第21話 新人王対決

「さて今日の解説は、ジャイアンツでエースとして活躍されました桑野明さんです。そして、実況は私、村山が勤めさせて頂きます。桑野さん今日はよろしくお願いす」

「こちらこそよろしくお願いします」

「いよいよやってきました。今日は楽しみな一戦になりました!」この試合を実況出来る喜びが溢れている。

「最高の舞台が整いましたね」桑野は解説者同様興奮している。

「さて、本日は3連戦の最終戦です。シェパーズとすれば3連勝すれば首位に並んだ訳ですが」

「もちろん、そのつもりで乗り込んで来たと思いますよ。試合前シェパーズの三枚堂監督と話しましたが昨日の負けは相当に悔しそうでしたね。言葉にはしていませんでしたが、昨夜は眠れなかったと思いますよ」

初戦は打撃戦を2位のシェパーズが取り、そして、2戦目も同じように打撃戦になった。

「三枚堂監督の性格ですから容易に想像出来ますね。いや〜シェパーズとしては、残念でしたね。抑えの岩国が打たれましたからね」

9回裏まではシェパーズが6対7でリードしていたが、岩国が逆転を許しサヨナラでジャイアンツが勝利した。

「私は実況という立場上中立でないといけませんが、昨日シェパーズが勝利していたら今日の一戦は面白くなりましたね。両チームのゲーム差は3連戦が始まった時と変わらずの3ゲームです。シェパーズの残り試合は7。優勝に望みを繋げる為には絶対に負けられません」

「その通りですね。今日、シェパーズが負けるとこのままジャイアンツが走るでしょうね」

「となると、勝敗もそうですが、2人の新人の対戦にも目が離せませんね」


 今夜ファンが待ち望んだ対戦が実現する。この対決をLIVEで観るために仕事を朝からせっせとこなし同僚と共にスポーツバーに繰り出したサラリーマンも少なく無かろう。いつの頃からかスポーツを赤の他人と楽しむ事が正しい風潮になった。恐らく、日本がW杯に最初に出場した時から始まったように記憶している。


「この2人の対戦結果がそのまま試合の勝敗を占うような気がしますね」

解説の桑野が言うと説得力がある。数ある解説者の中でも理論派としてファンから指示されていた。

首位決戦もファンの間では興味があるが、今日の試合に関してはファンの焦点は事実上の対決である。純粋に野球を愛するファンにとっては、この対決を観る事が喜びである。ファンには贔屓の球団が存在し、そのチームが優勝する事がもっとも大切である。しかし、ただ優勝したのではつまらない。そのチームの中に絶対的な選手がいないと興奮しない。その様な選手が居るからこそファンは年間143試合観戦出来るのである。


「桑野さんも実は新人王に輝いていらっしゃいます」村山はいつこの話に触れようかと実況が始まった時から狙っていた。

「私も入団当時を思い出しました」

「今日のジャイアンツの先発は辻本です。これまで14試合に登板し期待通りの9

勝2敗となっております」

「いや〜、本当に期待通りですね。私も含めて彼の素質は認めていましたが、流石ですね」

今夜の試合で勝利すれば待望の二桁勝利となる。この成績であれば新人不作の年なら新人王は間違いない。新人王を獲得するには、圧倒的な実力差があれば別だが、そうでなければ、運を味方にしないと取れない。過去にも15勝を挙げたにも関わらず新人王を取れなかった選手もいる。


 辻本が入団したのが打撃陣にスターを揃えたジャイアンツであり、辻本にはその運があったと思われた。普通に投げていればセ・リーグの新人王は辻本で確定していた。しかし、対するシェパーズには年を取った唐沢が途中から入団した。唐沢にも新人王の資格がある。新人王の資格は次の通りである。


• 海外のプロ野球リーグに参加した経験がない選手(外国人枠の選手であるかは問わない)

