第8話 ロンドン再び 2020年
世界中が、、、。
大きさがナノメーター単位の、生き物とさえ言っていいか疑わしいウィルスが惹き起こす伝染病に、世界中が震撼していた。
アメリカも日本もロシアもアフリカも・・・。全ての大陸が怯えていた。
とりわけ欧州は打撃が大きかった。一時、死者が病院から溢れる国が続出し、都市はロックダウンされ、国境はたびたび封鎖された。経済は大きな打撃を受けた。
僕は・・・家族と離れ離れのまま、一人その中で佇んでいた。
僕ら家族は2012年一度日本に戻ると、暫くは井の頭線沿線の閑静な街に家族揃って住んでいた。長男も長女も受験をし、それぞれ日本の大学と高校に進学した。僕は忙しく世界中を飛び回り、妻は翻訳業の仕事を見つけて家で仕事をするようになった。そんな中、欧州のリエゾンを本格的に支社に格上げするために、2019年の秋、僕は再びコペンハーゲンに単身赴任することとなった。
支社にするには経理・人事などの総務関係をはじめとした体制を整えなければならない。税理士や会計事務所、リーガル関係の専門家にも目星をつける必要があり、その年の秋から冬までを僕は殆どその活動に費やした。同時に製品の調達の多様化を進める必要があり、僕はブリティッシュチェダーに目を付けた。
チェダーチーズと呼ばれるものは各地にあるけれどブリティッシュチェダーは他の国のチェダーと違う風味を持っている。今ではフランスやイタリアの有名なチーズに比べて知名度や人気はいま一つだが、味は遜色ないし、価格も安い。人気が今一つなのはイギリスの食事はまずいという固定観念も影響しているのだろう。確かにイギリスの食事はラテン系のものに比べてレベルは低い。そもそもゲルマン系の民族は食事に重きを置かない傾向がある。だが、そんなイギリスでもとびっきりうまいものがある。クラブサンドイッチだ。
一度連れて行ってもらったロンドン近郊のゴルフコースで食べたクラブサンドイッチはプレー後で腹ペコだったという事情を差し引いてもとびっきり美味かった。そこで使われていたベーコンやチーズのメークを教えてもらったのが始めだった。サンドイッチに使われていたのはゴーダチーズだったが、そのメーカーのブリティッシュチェダーに僕は惚れ込んだ。
とりわけ熟成したものに・・・。
熟成したブリティッシュチェダーはホロホロと崩れるような食感と共にシャリっとした独特の味がある。それがクセになってしばらくの間僕はこのチーズの虜になった。メーカーに取引を申し込んだところ感触は悪くなかった。ただ生産を増やすためには一定の投資が必要でそのためには買い付け量のコミットかあるいは先行投資に関するファイナンスが必要だという条件が提示された。併せて他のチーズの買い付けも検討された。
2020年に入り商談が佳境に入り始めた頃、極東で奇妙なウィルスが流行し始めた。中国で毎日多くの死者が出、日本行きのクルーズ船で患者が発見されたというニュースが流れていた時期は極東の話かと思っていた。だがそうではなかった。流行はあっという間に大陸を飛び越え、アメリカや欧州にひろがった。中国で都市封鎖が始まった頃にはもう流行を止める手立てはなかった。
海外にいる日本人のうち、旅行者は基本的に帰国する選択肢しかなかったが、海外で働いている者には二つの選択肢があった。一つは帰国すること、もう一つは残ることである。しかし一度帰国すればいつ戻れるかは分からない。僕は悩んだ末に残ることにした。
だがそうしているうちにも流行はすさまじい勢いで広がっていった。人と物の動きを自由にするという経済圏の仕組みは疫病の流行には無力どころか逆効果だった。ロンドン、パリだけではなく無数の都市がロックダウンに見舞われ、一時国境は閉鎖に近い状況になった。ウィルスには国境は関係ない。一度、漏れ出たウィルスは国境のこちら側でも向こう側でも無差別に多くの人を薙ぎ倒していった。
毎朝、僕はパソコンでビデオ電話で沙織と話をした。日本に帰らないと告げた時、沙織は心配そうに
「大丈夫なの?」
と尋ねてきた。
「だって、そっちでも感染者が出始めているんだろう?なら、どこにいても変わらないじゃないか。それに下手に帰ればウィルスを持ち込んだと疑われかねない」
そう答えると妻は俯いて、そうね、と呟いた。
「分かったわ。でもその代わり毎日電話で話すことを約束してちょうだい。そっちも外出制限されているんでしょう?」
