第19話 ナイトゲーム

 宮野は立ち上がりテレビを付けた。そして、チャンネルをナイター中継に合わせた。中継はシェパーズ対タイガースだった。試合は7回を終えて4対5でシェパーズが負けていた。唐沢は3番サードで先発出場している。8回のタイガースの攻撃は既にツーアウトでランナー無し。シェパーズのマウンドには勝利の方程式のセットアッパー、藤原が上がっていた。負けている試合でシェパーズは勝ち試合にしか使わないピッチャーを起用している事から、この試合の重要性が分かる。


 確かに今日の試合はシェパーズに取っては単独首位に躍り出られる大きな試合なのだ。藤原は簡単にタイガースの攻撃をゼロで抑えた。8回裏のシェパーズの攻撃は3番の唐沢からだった。画面はアップで準備をする唐沢を捉えた。と同時に唐沢の打撃成績を紹介した。打率が丁度5割だった。打点は41打点、本塁打は依然として0本だった。


 「打率が落ちてこないな。いや、逆に上がっている」荒川は感心していた。「そろそろ打率は落ちて来てもいいのだが。それに打点も既に40打点を超えているのは驚異的だな」そう言って荒川は寿司箱に残っていた生姜を食べた。

「確かにちょっと出来すぎですかね」宮野は恐縮した。


 マウンドにはこちらもタイガースの勝利の方程式、藤本が上がっていた。

「これは面白い対戦が観られる」と言って荒川は酒を飲んだ。

「確かにプロの選手でもこのピッチャーの指に掛かった時のストレートを打ち返す打者はいないでしょうね」

藤本はセットポジションから1球目を投じた。藤本の投げ込んだストレートは外角ギリギリを捉えた。判定はストライクだった。

「あそこに決められたら打てないな」荒川は言った。

「荒川さんだったらこのピッチャーは如何に料理しますか?」宮野は荒川に尋ねた。

「打者と言うのは統計上3割以上打つと好打者とされる。どうしてだと思う?」

「それは、逆に言うと10回中7回失敗出来ると言う事ですよね。だから、」

「宮野、そんなに難しく考える事は無いのだよ。野球を見ている人が結構打っていると思える感覚になるのが3割なのだよ。だから、殆どの打者が2割5分前後に収まる。しかし、2割5分では観客には打っているイメージが残らないのだよ。平均から脱皮出来ないから。しかし、3割以上打つと観客の脳には良く打っているイメージが残る。野球を初めて観る人に取っては3割でも良く打っているイメージにはならないがね」


 マウンド上の藤本は2球目を振り被って投げ込んだ。2球目は外角に外れるホークボールだった。

「このピッチャーは駄目だな。あれだけのストレートがあればホークなんて投げる必要は無いと思うがね」と言って荒川は酒を再び飲んだ。

「それで、先程の3割の続きを聞きたいのですが」宮野は荒川に催促した。荒川はどうも忘れていた様だった。

「何処まで話したかね?」

「初めて野球を観る人に取って3割は大事ではないと」宮野は荒川に説明した。

「ああ、そうだった。つまり、初めて観る人には打者の平均的イメージが無いから比べようが無いのだよ」

「なるほど」

「今シーズン終わった時にそれぞれの選手に対してお前の印象をマルバツで採点してみると意外と面白いと思う。良く打ったと思われる選手にはマル。そうでない選手にはバツ。そして、打率と比較して見る。恐らくマルの打者は3割以上打っていると思う。勿論バツはそれ以下。多分2割5分以下だろうね。俺は難しい科学的根拠は分からないが、それが本当の3割の意味だよ」

宮野はとても荒川らしい考え方だと思った。

「でも例外も存在する訳ですよね。そのイメージには」

藤本は3球目を投じた。インコースギリギリにストレートが唸った。判定はストライク。

「藤本は良い球を投げるな。次は初球と同じストレートを外角に投げればまず打てないな」と荒川は解説した。


 藤本はキャッチャーからのボールを受け取った。その表情からは自信が毀れている。画面は2つに分かれた。その一方に唐沢が映し出された。唐沢の表情は冷静そのもの。宮野が唐沢事務所で見る顔だった。藤本はセットポジションに入った。そして4球目を投じた。荒川の予想通りそのボールは外角ギリギリの初球と同じ軌道を追った。初球と違っていたのは球により力が込められていた事だった。つまり決め球である。もう一つの違いはそのボールはベースの上でバットに当たった事だった。ボールはジェット機雲の様に直線を右中間に描いた。唐沢は一塁を回り二塁に達した。完璧の当たりだった。


