第24話 攻防
唐沢は、祥子との問答を途中に、シャワールームへ向かった。唐沢はシャワーに打たれながら現状をおさらいした。
1位:ジャイアンツ ゲーム差:−
2位:シェパーズ ゲーム差:2.0
3位:タイガース ゲーム差:6.5
4位:フォエールズ ゲーム差:2.5
5位:ドラゴンズ ゲーム差:5.0
6位:カープ ゲーム差:2.5
シーズン全日程を終えた時点で3位以内に入ると、クライマックスシリーズに進む事が出来る。クライマックスシリーズとは、メジャーリーグに例えるとプレイオフである。はじめに、2位と3位のチームが試合を行い、先に2勝すれば、次のステージに進む事が出来る。次のステージでは、1位のチームと試合を行い、先に4勝すれば、リーグ代表として日本シリーズに出場出来る。
シェパーズの残り試合は、雨天中止の再試合も含めて7試合である。一方、首位のジャイアンツは5試合を残している。首位ジャイアンツとのゲーム差を考慮すると逆転優勝の可能性は五分五分であるが、2試合多く残しているシェパーズの方がやや有利と観る解説者が多い。ただ、現ジャイアンツのチーム状態からすると、5試合全て勝つと予想する解説者もいる。なぜなら、残り5試合中、2試合は最下位のカープ戦である。今年のジャイアンツはカープに負けた印象がない。あとの3試合は、ドラゴンズが2試合、そして最終戦がシェパーズになっている。
唐沢はチームメイトの事を思いながらシャワーを止めた。整理がつくまでシャワーを浴びようとすれば、水道代の無駄である。髪の水分を飛ばしバスタオルに手を掛けた。全てのプロ野球選手はチームの優勝の為に全力プレーをしている。少なくともファンはその様に思っている。もちろん、1軍と2軍の境界線にいる選手が自分の成績を優先している事があるとしても、納得が出来る。ただ、探偵の目から見て今のシェパーズのメンバーは、荒川選手が抜けてからより一層チームプレイが見られた。これから唐沢がやろうとしている事で、シェパーズの順位を上げる事になったとしても、下げる事は許されない。決断を迫られる打席が来れば、打たない選択を取る自信が揺らいでいた。
シェパーズの今夜の相手は4位のフォエールズである。現在4位のフォエールズは、タイガースの上に行けばクライマックスシリーズに出場出来る。このシステムが導入された為にペナントレース(クライマックスシリーズ以前の試合)への思いが低下したようだ。フォエールズとしてもタイガースが連勝すれば望みがなくなるが、終盤の負けられない試合に勝つ事がファンの心をつかみ、シーズンオフの年俸交渉を優位に進めるチャンスである。
『江田さん、今日は解説の方、よろしくお願いします』
『こちらこそよろしくお願いします』
『なんと言っても今日の注目は試合の行方もそうですが、唐沢選手の最初の打席ですね』
『新人で10打席連続安打中らしいね』江田は他人の事であるが他人事の様に言った。
『やはり、並の新人ではないですね。唐沢は』
『ここまでやるとは正直びっくりですね』解説と言うより感想を述べた。
『しかし、記録に並ぶ事と更新するのはプレッシャーの掛かり方がちがいますからね。それに、ピッチャーもいやですよ。自分の投げた球で記録を作られるのは。記録更新のVTRが流れる度に登場しますから』
球場に足を運んでいたなら、江田の解説を聞かずにすんだが、祥子は唐沢の自宅でテレビ観戦していた。宮野はどうしても都合が付かず、祥子ひとりで観戦するのは危険であるとの結論に至った。祥子は最後まで納得していなかった。最後の悪足掻きは、禁断の果実をかじるかの如く、“吹石刑事とあの田村刑事が監視しているはずだから”と。この言葉を発した瞬間、祥子は墓穴を掘った事を、唐沢と宮野の真顔で見つめる目で、悟った。自らどれ程までに危険な状態に居るのかを認めたのだから。
『ピンポン』唐沢宅のインターホンが鳴った。祥子がモニターを覗くと宮野が手を振っていた。宮野に対して手を振り返すつもりはないが、仮に振ろうとしても宮野からは祥子を見ることは出来ない。宮野は合い鍵を持っているのに、と思いながら祥子はロックを解除した。
「もう始まっている?」宮野はリビングに入るなり言った。やはり、合い鍵を持っていたのだ。
