第22話 襲撃

 唐沢は後味の悪さを引きずって事務所に戻った。試合を終えてから辻本を打ち込んだ事への後悔が大きくなる一方であった。対照的に、宮野と祥子は新人王対決に勝利した事と初ホームランを放った唐沢を笑顔で迎えた。2人は、ソファーに座りスポーツニュースが始まるのを心待ちにしていた。


 唐沢がシャワーを終えると、2人はチャンネルをスポーツニュースを最初に放送する局に合わせていた。今現在、明日の天気を伝えていた。いつもの流れから行くとこの天気予報に続いてCMが割り込まれ、スポーツニュースへと繋がる。この隙間を利用してトイレを済ます視聴者もいるだろう。唐沢は、お笑い番組が観たかったが2人の表情を見ると言い出せなかったので、テレビを観るより祥子の表情を楽しんでいた。


 いよいよシェパーズ対ジャイアンツ戦の模様が始まるのを一本の電話が遮った。唐沢は祥子にその電話に出る意思がないと悟りそれに出た。


「今日のご活躍おめでとう」

ボイスチェンジャーを使っている訳ではないが、聞き覚えの無い声である。唐沢は、表情を強ばらせた。

「あんたは?」

「そうですね。貴方のファンと言ったところでしょうか。それも熱狂的な」

唐沢は、宮野に合図した。宮野は、相手が誰であるか見当が付いた。そして、テレビのボリュームを下げた。

「それは、どうも・・・」

「お礼なんて、よして下さい。こっちは、頼まれてやっている訳ではありませんから。熱狂的って言ったでしょう。私はね、貴方の私生活も含めて応援してあげますから。可愛い婚約者もいらっしゃるようですし・・・」

