第23話 束の間の休暇
移動日を利用して唐沢は祥子と出掛ける事にした。ここまで有名人になると大手を降って都内の街を自由に楽しむ権利はない。知名度と引き換えに。唐沢の場合、物理的自由を引き換えた訳ではないが。人によっては、自由を奪われたとは思わない類いもいるはず。奪われた筈の自由が、その種の者によっては逆に上流階級に属したと歓迎するだろう。少なからず唐沢はその種の人間ではない。そして、祥子も同様に。
行き先は、河口湖にある別荘。ここは育ての親が所有している別荘であり、いつでも使ってくれと唐沢は鍵を貰っていたが、一度も訪れた事がなかった。現状、出掛ける事は得策ではない。試合のある日は宮野が祥子と一緒にいる事が出来るが、その間、宮野のタスクは北国の雪の様にシンシンと積もってゆく。週末はその溜まった雪を除雪しなければ、車を走らせる事も出来ないし、歩くこともままなら無くなる。
唐沢には祥子と一緒にいる口実が必要なのだ。ただ、万が一の事を考えて週末一緒に居ようと言っても祥子は断る。ひとりでも大丈夫、と。週末はゆっくり休んで、と言った様な言葉を付け加えて。更に、私のことなんか心配する暇があったら守備の練習とか、やってちょうだい。いつもサードにボールが飛んだら危なっかしくてみていられないわ。と、追い打ちを掛ける可能性も高い。その証拠に、週末、気分転換したいから付き合ってと祥子に言った時、彼女は、唐沢さん、今回の旅行は、時間外手当にあたるからね、と返してきた。
休暇当日、ゆっくりと朝食を済ませ祥子の自宅まで唐沢が迎えに行く段通りであった。前日、準備の為、祥子は自宅に戻っていた。祥子の警護は宮野が吹石に頼んでいた。この旅行を言い出したのは唐沢本人であるが、詳細な計画はない。ただ、東京を離れて気持ちを落ち着けたいだけである。
唐沢は、予定より30分程度遅れて祥子宅に到着した。前日、何の準備もせずに眠ってしまった為に、唐沢は慌ただしい朝を迎える羽目になった。祥子には事前に遅れると連絡を入れておいたので、遅刻に関する仕打ちは避ける事が出来た。朝起きて時計を確認し最初にやった事が祥子への連絡だった。この時優先順位を起きたての脳で正しく行えた事が、今後の旅の雰囲気を左右したのである。
「唐沢さん、今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
祥子には行き先を伝えていなかった。ただ、泊まる準備をしておいてと告げただけだった。泊まると告げると行きたくないとか、何を考えているのとか、想像出来る範囲でもムカデの足以上に考えられたが、想像出来ない部分まで入れると答えを準備する気力がなかった。だから、唐沢は何も備える事無く聞いたが、祥子は、分かったわ、楽しみ、とだけしか言わなかった。
泊まりと言っても翌日はナイトゲームが有るために早朝には現地を出発する必要があった。プロ野球選手にとってシーズン中は連休を取る事は出来ない。例外として、投手の場合(先発投手に限る)、オールスターの選考から漏れた場合、そして交流戦の前後は連休を取ろうと思えば取れない事もない。
「楽しみにしていて。多分、気に入ると思うよ。俺も行くのは初めてだけど・・・」
唐沢は言いながらメモを片手にカーナビに目的地を設定した。絶好のドライブ日和である。日頃の行いと天候には相関関係が無いことが証明された。
「へえ〜河口湖か。最近行っていないな」
祥子は前回行った時の事を思い出しているようだった。
「普通見ないよね。目的地を黙っていたのに」
「だったらナビに頼らずに連れて行って欲しいわ。どのみち、『間もなく右折です』とか、『なんとか方面です』、とか、『目的地まであと何キロ』とか、無感情な声でどんどん行き先が分かってくるのだから」
唐沢は、何も反論せず、車を走らせた。都内を軽く走り抜け中央道に乗った。渋滞もなく目的地へは予定通り2時間余りで到着した。唐沢は、河口湖に面した道路脇に車を停めた。
「お昼にしようか?」
唐沢は朝食を抜いていた。と言うより、食べている時間がなかった。
「あ〜すっごい気持ちがいい」
車から降りた祥子は大きく両手を広げた。何から解放されたのだろうか。唐沢には色んなモノからの解放に思えた。
「お昼は、イタリア料理でいい?」
「いいわね!」
平日だったのと、お昼には30分程度早いせいもあり自由に席を選ぶ事が出来た。土日、祝日が休みのサラリーマンにとって平日の空き加減は羨ましい限りだ。この2人にはこの様な感覚は持ち合わせていないが。
