第7話 洋上 2010年 Recuerdo suave(追憶)
眼の前に広がる海を、ボクは長いこと眺めていた。
天の重さにむりやり圧し潰されたような緩い弧を空のキャンパスに果てしなく広げる水平線。その弧の遥か彼方からやってきて、巨大な生物の鼓動のように規則正しく打ち続ける波。そして波の上にきらきらと踊り子のようにダンスを続ける太陽の分身たち。
いつまでたっても見飽きなかった。
子供の頃・・・あんなにしょっちゅう海を眺めていたのに、目の前に広がるそれは全く知らない生き物のようだった。優しいレースのような白い波が打ち寄せる地中海の海岸の淡碧色と違って、眼前の海は、底知れぬ深みのある青の色をしていた。クルーザーが切っていく波だけが白く、海はいくら船首に切られても傷口をあっという間に
そしてその青・・・。どんな精妙な画家でも、この色を出すことはできまい、どんな優れた詩人でもこの色を言葉にすることはできまい。
手にしていたギターをときおり掻き鳴らしつつ、ボクは海を見続けていた。
「フランシスキート」
背後で呼ぶ声がして、ボクは振り返った。そこで心配そうな眼でボクを見ていたのはカルロスだった。ボクが元気がなさそうに見える時、カルロスは子供を呼ぶときのようにボクの名を呼ぶ。
「なんだい?」
ボクは答えた。
「また、彼の事を考えていたのかい?」
ボクは首を振った。
「海をみていたのさ」
ボクの横に腰かけるとカルロスは僕の肩に手を掛けた。
「なんだか君が海に吸い込まれそうにみえたからさ」
「そんなことはないよ」
ボクは反論した。
「ボクは君の国で牛飼いになるって決めたんだ。そう・・・何度も言ったじゃないか」
「うん。君のために僕の別邸に牧場を作るように命じておいた。君ひとりで飼えるほどの牛たちと共に・・・。でも本当にそれでいいのかい?」
「もちろんさ。ありがとう、カルロス」
ボクは素っ気なく答えた。
「確かに・・・。牛たちと生活すれば人と会わずにすむ機会は増えるだろうけど」
「牛飼いになるって決めていたんだよ」
「でも・・・それは彼と一緒に来た時の事だろう?」
「ああ・・・そうだけど」
Ryoichiと一緒に牛飼いになって一生暮らそうとあの時、ボクは真剣に思った。二人だけで人目を避けて、死ぬまで愛し合う生活を夢見ていた。 でも・・・。
「彼の分も僕が仕事をするさ」
「そういう事じゃなくてさ」
カルロスは軽くため息をついた。
「うん、分かっている。でも、そう決めたんだ」
そう答えて僕は再び海に目を遣った。
「そうか」
カルロスは仕方なさそうに答えた。
「もし僕たち二人に何かできることがあったら・・・言ってくれ」
僕たち二人・・・カルロスとイサベラ。二人はカップルだ。カルロスはボクと同じ両性具有者だが、イサベラは普通の女性だった。
カルロスに恋をした彼女は彼が両性具有だと知った上で、彼と共に生活をすることを選んだ。その時、彼女の中にどんな葛藤があったのかボクには分からない。それはRyoichiにも同じ事がいえる。いや、彼女と違って彼は結婚して家族までいたのだ。それでも彼は・・・ボクを選んでくれようとしていた。それなのに・・・。
僕はもう一度海を眺めた。思考のスイッチを捻るように。
イサベラ・・・
その二人が言っている「何か」には、もし性欲のはけ口が必要なら相手になるという事も含まれているとボクは気づいている。健常者には
でも、ボクらはそれを自由にすることはできない。ボクらは狭い世界で互いに理解できあえる人々とだけそれを露わにすることができ、その中で感情を処理しなければならない。彼らがそれとなく、そうオファーをしてくれたことは、だから、とても嬉しいことだったけれど・・・。でもボクの情熱は、あのマグマのように高まった感情は、たった一枚の写真で体の中で一瞬に冷えてしまったのだ。そして今もボクの中に冷えたまま固まっている。
「ありがとう、でも今はいいよ」
「そうか」
優しい口調でカルロスは答えた。それにほっとした様子でもなく、もちろんがっかりした様子でもなく、ただ優しく。
「そろそろ中に入るといいよ。夜は冷える」
「そうだね」
ボクはギターを手に取ると立ち上がった。
クルーザーのキャビンはほどよく暖かかった。洋上は太陽の熱と吹きさらしの風で暑いのか寒いのかさえ良くわからない。それに比べるとキャビンの中は人の住むぬくもりがある。
「フランシスコ」
イサベルが僕を呼んだ。
「温かいスープができているわ」
「ありがとう、イサベル」
Tigre Oro(金色の虎)という勇ましい名のクルーザーに乗って外洋へと繰り出した時、ボクは酷い船酔いに苦しめられた。ピッチで吐き、ローリングで吐き、体の全てが外へ出て行きそうだった。おかげでRyoichiとの別れの苦しみは半減した。精神的な苦しみは肉体のそれによって癒されるというさして面白くもない経験をボクは強制的に積まされた。漸く吐き出すものをすべて吐き出し、なんとか揺れに体が順応した時に最初に口にしたのがイサベルが作ってくれたスープだった。
「美味しい」
ボクが言うと、イサベルは微笑んだ。
「可愛い弟ができたみたいで私も嬉しいわ」
イサベルがそう言って、カルロスも頷いた。
「子供扱いしないでよ」
口を尖らせたけど、ボクは知っている。彼らは群れの仲間が傷ついた象のようにボクを心配し、ボクを守るためなら怒れる象のように敵に立ち向かってくれるのだという事を。
「退屈じゃないかい?」
カルロスは尋ねた。
「そんなことはないよ。海を眺めているといつまでもこのままでいいような気がする」
「君はきっとフェニキア人の血を引いているんだ」
「そうかな・・・」
「あら・・・」
イサベルが目を輝かした。
「それいいわね」
「何がだい?」
カルロスがイサベルを見やった。
「こうやって海の上にいて、港に着くとそこは歴史を遡って前ローマ時代になっている。私たちもフェニキア人と一緒に槍とか青銅刀を持って戦うの。そうなったら面白いわ」
「勘弁してくれよ」
カルロスは大仰な仕草で否定した。
「この船は石油がないと動かないんだ」
「いいじゃない、木の船になっても。そうしたらみんなで一緒に漕ぐの」
カルロスとイサベルは暫くその事について言い合いをしていた。といっても真剣に喧嘩していたわけではない。
海は・・・。
海は何千年も昔から、同じように循環し、歴史を横目で眺めながらずっと変わらずに存在していたのだろう。フェニキア人の頃と今と、彼らにとっては歴史書の一ページほどの量もないに違いない。戦争や繫栄や、ボクたちの歴史に書かれている全ての重大事件よりも・・・。隕石がぶつかり沸騰し、氷河期が訪れ凍り付き、そこらじゅうで火山が爆発し、大陸が割れ、掻きまわされ・・・それでも海はどこかで今と同じように静かに波を運び、存在していたのだろう。
その晩、ボクは船室の狭いベッドで眠れぬままあの日の事を思い出していた。Ryoichiをボクの部屋に招いたあの日・・・。
それまでボクは死んだ叔母とマリア以外の人を部屋に入れた事はなかった。彼女達が許してくれなかった、という理由ではない。ボク自身部屋で誰かと二人きりになるなんて言う事は思いもよらなかった。
けれど・・・Ryoichiだけは。
あの日ボクはRyoichiに自分の女を開けてもらうつもりだった。もし、彼にそうしてもらえていたなら、ボクは永遠に女として生きるつもりだった。
でも・・・。
Ryoichiがバスに入っている時、ボクは悪戯心で彼の手帳を覗き見してしまった。いったい何がそんなことをさせたのか今でも分からない。それはボクの知らない文字で書かれていた。だから覗き見ても時折現れる数字以外、何も分からなかった。丁寧な細かい、だが見知らぬ字で書かれていたその手帳をもとに戻そうとした時、そこからするりと一枚の写真が滑り落ちそうになった。慌ててすくい取ったそれは子供の写真だった。Ryoichiにそっくりな切れ長の目、太い眉、貝殻を想起させる美しい耳の形・・・。
