第18話 接触
大村は吹石の運転で荒川宅へ向かった。任意で荒川を呼び出す事も出来たが、今、置かれている荒川の状況を考慮すると、大村達が荒川の元へ出向く方が良いと考えた。八百長の真相は闇の中であり、引退が正式に発表されたとは言え、世間の関心は未だに高い。大村と吹石にとっては八百長報道後も荒川の実績は揺るがない。偉大な選手には敬意を払わないといけない。
大村と吹石が荒川の自宅に到着した時、諦めの悪い輩がカメラを手に立っていた。吹石はインターホンを押した。少ししてインターホンから『どうぞ』と声が聞こえた。ハイエナ達は直ぐにその男達が警察の人間だと嗅ぎ分けた。特定の職種を嗅ぎ分けないとハイエナとしては生きて行けない。しかし、2人の刑事が訪問した目的が隣人殺害の捜査とまでは嗅ぎつけられない。編集部には荒川に警察の捜査のメスが入ったと、誤報が流れた。荒川に取って迷惑な話だが、この時点では、彼自身もこのタイミングで来るのは遅すぎると思いつつも、八百長疑惑の聞き取りに警察が来たのだと推測していた。
荒川の妻は応接室に2人を通した。荒川は既に座って待っていた。2人を見ると立ち上がって座るように勧めた。
「さすがに球界を代表する荒川さんですね。大変ご立派なお住まいですな」大村は続けた。「大変な時にお邪魔して申し訳ありません」
「肩の荷がおりてもう気楽なものですよ」荒川は平然と答えた。
「しかし、残念ですよ。どうして引退されたのか分かりません」
吹石は、伝えたかった事から切り出した。ひとりのファンとしての思いでもある。
「誰しも引退はしますよ。それが少し早くなっただけの事です。後悔はありませんよ」
荒川は既に吹っ切れている様に2人には映った。
「そんなものですかね。私なんて今の仕事が好きですから辞めろと言われても辞めませんがね」大村は言った。
「私は、刑事の経験はありませんが、恐らく刑事の場合は、本人次第で進化し続けられる。でも、野球選手は違いますから。確かに経験は役に立ちますよ。力が拮抗している場合は。でもね、いくら経験があってもそれを凌駕する実力が有れば新人だってベテランを倒せる。まあ、ある意味不公平ですよ」
大村は、荒川の真意までは分からなかった。
「しかし、荒川さんもこれからまだまだ進化出来たでしょうが・・・」
大村は、荒川の引退に納得出来ていない。吹石も同様に思っている。
「現役復帰を説得するつもりで来られたのですか?」
荒川は、下らないやり取りから解放されたかった。
「それも、そうですね。では、本題に入りましょうかと言いたい所ですが、荒川さんの引退も関係していまして」大村は言った。
荒川は何も反応しない。大村の後を吹石が続けた。
「つまり、荒川さんの八百長報道の前から何者かに嫌がらせ受けていましたよね?」
大村と吹石は荒川の表情を凝視した。
「そんな事もあったような気がしますが、引退と同時に良い記憶も悪い記憶も捨てましたから。あまり、覚えていませんが。それが何か?」
「そうですか・・・」吹石は荒川の答えが想定内である事を次の言葉に込めた。「これは、殺人事件の捜査です。お隣の植田さんが殺害された事はもちろんご存知ですよね」
荒川はただ頷いた。それを確認して言った。
「それで被害届は出されましたか?」吹石は言った。
「何の被害届けかな?」
「悪戯のですよ。こちらの調べではタイヤのパンク、リビングの窓など行き過ぎた悪戯だと思いますが」
薄笑いを浮かべて荒川は言った。
「私はね、相当他球団のファンから妬まれていたから。それくらいの事は覚悟していました。色んな嫌がらせは日常的にありました。毎日食事をするのと同じ程にね。食事のメニューも毎日変わるでしょう。妻は食事にはうるさいから。だから悪戯もいちいち気にしていたらプレーに響きます。それが目的ですから・・・」
「それくらいの事でしょうか?これは、野次ではないですよ。歴とした事件ですよ」
「そうですかね。法律に照らせ合わせればそうなるかも知れませんが、私にしてみれば大事ではありませんよ。プロの選手にとってはこれもセットとして考えないと」