• 初めて支配下登録されてから5年以内の選手

• 前年までの出場が30イニング以内の投手、前年までの出場が60打席以内の野手


「今日勝利すれば、新人王は間違いないと言ってよいでしょう」実況の村山は宣言した。

「私も新人王を取らせて頂きましたが、どうでしょうか、辻本君の方が内容的に私の新人時代より上だと思いますね」

「数字だけ見れば桑野さんは、13勝4敗ですから」その先を言うのを躊躇した。

新人王争いについては、オールスターまではそれ程話題に上らなかったが、唐沢の出現で注目が集まるようになった。球界OB、マスコミ、女性ファンの願いはもちろん辻本の新人王である。辻本はマスクも甘く細身でサースポー。女性ファンを虜にする要素を星の数ほど持ち合わせている。そして、それらの星を集めた程に明るい将来がある。


 一方の唐沢は、どちらかと言えば玄人好みの選手に分類されつつあった。野球人気が低迷し始めている昨今ではあるが、この試合は民放で生放送される事からも注目度を推し量ることができる。試合は、ジャイアンツのホーム、東京ドーム。シェパーズの先攻となり、3番に入った唐沢は、必ず初回に辻本と対峙することになる。野球に筋書きがあれば、この舞台は辻本に用意されたと言わざるを得ない。


「辻本君もそうですが、私は、唐沢選手にも今日は注目しています」桑野の眼差しはベンチ前で素振りをする唐沢を捕らえた。

「桑野さんはこれまでの唐沢選手の活躍をどの様にご覧になっていますか?」

「そうですね。私は、ピッチャーでしたから技術的な事は言えませんが、似ていますね」

「誰にですか?」

「荒川選手、にです」

「ほお・・・」

「唐沢選手と対戦した事が無いので感覚的な話ですが、全てのボールに対するタイミングの取り方が荒川選手に近い気がします」

「桑野さんは荒川選手とは幾度となく名勝負をされていますが」

「ええ。よく打たれましたね」


対戦成績は、167打数48安打、打率2割8分7厘と100打席以上の対戦で桑野が一番荒川を押さえていた。

「桑野さんだったら唐沢に対してどの様に攻めますか?」

「全く分かりませんね。マウンドに立って対峙してその時にどう感じるかですね」

「論理的な桑野さんにとっても分からないですか?」村山は実況を忘れ引き込まれそうになった。

「会話なんですよ。だからこの様な選手との対戦は楽しいのです」


 試合に先立って今売り出しの新人アイドル美咲が始球式にお決まりのミニスカートでマウンドに立った。相撲界ではあり得ない光景である。新人王対決に新人を起用する演出に拍手を送るのは辻本ファンである。


 アイドルがマウンドを去り、一人残された辻本は余興の終わりを歓迎していた。投手に取って特に今夜の様な大事な試合にファンサービスの一環とは言え、この様な時間は不要である。辻本は新人ながら特にこの始球式が大嫌いであった。この事は誰にも話せないが、日本庭園程に整備されたマウンドを自分より先に部外者が使うことが許せなかった。左足でプレートに跳ね上がった土を払う辻本の表情から新人王を確実にする勝利への決意が伺える。その気持ちは、守備に散らばった7人の野手にも見て取れる。ゲームを盛り上げようとカメラは、シェパーズのベンチを右から左へと選手の表情を舐めるが、対照的に、シェパーズのベンチは、追う立場からなのか選手達から笑顔が覗けた。


「さあ、いよいよ試合開始です」

 ゲームは定刻の18時にプレイボールがコールされた。審判団も1分の誤差を許さない意気込みである。辻本は、深呼吸に同期して、キャッチャーのサインに頷いた。そして、得意のストレートを投げ込んだ。ボールは高目に外れた。気負いすぎたのかその後もストライクが入らず、1番バッターのセカンド木下に四球で歩かせた。立ち上がりにリズムを乱したのはデビュー戦以来である。