その男の子が写真からボクをじっと見つめてきた。ボクは写真を取り落とし慌ててそれを拾った。
もう一度、それを見る勇気はなかった。それなのに・・・ボクはそれをそっとテーブルクロスの下に隠した。なぜ戻そうとしなかったのだろう。あの時ボクはまるで機械仕掛けの人形のように動いていた。ヒターノの占い師の言葉がボクの脳裏に響いていた。ボクが重大な選択をしなければならない時が来る、と。
Ryoichiがバスから出てくる音がした。ボクは咄嗟に判断することを迫られた。Dios mio...(神よ)
バスから出てきたRyoichiにボクは目を上げることができなかった。そんなボクの様子を見てRyoichiは不思議そうに尋ねた。
「どうかしたの?」
ボクはいやいやをするように首をふった。
怖くなった?と彼は尋ねた。ボクはその言葉に
彼は困ったような顔をした。その気持ちはボクにも分かった。ボクだって同じ気持ちだった。でも彼を受け入れたら・・・彼を決して離せなくなる。その事も分かっていた。
そして計算式の余りとして、彼の処理しきれない欲情・・・。それがボクの目の前にあった。
「仕方ないわね」
と言ったのは本心ではない。ボクは彼に横になるように言った。
そしてボクはソファに横たわった彼のペニスを手に包んだ。今まで他の人のペニスをまともに見たことはなかったけど、それはとても奇妙で、とても雄々しく思えた。舌先で舐めると張った皮膚が抵抗するようにボクの舌を押し返した。ティッシュの箱を取るとボクはそれを何枚か弾き抜いて緩やかに彼を包んだ。そしてもう片方の手で根元にある柔らかいものを優しく撫でた。
やがて彼は苦痛を堪えるように身を反らせ、痙攣するように足先をピンと伸ばした。そして、あああ、というような声と共に精液を吐き出した。その時ボクは右手に彼の鼓動を強く感じ、それはそのままボクの虚しい子宮に響いていった。
「ボクでも妊娠しちゃいそうだな」
そうわざと男の声で言ったのはボクの感情を隠すためだった。この指先で彼の子供を作れるならどんなに良いだろう、本気でそう思った。
「からかうなよ」
彼はそう言った。
「うん」
ボクは甘えるような声でそう答えた。彼の事が好きだった。たまらなく愛おしかった。
「こんなの初めてだ」
彼は恥ずかしそうに呟いた。
「どういうこと?」
「こんなに感じたことはなかった。ほんとうのセックスじゃなかったのに」
嬉しかった。即物的だけど、彼の放った精子の数が彼のボクへの愛情を物語っているように思えた。涙が出てきそうだった。その晩ボクらはキスだけをして・・・長く情熱的なキスを交わして別れたのだ。
子供の頃、ボクはとても大人しい男の子だった。
バルセロナから東南に二十キロほど離れた海辺の小さな町で両親は小間物や生活雑貨、食料品や酒を売って生活をしていた。父はいつも母を怒鳴り散らしているような男で、男らしさを売り物にしていたけど小心でけちな男性だった。母はそんな父にさえ頭が上がらない大人しい女性で、父を怖がっていたが、そんな母の怯えが父の謂れのない優越感を助長していることにさえ気づかない愚かな女性だった。ボクには二歳下の弟と五歳下の妹がいた。弟はやんちゃな性格で父親に気に入られていたが、ボクと言えば、
「なんでお前みたいな
としょっちゅう父親から文句を言われて育った。
だから家にいるのがいやで僕は家から歩いて十分ほどの海沿いの丘から海を眺めていることが多かった。大きくなったら船員になって、この小さな町から出て行くのがボクの幼いころの夢だった。
だが、その夢は無残に破られた。それはボクが初等学校の最終年度を終える頃の事だった。ボクは体の異変を感じ始めていた。
男の子たちはもうその頃になると、性器に毛が生え、夢精を経験するようになり、卑猥にその事を語りだす。女の子たちは生理が始まり、フェロモンが優美な胸の膨らみを形作るようになる。
ボクはいずれにしろ奥手だった。男の子たちの猥談の輪に入ることもせず、女の子たちに興味を持つわけでもなく、性器に毛が生えたという話題を持たないボクは独りで海を眺め続けていた。そんな或る日、ボクはシャワーを浴びた時、自分の胸が少し膨らんでいると感じた。それは僅かなものだったけれど奇妙だった。ボクは瘦せこけた子供でおよそ体の膨らみと縁のない子だった。最初は錯覚かと思ったけれど、日が経つうちにそれは次第に顕著になっていった。
ボクの心は恐ろしさに震えた。布で胸を巻いてそれを隠すようにしたが、いずれ限界が来るのは明らかだった。ボクの体はボクの希望とは無縁にどんどんとボクを裏切っていく。
どうしようもなくなって仕方なしに相談をしたのは母だった。母は父さえいなければごく平凡な女だった。母はボクの胸を見て顔を顰めた。フェロモンかしら・・・。そう母は呟いた。
「ねえ、父さんには言わないで」
というボクの願いを母はその時は聞いてくれた。ボクらはバルセロナの病院に行くことにした。
金曜日から週末、バルセロナにいる叔母の家に行くというと父は不快な顔をした。
「どうしても会いたいっていうの」
「店はどうするんだ」
不機嫌な声に、
「来週はあんたが休んで釣りにでも行っておくれ」
と母は答えた。父は黙り込んだ。叔母の事でも考えたに違いない。叔母は母と違って気の強い女性でバルセロナで友人と一緒にバルをやっていた。父は叔母が苦手だった。その叔母の誘いを断らせたら面倒だとも考えたのかもしれない。それに父は釣りが唯一の趣味だった。その釣りで母は父を釣ることに成功した。
弟と妹が一緒に行きたいというのを母が宥めてその週の金曜日、ボクは学校を休みバルセロナ行きの列車に乗った。
病院で検査を受けるのは屈辱的だった。最初一人だった医師は検査が進むにつれ増えていき、最後には十人ほどになっていた。胸だけではなく、素っ裸にされて興味津々と言う目に晒されるのは耐えがたかった。ようやくすべての検査が終わり、ボクは母と二人で待合室で待っていた。薬品の匂いがそこら中に立ち込めていたのを覚えている。
最初にボクの診察をした医師に呼ばれたボクと母は、分厚い眼鏡の向こうから覗く奇妙な笑みを湛えた視線に怯えていた。
「お子さんは、いわゆる病気という事ではありません」
医師の言葉に母はほっと安心の溜息を洩らした。が、ボクらは彼の次の言葉で凍り付いた。
「お子さんは男の子でありながら女性でもある、いわゆる両性具有です。たいへん珍しい。疾患という考え方もあるが私は生まれついての一つの性だと考えている」
「どういうことですか?」
母の声は上ずった。
「もう少し検査が必要ですが、彼は外性器として男性のものを有すると同時に膣も有している卵精巣性性分化疾患だと考えます。これは極めてまれなものです。さまざまなタイプがあって類型はないと言っていいがお子さんの場合、むしろ女性の性器の方が発達しており、女性としてなら通常の性生活にも耐えられる構造になっている。ただ妊娠は難しいでしょう」
医師の声がボクの脳にハウリングした。
帰りの列車の中、ボクらはうち萎れていた。母は溜息をついて、
「フランシスコや・・・かわいそうに」
そう言った。
「ねえ、ママ」
ボクはたった一つだけの事を頼んだ。
「父さんには言わないで」
母は弱々しく頷いた。
「わかったよ・・・」
でも、その翌日には母が父に話をしたことがボクには分かった。父が何かを言ったわけじゃない。でもボクを見る父の目は化け物を見るかのような目をしていたのだ。
その夜、弟たちが寝静まってからボクはこっそりと階下におりた。父と母が商売物の安酒を飲みながら毎晩夜遅くまで話し合っているのをボクは知っていた。
「お願いだから、知らないふりをしていておくれよ。あたしゃあの子に約束したんだからね」
「分かっているよ。話したりするもんか・・・。しかしそんな大切なことを父親である俺に内緒にしようなんてアイツはいったいどういうつもりだ」
父は憎々し気にボクを罵った。
「だから言ったじゃないか。あの年頃の子は・・・」