(トントン)とドアがノックされた。荒川の妻がお茶とお菓子を持って来た。
「奥さんお構いなく」大村のトーンは優しくなっていた。
荒川の妻が空になったお盆を寂しげに持って出て行った。出されたお菓子には手を付けずにお茶だけ賞味して大村は言った。
「荒川さん、正直に話してください。人の命の話ですよ」
「そんな事は分かっていますよ」
荒川の声は限りなく平である。これに対して吹石は言った。
「分かりました。質問を変えましょう。私が荒川さんにお目に掛かるのは今日が初めてではありません。植田さんが殺害された夜の試合後、帰宅された時に私と目が合いましたね。覚えておられますか?」
荒川は覚えていた。正確には今吹石が言ったので思い出したのだ。
「確かにそんな事があったような・・・」
「それは良かった。あの時、貴方は怯えておられた。どうしてですか?」大村はストレートに質問した。好打者は良く言う。『一番打つのに難しい球種は?』の質問に『切れのあるストレート』だと。しかし、どの様なボールも荒川には効かなかった。
「私としては普通でしたが。多少、隣のご主人が殺害されたのですから恐怖心があったのかも知れません。自宅で待ち伏せされる事はこれまでにも有りましたから。またかと思ったのではないですか」
「しかし、不思議なのですよ。我々の調べではタイヤのパンクや窓ガラスが割られたなどの目撃証言は丁度、植田さんが殺害された後から一度もない。どうしてですかね?」
「私に聞かれても分かりません。犯人に聞いてください」
「荒川さんは犯人をご存知なのですね。そんな風に聞こえましたが」大村は続けた。
「知る訳ないでしょう」
「宜しいでしょう。では植田さんとはどの様なご関係でしたか?」
「どの様な、と言われましても。お隣さんですから見かければ挨拶はしますし、何度かサインを頼まれたりもしました。それに植田さんは野球好きでしたから試合観戦のチケットを差し上げた事もありました」
「なるほど。ではトラブルは何も無かったのですね?」
「トラブルなんてありませんよ」
この件に関しては事前に植田一恵に確認していた一恵も荒川同様トラブルは無く関係は良好だったと証言していた。
「分かりました。今日の所はこれで失礼します」
吹石はメモを仕舞った。そして2人は応接間から出て行った。荒川宅の門から出るとハイエナ達は2人の刑事に近づき事情聴取の結果を根掘り葉掘り聞いた。2人は何も答えずに止めてあった車に乗りこんだ。
「どう思われます?」運転しながら吹石は大村に尋ねた。
大村は目を閉じたまま考え込んでいた。そして言った。
「荒川からは何も出ないな。しかし、荒川は、植田事件に何らかの関係があることはこれで分かった」
吹石も同じ印象を持っていた。
同じ頃、宮野は遅めの昼食を取っていた。行きつけの定食屋である。昼を一時間も我慢すると昼食時の混雑も収まる。宮野は4人掛けのテーブルに1人で座り日替わり定食を食べ終え、勘定を済ませた。腹を摩りながら歩いていると携帯が鳴った。
「はい。宮野ですが」
「久しぶりだな」
「荒川さん!どうされたんですか?」
「暇つぶしだよ」
「すみません。私の方からご連絡するべきでした」
「良いんだよ。お前にはやる事があるようだしな。ちょっと話したい事があるのだが、今日会えないかな?」
「そうですね。7時か8時頃ならそちらに伺えますが」
「夕食は取らずに来てくれ。こっちで用意するから」
「ありがとうございます。そちらに伺う前に連絡入れます」
宮野は今日予定していた取材を早急に片付け荒川宅へ向かった。いつもなら妥協を嫌う宮野であったが今日ばかりは荒川からの誘いが頭の中から離れなかった。待ち合わせに遅れないように最低限の取材で事をすませた。努力は結果に即座に結びついた。全ての予定を終え、時計を見ると7時10分前だった。宮野は荒川に電話をして8時前に到着すると伝え車を走らせた。
