第6話 バルセロナ 2005/10年 Fortune teller & Androgynos

25歳にもなって職にもつかぬまま手ぶらで帰って来た息子を両親は笑顔で迎えてくれたが、心の底ではかなり心配していたに違いない。そんな両親の気持ちも知らず成田空港から自宅へ帰るなり、

「あ、そうだ。僕、結婚することに決めた。相手は昔家庭教師をやっていた子だよ」

お気楽に言った僕に、母親は心底呆れた顔で、

「先に仕事を決めなさい。それからよく生活の事を考えなさい。そうじゃないと相手のお嬢さんにも親御さんにも失礼でしょう」

と声をあららげて叱りつけ、父親は理解しがたいとでも言うように首を振った。

もっともな話だけど僕は悲観していなかった。甘いと言われようが、異郷で1人で何とか生きてきたという自信が僕にはあった。

日本の大企業は浪人であろうと留年であろうと人より三年遅くなると入社自体を許さないと聞いた僕は外資と中小企業に絞って就職活動を始めた。海外で生活をしていたという経歴は特にメリットでもデメリットでもなかったが、英語を話せるという事は多少のアドバンテージだった。

幾つかの企業が僕に興味を持ってくれていたそんな中、突然、沙織が僕を家に来てほしいと言った。父親があって話をしたいと言っているのだ、そう彼女は僕に告げた。

「でも・・・」

僕は躊躇ためらった。沙織に相談したわけではないが彼女の家族に顔合わせするのは仕事を決めてから、と考えていたのだ。無職のまま、結婚相手の両親に会うほど僕は厚顔ではない。というか、武器も持たずに戦いにでかける戦士はいない。このまま沙織の両親と会って、駄目だと言われたら目も当てられないじゃないか?

それは彼女にも当然分かっている、そう思っていた。

「もう少しすれば、仕事が決まると思うから、それから・・・というわけにはいかないのかな」

そう言うと沙織は首を傾げた。彼女は僕が無職だという事をさして気にしている風でもなかった。

「その事も含めてできるだけ早くお会いしたいんだって。お土産を持って、来てくださらないかしら」

アムステルダムで購入したモンブランの万年筆が彼女の父親への土産だった。奮発してかなり良いものを買ってはみたものの、その出どころの半分は彼女の父親が旅行費用として送ってくれたものだし、残りの半分は自分の両親が出してくれたものの訳で、さすがに忸怩じくじたる思いがあった。帰った直後に逢った時、それを彼女経由で渡そうと思ったのだが、沙織は、

「会った時に直接渡してくださいな」

と受け取ろうとはしなかった。尤もな事と言えば尤もなことだが、その時は暫く預かっておくしかないな、と思った。だがそれを渡す機会は意外に早くやって来た。日本に帰ってきて一か月半が過ぎたばかりだった。


その日、僕は就職活動用にあつらえた一張羅いっちょうらのスーツを着て沙織の家に向かった。目黒と恵比寿の駅の間にある高級住宅街の景色は家庭教師をしていた頃とさして変わっていなかった。高級住宅街の景色というのは意外と変わらないものなんだな、とぼんやりと思いながら彼女の家の門の前でネクタイと髪の毛を整えると、僕はベルを鳴らした。

出てきたのは沙織じゃなくて彼女の母親だった。

「あら、橘先生。いらっしゃい」

彼女の母親も街の風景同様、昔とそんなに変わってはいなかった。スマートな体形と好奇心に満ちたくりくりと良く動く目がそのままだった。少し目尻の皴が増えたような気もしたけどさほど違和感はなく、絵描きが間違えて筆を一回余計に運んだくらいの違いしかなかった。

「しばらく見ないうちに立派におなりになって・・・」

そう言いつつ、彼女はにこにこしながら僕を頭のてっぺんからつま先まで確認するようにスキャンした。立派になったのは昔、Tシャツにジーンズ、スニーカーで家庭教師にやってきていたのが、スーツ姿になったからであって、中味はそれほど変わってみえなかっただろう。僕は暫く彼女のスキャンに耐えていたが、その時沙織が母親の背後から現れ、

「お母さん、早く入っていただいて」

と声を掛けた。

「あら、ごめんなさい。つい懐かしくて」

その声で僕は玄関の戸を漸く潜ることができた。

沙織の父親は祖父の代から続く食品会社の社長だ。家庭教師をしていた頃に二三度会ったことがある程度で、明るく闊達かったつそうな人に見えたが本当のところは良くわからなかった。会う前に何度か沙織に尋ねてはみたが、いつもならどんな質問にも的確な答えを返す沙織は