「何が年頃だ・・・。ともかくその病院に俺を連れて行け」
父は低い声で母を脅すように言った。
「どうするつもりなんだい?」
「珍しいんだろう?それならば研究っていう名目でそれなりのものを出すんじゃないか?」
「バカなことを言わないでよ」
「何がバカなことだ。もっと昔なら見世物にでもして金を稼ぐことしかできなかったんだぜ。むしろ御のじだろ」
「あんたの子だよ・・・」
「おお、そうだ。だから親の俺が決める」
耳を塞ぎたくなった。ボクはもうそれ以上両親の話を聞くのをやめて、二階に戻った。そして次の日の夜明け前、ボクはリュック一つを背負って家を出た。
バルセロナへ向かう道をボクは歩き続けた。あてと言えば一つしかなかった。叔母だった。叔母は生まれた時からボクを可愛がってくれた。
叔母自身は結婚することもなく一人でバルセロナへ出て苦労した挙句なんとか自立して友人とバルを経営していた。以前はしばしば行き来をしていたが、その頃から父との仲は余りよくなかった。だが子供たちの知らないところで決定的な
もし、叔母がボクを見捨てたり、両親のもとに帰すなら・・・ボクは夜明けにオレンジ色に輝き始めた海を道から眺めた。
ボクは海になるんだ。
バルセロナの街は思ったより大きく、バルセロナに連れて行ってもらった時の記憶はあいまいで局所的だった。街に入ってからも僕は迷い、歩き続けた。叔母からきたクリスマスカードの住所だけが頼りだった。
叔母の字は読みにくく、何度も尋ねた人の頭を傾がせた後にようやくボクは見知った叔母の住んでいるフラットに辿り着いた。だが、叔母の部屋の番号のブザーをいくら鳴らしても返事はなかった。ボクは失望と空腹でその場にへたりこんでしまった。波の音が耳の近くで鳴った。
だけど、それは波の音なんかではなくて、フラットに住んでいた美術学校の学生が荷物を引きずる音だった。彼は
「アナさんのやっている店はここからそんなに遠くないよ、歩けるかい?」
彼は尋ねた。ボクが頷くと彼はその店までの詳細な地図を書いてくれた。正確なだけじゃなく、とても奇麗な地図だった。その地図を見ただけでその場所へ誰もが行きたくなるようなそんな地図だった。
「僕も時々行くんだ。安いしうまいからね」
そう言うと彼はポケットから溶けかかったチョコレートバーを出して、首を傾げてから聞いた。
「食べるかい」
ボクは強く頷いた。その日食べた最初の食べ物だった。時間はもう午後の二時を回っていた。
地図通りに道を辿っていくと五分ほどでバルに辿り着いた。Ana y Mariaという小さな看板の出ている扉を開けるとむっとした香りが
「いらっしゃい」
と不愛想な声で出迎えたのは叔母ではなかった。見知らぬ叔母より十ほど年の行った女性だった。
「アナ・・・いますか?」
叔母の名を告げると、その女性は不審げな表情を一瞬浮かべたが、
「アナ・・・。小さなお客さんだよ」
と店の奥に向かって声を上げた。
その声で出てきた叔母はボクを見るなり、
「おやまあ、フランシスキート」
と言ってボクを抱きしめてくれた。焦げかかった
店の最後の客が勘定を終えて出て行く頃にはボクの目の前には数えきれないほどの皿が並んでいた。タコのマリネをフォークで刺しながら、
「アナ、もうこんなにたくさん食べられないよ」
とボクは言ったが、叔母は容赦なく両手にもう二枚の皿を持ってボクの目の前に現れた。
「若いんだからね、たくさん食べなきゃいけないよ。お前はまるで日陰の糸杉みたいに痩せているじゃないか。どうせ余るもんだからね。いっぱいお食べ」
そう言って、皿をテーブルの上に置くと、
「食べ終わったら話を聞くからね。とにかくあんなところから歩いてきたんじゃ、栄養をいくら取っても足りないよ」
と言った。
テーブルに載せられた皿を全部食べ切った時にはお腹はパンパンだった。
「じゃあ、話してごらん」
アナがそう言うと、見知らぬ女性は、
「あたしゃ上に行っているわ」
と階段を上がっていった。
「マリア、そうしてくれる。悪いわね」
叔母は優しい声で階段を昇っていく女性に声を掛けた。
ボクはつっかえつっかえ話し始めた。胸が大きくなったこと、母に病院に連れて行ってもらった事、屈辱的な検査をされたこと・・・。なぜか涙は出なかった。アナは時折頷いては真剣な目でボクの話を聞いていた。でも、最後に両親の話を立ち聞きした時の話を始めた時、不意に涙が零れてきた。
「ボクは見世物なの・・・?」
食いしばった唇の間からそう言ったボクをアナは長い事抱きしめてくれた。
「とにかく、親の方にはあたしが話をしておく。そんな親でもあんたを心配しているかもしれないからね」
そう言うと、アナは店の片隅にある電話を取った。最初は低い声で話をしていたが、突然どなり声を上げた。
「この
どうやら電話の先には父が出たようだった。それから数分、言い合いが続いた。最後に思いっきり音を立てて受話器を戻すと、アナは
「話はついたよ。あんたはいつまでもここにおいで」
と言った。階段からマリアが降りてきて、
「どうしたんだい。あんたがそんな声を出すの、あたしゃ、久しぶりに聞いたよ」
とびっくりしたような顔を覗かせた。
アナはマリアに簡単に事情を話した。知らない人に体の秘密を知られるなんて、ボクは顔から火が出る思いだったけれど、マリアは叔母の話を真剣な表情で聞いていた。
「この子の住むところを見つけてあげないとね。当面は私の所でも構わないけど、狭いから」
アナがそう言うと、マリアは、
「この二階でいいじゃないか」
と指を上に向けた。
「だって・・・この二階は店を広げるために・・・」
「けど、下の階だけでも滅多に満員なんてならないじゃあないか。それに二階まで広げたら人を雇わなけりゃならないよ、きっと」
「いいのかい?」
「あたしとあんたが決めりゃいいことさ」
マリアは微笑んだ。そしてボクに向かってこう言った。
「お前さんもしょんぼりばっかりしてないで、男の子でも女の子でも両方だ、って考えればいいじゃないか。どっちでもないって考えなくてもいいんだよ。神様はお前さんに二つの人生をくれたんだよ」
そうしてボクはバルセロナに引っ越しをした。学校は転校した。必要な手続きは叔母がしてくれた。色々な手続きが終わって一か月経った頃、
「あんたの母親が父親を説得してくれたんだ。そうじゃなきゃ、転校とかもできなかったんだよ。何とか姉さんだけは許してあげられないかね、あんたに謝りたいと言っているんだよ」
と叔母は言った。ボクは首を振った。人は人を愛することで生きる術を見つけられるのかもしれない。でもその時、まだボクは人を憎むことで生きる
ボクは転校してからも人と馴染まない子のままだった。新しい学校はそんなボクを無理強いすることはなかった。ボクは薄い空気のようにして学校生活を過ごした。新しい住居は快適でボクは一日のほとんどをそこで過ごし、たまに海へ出かけた。海だけは・・・前に住んでいたところの方が美しかった。
マリアはボクにギターを教えてくれた。叔母は・・・なぜか鞭の使い方を教えてくれた。ボクの部屋で石ころをテーブルの上に置いて、それを鞭で落とすという遊びで、叔母は無茶苦茶に上手だった。百発百中、とはこのことだった。遊びを終えると僕はマリアとギターを弾いた。そうして少しずつボクは新しい生活に馴染んでいった。
中等教育を終えるとボクはガイドになるための職業教育のコースに進んだ。船員になることはあきらめた。船員というのは他の仲間との密接な関係を求める。ボクのような秘密を持ったままそういう関係を保つのは難しい。それに・・・時に彼らは乱暴だ。
学校の成績は良かったので叔母は高等教育を受け大学に進む道もあるんだよ、と言ってくれたがボクにはそんな気はなかった。資格試験を受けることができるのは16歳からで、ボクは最年少で試験を受けることができた。試験結果を待っていたある日、ボクはいつものようにアナとマリアと遊んでいた。下で電話が鳴り、アナが降りて行った。ボクはマリアと一緒に「禁じられた遊び」を弾いていた。ボクのお気に入りの曲だった。やがて電話を終えたアナが戻ってきた。顔が蒼白だった。