「宮野さん、玄関の鍵は自分で開けるのにどうしてさっきは呼び出したの?」祥子は夕食を暖めながら言った。
「だっていきなり玄関を開けたらさっちゃん驚くだろう」
「やっぱり宮野さんって唐沢さんと違うわね」祥子は、ビールで良かったわねと言いながら冷蔵庫を開けた。
「唐沢は素直じゃないからね」宮野は言いながらテーブルにならんでいるご馳走に目をやった。テレビでは試合が流れているにも関わらず。
「こんな風に野球を観戦するのも悪くないな〜」宮野はご機嫌であった。
「宮野さん、これも経費に加算されますからね」
宮野は、構わない、の代わりにビールを開けた。
『江田さん、今日の試合は両チームにとって大事な一戦ですね?』実況の真鍋が言った。
『どちらかと言えばフォエールズの方が大事でしょうね。シェパーズにしてみれば、クライマックスシリーズへのチケットは得ている訳ですからね』
『なるほど。そう言う見方もありますか』
『私はですね。このクライマックスと言うシステムには反対ですね。だってそうでしょう。ペナントレースに優勝しなくても日本シリーズに出るチャンスが有るわけですから。143試合戦って優勝するにはチームの底力が無いと出来ませんよ。それぞれチームには波がありますよね。個々の選手にも波があるように。その波をいかに無くすかがペナントを戦う上で重要なのです。不振の選手がいれば代役を立てるとか。だから選手層の厚いチームが優勝するのですよ』
江田はいつになく熱く論理的に語った。そして、更に続けた。
『プロ野球ですからね。興行として成功しないといけませんから。クライマックスなんてお金を儲ける手段でしかありませんよ。はっきり言って昔はもっと1位で終わる事に命を掛けていましたよ。最近では、2位でも良いと言う風潮がありますよね。まあ、ルールですからね、それでも良いとおもいますが』
「宮野さん、この人の言っていることに付いて行けないわ」確かに祥子に理解するのは難解過ぎる。
「宮野さんはどう思うの?」
「俺は賛成だけどね。江田にじゃなくて。クライマックスシリーズに勝つのも実力だから。短期決戦に弱いのは結局、真の実力がないから負ける訳で。強い方が勝つのではなくて、勝った方が強い」
「宮野さんの哲学って凄い!」祥子は感心していたが、この台詞を最初に言ったのは宮野ではない。
江田の熱弁について議論している間に1番と2番打者が既に凡退していた。テレビ中継は打席に向かう唐沢を横からとらえていた。唐沢に最初の打席が回ってきたのは、ツーアウトでランナー無しの場面だった。
『さて、江田さん、試合の行方以外に今日は見逃せない選手がいます』
『唐沢ですね』
『今現在唐沢選手は、10打席連続安打中です。この打席でヒットを打てば日本記録に並びます』
『そうですね。唐沢選手に謝らないといけないですね』
『それは、どうしてですか?』江田の日頃の言動から予想も出来ないコメントだった。
『デビュー当時はここまでやるとは思っていませんでしたから失礼なコメントをしました』
『では、改めてお聞きしますが、ここまでの唐沢選手をどの様に評価しますか?』
『いや〜。まずは良い意味で期待を裏切ってくれましたね。恐らく誰も予想していなかったと思いますよ』
このコメントを聞いて祥子と宮野は目を合わせビールの入ったグラスを鳴らした。
お構いなしに江田は続けた。
『私はピッチャーでしたから技術的な事は分かりませんが、この打席も期待できると思いますよ』
唐沢は、いつもと同じペースで打席に入った。先発の万田は1、2番との対戦と変わらず、落ち着いた表情でキャッチャーのサインを覗っている。キャッチャーは一度ベンチを見た。初回にベンチからキャッチャーにサインが出る事は珍しい。万田はここまで、14勝6敗の成績で今日勝利すると勝ち星が最多タイとなる。万田に気負いは無い。たとえこの打席で打たれたとしても連続安打記録はタイである。タイ記録達成の瞬間に、時間は止まらない。万田は振りかぶり初球を投げた。ボールはストレートでやや甘め、外角に決まった。
『江田さん今の球は甘かったのでは?』実況の真壁は江田に訊ねた。
『確かに甘かったですが、山が外れたのでしょう』江田は当然の様に言った。