「彼女は関係ないだろ!」

「安物のドラマみたいな事言わないで下さい。私にとって彼女は大いに関係がありますよ。そう、主役ですよ。貴方にとって大切なものはなんですか?」

「何が言いたい。はっきり言え」

「だから、貴方にとって一番大切なものですよ」

「沢山あると言ったら」

「それは、困りましたね。そんなに欲張ったら全てを失い兼ねない。忠告しておきます。一つ選んでもらえませんか?それによって答えが変わりますから」

「どの答えを出しても歓迎できそうにないな」

「そんな事はありませんよ。だったら、一番正しい答えを教えてあげます。明日の試合、打たないでください」

「八百長をやれと」

「そうは言っていませんよ。私はただ打つなと言っているのですよ」

「それは出来ないな。プロである以上、全力でプレーをするのが私のモットーですから」

唐沢は、心にも無い事を言った。

「それが鬱陶しいのだよ。お前の様な人間が記録を残すのが」

「記録なんてどうでも良いんだよ。俺に取っては。そんなものはパソコンの肥やしにすればいい」

「後悔するぞ」

男は声を荒げた。唐沢の言葉が男の神経に障った。

「俺は今まで後悔って事をしたことがないんでね」


 これは、真実では無かったが唐沢は冷静に告げた。同時に、電話が切れた。唐沢がテレビ画面を観たときには自分のホームランのシーンは終わっていた。

「誰だったの?」

祥子は興奮気味に聞いた。電話について興奮しているのか、唐沢のホームランに興奮しているのか、それとも両方なのか分からなかった。

「ようやく。こちらもゲーム開始の様だ」

唐沢は、自分の試合が始まった事に武者震いを覚えた。

「何て言ってきた?」宮野が唐沢に問うた。

「明日の試合打つな、だと」唐沢は、嬉しそうに言った。少なくとも祥子にはその様に映った。

「ついに来たか」宮野の目に力が込められていた。


『しかし、この唐沢と言う選手は素晴らしいですね』

ニュースキャスターが試合のダイジェストを観終わって言った。この様な発言が電話の主を苛立たせるのだ。

「それで具体的に何を要求してきた?」宮野は言った。

「次の試合、打つな、と」唐沢は、含みを込めて言った。

「荒川さんの時と同じ要求だな」宮野は、唐沢が頷くのを見て続けた。「他には?」

唐沢は躊躇した。祥子の事を言うべきか考えた。

「いや、何も・・・。ただ打つな、と」唐沢はそう言いながら宮野を見た。宮野は唐沢の意味をくみ取り祥子に言った。

「さっちゃん、今日はホテルを取るから」

宮野は言いながら、携帯を取り出した。祥子は宮野から携帯を奪い携帯の画面に映ったホテル名と電話番号を『電源切る』ボタンを押して消した。

「私なら大丈夫」と言いながら祥子は宮野に携帯を返した。

「さっちゃん。相手は動き出した。そして、唐沢が挑発したことを考えるとさっちゃんに危害を加える可能性がある」

「宮野さん。ありがとう。でも、ホテルに泊まるのは余計に不安になるわ」

「分かったよ。だったら家に泊まればいい」唐沢は、言った。

「それって、一番危ないわ」

 

 唐沢と祥子は宮野の見送りを背に車を走らせた。プロ野球選手になって以来、自転車通勤はおろか歩いてオフィスに来ることはない。移動はもっぱら車である。運転している間は自由である。その自由が今脅かされようとしていた。最初からこうなる事を望んでいたのだが。


 自宅までの道は空いていた。この先起こりえる困難を揶揄しているとすれば神様も天邪鬼に違いない。だからこの状況を加味しても思ったより自宅には早く着いた。


 唐沢は駐車場へと続くゲートを開くために、リモコンのボタンを押した。自分が少し動揺しているのだと気がついた。余りにもゲートの開くスピードが遅い。ここまでの道のりでは無かった感覚である。自宅に到着した安心感が心の隙間を広げた。車はゆっくりとゲートを潜った。


「これで安心ね」祥子は体を背もたれに預けて言った。言葉にはしなかったが唐沢以上に不安であったのだ。助手席に座る時間がどれ程長く感じられたのか、祥子には聞かなかった。唐沢は、祥子を自宅へ連れて来た事だけは正しかったと確信した。唐沢は、28番と書かれた場所に車を停めた。


「ちょっと車で待ってくれ。先に降りるから」唐沢が言うと祥子は素直に従った。

唐沢が車から降りてドアを閉めようと思った瞬間物凄い勢いで柱の影から一人の男が向かって来た。手にはバットらしきものを持っている。唐沢はすぐに手に持っていた車の鍵の閉めるボタンを押した。同時に祥子に笑みを見せた。


 男は唐沢に向かってバットを振り上げ唐沢の左脇腹目掛けて振り下ろして来た。野球のスイング軌道に似ているが腰が入っていないため、スイングスピードは遅い。比較対象がシェパーズで4番を張るバレトンのスイングだから仕方がない。素人のスイングはこれが限界のようだ。唐沢は、ギリギリの所でバットをかわした。


 男のバットは唐沢の車を思い切り叩いた。それなりの傷が車に付いたが経費で落ちるだろうと、気にも留めなかった。車の中から祥子の叫び声が聞こえた。衝撃は物凄く男は持っていたバットを離した。手が痺れたようだ。唐沢は衝撃に驚いた男に思い切り飛び蹴りを左脇腹に食らわした。男はよろめき両膝を着いた。


「こら!何をしている!」スーツ姿の男がこちらに向かって走ってきた。唐沢に飛び蹴りを食らわされた男は腹を抑えながら逃げ出した。バットは、転がったままである。スーツ姿の男は逃げた男を追いかけようとはしない。