「フランシスコ・・・。あんたの家が火事で焼けた。みんな死んじまった・・・あんたの弟も妹も」
ギターのピックがボクの指から
葬式は簡易なものだった。ボクは持ってきた花を埋められる前の弟と妹の小さな
「あんたにはまだアナがいるじゃないか」
うん、と僕は頷いた。父も母もボクを守ってくれなかった。でもボクを守ってくれたアナはまだボクのそばに居る。
アナは溜息を吐いた。
「あんたには言っていなかったけどね」
そう言うと、アナはバッグから何かを出した。それはサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行の通帳だった。その口座に母の名前で毎月、少額のお金が振り込まれていた。
「これはあんたの母親が振り込んだものだよ」
その金額は毎月違っていた。30ユーロの月もあれば200ユーロの時もあった。父の目を
「姉さんを許してやってくれるかい?」
アナは尋ねた。ボクは頷いた。それが・・・母への許しだったのかは良くわからない。ただ、アナをがっかりさせたくなかった。
資格試験は合格してボクは晴れてガイドになることができた。アナもマリアも喜んでくれた。
だが・・・。
家族がなくなったことは衝撃的であったが、それはボクの人生を覆っていた黒い雲を吹き払ったようなところもあった。ボクの心にそれはある奇妙な考えを芽生えさせた。
「神様はお前さんに二つの人生をくれたんだよ」
と言ったマリアの言葉がボクの頭の中で木霊を始めた。ボクは男としての人生を歩むべきなんだろうか、それとももう一つの選択肢も考えるべきではないのか?
散々悩んだ挙句、ボクはアナとマリアの前でそれを口にした。アナは驚いて僕に翻意を求めた。
女性として暮らすためにこの街を離れたい、だってこの街にはボクの事を知っている人がいるから、と言ったボクに、
「せっかくここでの暮らしの目途がたったのに、なんでそんなことを・・・」
アナはそう言って涙ぐんだ。マリアの方が冷静だった。
「あたしの言ったことでお前さんがそう考えたなら、この口は呪われればいい。でもお前さんがそうした方が良いと思ったならあたしは止めないよ。いったいどうするつもりなんだね」
どこか別の街へ行って働き口をみつけ、女性として生活をすることを考えている、そう言ったボクに、
「それはそんなに簡単な事じゃないよ」
マリアは指摘した。
「だいいちお前さんは男の子としての証明書しかもっていないんだからね。それで女性として働くことは難しいよ」
それはボクの悩みでもあった。でも、証明書なしでも働くことができる場所だってある、そう言うと、
「そんなのはいかがわしい仕事しかないんだよ」
とマリアは断言した。
「お前さんは何の仕事をしたいんだね?」
「モードの仕事・・・かな」
何をしたいと言われるとはっきりしていたわけじゃなかった。でもバルセロナの海の色をファッションにできたら・・・そんな思いがボクの中に芽生えていた。それを聞いたマリアは腕を組むと
「あたしに考えがある。少し待っていな」
それだけ言った。
彼女にプレゼントするんだ、と言って色々な店で買い集めた女性ものの服を衣裳棚に収め、ボクはじっとそれを眺めた。ボクの身長は男性としては低く、女の子でも中背くらいで女ものの服は容易に手に入った。足のサイズも38で女性とそう変わらない。
マリアはあれから一週間経っても何も言ってきてくれなかった。
ボクはブラウスを手に取った。地中海の海のような碧のブラウス。フリルのついた白いスカート。白い、タコンの高い靴。ボクはそれを次々に身に着けてみた。ヒールだけはちょっと違和感があったが、他は良く馴染んでいた。ボクは鏡で自分の姿を眺めた。短い髪は別として、そこには別のボクがいた。誰もが女の子と見違うに違いないボク。
その時、階段を誰かが上がってくる音がした。そしてノックの音が。
「マリアだよ、開けてくれるかい?」
ボクは少し躊躇してから、ドアを開けた。女の子の姿をしているボクを見てマリアは一瞬息を呑むような表情をした。
「どう、似合う?」
密かに練習していた女の子の声でそう言うと、マリアはあんぐりあけた口から、
「まあ、見違えちまったよ」
とそう言った。
「アナ、上がってきてご覧」
「なあに」
階下から叔母の声が答えた。
「ともかくも、上がってきてごらんよ」
マリアの声に釣られて上がってきた叔母はボクの姿を見るなり、
「まあ、なんて・・・」
と声を上げた。
男の子としてはおどおどした感じだったボクの瞳は女の子の姿をすると神秘的な煌めきを湛えていた。男の子としては線が細いボクの体形は女の子としてはスリムで魅力的なラインを描いていた。
「なんて可愛いチカ(女の子)だろう」
ボクはちょっと恥ずかしくなって目を伏せた。それは正真正銘の女の子の仕草だった。
「あたしの古い知り合いでね。訳はきかずに女の子を一人雇ってほしいと言ったら承知してくれたよ。販売員見習で社員扱いじゃないけど、それでいいね。給料はほんのちょっぴりだけど、住むところは向こうで用意してくれるとさ。それにデザインの勉強も手が空いた時に教えてくれる」
マドリッドの店のパンフレットをボクに差し出すとマリアはそう言った。
「ありがとう、マリア」
そう言うと、マリアは少し顔を
「確かに女の子の声だけど・・・なんだか喋っているのがお前さんだと思うとちょっと妙だね」
「変?」
「変じゃないけどねぇ」
そう呟くと、マリアは、
「そうだ、化粧も少し勉強しないとね。素面でも十分綺麗だけど、少しはした方が女の子っぽく見えるからね。それは私がはなむけとして買ってあげよう」
と続けた。
「うん」
ボクは頷いた。
アナはボクが一人でマドリッドで生活することをとても心配していたけど、それから十日後僕は長距離バスでマドリッドへと旅立った。
マドリッドは暑い街だった。それに何よりも海がなかった。でもボクはそこで懸命に生活をした。マリアの知り合いはアダという名前の女性でマリアと同い歳だった。マリアが彼女にどの位ボクの事を喋ったのか知らなかったけれど、彼女はボクに立ち入ったことは聞かなかったし、ボクも話さなかった。彼女はマドリッドに店を三店持っていて、セゴビアとバレンシアに支店を持つやり手で、販売だけではなくデザインや製造も行っていた。見習いとして店員の仕事をする傍らアダはボクにデザインと針の仕事を教えてくれた。ボクはどんどん上達した。アダは時折、
「あんたはスジが良いね」
と褒めてくれた。ショートだった髪は少しずつ伸び、やがてボクの肩ほどまでになった。そして二年が過ぎたころにボクはカルロスと出会った。
その日、ボクは久しぶりのオフだった。アダは休日でもボクに課題を出し、ボクは必死でそれを受け止めていた。だから本当に何もない休日というのは月に一度か二度しかなかった。その日は店も休みで、アダは仕事でバレンシアに行っていた。ボクは住んでいるフラットの近くにあるカフェでのんびりとしていた。11時を過ぎ、少しずつ客が増え、テーブルが埋まっていった。そろそろ出ようかと考えていた時、一人の男性がボクの座っている席のはす向かいを指して、
「ここ、空いていますか」
と尋ねた。その瞬間、ボクは頭の中で何かがピンと音を立てたのを聞いたような気がする。見上げたボクの目に映ったのは、ボクより歳が十かもう少し上の男性の顔だった。エレガントな顔立ち、薄いグレーの瞳、意志の強そうな眉毛、ブロンドがかった茶色の髪の毛・・・。彼のアクセントは南米のどこかの国のように響いた。瞳の色はどちらかというと北欧系なのに・・・。
「ええ、どうぞ」
ボクは震えそうになる声を鎮めてそう答えた。どうして彼が自分と同類の人間だと思ったのか、ボクにも未だにはっきりとしたことはわからない。薄く、淡いヒゲの色だったのか、目の奥にあるどこか醒めた光だったのか、それとも彼の声だったのか?