江田のコメントを聞いて祥子は言った。
「ランナーいないから打つつもりないのかな。でも、記録が掛かっているのに」
「・・・・」宮野は言葉を発しなかった。
万田はキャッチャーに肯き、2球目を投じた。1球目と同じ軌道でホームベース上をボールは通過した。判定はストライク。
『どうして見逃したのでしょうか?』真壁は、観衆および視聴者を代弁して実況した。
『打つ気が無いのですかね。解説不能です。ランナーがいないわけですから、この場面は100%個人的な記録を狙えますよ。つまり、チームプレイより我が侭放題でいいのですよ』江田は解説を諦めた様に意見を述べた。
唐沢はツーストライクと追い込まれた。ここまで一度もバットを振っていない。次のストライクを見逃した場合、三振となり、約束を守った事になる。
ピッチャーはアウトコースぎりぎりにストレートを投げ込む。唐沢は、はっきりとボールがベースの上を通過した事が見えたのでストライクと判定するが、バットを振らなかった。主審は、右手を天に向け三振をコールした。場内からは溜息が漏れた。この機会でバットを一度も振る事無く、三振する事はあり得ない。筋書きの無い野球に捻れた脚本であるかのように、実況の真壁は唐沢の呆気ない三振を揶揄するコメントを言った。『全く期待外れでいたね』そして、解説の江田も唐沢の体調が悪いのが原因としか考えられないとCMに切り替わる直前に言った。
「これで、本当に良いのかな?唐沢さん、考えがあるって言っていたけど・・・」
宮野は、何かを考えているのか、一言も発しない。祥子には不安が募るばかりであった。球場にいれば、今唐沢がチームメイトからグラブを受け取り守備についている筈である。その姿を見る事が出来る。試合は、その後、シェパーズが2回の攻撃で1点を先制した。一方、フォエールズも3回の攻撃でランナーをひとり置いて8番キャッチャーの菊川が今シーズン初本塁打を放った。
シェパーズは4回表の攻撃を向かえる。この回の攻撃は3番の唐沢からである。祥子は、想いとは裏腹に無言で唐沢の2打席目を見守る。でも、これだけは唐沢さんにちゃんと伝えておきたい。全てが終わる前に。
『唐沢さん、何の為に今まで耐えてきたの?あっさり八百長するため。もし、私のためだったら、、、平気だから』
『先ほどは、ストレートを3球続けて見送り三振に倒れております。つまり、連続安打記録は途切れた訳です。この打席は何と言いましょうか、期待しても良いですか?』言葉とは裏腹に真壁は言った。
前回の打席でヒットを放っていればこの打席の視聴率は期待に比例していたに違いない。江田も独自の意見を言った。
『まあ、唐沢は何と言っても新人ですから。記録へのプレッシャーは計り知れませんよ。真壁さんはゴルフをしますか?ゴルフの世界では有名ですが、イップスという言葉を聞いた事がありますか?』
『パットなど打つと時に、緊張からか、精神的に身体が動かなくなる現象ですよね』
スポーツ担当のアナウンサーに取っては常識なのだろう。
『野球の場合は、動いている球を打つので、イップスとは言いませんが、唐沢も身体が動かなかったのでは無いでしょうか。ですからこの打席は先ほどの打席とは全く状況が違いますね』江田は自慢げに解説した。その表情は残念ながら全国には中継されてはいないが。
ピッチャーの万田は振りかぶり足を上げて初球を投じた。サインはストレートである。最初の打席から数えて4球連続ストレートになる。しかし、ボールは大きく外角に外れた。2球目も同じくストレートを投げ込んだが今度は内側に外れた。3球目は、菊川は変化球を要求したがベースの手前で地面に当たり、ボールは大きく反れ、菊川は捕球する事が出来なかった。4球目は、ストレートを要求したがリズムを崩した万田はストライクを投げる事が出来なかった。カメラはすかさずフォエールズベンチで渋面の監督藤堂を捕らえた。
『今、ベンチの藤堂監督が映りましたが、かなり厳しい表情ですね』
『先頭打者ですからね』
万田は、打つ気の無い唐沢に四球を与えた。祥子は何も言わなかった。宮野も鏡に映っている祥子の様に無言でいた。