「うーん、普通の父親、かな?」

と曖昧な答えを返すばかりだった。

「普通ってどういうこと?」

とさらに突っ込んで聞いても困ったような顔で、

「会ってみたらわかると思う」

と言うだけで、余計に変な想像が膨んだ僕は質問するのを止め僕はその日に臨んだ。処女を奪った相手の父親に、結婚の申し出をする前に会うという事態は気が重かったけど、仕方がなかった。

通されたリビングに父親の姿はなく、緊張していた僕は肩透かしを食った。ソファから立ち上がったのは沙織の弟の秀樹君だった。

「おひさしぶりです、先生」

彼の家庭教師をやったことはなかったが、昔、秀樹君も姉にならって僕を先生と呼んでいた。その頃は線が細かった彼は随分と骨太になっていた。

「見違えたよ」

そう言うと彼は僕のスーツ姿を上から下まで眺め、くすくすと笑って、

「先生もですよ」

と答えた。

「何かスポーツをやっているの?」

「ええ、高校からラグビーを」

「へえ」

意外だった。僕が家庭教師をしていた頃、まだ中学生だった彼はどちらかというと大人しい学生だったからだ。

「どこのポジション?」

「ハーフです」

「それは大変だね」

でも、ラグビーをやるなら彼がハーフをやるのは妥当な選択肢に思えた。走力を求められるウィングやがたいが重要なフロントローより、司令塔の役割を担うハーフは彼に似合っていた。

「どうなの、成績は?」

「成績って、ラグビーのですか?」

「うん」

「ほぼ全敗ですよ。うちのラグビー部、弱いんで。でも今年になって練習試合でなんとか二勝しました」

「すごいな」

「ええ、過去三年間一勝もしていなかったですからね」

彼ははにかむように答えた。白い歯が印象的だった。その時、とんとんと階段を下りてくる音がしてドアが開いた。

「やあ、久しぶりだね」

そう言いながら沙織の父親が入ってきて、僕は立ち上がった。お久しぶりです、と答えた声が自分でも少し上ずったのが分かった。キッチンから沙織が顔を出して、

「ちょっと待ってて」

と声を掛けた。


「というわけだ。もちろん強制するつもりはないけど、候補の一つに考えてみてくれないかな」

そういって僕を一瞥すると沙織の父親は

「ところで、、、この万年筆は良いものだね。良く手になじむ」

一家が揃って座っている前で、僕が渡した万年筆を指でくるくると器用に回してみせた。彼が差し出したのは会社案内と、いわゆるジョブディスクリプションだった。そこに書かれていたのは海外営業のマネージャー職のポジションだった。ざっと見ても給与を含めてなかなか有利な条件だった。

「他にも進んでいるところはあるのかい?」

彼は僕の方を覗き込むように身を乗り出して尋ねた。

「ええ、二つほど」

一つは外資の日本支社の立ち上げのリエゾンで、立ち上げに成功すれば将来日本支社長にもなれるというオプション付きで給料も決して悪くはなかった。ただ、失敗したらすぐクビになることは明らかだった。独身だったら迷いもせずにそちらを選んだだろうが家族を持つことを考えると少し不安定な気がした。もう一つは海外進出をもくろむ菓子メーカーの営業職だった。すぐにクビになることはないだろうけど、経営は安定しているとは言えないし、給料は大卒の初任給並みだった。それに海外進出を目論むにしては会社の事業方針が甘いように思えた。

「どうかね・・・?他の会社と比較して」

「決して条件は悪くありません。でも、なぜ私に・・・?」

「妻や沙織から君が優秀だって聞かされているからね。それにこのポジションはなかなかなか良い候補者がみつからないんだ」

父親はしばらくもごもごと言っていたが、突然、破顔すると、

「いやあ、候補者に良いのがいないっていうのは本当だけど、実は家族の前で格好つけてみたかったんだよ」

と言い出した。

え?、と驚いたみんなの顔に、だってさあ、と頭を掻くと

「君たちはいつ結婚するんだい?父親としては娘のお相手に仕事くらい世話したいじゃないか」

その言葉に母親が娘と顔を見合わせ、笑い出した。その笑いの中には慌て者の父親に対する愛情と共に微かな失笑が含まれていた。

「それはまだ先のことでしょう?」

一緒に笑っていた弟が母親の言葉にびっくりしたような顔をして、

「え、先生、本当に姉ちゃんと結婚するの?」

と僕に尋ねた。どうやら・・・この家の男たちは恋愛に関してあまり慣れていないらしかった。


結局僕は沙織の父親のオファーを受けることにした。仕事に興味があったし、条件も良かったからだ。結婚相手の父親に恩義を受けることには多少の躊躇いはあったが、人生結局誰かに恩義を受けることは避けて通れない。それが彼女の父親であって何が不都合があろうか?もし離婚することにでもなれば家族と職を一挙に失うことになりかねないが、沙織と離婚することを前提に結婚するわけでもない。彼女とずっと一緒に暮らすことに僕は自信があった。

