孤独死するアイスクリーム

三上 エル

この世で一番幸せに孤独死する僕の話。

 人の心は一つの瓶のようなものだ。僕はずっとそう思っている。そこには生まれてから今までの思い出に基づく感情が蓄積されていく。悲しみや寂しさ、そういうブルーな気持ちはまるで真っ青なサイダーのように、パチパチと音を立てながら瓶を満たしていくのだ。そして、喜びや幸せ、そういう明るい気持ちはアイスクリームのようにシュワシュワと溶けながら悲しみのサイダーの底に沈んでいく。やがてアイスクリームは完全に溶けてサイダーに飲み込まれ、跡形もなく消え去って。もう二度と、その形を思い出せなくなるのだ。人生ってそんなもんだ。そんな風に僕は理解して、サイダーの海で揺蕩いながら日々を生きている。


 そんな風に考えながら、僕は校舎の隅の階段に座り込んで瓶詰めのサイダーとアイスクリームを描いていた。スケッチブックに並ぶイラストはどれも下手くそで、とても人に見せられるような出来ではない。別にそれで構わなかった。僕は僕の頭の中に浮かぶ何かを手元に留めておきたいためだけにそれを描いていて、誰かに見せるつもりは毛頭ない。これを見られるというのは僕の頭の中を全部覗かれるのに等しいことだから、どちらかと言えば誰にも見られたくないというのが本音だった。


 遠くでわあああという歓声が聞こえてきて、集中力を削がれた僕はため息を吐く。今、学校内は半年に一回の球技大会で盛り上がりに盛り上がっているのだ。数ある行事の中で学園祭と同じくらい、ひょっとするとそれ以上に生徒に人気があるこの行事が、僕はそんなに好きではなかった。別に運動が出来ないわけではないし、クラスに友達がいないわけでもなかったけれど、かと言って僕がクラスから抜け出してここにいることに気づいてくれる誰かがいるほど、僕は存在感のある人間ではない。別にそれで不満はないのだが。ないのだが、こういう行事の間だけはクラスの雰囲気に溶け込めない自分がいるのは事実だった。


 こういう行事の間だけ、クラスメイトたちはいわゆる青春みたいな言葉に酔って、テンプレートな思い出作りに励みだす。バスケ部の男子に女子は群がり、バドミントン部の女子を男子はもてはやして。あまつさえマジックとかいうくだらない現象まで始まって、いよいよ僕は吐き気がしてきて逃げ出した。そういったものに縁遠い僕は、この行事の間は学校という小さな世界から締め出しを食らっているように感じるから。


「何描いてんの?」

「ひえっ!?」


 早く終われ、早く終われ、そう呪文のように唱えながらスケッチブックに頭の中のモチーフを書き殴り続けていたら、隣にそっと座った人間の気配に気づかなかった。彼女が僕に声をかけてきて初めてその存在に気づいたものだから、僕は思わず情けない悲鳴をあげてしまう。


「あはは、そんな大袈裟な」


 そんな僕を見て笑う彼女の姿を見て、僕はさらに驚いた。そこにいたのは、本来なら今日こんなところにいるはずのない陽キャ筆頭みたいな女子。バッチリメイクをして、校則の緩いこの学校でギリギリ許されるくらいの明るい茶髪をした、学年でも可愛いと有名な彼女がなぜここにいるのか。


「それ、クリームソーダ? の割にはアイスどろっどろに見えるけど」

「……」


 正直に答えたら絶対に馬鹿にされる。こういう系の女に僕が考えていたようなことを告げれば、メンヘラという言葉で括られるのがオチだ。隠キャ認定されるかもしれない。言っておくが僕はメンヘラでも隠キャでもないのだ。クラスではほとんど存在感がないが、それは部活に時間を割きすぎていて休み時間もほとんどクラスにいないからであってぼっちだからではない。部活では色々なリーダーを兼任したりして部の中心人物と言っても過言ではないし、だからこう、こんな目立つ女にやばいやつ認定されたら困るのだ。せっかくちゃんと僕の居場所があるっていうのに、この女にめちゃくちゃにされたらたまったものではない。


 ところが、彼女は僕の絵をじっと見つめていたかと思うと、驚くようなことを口にした。


「これ、あたしの心の瓶みたい」

「え?」

「悲しいこととか、嫌なことばっかり覚えてるの。楽しいことは、アイスみたいに溶けて消えちゃうんだ。なんか、この絵と似てるなあ、あたしの心。って思って。あ、ごめん、急に重い話して。ドン引きした? ごめんね!」