「やはりこの男は俺の代わりにはなれないな」と言って荒川は微笑んだ。「俺だよ」

宮野は自分の毛穴が広がっていく感覚を覚えた。

「確か、例外があると言ったよな」と荒川は宮野に確認した。宮野は頷いた。

「確かに例外は存在する。それはイメージを増幅したり減衰させたりする事。例えば、この唐沢のデビュー戦の時の様に。あいつはヒットを打った訳でもないのに結果以上に良いイメージを植えつけた。反対に負け試合にばかり打つ選手もいる。誰とは言わないが・・・。負け試合で打ったヒットは全く印象に残らない。だから、本当にいい選手と言うのは実際に打率を聞いて『そんなに低かったのか』と驚くかどうかなんだ」

宮野は頷いた。


「今の打席も物凄いイメージを残した。あの藤本のストレートを完璧に打ち返すなんて誰も想像しない。俺たち以外には、な。何故なら、あれは有る意味人間技では考えられない」

この荒川の言葉によって宮野は唐沢がやっている事が途轍もなく大きな事なのだと実感した。荒川は続けた。

「お前は俺に藤本をどう攻略するか聞いた。その答えは無いのだよ。あのストレートを攻略する事は俺には出来ない。可能性を上げる意味では、前提条件としてコンディションを最高に保つこと。まあ、最高にコンディションが良い事なぞシーズンを通して数試合くらいしかないが」


 荒川と宮野はその後のシェパーズの攻撃に注目した。しかし、4番はキャッチャーフライに倒れた。続く5番は高めのストレートにバットが空を切って三振。六

6番に至っては三球三振だった。文字通り唐沢は二塁に釘付け状態だった。

「宮野。藤本を見てどう思う?」

「凄い、の一言です」

「解説しなくても凄さがわかるだろう。それが本当のプロなのだよ。野球を辞めてから夜中にサッカーを観ることがあって」荒川は酒を少し口に含んだ。

「荒川さんがサッカーを観られるとは驚きました」

「俺は、サッカーについては素人だよ。ルールも細かい事は分からない。この間、スペインの試合を観ていた。小さい選手がいたんだが、あの選手の凄さは分かったよ。後で聞いたが相当有名な選手だったらしい。何が言いたいか分かるか?」

宮野は首を横に振ったので荒川は続けた。

「解説者が如何に凄いプレーをしたのか説明しないと気付かないようでは大したプレーではないのだよ。つまり、それ程、そのスポーツに精通していなくても力が突出していれば、素人だって凄いって分かるし、新たなファンをそのスポーツに取り込む事ができる」

宮野はなるほどと思った。確かに、歴史を見てもスーパースターの登場で市場が開拓される。


 9回の表はシェパーズのマウンドには一点負けているにも関わらず抑えの切り札が上がった。岩国は連投で疲れているはずだが、気合十分でマウンドに仁王立ちだった。それはそのはずだった。シェパーズは優勝から18年も遠のいていたのだから。

「荒川さん、今年はシェパーズ優勝出来たのではないですかね」

「今年はチャンスがあったな。若く意気の良いピッチャーが出てきたし、打撃陣も若手とベテランが上手くかみ合っていたからな」

岩国は先頭打者を簡単にサードゴロに打ち取った。

「一番優勝に必要なのはチームが一つになっているか、なのだ。個人の為ではなくチームの為に犠牲になれる。今年のチームは一丸となっていた」荒川は悔しそうに言った。自分に責任を感じているのだ。

岩国は次の打者を三振に切り取った。

「荒川さん、今でもシェパーズは必要としていますよ」宮野は強く言った。

「そうだな。チームの雰囲気も上昇してきているのは画面を通しても十分に分かるよ」

岩国は3人目の打者を平凡なレフトフライに抑えた。9回裏のシェパーズの攻撃は7番からの打順だった。タイガースのマウンドにはストッパーを勤める久保田が上がった。

「打順が悪いですね」宮野は言った。

「意外とこの打順が功を奏する可能性はあるな」と荒川は宮野の意見とは対照的に言った。「投手って不思議なのだよ。得点差が1点なら好投手ほど、点は取られない。しかし、点差が開いているほど、好投手は点を取られる。まあ、同じ事だが、打順が良いほど抑えの投手は成功する。反対に、打順が悪いと以外とピンチを招く。最終的には押さえるがね」