「桑野戦さん、ストレートで歩かせました。いかがですか。辻本の立ち上がりは?」

「ある意味安心しましたね。彼も人間ですね」桑野の視線は優しく辻本を見つめている。


 2戦目以降辻本は難なく初回を切り抜けた。その投球はあどけなさが残る表情とは対照的に何年もプロの世界で活躍しているかの様なマウンドさばききをみせた。2番の上田の打率は、二割五分三厘なので、普通に勝負が出来れば押さえられる確率は高い。これが野球の難しい所なのであろうか。この様な場面ではに身体が動かない。


「ここは送ってきますか?」実況の村山は、バントを選択すると思っていた。

「どうですかね。初回ですから。簡単に送るのはもったいないですね」

 上田は、初球バントの構えを見せたが、辻本が投じた球が高めに外れた為、バットを引いた。2球目も外れ、3球目を投じた瞬間上田はバットを引っ込め、打って変わってヒッティングに出た。辻本の球は、ストライク欲しさに魂が込められておらず、打者の狙い通り、一・二塁間を破られた。立ち上がりにピンチを迎えた辻本を落ち着かせようと、内野陣がマウンドに集まった。(取られたら取り返してやるから)とでも言っているのか、辻本は、キャッチャーの安部の言葉に終始頷いていた。


「桑野さんの言われた通り、シェパーズは動いてきましたね」

「やってみたいですよね。結果はダブルプレーになるかも知れませんが、今日の試合は色んな要素が含まれていますから、動きたいです」

村山には理解出来なかったので桑野に真相を聞こうと思ったが、桑野の視線がそれをさせなかった。


 次に向かえるは、いよいよ唐沢である。辻本は何としても唐沢から三振を取りたいと思っていた。野球を始めて以来、これ程強く思ったことはない。過去に奪った三振を全て返上してもこの場面で三振が欲しかった。過去は変えることは出来ない。だとしたら、今日これからの対戦において引き替えに、他の打者からホームランを打たれても良い。たとえ試合に敗れても受け入れる。唐沢との勝負だけには勝ちたいと思っていた。新人だからそのような我が侭が許される。チームの勝利よりも個人の戦いを。しかし、その思いの強さから初回のピンチを迎えてしまった。


「いよいよ2人の対戦です。桑野さん、辻本はどう攻めればよいですか?そして唐沢は何を待てば良いでしょうか?」

「そうですね。勝負になりますかね」

「バントも有るということですか?」村山は聞いた。

「それは無いですね」


 唐沢はゆっくりとバッターボックスに入った。ベンチからのサインは(自由に打て)である。本来であれば、たとえ3番バッターといえど新人である。送りバントでも納得できる采配である。ファンあってのプロ野球。ここは、ファンが望んでいる2人の対決を提供することが監督の義務でもあるが、敢えて勝利に拘りバントを選択する監督もいるであろう。しかし、そのような監督の場合、唐沢を最初はなから使っていない。


 辻本は、ゆっくりと振りかぶって、足を上げた。これが合図となり一・二塁の走者は一斉にスタートを切った。辻本には唐沢との勝負しか眼中にない。盗塁は許したが、辻本が投じた球は、プロ入団後最速の152キロを計測した。判定は高めに外れボールである。


「桑野さん、シェパーズベンチが動いてきましたね!」

「容赦ないですね。しかし、辻本君も大した新人ですね。この場面であのストレートを投げる訳ですから」桑野は感心していた。


 キャッチャーの安部は盗塁を許した辻本を責めなかった。この様な場面、経験豊富な安部が投球前に一度一塁に牽制球を投げさせるべきであった。テレビ画面に映る辻本の表情は、1番打者に投じたボール球の後に見せた後悔のものとは違っていた。闘志が剥き出しで、ボールになった事など気にしていない。さらに、盗塁を許した事についても平然としている。将来スターになる素質は十分だ。