彼は座るなり、注文を取りに来たウェイターにコーヒーを頼み、黒い革のバッグから書類を取り出して読み始めた。ボクはじっとそれを見詰めていたが彼はボクの視線に気づきもしなかった。コーヒーが来ると慌ただしくそれを手に取り一口飲むとまた書類に視線を落とした。ボクは自分の中にこみあげてくる衝動を自覚していた。
ボクと同じ種類の人間と話がしたい。
それは今まで感じたことのない強い衝動だった。彼は忙しいビジネスマンに見えた。このまま時が過ぎれば、彼は行路の途中の沼地に降り立った渡り鳥のように飛び立ち、二度と会えないだろう。ボクはハンドバッグからメモとペンを取り出し、急いで”Androgynos”と書くと、そっとそれを彼のコーヒーの横に置いた。書類を熱心に読んでいた彼はその動作に気付かなかったが、もう一度コーヒーカップに手をやった時、その眼にメモが見えたらしく、不審そうな顔をして手に取った。その瞬間彼の眼の奥に驚愕と怯えのような色が走った。彼は信じられない、という目でボクを見た。ボクはもう一枚メモ帳から紙を千切ると、
「ボクもなんだ」
と走り書きをした。それを見て、彼は更に驚いたようだったが、目の奥にあった恐怖の色は一瞬にして消えた。そわそわと辺りを見回すと、彼は一瞬何かを考えるような顔をしてから、置いたボクのペンを取るとさらさらと何かを書き、残ったコーヒーを飲み干すとウェイターが来るのを待たずに伝票を取って立ち上がった。そして、去り際にボクをちらりと見遣った。その眼からは驚きと怯えは既になく、どこか興味深げな色をしていた。
メモには彼の電話番号の数字の列と、夜に電話してくれ、という文字が書かれていた。ボクはじっとそれを眺め、それから彼が去っていったカフェのドアをみつめた。
その夕刻、ボクは何度も家にある電話で番号を掛けようとして押し留まった。いったい何時から夜は始まるんだろう?
それと共に彼と話をしたい、という気持ちとそれに対する怯えもあった。何しろボクは彼の事を全く知らないのだ。メモにある几帳面そうな数字と文字の列だけが彼の人となりを知る手がかりだった。
八時が過ぎて、漸くボクは覚悟して電話番号をプッシュした。三度ほど呼び出し音が響いた後、
「はい」
力強い、良く通る声が受話器の向こうからした。
ホテルのロビーでボクたちは待ち合わせた。彼の泊っているホテルだった。市の中心にある古くて立派なホテルだった。ボクには一生縁のなさそうなホテルで、入った途端に場違いな場所に来た、と思った。思わず
「やあ、カルロスだ」
カルロスは親しみを籠めた笑顔でボクに手を差し出した。
「フランシスカです。素敵なホテルですね・・・」
何と言っていいのか分からず、ボクはそう答え、彼の手を握った。白くて長い指・・・。
「うん。そうだね」
振り返って広いロビーを眺めると、
「でも、ここじゃ落ち着いて話ができない。静かな場所で夕食でもどう?」
「ええ」
時計は九時をちょっと回っていた。
サラマンカ地区の中心から少し外れた場所にあるそのレストランもいかにも高級そうなレストランだった。臆するボクの背中を押すようにしてカルロスは店の中へ入った。
「セニョール バスケス。お待ちしておりました。今晩はお連れ様がいらっしゃるのですね」
「うん」
彼はこの店の常連のようだった。
「できたら、静かな席で。人に邪魔されたくないんだ」
ウェイターが何を考えたのか知らないが、それを表情に出すことなく彼は店の奥まった席にボクたちを案内した。
「お酒は・・・大丈夫?」
頷くと、彼は近づいてきたソムリエに何かを注文した。やがて、カートに乗せられたシャンパンが届き、コルクが勢いの良い音と共に開けられた。
「じゃあ、乾杯。不思議な出会いに」
グラスを合わせ、一口飲むと、去っていったソムリエの背中の距離を測るようにして彼は、ボクを見た。
「びっくりしたよ、見抜かれたのは君が初めてだ」
そう言うと、小声で、
「実際の所、僕と同じような人に出会うとは思わなかった」
と囁いた。ウェイターが来るたびにボクらは話を止めたが、彼が去るとボクたちは自分の境遇を少しずつ互いに明かしあった。カルロスはウルグアイの実業家の子供に生まれ、ボクと同じくらいの歳にやはり自分が両性具有と知った。けれど彼の両親はそれを雄々しく受け入れ、彼はそのまま後継ぎとして育てられることになった。ボクの両親とは大違いだ。
彼には弟がいるが弟もその事実を知らない。でも、いずれ歳を取ったら弟の子供に事業を譲って引退するつもりだと彼は言った。
「僕には理解してくれるパートナーがいるんだ」
とも彼は言った。
ボクは惨めな少年時代を話しながら、つい涙を零してしまった。そんなボクの話を熱心に最後まで聞いてくれていたカルロスは、
「でも・・・」
と慰めるように言ってくれた。
「君にはちゃんと理解者がいるじゃないか」
アナとマリアの事だった。
「二つの人生が歩めることができる・・・そうだね。そんなことは考えたこともなかった」
マリアの言葉に背中を押され、マドリッドに女性として働く場を求めたボクの事をカルロスはそう評した。
「女性として生きるって、どんな気分なんだい?」
「どうって・・・私にはこっちの方が合っているかもしれない」
ボクは答えた。
「ふうん・・・そうか」
「君は僕の事を羨ましいと思っているかもしれないけど、僕も君の事が羨ましいと思っている」
「なんで?」
「僕には自由がない。君のような・・・」
「・・・」
ボクは自分が自由だなんて考えたことがなかった。人と違う体に生まれついたその時点でボクには自由が制限されているんだ、そう思っていた。
「僕の部屋に来るかい」
食事を終えるとカルロスは言った。ボクは黙って頷いた。彼の部屋はスィートでとても贅沢な作りだった。その部屋で彼はボクを抱きしめてくれた。
「僕には彼女がいるから・・・。これ以上はできないけれど」
そう彼は言った。
「いいの。温かいわ」
ボクは答えた。
「いつか君にも君を理解してくれるパートナーができる。君はとても魅力的だから」
「そうだといいけど」
二体のAndrogynosが一つのベッドで抱き合って眠っている。
まるで何かの詩のようだった。
翌朝、ボクたちは早く目覚め、起き、身を整えると別れた。彼は自分の連絡先を全て教えてくれた。
「何かあったら連絡してくれ。君のためならなんでもしてあげるよ」
カルロスはそう言ってくれた。
「ありがとう」
ボクは答えた。そして別れ際に彼の頬に軽く一回だけキスをした。
カルロスと出会ったことはボクにとって大きな変化だった。ボクと同じ境遇の人がいる、そう知っただけでボクの人生は今までよりも希望が持てるものに変わったのだ。それは仕事にも繋がって、ボクの描いたデザインをアダは気に入ってくれてついに彼女はそれを実際に商品に使ってくれることになった。
「色遣いが気に入ったんだよ」
アダはそう言った。
「フォルムはもう少しシャープな方が良いから手直しなきゃならないけどね」
ボクは本当に嬉しかった。