試合は進み、2対1でフォエールズのリードのまま7回表のシェパーズの攻撃を向かえる。先頭打者の8番が凡退し、続く9番ピッチャーの所でベンチは好投を続けてきた先発の倉田に代打を送ったが、平凡なセンターフライに倒れた。しかし、ツーアウトから1番の木下がレフト前に放ち、続く2番の上田がライト前にしぶとく運んだ。一塁に居た木下は快足を飛ばし、三塁まで進んだ。
「わざわざツーアウトから、唐沢さんの前にチャンスで回す事無いのに」
いつもなら喜ぶ場面であるが。これに対して宮野は野球で言われる格言を説いた。
「野球はツーアウトからって言うからね」
「宮野さんはどちらの見方なの!そのツーアウトからってどんな意味なの?」
「俺の理解だけど、ツーアウトからでも点は十分に入る、とか、諦めるな、とか、理由は分からないがツーアウトから得点する事が良くあるんだよ」
「そうなの?」祥子は驚いた。そして続けた。「唐沢さんがプロ野球の選手になって以来試合を観ているけど、ツーアウトから得点する場面なんてあまり覚えていないな」
「それは、さっちゃんが唐沢の打席にしか興味がないからだ。それに、ツーアウトからの得点が実際に多い訳ではなくて、ファンの印象に残るからだね。相手に与えるダメージも大きいし」
「そっか。だったら尚更この場面唐沢さんには打って欲しいな」祥子は祈る思いで唐沢を見た。唐沢が本気で打つ積もりなら違ったドキドキ感があったのに、と心で思いながら。
この場面、敬遠の可能性もゼロではない。しかし、得点差は1点であり、ここで敬遠すると満塁になる。つまり、一打で逆転となる。終盤で逆転を許す訳にはいかない。
『江田さん、次はこの所好調の4番のバレトンです。敬遠はありますか?』
『いつもの唐沢なら可能性はゼロではないでしょうね。しかし、今日の唐沢は調子がいまいちですからね。勝負すると思いますよ』
江田の言った通りキャッチャーの菊川は座ったままサインを出した。逃げようの無い場面が宮野の沈黙を破った。
「唐沢は打つよ」
祥子は、引き攣った。
「どうして、そう思うの」
「だって、この仕事、唐沢は引き受けたのだから」
「でも、これまで一度もバットを振らなかったわ」
「ああ、振る必要がなかったから」
「例え連続安打の記録が掛かっていても」
「ああ」
祥子は納得出来ないでいた。
この回からフォエールズのマウンドには中継ぎの近藤が上がっていた。近藤は1球目を投じた。外角に外れるボール。唐沢は前の2打席のビデオ再生の如く全く動かない。2球目はスライダーが外角低めに曲がり込んでストライク。
「本当に打つ気あるのかな?」
3球目は、インコース高目に切れ鋭く食い込み、これも判定はストライク。
「宮野さん、追い込まれちゃった」
近藤は、サインを確認しセットセットポジションに入った。そのまま投げると思われたが一度マウンドを外し一塁にゆっくり牽制球を投げた。これは、ランナーを刺す目的ではなく、次に投げる球が遊び球でなく、勝負球である事を示している。
近藤は、ボールを両手でお握りを作るように捏ねた。お握りは柔らかく愛情を込めるがマウンドの近藤は出来る限りの力で魂をボールに込めた。中継ぎを任されたからにはこの回を押さえて、抑えのピッチャーにリードを保ったまま引き継ぐ事が仕事である。キャッチャーは外角低目を要求した。近藤は息を整え、勝負球を投げ込んだ。唐沢は全く反応しない。キャッチャーは(占めた)と吐いた。ボールがホームベースに到達した瞬間、唐沢のバットがボールを弾いた。ボールは、方向をやや一塁側に変えて、バックネットに当たった。
カウントは依然としてツーストライク、ワンボール。キャッチャーは構えを変えず、同じく外角を要求した。ピッチャーは振りかぶり、と、同時にキャッチャーの構えがボール2つ分右にずれた。ピッチャーの投じた球はインコースから飛び出し、ベース手前1メールの所から、大きく外に鋭く曲がるスライダー。ベースの角を掠めて通過したが、再び唐沢のバットがボールを触り、ピッチャーの与えた回転に更に加速が加わり、ボールは急回転しながら先ほどより、更に一塁寄りのバックネットに食い込んだ。
「私は、唐沢さんに、大きいのを打って欲しい。ホームランをかっ飛ばして!」そう言い放つと祥子の口元は頑丈に閉じられた。