「確かにここへ来てプロ最速が記録しました。辻本は開き直りましたか?」

「いや。唐沢選手でしょうね。辻本君を変えたのは。闘争本能ですね。目覚めましたよ」


 辻本は、2球目も全霊を込めて直球を投げ込んだ。今度もランナーは眼中にない。一塁は開いているがランナーは三塁にいるため、盗塁はできないので問題にはならない。ボールは一球目と同じ高さに外れたが、更に球速は1キロ上がった。プロ最速の更新である。場内が俄に熱を帯びて来た。観たかった対戦が目の前で行われている現実と、次は辻本がストライクを投げる事を祈る思いが激しく摩擦している。投球間隔が短く感じられる。いや、そうではない。ファンの多くが『まだ、投げないでくれ。もっと長く対戦をみていたい』と心で祈るのである。辻本が投じた3球目も呆気なく高目に外れる。球速は、2球目と同じである。


「桑野さん、どうみます。辻本が追い込まれましたが?」

「生きていますよ。辻本君の球は」


 並の新人であったら次もストライクが入らず、唐沢を歩かせ、満塁となるであろう。次の一球に辻本の意地を唐沢は感じた。辻本は、ストライクを投げ込んだ。唐沢を歩かせる事より打たれることを覚悟した選択であった。辻本の投じた球は全力投球から程遠く、唐沢の目にはボールがお辞儀しているように映った。

「なんでや?」桑野は、プライベートでリビングのソファーにもたれながら観戦しているかのように言った。


「ストライクを取りにいきましたね」実況の村山もバックスクリーンに表示されたスピードガンの表示を見て気が付いた。


「いや。唐沢選手ですよ。あの球は簡単に打てました」

「では、なぜ見逃したのですか?」

「そこなのですよ。打てる球を打つのが基本ですからね。ただ、勿体ないとしか言いようがないですね。打点を稼ぐには絶好の球ですから」


 その球を唐沢はあえて見逃した。唐沢にしてみれば、この球を打つ事はあまりにも不公平である。辻本には、将来プロ野球を背負う使命があり、それが、これだけの能力を持って生まれてきた辻本の運命でもある。しかし、唐沢にはこの勝負に対するプレッシャーは綿飴の如く軽い。ほんの一滴の努力の汗で萎んでしまう程度である。


 唐沢は知っていた。2人は、同じ土俵にはいない事を。この対戦の勝者は、確固たるスター性の裏付けを勝ち取る。だから唐沢は魂の抜けた球を打つ事は出来ない。唐沢は、辻本を睨んだ。新人王らしくボールになる事を恐れず、投げ込んで来てくれ、と。


 辻本には分かっていた。唐沢の意図を。この屈辱の見逃しが魔法の様に辻本を生き返らせた。5球目は辻本の球にスピンが戻り重力と喧嘩が出来る球を投げ込んだ。あまりにも威勢が良く、高く外れた。唐沢は、一塁に歩いた。ノーアウト満塁である。

「結局歩かせましたね」村山は残念そうに実況した。

「新人ですからね。辻本は」桑野は冷静に言った。

「初回から試練が訪れております。桑野さん、ここはどの様に攻めればよいでしょうか?」

「満塁ですからね。守りやすくはなりましたよ。相手は4番ですからランナーは忘れてバッターとの勝負に集中するだけです。大袈裟かも知れませんが、ここでどの様なピッチングをするかで、辻本君のこれからが決まるような気がします」

「この場面を、無得点で抑えればと言うことですか?」村山は、今の辻本の状態からゼロで切り抜けるのは難しいと思えた。そして、桑野のコメントが残酷に思えた。

「ゼロで抑える必要はないですよ」桑野は続けた。「内容が重要ですね。結果的に得点を与えても仕方ないですね。この場面。しかし、勝てる投手は、味方の野手を刺激しないといけませんから」