「合ってる」

「え?」


 食いつくな、こっちがドン引きされたらどうすんだ、頭の片隅で僕の理性が叫ぶのが聞こえたけれど、気づいた時にはその言葉が口から出てきた。止めようとしても、一度流れ出た言葉は止まらない。


「僕も同じことを思って描いてた。この絵。分かる人がいるとは思ってなかったけど」

 彼女はしばらく驚いて目をぱちくりとさせていたけれど。やがてまるで花が開くような笑顔を見せて、嬉しそうに僕の手を握った。

「あたしたち、きっといい友達になれるね!」







 それから彼女は僕とばかり一緒に過ごすようになった。今までの派手そうな友達と昼ごはんを食べるのをやめて、わざわざ他クラスの僕の席まで迎えに来るようになって。目立ちすぎるのが恥ずかしいと僕が言えば、彼女と初めて会った人気のない校舎の隅の階段が僕らの定位置になっていった。


 彼女と色々な話をして初めて、僕は彼女が見た目通りの人間ではないことを知った。彼女は読書が好きで、倫理の授業にとても関心を抱いていて、真面目な話をする相手を欲しがっていた。それと同時に見た目通りの人間でもあって、年相応に異性への関心もあり、彼氏が欲しいと事あるごとにため息をついていた。


「なんで彼氏いないの」

「あたしが人を見る目がないから。大体クズ男に惚れて酷い目に遭う」

「なにそれ、やばいね」

「やばいよね。なんか、最初はみんなまともなのに、あたしとの距離が近づけば近づくほどみんなやばい男になってくんだよね。なんでかなあ」

「ダメ男製造機じゃん」

「ほんとそれ」

「大変だねえ」

「大変だよー」


 そう言ってヘラヘラ笑う彼女が本気で彼氏を欲しがっているのかどうかはよく分からなかった。彼女に群がってくるような平凡で馬鹿な男が彼女には相応しくないことを、今の僕はもう知っている。そして残念ながら、彼女に相応しいそれなりに考えることのできる頭がある男は大抵彼女みたいな外見の女には近づかないものなのだ。だからといって可愛くなくなれというのもおかしな話だし、人生とはやはりうまくいかないものだと思う。







 彼女と僕は決して似たもの同士ということはなかった。大体考えてることは違うし、好きなものもとことん合わなかった。僕が好きなもののことを彼女は知らなかったし、逆に彼女の好きなもののことを僕はほとんど知らなかった。たまに同じものに興味を持つこともあったけれど、それのどこが好きかという話をすると全く噛み合わないことがよくあって。一度など、一緒に映画を観に行って2人とも感動し、感想を語り合ったところ、お互いの感動したポイントに全く共感できないという事件が発生したことさえあった。けれどそれは決して不快ではなく、僕らは全く似ていないお互いの感性をむしろ面白がっていた。似ているようで似ていない、正反対なようで近いような気もする、そんな彼女と過ごす時間はとても楽しくて。


 ずっと彼女と一緒にいたいと思った。そう思える相手は彼女が初めてだった。それは決して恋ではないと僕は思っている。恋ではないが、友情という言葉で簡単に片付けられる思いでないことも明らかで。僕と彼女の関係に名前を付けるなら親友という言葉がぴったりで、それ以外の何かになりたいという気持ちはなかったけれど、彼女が僕をどう思ってくれているかはわからない。卒業したら疎遠になってしまうのだろうか。そんな不安は常に僕の中にあった。







 僕らの高校は割と偏差値が高めの進学校で、生徒たちはほとんどが真剣に大学受験に取り組む。僕と彼女も例外ではなくて、2人で過ごせる時間は卒業が近づくにつれて昼休みのほんの数十分だけになっていった。その日も僕は心の瓶の絵を飽きもせずに描いていて。するとそれを見た彼女が、いつもとは違う話をし始めた。


「こないだふと気になってさ、クリームソーダの作り方を調べたんだよね」

「なんでまた急に」

「大学入ったら自分で作ってみようかなと思って」

「なるほど」

「それでさ、クリームソーダを作る時に一番大切な要素ってなんだか知ってる?」

 そう聞かれて、僕はイマイチピンと来なかった。クリームソーダに一番大切な要素ってなんだ?