そんな或る日、マリアから連絡が来た。
「アナがちょっと体を壊してね。暇な時でいいから一度帰ってきてくれないか」
手紙にはそう書かれていた。気にはなったけれど仕事はますます忙しくなってなかなか時間を見つけることはできなかった。
だが、カルロスが言ったことの中で、「いつか君にもパートナーが見つかるよ。君は魅力的だから」という言葉は悪い意味であたりはじめた。ボクに目をつけたのはホルヘという二歳年上の男だった。彼はアダの甥っ子でビルバオに住んでいたのだがアダを頼って少し前からマドリッドに移り住んできた。ホルヘは女関係にだらしなくビルバオでも何度か問題を起こしていたらしい。最初のうちは大人しくしていたけれど、半年もすると本性を現してきて、ボクにしつこく付き纏うようになった。 アダの甥っ子という事もあってそう邪険にもできなかったボクにも責任があるのかもしれない。しきりに飲みに行こうと誘ってくるのを断り切れずに何回かに一度は付き合ってしまったのが彼の誤解を生んだのかもしれない。
その夕べ、仕事帰りにホルヘに誘われたのを素っ気なく断ってボクは家路についた。途中でパン屋に寄って翌朝のパンを買い、ついでにソーセージ屋でソーセージも手に入れた。ボクの住んでいたフラットの狭い階段を上がり鍵を開け、部屋に入ろうとしたその時だった。背中を押され思わずボクは玄関にうつぶせに倒れこんだ。
「誰?」
と叫んだ時には戸はバタンと閉じられ、侵入者はボクの口をタオルで塞いだ。ホルヘだとその時分かった。全身に悪寒が走った。叫ぼうとしたが無駄だった。ホルヘはボクなんかよりずっと力が強かった。首を絞めるようにしてホルヘはボクを部屋の中へ軽々と運んでいきそのままボクをベッドの上に押し倒した。失神しそうだった。夢中で手足をじたばたさせたけど無駄だった。
無言でホルヘはボクのシャツを掴むと引き寄せた。ボタンが弾け飛んで、ブラジャーが露わになった。にやりと笑ったホルヘはボクのスカートに手を突っ込んだ。脚を重ねてボクは必死に抵抗したがホルヘの太い指は抵抗を押しのけて遂に太腿を割った。その瞬間、ホルヘの動きが止まった。彼の指はボクのあそこを掴んでいた。口もとを抑えていたタオルが外れ、ボクは叫んだ。
「やめてよ、出てって」
ホルヘは気味の悪いものでも見るようにボクを見た。昔、父親がしたのと同じ眼だった。
「お前・・・男だったのかよ」
初めてホルヘが言葉を発した。
「そうだよ、何か悪いか」
久しぶりにボクは男の声で応じたが、声は意志と無関係に震えていた。
「けっ、男に用はねぇ。それに女のふりするだけにちいせえ」
ホルヘは言い捨てると背中を向け部屋から出て行こうとしていた。ボクはソーセージの袋を投げつけ、背中にそれがあたったけれどホルヘは振り向きもしなかった。バタンと扉の閉まる音がした。ボクは扉によろめくように歩いて行くと、鍵を閉め、そして泣いた。
ホルヘはボクが単に女装趣味の男だと勘違いしたのだろう。
でも、もうここにはいられない、とボクは思った。翌日、ボクはアダのもとに行き、辞めたいと告げた。
「ホルヘだね」
アダは溜息を吐いた。
「あの子は昨日やってきてあんたの事を言って来たよ。女装の男を針子に使っているのかよとか言ってね。あの穀潰しが・・・。親元に追っ払ってやる。どうだね、それでだめかい?」
ボクは首を振った。
「叔母も病気なんで・・・」
そう答えるとアダは首を振ってもう一度大きな溜息を吐いた。
「あんたがどんな人間だろうとあたしはあんたを買っているんだけどね。でも仕方ないね、マリアからもあんたの好きなようにさせてくれって言われているんだし」
そう言うと、アダは机から何かを取り出した。
「先生にとってマリアさんはどういう関係なんですか?」
ボクは初めてその質問を口にした。
「マリアはね、私の命の恩人なんだよ」
そう言いながらアダはペンを走らせると、ボクに差し出した。
「少ないけど、取っておいておくれ。デザイン料だよ」
アダの手には5000ユーロの小切手があった。
「いいんですか」
ボクはアダを見た。
「いいんだよ。また気が向いたら連絡をおくれ」
そう言うとアダはボクに小切手を渡し、もう片方の手でボクの手を握った。
「また会えることを信じているよ」
そうしてボクはバルセロナへ戻ることにした。戻る前にホテルに移り、そして知り合いの美容師に髪をバッサリ切って貰って、その髪でウィッグを作った。なぜ、そうしたのか・・・ボクには良くわからなかった。女性であることで味わった屈辱と女性としての暮らしを諦めなければならない状況の中でボクはまだ拘っていたのかもしれない。
あの時、聞いた医師の言葉に・・・。女性としてなら性生活を営めるという言葉に。
バルセロナの空港からボクはバルへと直行した。時間は四時、どんなに遅くてもアナとマリアが仕込みを始めている時間だった。店の扉は閉められていたが、ボクはノックし続けた。やがてのぞき窓に掛けられた小さなカーテンが開き、マリアが外を覗くのが見えた。鍵がガチャガチャと音を立てて開かれ、その奥にマリアが立っていた。
「驚かないの、マリア」
すっかり元の男の子の服装のまま尋ねたボクにマリアは
「アダから連絡を貰っていたからね」
と言葉少なに答えた。
「なんだ、がっかり。せっかく驚かそうと思っていたのに」
努めて明るい声を出して、
「あれ、アナは?いないの?」
とボクは尋ねた。
「病院だよ・・・」
「病院?診察に行っているの?」
「フランシスコ、聞いておくれ」
マリアはボクをバルの椅子に座らせた。
「アナはね、、、もう長くはないんだよ」
後頭部をキッチンにぶら下がっているフライパンで叩かれたような気分がした。
「そんなに・・・悪いの?」
「癌でね・・・。もう手術もできない」
「うそだ・・・。何で言ってくれなかったの?」
ボクは叫んだ。マリアは首を振った。
「アナがね、やめておくれというんだよ。お前さんがマドリッドで幸せに暮らしていける道筋を見つけられたんなら、どうかそのままにしておいてやってくれってね」
「うそだ、うそだ、うそだ」
「お前さんがアダに認められてデザインをしたっていう話をしたらね、ほんとに喜んでいた。あの子は何とか一人でも生きていけそうだね、今は忙しいだろうから無理させちゃいけないよって、ね。だから言えなかったんだよ」
膝が震えた。アナがそんな風に思っていてくれたのに・・・ボクはその希望を台無しにしてしまったんだ。
「会いにいくかい?」
ボクは黙ったまま頷いた。
そこはボクが昔行った専門的な病院と違う市民病院だった。でもクレオソートの匂いは同じだった。その匂いはボクの頭を混乱させる匂いだった。陰鬱な暗い廊下をマリアと共に歩き、病室の扉を開けるとそこには秋の日差しがふんだんに輝いていた。
「アナ」
ボクが言うとベッドの上の影がこっちを向いた。
「おや、フランシスキート・・・。どうしたんだい」
アナの声だったけど、ずいぶんとか細かった。
「会いに来たんだよ」