 実況の村山の不安は10分程度で解決した。スピンが戻った辻本は、後続を3者三振に仕留めた。唐沢との勝負には負けはしたが先発投手の鉄則である先取点を与えない事は実行して見せた。辻本は派手なガッツポーズを披露しマウンドを駆け下りた。辻本を迎える控えの選手、コーチ陣の表情は辻本以上に興奮を帯びていた。


 辻本は、ベンチ前で守備に就いていた先輩野手を『ピンチを迎えて申し訳ない』とジェスチャーを添えて迎えた。野手陣からは、ピンチをゼロで押さえた辻本への賞賛と、だらしない姿を見せるなと言う発破をかける仕草をみせた。野手達は既に辻本を新人とは思っていない。これまで9勝をあげたプロ野球選手として扱っていた。そして、将来のエースに必ず得点をプレゼントし、二桁勝利させる意気込みがグラブで行うハイタッチに込められていた。


「桑野さん、あっと言う間の出来事でしたね。結果的に辻本は無得点で初回を終えました」村山は誰もが目撃した事実を伝えた。それが仕事の8割であるが。


 対するシェパーズのマウンドにはベテラン投手の伊藤が上がった。入団当時の伊藤も辻本同様期待されていた。ストレートも140キロ台後半を投げていたが、伊藤の場合はなんと言ってもスライダーの切れである。このスタイダーが諸刃の剣となり、30歳を超えた頃肘を痛め手術した。復帰後、伊藤は技巧派の道を歩まざるを得なくなった。その年まで伊藤は二桁勝利を挙げたのは新人の年だけだった。


 技巧派に転向したその年に12勝を上げ、カムバック賞を獲得した。その年のオフシーズン、取材の際、伊藤はこのように述べている

『肘を故障する前に、投球術が分かっていれば20勝は簡単に出来たと思う』と。

 それから3年間二桁勝利を続けている。伊藤にとってこの試合負ける訳にはいかない。プロの世界は実力が有れば他に何もいらない。対戦には、年齢(上下関係)、家柄、国籍、など普通の社会生活を送るには避けて通れないハンディはない。それ故、圧倒的な実力を持つ、十も年下の新人に、何万と言うファンの前で叩きのめされる事がある。

 伊藤は、辻本とは対照的な立ち上がりを見せる。一度挫折を経験した選手は強い。このプレッシャーの掛かる立ち上がりを簡単に三者凡退で終わらせた。


「桑野さん、伊藤の立ち上がりはどうみましたか?」

「やはり、歴史を感じさせますよね。伊藤選手の投球には」

「・・・・・・」村山は頷いた。

「デビュー当時の伊藤選手も辻本選手と同じように注目されていました。そして、期待通り新人王を獲得しています。伊藤選手の場合は打者との会話より、辻本投手に向かって話しかけている様に映りましたね」

「・・・・・・」


 桑野のコメントは解説と言うより桑野自身の野球感を語っている様に思えた。実況の村山に対して桑野の解説にを要しているさまが、テレビ画面には映らなくとも、視聴者に与えた不自然な無言が物語っていた。


 唐沢の2打席目は3回ツーアウトランナー無しで回ってきた。先ほどの対戦とは違い投手対打者の純粋な対戦が出来る環境が整っている。この対戦結果が試合を左右する確率は限りなく小さい。野球において100%はあり得ないが、どんな事にも例外は存在し得る。辻本の実力からしてたとえ唐沢にヒットを打たれたとしても、後続を押さえれば得点に結び付かないのだから。


「この場面は、2人には干渉されるものがないですから、楽しみな対戦になりますね」桑野は、村山に促される事無くコメントを発した。

「そうですね。辻本も思いきって攻められますね」桑野の解説に村山も着いていけた。

「恐らく2人には観衆の声、チームメイトのアドバイスなど全く耳には届いてないと思いますよ」

この場面で三塁を守っている堂本が辻本に声を掛けたが、確かに辻本の反応は先輩に対するモノではなかった。

「マウンドに立っていると、無になる時が希にあるのですよ。意外とピンチの時は無かったですね。私の場合は。特定の打者との対戦が異空間に誘(いざな)う様に何でも出来る感覚に襲われるのです。この様な感覚だからと言って180キロの直球を投げられる訳でもないですし、必ず私が抑えた訳でもないですがね。なぜなら、相手も同じ様な感覚だったと思いますよ。聞いた訳ではないですから相手に」