「ええ……? ソーダ?」

「ぶぶー」

「うざ。そんなのわかんないよ……。正解は?」

 すると彼女はどこか得意げな顔をして、僕に答えを教えてくれた。

「それはね、氷なんだって」

「氷?」


 予想外の答えに首を傾げる僕を見て、彼女はクスクスと可愛らしく笑う。


「そう。氷。言われてみれば当たり前なんだけど、氷がないとアイスはソーダの底に沈んでいっちゃうんだって。だから、グラスいっぱいに氷を隙間無く入れるのがクリームソーダを作る工程で一番大切なんだってさ。意外と知らないもんだよね」


 なるほど、確かに言われてみれば当然だけど、まさか当たり前のようにグラスに存在する氷にそんな重要性が秘められていたとは思いもしなかった。僕が感心していると、彼女がふっと真剣な表情で僕の手を握ってくる。驚いてその顔を見れば、彼女は優しい、けれど有無を言わせぬ声色でこう告げた。


「だからさ、あたしが氷になってあげるね」

「は?」

「この瓶の中に、あたしがたくさん氷を入れてあげる」


 僕がその真意を汲めずに戸惑うのを気にもせず、彼女は僕の手から鉛筆を奪い取る。心の瓶の絵に一つずつ正方形の氷を書き足しながら、彼女は今まで見たこともないくらい切ない微笑みを浮かべていた。思わず泣きたくなるような笑顔だったのに、今まで見た彼女のどんな表情より綺麗だと思ってしまった僕は、多分性格が悪いんだろう。


「ほら、ね。こうしたら、幸せのアイスは涙のサイダーの底に沈んだりしないでしょ? アイスは溶けない。ずっと心の中に残る。あたしっていう氷がいる限り、絶対に」


 だからさ、と彼女は僕の耳元に顔を寄せて囁いた。彼女の使っているシャンプーか何かの、レモンのような爽やかな香りと共に、その言葉は僕の中にくっきりと刻み込まれていく。決して忘れることなどできないように。


「君もあたしの氷でいてね。ずっとずっと、あたしたち、一緒だよ。あたしたちにはお互いが必要なんだから」


 ずっと一緒。それが物理的な話でないことは分かっていた。僕と彼女の目指す大学は全然違う場所にあり、物理的に僕らが一緒にいられる時間はあとわずかしかない。


「わかった」


 そう答えた僕の声は少しだけ震えていて、泣きそうなのを隠そうとして失敗したのが丸わかりだった。だって仕方がないだろう。僕はずっと彼女にそう言って欲しかった。彼女とそういう関係になりたかった。それが叶ってしまったのだから。


「……好き」


 ポロリと口から出た言葉がどういう意味の《好き》なのかなんて僕自身わからなかったけれど。彼女はそれに驚くこともなく、当然のように微笑んだ。


「あたしも大好きだよ」


 その時昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いて。僕は誰にもバレないように、必死に涙を拭って立ち上がったのだった。







 勉強漬けの冬があっという間に過ぎ去って。ふと気づけば春が来ていて、僕と彼女は無事に大学生という身分を手に入れた。僕たちの住む場所の間には、長期休みに会いにいくことはできるけど、普段は到底会いにいくことのできないくらいの距離がある。


 それで疎遠になるかと思いきや、僕らは1週間に1度は何時間も通話を繋げて生活していた。通話をしているからと言ってずっと話しているわけではなく、お互い課題をしたりゲームをしたり家事をしたりしながらたまに話すといった感じだ。僕らはこれをただ窓を繋げただけだというように認識していた。日常生活を送りながら、話したいときに話せるように窓を繋いでおく、そういうイメージ。大学の友人にこのことを話すと少し驚かれる。普通はあまりこういう通話はしないらしい。そんなものなのか。


「聞いて! あの先輩意味わかんないから! あたしが書類整理全部やってあげたのに感謝の一言もないどころか、自分がやらなきゃいけない仕事まで余計に押し付けてきたんだよ? まじで頭おかしい」


 彼女から聞く話は大体サークルでの人間関係の悩み事だった。彼女は可愛いけど、外見に似合わず要領が良くて仕事ができる。理解し難いことだったが、彼女の行った程々に田舎の大学の人間の中には、自分より賢い女が周りにいるとどうしても許せない馬鹿男がいるらしかった。彼女が最初にそいつを振ったことも彼の癪に触ったのか、その馬鹿男を筆頭に彼女をいじめる奴らがサークルにいるらしい。


 僕は彼女の話を聞くことしかできない。本当は馬鹿男どもを殴りに行きたいが、残念ながら僕の住む場所からは遠すぎるし、多分僕より馬鹿男どもの方が強い。けど、彼女は僕に話を聞いてもらえるだけで満足らしかった。僕もまた色々な悩み事を彼女に話して、うなずいてもらえるだけで満足だったから、多分そういうことなんだろう。







