第20話 祥子の覚悟

 宮野は興奮と同居しながら荒川宅を後にした。唐沢の活躍が毛細管現象の様にある所へ延び初めている。伸びるべくして伸び始めた犯人への道標みちしるべであると。


 宮野は荒川の反応から確信した。同類でないと得られない反応を唐沢は荒川から引き出すことが出来たのである。荒川の心が波打ち、この振動が共振して、犯人まで届いたと宮野は確信した。相手が餌に食いついた。宮野のハンドルを握る手が震え、何度も左右の手を入れ替えズボンで掌の汗を拭いた。車のエアコンは効いていたが、心の熱に効果なく、手汗が止まらない。

 

 唐沢事務所が入るビルの前で宮野は5階の窓を見上げた。電気は既にともっていた。宮野は急いで唐沢の事務所に向かった。エレベータの動きに苛立ちを覚えた。階段ならいつもの2倍以上のスピードを出すことが今の宮野には出来る。しかし、エレベータの速度はどんな時も一定である。乗客が怪我をしてもこの規則性を破って欲しい。5階に到着すると同様にドアの開く速度にも耐えた。事務所には祥子がソファーに座ってテレビを観ていた。


「あら、宮野さん。何処へ行っていたの?今日も球場に来ると思っていたのに」

「ちょっと行く所があって。唐沢は?」

「今、シャワー浴びているわ。いい加減、球場で済ませてくればいいのに」

「やつにとっては、居心地が悪いのだろう」

「さっちゃん、夕食は済ませた?」

「ええ。宮野さんは未だなの?」

「俺も済ませた。今日はお寿司を頂いた」

「それは、それは。こっちは必死でプレーしているのに、お前は寿司を食っていたのか?」

タオルで髪を拭きながら唐沢がシャワールームから出てきた。いつものように。

「これも仕事の一環だよ」

「俺も記者になりたいね。野球選手は仕事の一環として寿司は食べられないから」

唐沢は、少し疲れている。

「今日、荒川さんに会って来たよ」

「ほう。それで何か聞けたのか?」唐沢は冷蔵庫からビールを取り出して言った。

「特にこれと言ったがあったわけではない」宮野は唐沢からアルコールフリーのビールを受け取りながら続けた。

「しかし、荒川さんに忠告されたよ。いよいよ俺たちは相手を刺激したようだと」

「どう言うことなの?」祥子はたまらず聞いた。

「今日の唐沢の活躍が決定的だったようだ」宮野は荒川と一緒に観ていて荒川が感じた事を二人に説明した。

「これからがいよいよ本番と言うわけだな」

その言葉に宮野は過剰に反応した。

「荒川さんが言っていたよ。相手を甘く見ない方が良いって。相手は殺人など何とも思っていないと」

「なるほど・・・」唐沢は言った。祥子は無言である。

「だからここでもう一度確認したいのだ」そう言って宮野は唐沢と祥子を見た。そして続けた。

「このまま続けるか?それともこれで終わりにするか?二人の意見を聞きたい」宮野自身愚問であると分かっていたが。


 祥子は唐沢を見た。唐沢の気持ちは固まっていた。

「俺はもう少しスターでいるのも悪くない。ここで辞めたらこれまで俺に打たれた投手に申し訳ないだろう」そして、祥子を見て言った。

「でも祥子はこれ以上関わらない方が良いと思う」

しかし、祥子の想いも固まっていた。

「私も、もう少しスターの婚約者でいてもいいわ」

「祥子これは遊びじゃない」

唐沢の想いを察したのか宮野が続けた。

「さっちゃん、相手は何をしてくるのか見当が付かない。本当に危険な目に遭うかも知れない。俺もさっちゃんは関わらない方が良いと思う」宮野の中で祥子は十分に役割を果たしたと思っている。

「二人とも勘違いしていない。私は遊びだったら最初からここには居ない。銀行に就職して適当な相手見つけて普通の生活をしていたわ。唐沢さん、私を面接したの、あれは遊びだったの?」

「祥子、今はそんな屁理屈には付き合っていられない。お前の命に関わるのだから」

唐沢はとにかく反対した。

「唐沢さん、私は逃げたくない。どんな困難であろうと立ち向かおうと決めていたの。これは誰の問題でもなく私自身が決める事。唐沢さん覚えている。最初に会った時の事を」

唐沢はバーであったあの時の事を思い出していた。

「唐沢さんは私に尋ねた。どうして銀行に就職するのかって。覚えている?」

「ああ、覚えているよ」

「私はあの時言ったわ。銀行の体質を変えたいって。そして唐沢さんはそれを本気にしなかった。でもあれは本当の気持ちだったの。私の父は銀行に騙されたようなものなの。父も軽率だったけど何も説明しなかった銀行が私は許せなかったの。だから銀行に就職して私が変えたかったの。でも、あの日、唐沢さんに会ってその想いを諦めた。それは仕事が違っても私の信念を貫き通す事が唐沢さんとなら出来ると思ったからなの。お願いだから私に決めさせて!」


 唐沢と宮野は暫く考え込んだ。唐沢は痛いほど祥子の想いが分かっていたので祥子の意志を尊重しても良いとは思いつつも、決断出来なかった。祥子を守ってやる自信がない。それは宮野に取っても同じで祥子を守れる保障は無かったが、祥子への想いの違いから唐沢以上に決断を出せずにいた。この場合、唐沢が決めるしかない。賛成するのか、それとも反対するのか。

「祥子の気持ちは本当に分かっている。だからと言ってやっぱり今回の事について賛成は出来ない」

「唐沢さんは逃げているわ。私の事が心配と言ってそれを逃げ道に利用しているだけよ。状況なんて関係ない。唐沢さんの気持ちが大切なの。唐沢さんが私を守ると思ってくれるのは嬉しいけど、それは唐沢さん自身の満足でしかない。自分の身は私自身で守るから唐沢さんはその事に責任を感じる必要は無いの」

宮野は沈黙を破った。

「さっちゃん、一言だけ言ってもいいかな」

「何でも言ってちょうだい」

「相手は唐沢に嫌がらせをして効果が無いと必ずさっちゃんを標的にする。いや、最初からさっちゃんを狙ってくるかも知れない。それでも・・・」祥子が最後まで聞かずに宮野に言った。

「宮野さんそんな事はどうでもいいのよ」祥子の意思は固かった。それは、何も言わずに唐沢が祥子に渡したボーナスに対する想いの様である。

「さっちゃん、分かったよ。俺はもう何も言わない。でも、俺はさっちゃんが何と言おうとどんな事をしてもさっちゃんに降りかかる火の粉は掃うからね」と宮野は祥子の説得を諦めた。

「宮野さん、ありがとう」祥子は宮野にこれまで見せた事が無い表情をした。

しかし、唐沢は宮野の様に祥子に言ってやることは出来ない。二人の結論をただ黙って聞いている以外には。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る