 荒川の予想は直ぐに正しいと証明された。久保田は相手を軽く見たのか先頭打者を簡単に歩かせたのだ。続く8番に監督の三枚堂は送りバントを命じる。ワンアウト二塁で9番のピッチャー岩国には当然代打。代打には小柄だが勝負強い辻が送られた。辻は粘りに粘ってファーボールを選んだ。これでワンアウト一・二塁となり打順は1番に帰った。

 1番の木下は足が速かった。木下は久保田の初球をサード前へセーフティーバントをした。ボールはゆっくりサード前に転がった。木下の足を考えるとボールを取ってファーストに投げても間に合わない。サードはボールをキャッチする事を諦めてファールになる事を願った。ボールはラインぎりぎりで停まった。これでワンアウト満塁。


 次のバッターは2番の上田。ここでタイガースの岡田監督がマウンドに怒りの形相で迫った。7番からの攻撃でワンアウト満塁は罰金ものである。

「荒川さん、監督はいつも何を言っているのですか?」と宮野は質問した。「私はいつも疑問に思っているのです」

「まず、監督自らマウンドに行くことはあまり無いな。この場合かなり監督は怒っているから、点を取られたら年俸を下げるとでも脅しているな」荒川は答えた。

 岡田監督は最後に久保田をジッと見てマウンドを後にした。久保田は開き直った表情を見せていた。上田に対しては初球ど真ん中のストレートを投げ込んだ。上田は久保田の気迫に押されてバットに当てだが、ボールは前には飛ばずネット裏に弾かれた。

「ここからが抑え投手の見せ場だよ。この久保田はこう言う場面じゃないと力を発揮しない」と幾度も対戦したことのある荒川が答えた。

「確かにこれまでのボールと勢いが違いますね」宮野も久保田の投球を見て荒川の言っている事が分かった。

「気持ちがボールに乗るのだよ。つまり、ボールを放すコンマ何秒かの違いが大きく球の威力を左右する」

 2球目も上田は甘い球を前へ打ち返す事は出来なかった。解説者も荒川と同じ事を言った。

『あんな球が投げられるのならどうして最初から投げないのか分かりませんね。岡田監督も怒りますよ』

『今の球は、甘かったですよね』すかさずアナウンサーが言った。

「分かっていないな・・・」荒川は続けた。「コースが真ん中だと言ってとは言えない。コースよりも、球そのものが持つキレや、勢いの方がよっぽど甘いかどうかに関わるのだ」


 続く3球目は外角のストライクゾーンからボールなる落ちる球を上田が空振りし三振に倒れた。犠牲フライでも同点だったがボールは前へ飛ばなかった。

ツーアウト満塁で迎えるバッターは唐沢だった。

「何処かで見た場面だな」荒川は言った。

「今回は暴投でも同点ですから、唐沢がヒーローにはならないですが」

『さて、ツーアウト満塁で迎えるは新人の唐沢です。点差は、1点。ヒットが出ればサヨナラです。今日の唐沢は4打数4安打です。と言う事は昨日から7打席連続ヒット中です。シェパーズとしては最高の場面を迎えました』実況は興奮気味に伝えた。


「唐沢はスター性があるな。そうでないとこんな場面で回っては来ない」荒川は人間の不平等な部分について触れた。

 この最高の場面を球場から熱い視線を送っている者が2人いた。一人は言うまでも無く(婚約者)の祥子。祥子は一塁側の内野スタンドでこの場面をじっと見ていた。祥子はデビュー戦ほど緊張していない。祥子は唐沢には活躍して欲しかったが、唐沢の身の安全の方が心配だった為、派手な活躍はしなくても良いと思っている。打ってもいいし、打たなくても良い。中途半端な気持ちである。


 もう一人は大村刑事だった。大村は何年振りかに球場に足を運んだ。大村は打席に入る唐沢をじっと見つめた。この球場で恐らくこの二人だけだろう。唐沢の結果にそれ程興味がないのは。