唐沢達は河口湖が望めるテラス席を選んだ。この天候、婚約事件、脅迫電話、先日の襲撃、これらの要素から店内に籠もる合理的理由はない。店員は河口湖に相応しい笑顔でお冷やと、メニューを持ってきた。唐沢に気づくこと無く、注文が決まったら呼んでください、と言って店内に戻った。祥子はメニューを見る代わりに、両手に顎を乗せ、河口湖をゆっくりと右から左に眺めていた。芦ノ湖の大きさと祥子の目の動く速度を考慮すると、しばらく時間が掛かりそうだった。唐沢は、注文を任せたと言って席を立った。
「どこへ行くの?」
トイレと言って唐沢は店内へ向かった。河口湖を見ながら祥子は思った。随分と遠くまで来たと。距離的に大した事はないが、この状況を考えると随分と冒険したように思えた。そんな風に思いを巡らせていると、唐沢と初めて会った時の事が脳内に映写された。随分と前の話である。『白黒』の時代までは遡らないが、脳内の映写機はどうも白黒だった。
祥子は切っ掛けが欲しかった。心の奥底では他の事をやりたいと思っていた。エスカレーターに乗っているかのように、定めに従って勉強し、銀行から内定を勝ち取りそのまま就職するはずだった。唐沢に会うまでは。だから、一度も後悔はしていない。銀行に行かなかった事も。その事について両親がガッカリした事を隠していると分かった時も。そして、今、店内から知らない男を2人連れて出てきた唐沢を見たとしても、驚かない。
「この人は?」祥子は呆気に取られた様に言った。
「それより注文はきまった?」唐沢は先ほどの状況からまだ時間を要すると踏んでいたが、河口湖スマイルの女性とすれ違ったので少し期待を込めて言った。
「私を信用してくれてありがとう」
唐沢の少しの期待が当たった。
「改めて自己紹介をお願いできますか?」唐沢は男に言った。
「警視庁の吹石です。そしてこっちが田村です」
田村は無言で頷いた。
「えっ!警視庁」祥子は現実に引き戻されたかのように目を開いた。
「どう言う事なの?」
唐沢は、祥子の問いに答える変わりに吹石を見た。
「宮野さんと約束しました。あなた達を護衛するように」
唐沢は、開いている椅子を2人に勧めた。吹石と田村は、祥子と唐沢の正面に腰を下ろした。
「宮野から話は聞いていましたよ」
唐沢は、お冷やに口を付けた。
「いつから気づいていましたか?」
「高速に入る前からですよ」
「いや〜野球選手に尾行がばれていたとは」吹石は、運転していた田村を見た。
田村の責任ではない。襲撃の一件から唐沢の本能が目覚めていたのだ。
「唐沢さん、どうして早く言ってくれなかったの?」
「言っても不安がるだろう。それに、あれだけの鼾を聞かされたら邪魔できないよ。それより何を注文したの?」
「来れば分かるわ!」
祥子は、一度見渡した河口湖に再び目をやった。
「今日は現れないでしょうね」唐沢は笑った。
「油断はできないですよ」
「確かに。油断は出来ませんが、ここまで追ってくるような相手ではないような気がします。そう言いながら道中ずっと気に掛けていましたけどね」唐沢は再び笑った。その笑みをみて吹石は言いづらそうに、
「この間襲ってきたやつには心辺りはないのですか?」
田村も身を寄せた。
「心辺りはありますが・・・」唐沢は少し意地悪に返した。祥子は失礼よと眉をひそめた。聞き方が悪かったと質問を改めようとしている吹石より先に唐沢が言った。
「宮野にも伝えましたが、野球帽を深く被っていましたしから。もう一度見れば分かると思いますが。身長は175センチ前後で痩せていました。年は、そうですね・・・30過ぎだと思います。暴力団関係者では無かったと。あと、特徴的な所は思いつかないですね」唐沢は、2人が訊きたいと思われる事を可能な限り伝えた。
「バットの方は鑑識で調べています。前科があれば引っかかると思いますが・・・」
「祥子、吹石さんがお尋ねだよ」
「私は、バットには触れていません!唐沢さんこそ大丈夫なの」
唐沢は断られることを承知で2人に言った。
「それより、一緒にお昼どうですか?」
そうね。と言いながら祥子は店内に顔を向け、店員と目が合うのを待った。田村はすかさず祥子を制した。
「いいえ。自分達は職務実行中であります」
唐沢と祥子は目を合わせ笑った。それを見て吹石はばつが悪そうな顔をした。唐沢は誠実な田村に好感を持った。