そして翌年、僕らは結婚した。仕事は順調で、乳製品を中心に輸入販売は増え、ヨーロッパにとりあえず連絡事務所を置くことが決まった。沙織の父親は中国ビジネスを進めるために日本に残り、僕が初代の欧州事務所長としてデンマークに移ることになったのだ。沙織と、結婚二年目に生まれ、秀一と名付けられた男の子は僕と一緒にコペンハーゲンへと移り住むことになった。コペンハーゲンに事務所を設立する理由は主な取引相手である工場がそこにあったからで、彼らは事務所の開設に関する手続きに協力的なばかりでなく、オフィスも安く貸し出してくれた。デンマーク語は喋れないが、北欧の国では英語は第二外国語として認められ多くの人が受け入れてくれる。ドイツやフランスに比べて抵抗感がないばかりではなく、むしろイギリスの英語に比べて外国人には分かりやすい。ロンドンで下町訛りに苦労したことのある僕にはそれが良くわかっていた。結婚式は日本で執り行い、アムステルダムのマークの店でヨーロッパの友人を招いて沙織をみんなに紹介した。アンリは自分のホテルでやらなかったことを不満そうにしたが、相変わらず沙織には愛想が良かった。ミュンヘンから吉水さんと斎藤さんに声を掛けたが、三年なことに吉水さんは病気で来ることができなかった。


そしてそれから五年の月日が経った。沙織は二人目の子供を妊娠し、五か月前に日本の実家に戻っていた。


バルセロナの空港から市内まで、乗ったタクシーはSEATで、後部座席の少し窮屈なスペースに身を滑り込ませると僕は運転手に行き先のホテルの名を告げた。暫くしてから

「あんた、ハポネス(日本人)かい?・・・おっと、ジャパニーズかい?」

タクシーの運転手がルームミラーで僕を覗き込みながら最初はスペイン語で、次に英語で尋ねてきた。

「うん」

答えると薄い茶色の猫毛の頭髪を振って運転手は満足そうに頷いた。

「これで十人連続だ」

「え、日本人の乗客がかい?」

僕が驚いて尋ねると

「違うよ、日本人が十回も連続して客になることはない。最近は増えているけどね・・・。いや、客の国籍当てさ」

「そんなのが流行っているのかい?」

「それも違う。単なる俺の遊びさ」

「へえ」

「最高で二十回連続で当てたことがある。もっとも国籍を聞くと怒りだす客もいるけどね」

「すごいな」

「まあね。アジア系は特に難しい。日本人は、中国人かって尋ねるとひどく腹を立てる」

運転手は鼻の下を擦ると、突然窓を開けて前方を指した。丘の上に建物が見えた。

「あれがオリンピック会場だ。オリンピック・・・観たかい?」

「うん」

「日本の小さな女の子が水泳で金メダルを取ったんだ。俺はその時、あそこじゃないけど水泳の会場にいたんだ。平泳ぎだよ。百だったけな、いや二百だったかな」

「ああ・・・。岩崎恭子だね」

「そう、そんな名前だった。すごく小さかった、まるで小学生みたいだったよ。でも彼女は勝った。オリンピックが終わって景気も悪くなっちゃってろくなことがなかったけどな、でもこんな小さな町でオリンピックをやったんだぜ。信じられるかい。まるで小学生が金メダルを取ったようなもんさ」

「バルセロナは大きな街じゃないか」

「スペインの中じゃね。でもロンドンやパリや東京とは全然規模が違う」

「それはそうだね」

「景気は悪くなっちまったけどね、まあでっかいことはやってのけたのさ」

溜息を吐くと運転手はさっきと同じことを呟いた。タクシーはいつのまにか市街へと入り込んでいた。


バルセロナでの休暇は一週間の予定だった。ヨーロッパの人々は平気で一か月くらいのバカンスを取り、僕が所長を務めているリエゾンオフィスの従業員も交代でその位の休みを取るのだが、日本との連絡を欠かせない立場の僕としてはそんなに長い休みを取るわけにはいかなかった。と言っても取引先の会社も幾つかはやはり一か月くらい工場自体を休止させてしまうのだから暇な事には変わりない。それで思い切って一週間纏めて休暇を取ってみた。

本来なら妊娠している沙織のもとに帰るべきなのだろうが、僅か三週間前に出張で日本に戻り両親の家に帰省している沙織と共に過ごしたばかりだった。せっかくだから旅行にでも行ってらっしゃいといってくれた妻の言葉に甘え、僕はそれまで訪れたことのないスペインに行こうと決めた。あちらこちらを回るスタイルではなんだか休んだ気がしない。

