狂気は、爪先、指先、身体全体のあらゆる部分から入り込み、脳との連結を途中で麻痺させる。思い切り外角に目掛けた球は、魔法にでも掛かったかのように真ん中に吸い込まれていった。
「恥を知れ!」唐沢は声を張り上げた。
「えっ!」祥子は大きな声を出していた。「唐沢さん、打っちゃったよ!」
宮野の身体から全ての体液が放出されそうだった。唐沢の八百長打ちが荒川の仇を討ったのだ。
唐沢の弾き返した球は右中間を真っ二つに破り、この試合の終わりを告げた。一塁側ベンチから選手達が飛び出して来た。順番に唐沢にタックルを見舞っていく。ペットボトルの水が唐沢の火照った目を気持ちよく冷やした。成長期に現れた後遺症は随分と軽減されていた。唐沢は、歓喜の輪の隙間から三塁ベンチにいる藤堂監督を見た。当然の如く唐沢はヒーローインタビューに呼ばれた。
「今日のヒーローは勿論この方、唐沢選手です!」
場内の興奮は今年一番の盛り上がりを見せている。唐沢はいつもと異なる表情でお立ち台に上がった。唐沢は帽子を取って軽く振ってみせた。視線は相手ベンチに今も座り込んでいるフォエールズの監督を再び捕えていた。藤堂は薄笑いを浮かべていた。
「先ずは、最後の打席に向かった時の気持ちを教えてください。前の打席まで3三振でした。どうやって気持ちを切り替えたのですか?」アナウンサーの声も震えている様に聞こえる。場内の視線は唐沢に注がれ静寂している。
「もう決着を付ける時が来ました」
唐沢の意に反して場内は大歓声に包まれた。場内が静まるのを待ちアナウンサーは続けた。
「見事に唐沢選手が決めました」
「これで新たなスタートが切れます」
再び場内は歓声に包まれた。
「それは優勝宣言と捉えてもよいですか?」
場内は唐沢の言葉を待った。
「私の中で確信しました。そう思ってもらって間違いないでしょう」
唐沢の言った言葉は正にファンが期待していた言葉であった。唐沢は、場内が落ち着く前にお立ち台を後にした。通常、ヒーローインタビューの後には報道陣向けに写真を撮るのが習わしである。唐沢は、それをすっぽかした。唐沢は濡れた髪を手で掻き上げベンチへ下がった。タオルで髪をバサバサと乾かした。水が髪から垂れない事を確信して私服に着替えた。そして、2人が待つ事務所へ向かった。
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