「それは、荒川の事を言っているのですか?」

「そうですね」


 唐沢は一打席目と同様にゆっくりとバッターボックスに入った。辻本がプロなら唐沢もプロの探偵である。唐沢はマウンド上でゆっくりと振りかぶる辻本を見た。野球経験の無い唐沢であったが辻本がストレートを投げ込む事が予想出来た。


 辻本はゆっくりと足を挙げ下半身を捻り、その反動を利用して唐沢に向けて投げ込んだ。辻本の胸にあるGIANTSのプリントは、ど根性カエルが飛び出すかのように弓なりに反っていた。ダイエットが必要な人が昔買ったMサイズのTシャツを着ているように、プリントが横に伸びきった胸から遅れて左腕が現れた。辻本の腕は普通の投手より遅れて出てくるのが唐沢にははっきりと分かった。肘の後から手首が見えその後、親指、人差し指、そして、中指で握られたボールがゴムの様な身体から弾かれた。


 瞬間、唐沢は、予想通りのストレートだと確信した。球は奇麗な縦回転を伴い向かってきた。それは、とれも綺麗な回転をしている。唐沢は、その球を思い切り叩いた。バットを握った両手が感じたのは奇妙なものだった。確かにバットに当たった筈なのに衝撃は異常に少ない。唐沢はボールが飛んだと思われるレフト側を見た。ボールは既にレフトを守っている選手の頭上にあった。レフトの石上はゆっくりとレフトスタンドに向かって走っている。ボールは石上を追い越しそのままスタンドへ飛び込んだ。ホームランの感覚はとても呆気ないものだった。


「ここで出ました!唐沢選手のプロ第一号です。唐沢選手はゆっくりとダイアモンドを走っています。桑野さん、今の対戦どう見ましたか?」村山は、この時ほど今日の解説が桑野で良かったと思った事はない。

「他の投手ならホームランは無かったでしょうね」

「どういうことでしょうか?」

「あれだけのストレートだからスタンドまで持って行けたのですよ。唐沢選手の弱点は体力です。回転の悪い球なら力が無いと外野の頭を越す事は出来ない。しかし、辻本君のストレートの質が良すぎたので、あそこまで飛んだのです」

「良過ぎたら打てなくないですか?」素朴な疑問を投げかけた。

「本来ならその通りです。だから、バットの芯に当たれば、の話です。野球は、バットに当てるスポーツですからね。バットに当たった後の事を考えて投げている訳ではない。タイミングを外す技術もほんの少しボールを動かす変化球も、です」


「もう少し解りやすく教えてください」村山は失礼を承知で聞いた。桑野が可能な限り解りやすく解説しているとは分かっていたが、この場面、少しでも疑問が視聴者に残る事は許されないからである。桑野もそれを承知していた。

「辻本君が投げた速球は、154キロを計測しています。つまり、あの球をバットの芯で捉えるのは非常に難しい。例え当たったとしてもファールにするのがやっとです」


 試合は、この得点が決勝点となり、シェパーズがジャイアンツを下した。辻本は9回迄一人で投げ抜いた。そして、伊藤も最後までマウンドを誰にも譲らなかった。ホームランの打席以降唐沢には2打席回ってきたが全ての打席でヒットを放ち、連続打席安打を10打席まで伸ばした。プロ野球記録は11打席連続であるから、次の打席で唐沢がヒットを打つとプロ野球タイ記録に並ぶ。唐沢が最初の打席でヒットを打っていれば今日の試合で記録に並んだ事になる。その相手が辻本と言うおまけ付きで。

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