「早く追いかけて!」いつの間にか車から祥子が降りてきていた。男は呆気に取られた様子で祥子に向かって言った。

「いや、でも・・・それより大丈夫ですか?もの凄い音がしましたが」

「何を呑気な事を言っているの?せっかく捕まえるチャンスだったのに。だから警察は頼りにならないのよ」

男は状況が飲み込めない様子で困惑している。

「何のことですか?逮捕って」

「あなたは警察じゃないの?」間違えた事を悟った祥子だったが、この事が祥子を正気に戻した。

「違いますよ。ここの住人です。家内と話していたんですよ。このマンションに住んでいる人がプロ野球の選手になったと。家内は信じてくれませんでしたけど。やっぱり、唐沢さんですよね。観ましたよ、今日のホームラン」男はジェスチャーで唐沢のスイングを真似た。


 祥子はがっかりした反面嬉しくもあった。実際に唐沢の事を知っている人間が居ると知って。そしてその人は目の前に居る。唐沢自身、複雑な思いで2人のやり取りを聞いていた。相手は餌に食いついた。ここからが唐沢の本当の仕事である。プロ野球選手は仮の姿であるがこれまでの道のりを思うと、どちらが仮の姿なのか分からなくなっている。犯人にとってもプロ野球選手が唐沢の本来の姿として映っているのだ。そしてその代償として一般人まで、もう一つの唐沢の顔に惹かれているのである。


 唐沢は、スーツ姿の男に求められるままに、サインをした。サイン慣れしていない唐沢は日付を書き忘れたので、男に注意された。初ホームランの日にサインを貰った証拠がないとまずい。唐沢は部屋に入るとエレベータの中でズボンのポケットに仕舞っておいた携帯を取り出し、電話を掛けた。

「ついに動いてきやがった」

相手は宮野である。

「何があった?」

「駐車場で襲われた」

「怪我はなかったのか?」

「それは心配しなくても大丈夫だよ」

「それで犯人を見たのか?」

「帽子を深く被っていたから分からん」

「そうか・・・それでさっちゃんはどうしている?」

「平気そうに振る舞っているけど相当なショックを受けていると思うよ」

「やっぱり巻き込んだのは失敗だったか?」

「今更言っても仕方あるまい。それに、言う事を聞くとは思えないし・・」

「そろそろこちらも援護射撃が必要になってきたな」

「頼むよ。それと間抜けな事に襲ってきたやつが証拠品を忘れて行ったのでリビングに置いておくから警察に届けてくれないか?」

「なんなら今すぐ警察を呼ぼうか?」

「それには及ばない。どうせトカゲのしっぽだろうし、どこへも逃げないよ。犯行は素人も同然だよ」

「だったら今からお前のマンションに寄る。今日の内に証拠品を警察に届ける。本来なら現場検証を依頼したいとこだが・・・」

「分かったよ。でも、現場検証はお断りだ。俺のマンションで騒ぎを起こしたくないからな。必要なら警察に話をしてもいいけど。どうせ指紋もとれないし。手袋をしていたから」


 唐沢は携帯をテーブルにおいた。宮野は程なくして唐沢のマンションにやってきた。そして、コーヒーも飲まずにバットを持って急いで出て行った。来る途中、大村刑事に連絡していた。

 宮野は、唐沢のマンションを出ると最初に大村と会った定食屋に向かった。定食屋には専用の駐車場を保有していないため、近くのコインパークに車を停めた。定食屋には電車を使った方が便利であったがバットを持って電車に乗れるほど若くない。


 宮野がバットを脇に抱えて定食屋に入ると主人は宮野に目を留めた。いつもなら素通りさせるところで有るが。宮野は一番奥の席に着き大村を待った。しばらくして店のドアがガラガラと音を立て開くと見覚えのある中年男が入って来た。大村はひとりではなく刑事ひとり伴っていた。宮野は立ち上がって2人を迎えた。宮野が電話を掛けたのは十一時を回っていたが、大村は今からでも会うと即答した。宮野は捜査の進展が思わしくないのだと改めて思った。