『さあ、ツーアウト満塁で唐沢選手が打席に入りました。栗原さん、ここはどう攻めれば良いでしょうか?』アナウンサーは解説の栗原に尋ねた。

『そうですね。この場面技術は関係ないでしょう。気持ち対気持ち。プライド対プライドの戦いですから』

『そうですね。この球場に居る全てのファンはそれを期待しています。これが正に野球の醍醐味でしょう。久保田の表情は揺るぎ無い自信に溢れています。一方唐沢は非常に落ち着いて見えます。しかし、なんと言っても新人です。内心は分かりませんが・・・』

『しかし、大した新人ですね。全く気負った感じが見られませんね』栗原が言った。

「初球だな」荒川は言った。「久保田は渾身のストレートを投げ込んで来る。この場面でコースは関係ない。コースに投げるよりどんな球を投げるかが勝負の鍵を握る。対して唐沢はそれに反応出来るかどうか。体が動くかどうかが勝負の分かれ目になる。もし唐沢が見逃してストライクを取られると、その時点で唐沢に勝機はない」


 久保田は振り被り、大きく足を上げた。この場面、ランナーは関係ない。振り上げた足をグランドにドスンと突いた。土が舞った。久保田の胸は弓の様に反られ、最高のストレートを投げ込んだ。コースは真ん中付近。久保田の投じた球はもの凄い勢いで空気と衝突し、行き場を失った空気同士がシューっと音を立てた。

「指に掛かったいい球だ!」荒川は言った。

ボールはキャッチャーミットにドスンと収まるはず。久保田はそう信じて投げ込んだ。キャッチャーも久保田の手から離れた瞬間にそうなると確信していた。しかし唐沢は見事に初球を意図も簡単にセンター前へ打ち返した。このヒットによってシェパーズは劇的なサヨナラ勝ちを収めた。


 「あいつは人間ではないな。でないとあの初球を打ち返す事は出来ない」荒川は宮野に言った。

「あいつは人間ですよ。人間の中でも変わってはいますけどね」宮野は主張した。

「藤本から打った時もそうだが、今回も打てる事は有り得ないのだよ。あれを打って仕舞うと野球にならない。プロ野球が成立しなくなる」荒川は言った。

「野球にならないってどう言う事ですか?」

「全てのスポーツにはルールがある。例えばテニス。コートの長さは40メートルに設定されている。この長さは超人がサーブをすると相手が同じ超人でもコースを予測しないと返せない最適の距離に設定してあるのだよ。コートの幅だって同じ事。極めた人間が最高のショットをすればエースが取れるようになっている。だから一般の人間からするとゲームは素晴らしいものになるのだよ。絶妙なバランスの上に成り立っている。しかし、もしだよ、時速400キロのサーブを放つ選手が出てきたらどうなる。ゲームは詰まらないし、やっている人間も楽しくはないだろう。サーブする側も、だ。


 投手だって同じ事。久保田はあの球を投げる為の才能を持って生まれた。それに加えて努力をしている。あの球は打たれてはいけない類のものなのだ。唐沢はあそこに居てはいけないな。お前は、刺激をしてはいけない相手を起こしてしまったようだな」


 荒川はそう言って今日の試合のハイライトを見ていた。宮野は思った。確かに唐沢の場合、ピッチャーとキャッチャーまでの距離が三分の一で普通の人間と同じ条件になるのだと。唐沢はある意味人間ではないのだ。突然変異した怪物なのだ。


 テレビ中継はデビューの日と同じようにヒーローインタビューを受けている唐沢を映していた。例によって唐沢の受け答えはヒーローにはとても似つかないものだった。しかし、不思議と唐沢の態度は結果が伴っていた為か、場内に居るファンからは指示されていた。勿論シェパーズのファンに限ってであるが。荒川は黙って唐沢のインタビューを観ていた。少なくとも宮野にはその様に映った。宮野は荒川に話しかけそうとしがた、荒川の視線がそれをさせなかった。

「先日・・・」

「何か?」

宮野は聞き取れなかった。

「いや、この間、警察の人間が私を訪ねて来たよ」

「警察が・・・ですか?」

「驚かないのか」

「・・・・・」

「隣の植田さんの件で」

「・・・・・」

「宮野。最後にもう一度言っておく。もし、お前がやろうとしている事が俺の敵を取ることなら、止めておけ。分かっただろう。お前が何を相手にしているのか」

宮野はようやく口を開いた。

「唐沢は、プロですよ。野球は素人でも。それと時が来たら話してください。全てを」

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