次の球は、キャッチャーの要求通りインコース高目に外され平行カウントに。再び、キャッチャーは外角を要求。この打席、インコースへのストライクはピッチャーの投球ミス以外あり得ないが、唐沢の頭にはそんな野球のセオリーなど片隅にも無い。しかし、近藤の表情から次のボールが勝負球であること明らかだった。近藤は余力を凝縮し、投げ込んだがボールは再び唐沢のバットの上面に当たり、キャッチャーマスクを吹き飛ばした。
「そう言うことか。唐沢は打つ気は無い」宮野はニヤッとした。
「えっ、でも唐沢さん、今・・・」
「そう、バットは振っているけど、前に、いや、フェアーグランドに打つことはない。唐沢の狙いは、四球なのだ」
「じゃあ、故意にファールを打っているの」
「そう。ストライクは全て、ファールにするのさ。これならチームに迷惑も掛けない」
唐沢の狙い通り、ピッチャーは根競べに負けて、唐沢を四球で歩かせた。この打席に費やした球数は18球で、ピッチャーの表情からは闘志も一緒に投げ込まれたことが、読み取れる。唐沢は、約束を守ったし、八百長もやっていない。フォエールズ監督の藤堂は、帽子をベンチに叩きつけた。
『江田さん、近藤投手が根負けしました。ベンチの藤堂監督が画面に映されましたね』
『藤堂監督の気持ちは分かりますが、唐沢の粘りを褒めるべきでしょうね。満塁になりましたから、ここでセットアッパーの白井を出すべきでしょうね』
ここで打席に入るのは、4番のバレトンである。フォエールズのベンチは近藤を続投させたが、唐沢の打席で18球投げた事が原因で、バレトンにセンター前に運ばれた。二塁にいた走者までホームに駆け込みシェパーズは逆転に成功した。
唐沢の最終打席は、ツーアウト二・三塁で打順が廻ってきた。
「今回は苦労せずに済みそうだな」宮野は安堵の表情を浮かべた。
「どう言う事なの?」
「だって一塁が空いている。唐沢の得点圏打率は8割を超えている」
「宮野さん、あてにならない」
「ここで唐沢を歩かせない野球は存在しないよ。ベースボール(米国の野球)にも敬遠は存在する。つまり、メジャーリーグでも敬遠を選択すると思うよ」
宮野は、確信していた。直ぐに宮野の言った事が正しいと証明された。キャッチャーが立ち上がったのだ。ピッチャーは力の無い球を四球続けて投げた。唐沢は一度もバットを振らずに四球を選んだ。試合は、7回に逆転したシェパーズがそのまま勝利した。
その日の夜、唐沢に待っていた電話が入ったのは深夜遅く。宮野と祥子もいた。
「唐沢さん、ちょっとルール違反じゃありませんか?」
「そんな事はないでしょう。貴方の言ったようにホームランはおろかヒットも打っていませんから」
「どうも、分かってもらっていないようですね。三振を期待したのですよ。三振を。特に、3打席目ですよ。貴方を観ていたらどうも三振をする構えじゃなかった。1、2打席目と3打席目とでは全く違いましたよ。タイミングの取り方が」
「そんな蘊蓄を聞く時間はない。それより八百長をして欲しいなら、こっちも保障してもらわないと」
「つまり、前払いと言うことですか?」
「話が早いな。さすが読みが深いよ」
「褒めて頂いてどうも。しかし、それは、無理な相談ですよ。こっちは、紳士的にお話しているのに」
「だったら、次の試合、1打席目に三振する。それを見届けたら4分の1を指定の場所へ届けてもらう。三振する毎に2,500万円。4打席後にはキッチリ1億円になる」
「分かりました。でも、場所はこちらから指定します。そこへ現金を持って行きますよ。一緒にいる、確か祥子さんと言ったかな。その人に受け取ってもらいましょう」
唐沢はゆっくりと電話を置いた。
「本当に、三振するの?」
「ああ。やつの目の前で三振する。チャンスは4回しかない」
唐沢の目は決戦の時を告げていた。祥子は、その表情を窺う以外出来なかった。それは、マイナスでは無く、むしろ祥子を安心させた。唐沢が何にチャンスを見いだしているのか理解出来なかったが、祥子にはそれが達成出来た時、唐沢が野球を辞める時であると確信した。
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