 僕の悩みはもっぱら自分自身のことだった。僕は高校の頃から、いや、本当はずっと前から違和感を感じていた自分自身というものについての一つの答えに気がついてしまったのだ。そして、気づいたことによって精神状況が余計に悪化した。


 最近の僕のスケッチブックには、孤独死を象徴する真っ白なベッドと、飛び降り自殺を連想させる高層ビルの屋上が並んでいた。僕は自分の人生の終わりについてずっと考えている。多分、僕が自殺せず老人になるまで生き延びたとしたら、誰にも看取られないまま孤独死するだろう。僕はきっと恋をしないし結婚もしないから。けれど、人類史上最弱の部類に入るであろう寂しがり屋の僕は、どうしても孤独死だけは避けたいと思ってしまったのだ。そしたら自分で終わらせるしかない。問題はどこで終わらせるのが良いタイミングなのかということだ。それを決めるのは中々難しい。今のところ決まっていることは、長生きしないということだけだった。







「彼氏ができた」


 そう言われたのは、大学に入って三年は経った後のことだったと思う。僕はそのことに特に驚いたりしなかった。正式に告白される前から、告白されそうだという話を彼女に聞いていたからだ。夏季休業の間の集中講義で出会ったその男は彼女に一目惚れしたらしく、現代においてあまりに純情すぎる手段で好意をアピールした挙句、夜景の綺麗なレストランで告白してきたらしい。いったいいつの時代の少女漫画だよ。


 彼女の方は別にその男の顔は好みでないらしいが、今までの男と違って彼女を大切にするその態度は告白を受け入れるのに十分だったらしかった。恋愛というのはどこまでも惚れた方の負けというわけか。彼女がそいつと付き合い始めて数日が経ち、数週間が経ち、数ヶ月経っても、そいつがクズ男になることはなく、彼女を大切にするまともな男のままだった。まあ、哲学的な思慮に満ちた男とは到底言い難い感じではあったが、愛嬌のあるお茶目なお馬鹿さんは嫌いじゃない。そう、そいつは間違いなく彼女にぴったりの男だった。


 僕は彼女に相応しい彼氏ができたことが本当に嬉しかった。本気で祝福したし、適度にウザくない程度に惚気てくる彼女の話も微笑ましいと思えた。本気で彼氏が欲しい、結婚したい、と言っていたのを知っていたから、それが叶いそうで本当に喜んだ。喜んだのだ。これは嘘じゃない。嘘じゃ、ないんだ。


 馬鹿なことに、気づいたのは少し経ってからだった。ずっと大事にしてきた髪を、何故か急に切りたくなったのだ。なんとなく気分転換がしたいと思ったから。そして髪を切って、彼女のことを知っている高校時代の別の友人と話しているときに、彼女の話になって。彼女に彼氏ができたと友人に話した瞬間、急にその理由に思い当たった。


 失恋した女が髪を切るというシーンは小説やら漫画やらであまりに使い古された描写だが。僕が急に髪を切ろうと思ったのは、もしかしてそういうことか?


 その考えに気づいた瞬間、頭の中で色々なことがパチリパチリと音を立ててはまっていった。僕は彼女を幸せにしたいと思っていた。他の男じゃなくて、僕自身が幸せにしてあげたいと確かに思っていた。でも、これはきっと恋じゃない。恋じゃない、はずなのに。


 それから自分のことがよくわからなくなった。彼女に彼氏ができたことは本当に嬉しい。彼氏に取って代わりたいとは思わない。だって僕ではダメだから。でも。もし僕が恋をすることがあるのならば。その相手はきっと彼女だけだ。僕が一生恋している相手は間違いなく、彼女以外いないのだ。







 彼女以外に恋をせず、彼女と結ばれる気がないのなら。僕に残された未来は孤独死しかない。どうしても孤独死だけは耐えられないと思った。今すぐ死のう。彼女にこの気持ちを悟られる前に死のう。誰かに僕を気持ち悪いと思われる前に死のう。


 本当は飛び降り自殺が良かったけれど、最近は自殺防止のためにどこの建物も屋上にはほとんど入れないようになっている。仕方ないから、帰りの電車に飛び込むことにした。めちゃくちゃ多方面に迷惑をかけることになって申し訳ないが、僕がこれ以上息をしている方がもっと迷惑だと思うから許してくれ。そんな気持ちで頭上の電光掲示板を見る。1分後に特急がこの駅を通過することを確認して、僕はゆっくりと目の前の線路に向かって足を踏み出した。あと三歩。二歩。一歩。目を閉じて最後の一歩を踏み出そうとした途端、握りしめていたスマホがものすごい勢いで震えだして、僕は思わず足を止めてしまった。目の前を電車が普通通りに過ぎ去っていく。最悪だ、電源切っとけば良かった。