うん、と僕は頷いた。
欧州は朝でも、日本は夜で、息子や娘は電話に出る時もあれば、電話に出ない時もあった。日本で緊急事態宣言が発令された後も、ときどきそんなことがあった。
「日本でも夜は出歩いちゃいけないことになっているんじゃないのか?」
二人がいないと僕は不満を妻にぶつけたが、
「あの子たちにも色々とあるのよ。あなたみたいな自由な青春時代を送った人がそんなことを言っちゃいけないわ」
と妻は冷静に僕を諭した。自分の若い頃を考えると・・・言い返すことは難しかった。
「お仕事は進んでいるの?」
「うーん」
僕は唸った。ただでさえ、イギリスが欧州連合を脱退するという政治的決断を下したせいで関税やら輸出手続きやらの話が面倒になりそうな上にコロナ騒ぎで、様々な予測不能の事態がおきていた。チーズ工場でもEUに属する地域の人々の離職や、原材料の調達などで少しずつ影響が出始めているようだった。イギリスでは病院が満床になったり、収まりかけた地域で再感染が始まったりして不安定で、なかなか訪問するのが難しい状況であった。
「こんな状況だったら、日本に帰ってもおなじだったかもしれないな。結局、相手と電話やメールでしか連絡が取れないんだから」
「あら、泣き言をいうなんて珍しいわね」
沙織はさらりと言った。
「泣き言っていうわけじゃないけどさ、家族と一緒に生活するのを犠牲にしてまで、こっちに残るメリットは今のところないんだ」
「止まない雨はない、昇らない太陽はない」
僕の言葉に沙織は笑みを浮かべてそう答えた。
「まあ、そうだけどさ」
僕も笑った。
「でも、一人きりだとね、色々と余計なことを考える」
「そうね、でもあなたは一人じゃない」
「ああ・・・君がいる」
「私だけじゃない。父も母も、秀樹も子供も・・・」
沙織は真面目な顔をした。秀樹クンは妻の弟だ。今は五つ年上の男性パートナーと一緒に暮らしている筈だ。
「ああ、そう言えば秀樹さんはどうしている?」
「かわりないわ。相も変わらず忙しそう」
「弁護士が忙しいっていうのはあんまりいい社会じゃない・・・のかな?」
「関わっている事柄にもよるけど、秀樹が忙しいのはまだLGBTに差別があるってことかもしれないわね」
「宜しく伝えてくれ。本来なら彼がここにいたのかもしれないけど」
僕は冗談めかしてそう言った。
「恨んでいたって伝えておくわ」
妻は僕の気持ちを汲んでか、そう答えた。
「まあ、感謝半分、恨み半分くらいに言って置いてくれよ」
互いに笑って、電話を終える、僕ら夫婦にはそんな日々が続いていた。
だが季節が変わると漸く感染の勢いが下火になっていった。その上、夏の終わりにはイギリスと日本の政府間で、輸出関税が纏まりそうだという観測がでてきた。イギリスはブルータイプのチーズの輸出を推進しているようだったが、日本の消費者にはブルーチーズよりもチェダーやゴーダが好まれる。それはひとえに合わせるお酒との組み合わせだと僕は見ていた。ワインやウィスキーの消費が増えているのはブルーチーズにとっては朗報だろうが、誰もがそればかりを飲むわけではない。癖のあるチーズは少なくとも日本酒とは合わない。
逆に癖の強い食べ物でもくさやは日本酒や焼酎と相性がいいが、ワインとは合わない。納豆も同じだ。
癖の強い食品ほど相性ははっきりとしてしまう。日本では様々な種類の酒が飲まれている以上、癖の強いチーズには限界がある、と僕は考えた。ワインは確かに売り上げが増えている。だがワインだけ飲んでいるというのは大抵は女性だ。ブルーチーズはそうした狭いマーケットでしか戦えない。だが、チェダーはそうではない。ウィスキーとでも日本酒とでも、ビールとでもワインとでも、缶酎ハイとでもうまくやっていける。
夏も終わりに近づいた或る日、久しぶりに僕はイギリスの地を踏んだ。チーズメーカーの社長がロンドンで会おうと連絡してきたのだ。そしてホテルで僕らは最初の取引について合意した。ウィルスのせいで営業が制限されている飲食関係は需要が望めないが、逆に家庭での需要は高まる。これからしばらくはそうだろう。むしろ外食を避ける風潮は家庭でも食材の選択肢をひろげ、多少の贅沢品ならば需要が増える見込みがあった。