「すみませんでした。こんな所まで来させてしまって」唐沢は田村を気遣った。
「気にしないでください。こちらこそ申し訳ないと思っています。囮のような事をさせてしまって」吹石が言った。
「今度は絶対に捕まえてね」
祥子は田村に向けて握りこぶしを作った。
唐沢達は河口湖での休暇を満喫し自宅へ向かった。
夜のドライブは、一日の終わりに生まれる故に、その日の余韻と目的地への安堵感、そして、ヘッドライトの照射が織りなすパラパラ漫画に似た景色の流れは、車内のムードを独特のものにする。
早朝のドライブは、裸体でいるように、どこにも隠れ場所が無く、密かな思いを打ち明ける心の暗証番号の桁数を四桁から一桁に格下げする。河口湖をあとにして気持ちの良い一般道を走り、昨日出た料金所を抜け車が加速を始めた時、祥子が口を開いた。
「必ず返すから・・・」祥子は助手席側の窓からの景色を流しながら言った。唐沢は、冗談で返す事をしないで返事をした。
「それまでは、唐沢事務所で働いてもらわないと」
祥子は何も言わなかった。そこから中央高速道を降りるまで2人の間に会話はなかったが、車内の居心地はこれまでに無く、早朝の自然が醸し出すそれよりも、清々しいものだった。
唐沢の自宅に戻ると、祥子は先にシャワーを浴びると言ってリビングを出た。唐沢はソファーに凭れ、目を閉じ、微かに聞こえるシャワーの音を聞きながらこれからの事を考えていた。その静寂を遮るかの様に携帯が鳴った。非通知であるが唐沢には相手が予想出来た。それも高い確率で。
「おはようございます」男の声はこの間と同じだった。休暇の余韻は駐車場に置いていたので、唐沢に動揺は無かった。
「暇なやつだな、お前は」
このタイミングで電話を掛けて来た意味を嫌みで言った。監視しているとでも伝えたいのであろう。
「モーニングコールですよ。と言っても、起きていらしたようですが」
「俺は、朝が強いから今後一切モーニングコールは必要ない」
「はっはっはっ。気の強さも一流ですな。これから貴方に起こる事故への挨拶だよ」
「それは、楽しみだな」
「昨日は本当にお楽しみだったようですね。どこへ出掛けていたのですか?」
「それは、質問なのか、それとも答え合わせか?」
「質問ですよ。私も貴方が思っている程、暇ではないですからね。こんな形でも私の様なものと関係が持てるだけでも貴方は幸せを感じるべきなのです」
「さっさと用件を言え」
「用件は、ただ一つですよ」
「俺に打つなと」
「気持ち良かったわ」
スエットに身をまとい髪の毛をバスタオルで拭きながら祥子がリビングに入ってきた。唐沢は、携帯のマイクを手で覆いながら祥子に合図した。祥子は、しまったと思いながら人差し指で口にチャックをした。
「鋭くなってきましたね。その通りです。お願い聞いていただけますね」
祥子は、唐沢の隣に座った。そして、携帯に耳を傾けた。
「分かったよ。打たなければ良いのだな。その代わり、俺にも頼みがある」
祥子は両目を開き、唐沢を見た。
「何でも言ってください」
「金をくれ。八百長をやるのだ。それくらいの保障をしてもらわないと」
祥子は右手を左右に高速で振り、駄目の合図を唐沢に送った。言葉で伝えたくて仕方が無い。
「いいでしょう。それで、幾ら欲しい」
「1億円」
「随分と欲張りますね」
「どっちが欲張っているんだ」
「いいでしょう。明日の試合で本当に打たなければ用意しましょう。見届けさせてもらいますよ」
「分かったよ」
唐沢は電話を切った。ようやく、話す機会を得た祥子は止まらない。
「どうして、あんな事を言ったの。絶対に駄目。八百長なんてやったらこれまでの苦労が何の意味もなくなるわ」
「分かっているよ」唐沢は冷静に言った。
「でも、電話では言っていたわよね。八百長と引き換えにお金をとか」
祥子の目に、とっても透明な液体が湧き水の様に溢れ出し、髪の毛を拭いていたバスタオルで顔を覆った。
「祥子。八百長はしないよ」唐沢は、バスタオルを祥子の顔から剥ぎ取り濡れている髪の毛をゴシゴシと拭いた。顔を上げた祥子の目に出来ていた湧き水は枯れていた。
「どういうことなの?」
「だから、八百長はしない」
「それじゃ、今日の試合、打つのね」
「いや、打たない」
「だったらやっぱり今日球場に行こうかな」
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