 まだ止まらないスマホのバイブレーションに苛立ちながら画面を見れば、そこには彼女の名前が表示されていて。僕は驚いて慌てて応答ボタンをタップする。


「舞香?」

《日奈〜!》


 彼女の名前を呼べば、泣きそうな声で彼女もまた僕を呼ぶ。彼女がアポ無しで僕に電話をかけてくるのはとても珍しいものだから、よっぽどの何かがあったのか。


「どしたん」

《聞いてよ日奈、教授があまりにも馬鹿なの! あたし、あいつにやれって言われた課題全部やったのに、あのジジイったら全く指示してないことをやれって言ったとか言い出して、なんでやってないんだってブチギレてきたんだよ!? 昨日まで徹夜して課題やったあとだったからダメージデカくってさ……。日奈の声聞かなきゃ死ぬって思って電話しちゃった。もしかして今外? ごめん、アポ取れば良かったかな》

「いや、大丈夫だけど」

《本当? じゃあもうちょい話させて》

「良いよ」


 僕は駅構内の人がいない片隅のベンチに腰掛ける。彼女は教授の横暴と自分の努力について感情的に愚痴り続けていて、僕はそれを頷きながら聞いていた。さっきまで死のうとしていたとは思えないくらい、いつも通りに話せる自分に自分で驚く。


《はあ……なんかだいぶ落ち着いてきた。ありがと》


 段々落ち着きを取り戻してきた彼女の様子に安心しながら、僕は特に深く考えないで彼女にこう問いかけた。本気で大して何も考えていない質問だったけれど、帰ってきた答えは予想もしないものだった。


「それなら良かったけど、なんで僕なの。彼氏に聞いてもらいなよ」

《何言ってんの?》


 彼女はコロコロと楽しそうに笑う。その声はもういつも通りの彼女だった。


《あたしの心の瓶の氷は日奈でしょ? あいつじゃ代わりになんかならないから。あたしの心の瓶の中の一番大事な氷は日奈しかいないんだよ。日奈だってそうでしょ? あたしが日奈の一番、だよね?》


 まるでなんでもないことのように、この世の常識だとでも言うように告げる彼女の声に、僕はしばらく絶句して。それから、震える声で小さく呟く。


「あ……当たり前じゃん。僕の氷は舞香だけだよ。舞香が一番大事だよ」

《だよね! 良かったあ》


 そして彼女は通話を切る間際、やけに優しい声でこう告げた。


《だから、日奈はいなくなっちゃダメだよ。日奈がいなくなったら、あたしも死ぬからね》


 きっと彼女は僕が死のうとしていたことなんて知らない。気づいてなんかいるはずない。そのはずなのに。僕は彼女の言葉に黙って泣くしかできなかった。なんだよ、なんで僕の言って欲しい言葉がそんな簡単にわかるんだ?


 彼女との通話が終わったあと、とっくのとうに死ぬ気をなくした僕はただ、人のまばらな駅のベンチに蹲っていつまでも泣いていた。時折通りがかる人たちが何事かとこちらを見ていたが、そんなことは僕にとってどうでも良いことだった。







 その夜、僕は孤独死する老婆の絵を描いた。その老婆は真っ白なベッドに安らかな顔で眠っている。周りには僕の大好きなぬいぐるみが所狭しと並べられていて、その両手には大きな瓶が抱き締められていた。中には真っ青な涙のソーダと、大量の氷と、ほんの少しだけ溶けたアイスクリームが入っている。そして枕元には、彼女の連絡先が表示されたスマホが置かれていて。


 まあ、僕が老婆になって死ぬ頃にはスマホなんて旧時代の遺物と化しているのだろうが、僕の想像力ではそれに取って代わるものが何かは上手く想像できなかった。


 女でも男でもない、曖昧な僕は一生誰かに恋をしないし結婚もしない。最後には孤独死するだろうけど、もう僕はそれを悲しいとは思わなかった。最後の最後まで、彼女という氷が僕の心の瓶の中に存在するのであれば、僕の幸せのアイスクリームは溶けて消えたりしないのだ。最後の瞬間まで彼女との思い出は甘く優しく残り続ける。それはとても幸せで、決して孤独ではなかった。


 僕はとても満足して、スケッチブックをゆっくり閉じた。そしてスマホの連絡先の中から彼女の名前を探してタップする。彼女の声がスマホ越しに聞けるこの瞬間が、何より幸せだと僕は本気で感じていた。

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孤独死するアイスクリーム 三上 エル @Mikamieru_8

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