「忙しいんじゃないのかい?」
「もう、だいたい終わったんだ。休みを貰ったんだよ」
マリアがボクの顔をちらっと見遣った。
「そうなのかい。どうしたんだい、その恰好は」
「バルセロナには知り合いがいるからね。ばれると厭だから昔の恰好をしているのさ」
「ああ、そうかい。そうだね」
アナは大儀そうに言うと、
「でも、髪までそんなに短くして大丈夫なのかい?」
と尋ねた。近寄って見たアナの姿は昔の三分の二ほどの大きさしかなかった。
「かつらを作ってあるから大丈夫だよ。そんなことよりアナ、体はどうなの?もっと早く知りたかったよ」
ボクがそう言うと、
「心配かけたくなかったんだよ。あたしゃ大丈夫だよ。もう少しすればおきられるさ。あたしの
とアナは答えた。
「ほんとにそうだよ」
ボクは言った。
「早く良くなって、ボクのデザインした服を見てくれなきゃ」
「うん、分かっているよ」
アナはそう言って微笑んだ。
「おまえが着てみせておくれ。おまえの女の子の姿はほんとうに可愛かったよ」
「いいのかい、本当のことを言わなくて」
病院から帰る途中でマリアはボクの手を握るとそう言った。
「うん、アナをがっかりさせたくないんだ」
「そうかい。お前さんもつらいだろうけど、、、ね」
ボクは黙ってバッグから貰った横線の入っていない小切手を差し出した。
「アダから貰ったもんだよ。入院費の足しにして」
マリアは金額を見て驚いたように、
「こんなにかい」
と呟いた。
「うん。色々とかかるだろうから」
「そうかい」
マリアは頷いた。
「それで、お前さんはどうするんだい?」
「しばらくここにいる。バルを手伝わせてよ」
「そりゃ、あたしは歓迎するけど」
マリアは言い継いだ。
「ほんとにそれで良いのかい?」
ボクは、うん、と頷いた。
それから二月が経って、アナは死んだ。あまり苦しまずに死んだのを幸いと言っていいのかボクには分からなかった。そしてボクには近親者が誰も居なくなった。
バルセロナにも冬はやってくる。
木々は葉を茶色に替え、やがて葉は街路をカサコソと音を立てながら風に舞って走る。
ボクはめっきりと減った観光客の代わりに、この時期に訪れる地元の客と日々、同じような会話をしながらバルで働いていた。たいていは気の良い客たちで、ボクがマドリッドで働いていたことを知ると、
「やっぱりこっちの方が良いだろう」
と鼻をうごめかし、ボクは笑顔でそれに頷いていた。
そんな或る日、マリアがバルに荷物を持ってやってきた。
「あんた宛の荷物だよ」
そう言うとボクにそれを手渡して奥へと入っていった。荷物は見た目よりずっと軽かった。伝票の送り主はアダだった。丁寧に紐解くと、中にはボクがデザインした服が一式入っていた。そしてその服の碧色の海をイメージした袖にピンでメモが止められていた。
「フランシスカ。できあがったよ。春になったら売り出すつもり。もし良かったら帰っておいで。ホルヘはもう追い出したよ。アダ」
と書いてあった。
部屋に上がるとボクはその服を着てみた。ぴったりのサイズだった。階段を昇ってくる音がして振り向くとマリアが立っていた。
「良くお似合いだよ。素敵な服じゃないか」
マリアはそう言った。
「ありがとう」
ボクは答えた。
「あんたには才能があるって、アダはそう言っていたよ。戻ってみたらどうだい」
「考えておく」
ボクは答えた。
「ねぇ、この服を着てアナのお墓参りに行ったら喜ぶかな」
そう言うと、マリアは頷いた。
「そうかもしれないね。アナはあんたのことを綺麗な女の子だとしょっちゅう言っていた」
「じゃあ、今日行ってみる」
ボクはそう言った。濃いサングラスとマリアから借りた女ものの帽子をつけてボクはその日、アナの墓に花を供えに行った。誰もそれをボクだと気づかなかった。その日から毎月一回、ボクはその服を着て変装し、アナの墓をお参りにいくことにした。
そして春がもう一つ過ぎた。
その頃にはマリアはもうボクにマドリッドへ戻ったらどうだいと言わなくなっていた。ボクらの店はそれなりに忙しく、ボクなしには成り立ちそうにもなかった。アナが持っていた共同経営権は遺言でボクに残されていたが店の主人はあくまでマリアでボクは手伝いに過ぎなかった。旅行客が増えるシーズンにはボクはガイドとしての仕事をし、気に入った客にはマリアの店をそっと教えた。忙しい時にはテンポラリーで人を雇い入れることもあった。
その春が夏に装いを変える、バレンシアオレンジが実るころのある一日、ボクは用事で数年前に復活したトラムに乗って大学ゾーンへ向かっていた。トラムはまだぴかぴかの新品で乗り心地は良かった。途中で老婆が乗ってきてボクは席を譲った。
「ありがとさんよ」
老婆は言うと、腰を下ろしそれからボクを見上げた。
「あんた、占いを信じるかい?」
突如、そう言われボクは戸惑った。
「まあ・・・」
「じゃあ、お礼に占ってあげよう。あたしゃヒターノでね、アリシアという名だが、アリシアの占いっていえばヒターノの間じゃ有名なんだよ。あんたにゃ、人に言えない大きな秘密があるだろ」
どきっとした。アリシア婆さんは顔色が変わったボクに、いいんだよ、と落ち着かせるように呟くと、
「だから占ってやろうかって気持ちになったんだ。もうすぐあんたには人生の転機が訪れるよ。東の方から人が来る。転機を呼ぶのはいつも東から来る人さ。そしてその人があんたの人生を変える。ただ、注意をおし。あんたは選択を迫られる、きっとね。その選択を誤れば地獄に落ちるかもしれない。そうでなければ天国へ行ける」
そう言うとアリシア婆さんはにかっと笑って、手を振った。
「どういうこと?」
「それよりも駅に着くよ。あんたが降りる駅じゃないのかい?」
見れば大学ゾーンの駅が近づいていた。
「いずれにしろ、これ以上あたしには見えないよ。注意を守るんだよ。あんたは良い子なんだから」
トラムが止まった。アリシア婆さんはもうボクの方を見向きもしなかった。後ろ髪をひかれる思いでボクはトラムを降りた。
家に戻ってその話をマリアにすると、マリアは驚いたように
「その占い師とほんとに会ったのかい?」
とボクに尋ねた。
「うん?」
「アリシア婆さん。有名な人だよ。今こっちの方に来ているって聞いてたけど」
「そうなの?」
「運がよかったんだよ、お前さん。だって、滅多なことで占いを見てもらうことができないって・・・有名なんだよ。それも一回5000ユーロ取られることもあるって聞いたことがある」
「じゃあ、本物じゃないかもしれないなぁ」
ボクの呟きに、でも、とマリアは言った。
「あんたに秘密があることも、降りる駅も知っていたんだろ?」
「うーん」
それはそうだった。
「じゃあ・・・東の国から来る人に注意するよ」
「ポルトガル人以外はみんな注意しなきゃならないね」
マリアはそう言って笑った。
「だね」
ボクも笑った。