宮野が荒川宅に着いたのは8時を少し回っていた。宮野を出迎えた荒川の表情を見て宮野は驚きを隠せなかった。八百長発覚後のテンションは表情から消えていた。すっきりしたと言えばそうかも知れない。宮野が荒川に会って以来見た事もない表情である。もし、選手生命を全うして引退していたのなら、今と同じ表情をしていたのだろうか?今となっては確かめる術はない。
「すいません。遅くなりまして」
「謝ることないよ。時間通りじゃないか」
指摘を受けて宮野は頭を掻いた。
「それより忙しいのに呼び出してすまなかったな。寿司で良かったかな」
「ありがたいです。大好物ですから。ところで奥様は?」
「妻は友達と出かけているよ。だから今日は店屋物ですまないが」
宮野は恐縮しながら、内心ホッとしていた。いつだったか覚えていないが、以前、荒川宅にお邪魔した時は、荒川の妻が旅館さながらの手料理を振る舞ってくれた。
「荒川さん、これ沖縄の地酒です」
「気を使わせてしまったな。では、食べようか」
荒川は特上を頼んでいた。2人は寿司と宮野が持参した酒を飲んだ。八百長疑惑発覚後、宮野は電話では話していたが、実際に会うのは2度目だった。宮野は荒川に詫びを入れた。引退会見後電話では話をしたがずっと直接荒川に会いたいと思っていた。荒川はそんな事は気にするなと宮野に言った。
「所で荒川さん、引退の本当の理由は何なのですか?」
荒川は宮野が持参したお酒を美味しそうに飲んだ。荒川は空いたお猪口に酒を足した。
「いきなりだな」
「すみません。デリカシーがなくて」
荒川は、笑った。そして言った。
「疲れたのだよ」
荒川は本当に開放された様に答えた。
「私には信じられません。努力なんて苦にされていませんでしたよね。いや、楽しんでおられた。それに野球が誰よりも好きでしたよね」
荒川は居間に置かれている現役時代に使用していたバットを眺めた。グリップの所が黒くなっていた。荒川が現役時代に幾度もバットを振り込んだ証だった。
「俺は不器用だからな。野球を愛する事しか出来ないのだよ」
「だったらどうして辞める必要があったのですか?今なら聞かせてくれてもいいじゃないですか?」
「そうだな。俺が引退会見で言った事を覚えているか?引退を決心した理由を?」
宮野は会見を回想するまでも無く即座にその答えは分かった。
「それは新人が現れたからですよね」
「唐沢と言ったよな。あの新人の名前は」荒川は何かを思い浮かべながら言った。
「ええ、そうです。でもあの唐沢は荒川さんの代わりなど務まりませんよ」
「そりゃそうだよ。やつに俺の代わりなど勤まる筈がない。しかし、俺は確かに会見ではそう言った。それはやつがお前の親友だから言ったのだよ。お前のやろうとしている事が分かっていたからな」
荒川がここまで察していたとは思わなかった。やはり、超一流の選手は体力だけでは無く頭の方も切れるのか。
「それで私に話したい事とは?」
「お前は、俺が八百長をしたとされる試合の相手投手、園田にも接触したそうだな?」
「はい。接触と言っても話を聞いただけです」
「それで、あいつは何か言ったか?」
「いえ、何も」
「あいつは関係ない。八百長なんか出来る度胸などない。俺とお前の仲だから、はっきり言っておく。忠告しても辞めないだろうが、十分気をつけろ。身に危険を感じたら直ぐに手を引くんだ。やつらは人殺しなぞ平気だから」
「どう言う事ですか?」
「何処の世界でも成功は妬まれるものだよ」
「・・・・・・・・」宮野は酒を飲み干し自分で足した。
「だからもう辞めておけ。もし、お前が俺の為にやろうとしているのなら」
「もうサイは投げられましたから。それに唐沢は途中で辞めたりしないですから。巻き込んだのは私ですが」
「あの男か。やつは俺の代わりになれないだろうが面白い男だな。一度会って見たいものだ」
「そのうち、ここへ連れて来ますよ」
「やつは何者なのだ。野球の経験が無いのは本当なのか?」
「今は詳しい事は言えないのですが、野球の経験はあまりありません」
「ますます会いたくなったよ。ただな、俺はやつが嫌いだ」
「分かります。でも、紹介はします」
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