「こんな時間にすみません」

「それには及ばんよ。これは、吹石刑事。殺人事件の捜査を担当している。俺が一番信用している男だ」

大村の表情からはようやく証拠品が出たと言う前向きな思いが読み取れた。

「吹石です。宜しくお願いします」吹石の目は宮野を直視した。

「2人とも食事はお済みですよね?」宮野は確認をとり、2人とも済ませたと答えたので、コーヒーを3つ注文し続けた。

「これが先ほど話した間抜けな犯人が置いて言ったバットです。唐沢によると犯人は手袋をしていたようです」

「分かった。とにかく直ぐに調べさせよう」と言って大村はバットを吹石に預けた。「それで、唐沢に怪我はないか?」

「ええ、怪我はありません。しかし、襲われた時に唐沢のが一緒にいました。本人は強がっていますが、ショックを受けていると思います」

「申し訳ありませんでした。私のミスです」吹石は初対面の宮野に謝罪した。宮野は、脅迫電話の直後に大村に唐沢が襲われる可能性が出てきたと伝えていた。吹石の説明によると、唐沢を護衛するのは明日からと決めて、段通りは済ませていた。宮野にしてみれば、素直に謝罪をした吹石に好感を持った。

「これからは私が責任を持って護衛します」吹石は約束した。

「お願いします。それと、大村さん。電話でも話しましたが、今日、唐沢に犯人から連絡がありました」

「犯人は何と?」吹石はたまらず聞いた。

「唐沢に八百長をやる様に要求してきました」

「荒川に要求した男と同じ人物と考えてよさそうだな」大村が言った。

「間違いないでしょう」宮野は堅く頷いた。

「それで唐沢は断ったのですか?」吹石が尋ねた。

「計画通りきっぱり断りましたよ。それが気に入らなかったので襲ってきたのでしょう」

「しかし、今日電話をしておいて直後に襲ってくるとは、犯人も焦っているな。今後、どんな行動に出てくるか気を抜けないな」

「唐沢は順調に活躍していますからね。私も先ほど知ったのですが、今日の最終打席で連続安打が10打席になりました。次の打席でヒットを打つと日本記録に並びます」

「あんたの事だから誰がその記録を保持しているのか調査済みだな?」大村は運ばれてきたコーヒーを口にして言った。

「調べましたが、白ですね。現在の日本記録保持者は2人います。1人は日本人でもう1人は外国人です。外国人は記録にそれ程枯死しませんし、日本人についてもこの記録以外は目立った記録を残していません。この記録だけ守る為にこんな事をするとは思えません。これ以上は分かっていませんが、これだけでも十分に白と言えると思いますよ」


 宮野の説明に2人とも納得していた。

「それで、犯人の声に特徴はなかったのか?」大村が尋ねた。

「聞き覚えは無かったようです」

「手がかりはバットのみか・・・」吹石は残念そうに言って今夜唐沢を護衛しなかった事を更に後悔した。そして続けた。

「恥ずかしい話ですが、今回の一件は宮野さんが立てた筋書に頼らざるを得ない」吹石が大村の思いも代弁した。宮野は、コーヒーを一口飲んでずっと聞きたいと思っていた事を聞いた。この様な機会でもないと刑事には訊けない。

「大村さん、ひとつ聞きたかった事があるのですがよろしいですか?」

大村は了解した。

「先日、荒川さんに会われたようですね?」

「ああ。会ったよ」

「それで進展はありましたか?」

「進展はないが、暗礁に乗り上げた事が確かになった。荒川が植田事件に直接関係しているとは思っていないが何らかの形で絡んでいるのは確かだ」

「そこは賛成しますよ」

「植田事件を荒川さんから追うのは無理だと思います。荒川さんにはアリバイがありますし、植田さんを殺害する動機が見当たりません」2人の刑事は捜査が行き詰まっている事を素直に認めた。宮野はこれ以上捜査につて質問するほど意地が悪くは無かった。

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