その日は夏の盛りで、客の数は少なかった。早いうちに数人の団体客が訪れたが、その後は見知らぬ日本人の男が一人でやってきてワインを一本開け、うまそうに料理を食べ切って帰っていっただけだった。テーブルの上に置いたあった鍵でその男が近くのホテルに泊まっていることが分かった。
その男を見ても特に何にも予感はなかった。それこそ世界中の人がやってくる街だ。日本も東方の一部に過ぎない。
「今日はもう閉めよう」
とマリアが言った。
「少なかったね、今日のお客さん」
そう言うと、
「こういう日もあるよ」
マリアは呟いた。
「明日は墓参りの日だね」
「うん」
女の子の格好でなければマリアと一緒に行っても構わないのだけど、マリアと一緒に行けばそれだけばれるかもしれない。だから墓参りには一人で行くことにしていた。
「アナによろしく言っておくれ」
「わかった」
ボクは答えた。
翌日、ボクは昼過ぎにそっと家を後にした。誰もボクを見ていなかった。いつもの通り地下鉄に乗ってボクはアナのお墓の近くの駅で降り、花を買うとバルセロナの街を見下ろす丘にある墓地へと急いだ。墓地へ続く道の最後の角を曲がった時突然吠え声がして目の前に一頭の犬が躍り出てきた。ボクの腰ほどの体高のある犬だった。恐怖のあまりボクは叫び手に持った花束を振り回した。サングラスが外れて落ちた。
犬は揺れる花束に向かって首を動かしただけで退こうとはしなかった。襲われる、とボクは思って立ち竦んだ。犬はゆっくりと前に進んできた。
その時、背後に駆け足の音が近づいてきて、犬はボクから視線を逸らすと急に向き直って逃げて行った。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
どこかで聞いたことのある声がした。
そして・・・彼の顔を見た時、ボクは直感した。昨日バルにやって来たあの日本人こそが占いのおばあさんが言っていた人なんだと。そして優しくボクを立たせて、落ちていたバッグを拾ってくれた彼を見た時、ボクは不意に恋に落ちたのだ。
ゆらゆらと大きく船は波に揺られていた。ボクは眠りにようやくついた。彼の顔を思い浮かべつつ。
翌日も晴天が広がっていた。イサベルは鳥籠を持ってメインキャビンにやってきた。パコと名付けられたオウムは工具のような立派な
「新しい言葉を覚えたのよ」
イサベルは得意げにそう言って鳥籠をテーブルに置いた。
「何?」
ボクは聞いた。
「ほら、言ってごらん」
イサベルがオウムを見詰めると、オウムのパコは暫く考えて、
"Como estas, Francisco"(元気かい フランシスコ)
と甲高い声で鳴いた。
"Estoy muy bien y tu, Paco"(とても元気さ、君は?パコ)
とボクが答えると、パコは脚で器用に体を掻いた。
「元気だって」
イサベルはそう訳してくれた。ボクが差し出したひまわりの種をパコは嘴を器用に使って皮をむくと食べた。
その時だった。前方からカルロスと船員たちの叫びが聞こえた。何事かと思った瞬間、体が浮くような衝撃がボクらを襲い、激しい音がして色々なものが飛び散った。鳥籠がガシャンと音を立てテーブルから転げ落ち、パコが身を捩るようにして鳥籠から這い出ると飛び立つのが見えた。ボクは必死で目の前の柱にしがみついた。
船は傾いたまま、滑るように進んでいくようだった。すぐそばにイサベラが倒れていた。気を失っているようだった。ずるずると床を滑り始めた体をボクは必死で手を伸ばし彼女の腕を掴んだ。手が千切れそうだったが、そのまましておけばイサベラは勢いをつけて舷側にたたきつけられるに違いない。更に船は傾いた。
窓の向こうに怪物のように口を大きく開けた海が見え、ボクは気を失った。
「フランシスコ、フランシスコ・・・」
呼ぶ声に気付いてボクは薄眼を開けた。ボクは簡易ベッドの上に横たえられていた。カルロスが覆いかぶさるようにしてボクを揺すっていた。
「ああ、カルロス・・・」
「良かった」
カルロスは腕を止めるとほっと息をついた。
「何が・・・おきたんだい?」
ボクは尋ねた。
「
「一発大波?」
聞いたことのない言葉だった。
「僕も初めての経験だ。極めて珍しいものだけど、ときどき起こるらしい」
「・・・イサベルは?イサベルは大丈夫?」
「ああ、彼女は隣の部屋で寝ている。君のおかげで助かった。掴んでいてくれなければ彼女は何かにたたきつけられたかもしれない。下手すれば海に放り出されたかもしれないんだ」
「そう・・・」
答えた時、ボクはそれまでと何かが違っていると気づいた。どこかにそれまでと違った、いわゆる違和感があるのにそれが分からない。
「なんか変だ」
そう言ったボクにカルロスが微笑みかけた。
「ああ、少しは変かもしれない。驚いただろう。でも大丈夫。体には傷はなかった」
「うん・・・船は大丈夫?」
「船自体は大丈夫。だけど付属物や色々なものが壊れたり流されたりした。これから進路を変えてフォートローダーデルへ向かう。修理や補充をしなければならないんだ」
「そうなの」
「ああ。でも心配ない。二日もあれば着くだろう」
「パコは?パコは逃げちゃった?」
「あいつは船の
ふふふ、と笑い声が漏れてしまった。体を起こすと、カルロスは、大丈夫か、と心配げにボクに尋ねた。
「うん、大丈夫さ。イサベルのお見舞いにいくよ」
「ああ」
ベッドから起き上がるとき、ちょっとふらついたけど体はどこも痛くなかった。イサベルは彼女のベッドに横たわっていたが目を覚ましていた。
「イサベル、大丈夫?」
そう言いながら入っていったボクを見て彼女は微笑んだ。
「大丈夫よ、ありがとう。あなたに助けてもらったのね」
「そんなこと・・・ないよ」
そう言ったボクにイサベルは手を差し出した。その手に薄く
「あ、ごめんなさい」
ボクの掴んだ跡だった。
「ごめんなさい、じゃないの。こんなに必死に掴んでくれたの。嬉しいわ。この跡がいつまでも消えなければいいのに」
そう言ってイサベルはもう片方の手で痣を撫でた。ボクも自分の掌を広げて、眺めた。そしてその時、あの時感じた違和感のわけが分かった。Ryoichiの精を受けた時に残ったあの感触が消えていた。ボクの子宮に繋がるようにいつまでも消えなかったあの感触がきれいさっぱりなくなっていた。
「どうしたの」
いつまでも掌を見続けていたボクに不審そうにイサベルが尋ねた。
「ううん、なんでもない」
ボクは答えた。
「パコを見て来るよ」
「そうね、そろそろ中に入りなさいっていってちょうだい」
「うん」
船室を出てボクは舳先を見た。パコは羽を風に
”Capitan Paco”(パコ船長)
ボクが大声で呼びかけると、パコは首だけ回してボクをみた。そして、
"Como estas, Fransico"(調子はどうだい、フランシスコ)
とボクに負けないくらいの大きな声で尋ねてきた。
ボクは答えた。
”Mejor que nunca, Capitan"(最高さ、船長)
青い大海原がどこまでも続いていた。
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