一ポンド、及び半ポンド程度の個装にして、今まで本格的なチーズを扱っていなかった中どころのスーパーに試験的なマーケッティングをする方向で東京の本社と話はついていた。その数量と価格についての最終合意を取り交わし、設備投資に関わる金利を一定程度負担することで僕らは互いに満足した。金利といっても大したことはない。円でファイナンスすればほぼ負担は零だ。どうして、こんな社会になってしまったんだろう。金利が低いというのは未来が明るくない、という事だと僕は思っている。実際の所、その通りなのだろう。
感染症もあるのでディナーは次の機会に、と約束して僕らは別れた。
久しぶりのロンドンでは他にもいくつか調達先などの関係があるので、現地のリエゾンを通してアポイントメントを入れてあった。予定は三日間、ホテルはナイツブリッジ近くの良く泊まる場所に取った。
そして全ての案件を終えた最後の夕、僕は昔懐かしいロンドンの街を散策することにした。少し体がだるいな、とは思ったけれど次にいつロンドンに来ることができるか分からない。
だるさは仕事を入れ過ぎたせいに違いない。前日は今日の別の契約のために殆ど寝ることができなかった。いわゆるlast minute amendment(土壇場の変更条項)を相手が入れてきたために本社の法務担当を介して弁護士と打ち合わせをしていたのだ。
僕が働いていたレストランはもうなかった。近くに開いていたカフェで話を聞くとCOVIT19の前にオーナーは店を閉め、日本に戻ったのだという。伝染病のせいでい今のところ、近い将来に日本からの客が戻って来る見通しがなく、日本料理屋でも閉めるところが多かったらしいので、偶然とはいえ先見の明という所だろう。
だが僕はメインの行き先を失ってしまった。久しぶりにオーナーと会って旧交を暖めたいと思っていたのだったが・・・。仕方なく、あてももたずにその近くを歩き続けた僕はいつのまにか見知った場所に出た。裕子が働いていた店の近くだった。だが、記憶を頼りに行ったそこも、ブザーだけは残っていたが、店のプレートは外されていた。
その近くにある、インド人が経営するスタンドで僕は煙草を買った。煙草を吸うのは久しぶりだった。昔は、良くロンドンの街の片隅で煙草を吸ったものだ。その時の記憶を蘇らせたかったのかもしれない。
薄汚れた格好をした、痩せた白人が近寄ってきて煙草をねだったが僕は首を振った。ロンドンの煙草は世界で一番と言っていいほど高い。だからとりわけ人が良く、ねだればもらえる確率の高い日本人にねだってくる人間は昔から多かったのだが、僕はあるときから決してあげないようにした。そうしないと、彼らはいつまでも日本人に煙草をねだってくる。
煙草は味がせず、ただひたすらいがらっぽかった。同じ銘柄でも国によって煙草の味は極端に違う事がある。昔もこんな味だったろうか、と曖昧になった記憶のまま、煙草を靴底で揉み消し、吸殻を屑箱に捨てた時、ふと昔の景色を思い出した。Litter(屑箱)と黒い金属製の缶に書かれた金文字・・・裕子と別れてロンドンを去る前に車のライトに浮かび上がったあの景色が鮮やかに蘇った。裕子は・・・幸せに暮らしているのだろうか?
ロンドンにいた時の思い出の場所は消え、ただ屑箱だけで繋がった記憶に苦笑して僕は散策をやめ、ホテルに戻ることにした。だるさに加えてふと悪寒を感じたのだ。もう眠った方がいい、体は僕にそう伝えてきた。
チャリングクロスの駅で地下鉄を待っていたその時、ふと視線がふらついた。目を擦って向こうのホームに視線を移した時、一団の人々が向こう側からやってくるのが見えた。僕は思わず目を瞠った。
その中に沙織と子供たちの姿が見えたのだ。
「沙織、どうしたんだ」
そう声に出そうとしたが、うまく声が出なかった。
子供たちが後ろを向いて語り掛けているのは永遠子さんだった。・・・昔のままのきれいな人。だがそんな筈はない。なぜ彼女がボクの家族と一緒にいるのだ?
けれどそれで終わらなかった。その更に先にアンリが裕子とフランシスカと談笑しながらやってくる。
僕はよろめいた。よろめいて、倒れた。地下鉄のホームの冷たい床が熱い頬を冷やした。誰かが駆け寄ってくる音がした。それでも視線の先にまだいる人たちに向かって、僕は必死で叫びかけようとしたが、地下鉄が近づいてくるゴーッという音が耳元でして・・・
景色は暗転した。
欧州八景(Eight scenes in European cities) 西尾 諒 @RNishio
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