休暇と旅行は別物だ。僕は旅行をするのではなくバルセロナで休暇を取ることにした。


バルセロナの街は一週間という期間に最適の大きさの街だ。三日では見て回れないし、一週間以上だと逆に街の忙しなさに巻き込まれて休んだ気がしない。一か月休む人々は同じ景色でも見飽きない島や海辺、山間での休暇を好む気持ちは良くわかる。

最初の二日は街の見どころであるゴシック地区を中心にガウディの建築した建物や公園を歩いて見て回った。

自慢になるけど、僕は地図一枚あればだいたいの場所を間違えずに歩いて行くことができる。誰でもサグラダファミリアに行きつくことはできるだろうけど、サグラダファミリアから泊っているホテルに帰ることはそんなに簡単ではない。でも僕は間違えなく帰りつくことができる。それもほぼ最短ルートでだ。泊っているホテルはラランブラからほど近い小路にあった。二日目の夕食はその近くにあるタパスで食べた。スペインの楽しみは料理にある。安くておいしい。

そのバルは太った背の低い老婆が店を仕切っていて濃い色付きの眼鏡をかけた大人しそうな青年が店を手伝っていた。女主人は終始不機嫌そうな様子だったが料理の味はご機嫌だった。

オリーブオイルに不思議なスパイスの味がする鰯のマリネやポテトがたっぷりと入った美味しいトルティージャを赤ワインで流し込みおなかをいっぱいにして僕は店を出た。


翌日は街から丘の方へと脚を延ばしてみた。観光客がいない場所はその土地の別の姿を旅人に見せてくれる。

次第に人の姿がまばらになっていく細い路地を歩いていた時、犬の吠え声に混じって誰かが助けを求める声が聞こえたような気がして、僕は耳を澄ませた。どうやらそれは少し先の交差路の右手の小路から聞こえてくるようだった。足を速めると、僕は角を曲がった。

そこには白いつば広の帽子に、同じ色の夏ドレスを着て花束を手に持った女性が坂の上から吠えてくる犬と向き合っていた。花束を振り回したのだろうか、ピンクや黄色の花びらが撒いたように地面に散らばっていた。

ヨーロッパには殆ど野犬はいない。その犬もどこかの家から逃げ出したのだろう、首輪をはめていた。突然現れた僕に驚いたのか、犬はきびすを返し、坂の上に逃げて行った。

「大丈夫ですか?」

英語で尋ねると、その女性はよほど怖かったのか、膝から崩れるように座り込んだ。

”Si,si・・・Yes”

彼女に手を貸して立たせると、僕は倒れこむときに彼女が落としたバッグと濃い茶色のサングラスを拾い、手渡した。

「ありがとう」

そう言って僕を見た彼女の黒曜石みたいに光る黒い瞳が突然戸惑ったように揺れた。まるで千夜一夜物語アラビアンナイトに出てくるお姫様のような女性ひとだ、とふと思った。やや褐色を帯びたなめらかそうな肌、良く通った鼻筋と煽情的な唇、だが対照的に瞳はまるで少女のように美しく濁りがなかった。

「花が・・・台無しになっちゃたわ」

僕から眼を離すと、彼女はそう呟いた。半分くらいの花びらが散ってしまっていた。

「お墓に供えるのに・・・」

「お墓?」

「ええ、この先にある小さな教会の墓地に」

「ああ」

「ねえ、すいませんけれど」

彼女は僕に向き直ると懇願するように言った。

「お時間があれば、一緒に行ってくださらない?さっきの犬がまた戻ってきたら嫌ですの」

「いいですよ」

僕は答えた。もともとあてもなく迷い込んだ場所だったし、目的もない。時間はたっぷりある。そしてお姫様を警護する騎士の役目まで演じられるのだ。

「ありがとうございます」

彼女はぱっと顔を輝かした。


墓は小さなものだった。彼女は花を墓の前に置き、ひざまずくと額に手を当て長い間祈りを捧げていた。祈り終えると、

「これはmi abuela・・・私の叔母の墓なんです」

と僕に言った。

「叔母さん・・・ですか。日本ではあまり叔母さんのお墓にまでお参りする人はいないですね」

そう答えると

「ええ、こちらでも。でも私の叔母は私にとって親以上に大切な人でしたから」

彼女は微笑むと、夏の光を集めて輝く瞳で僕を見た。

「こちらにはご旅行で?」

「ええ、一週間ほど」

「・・・こんなところに来る旅行者の方は珍しいわ」

「明日は普通の旅行者になってラランブラで買い物をします」

「そうね、あそこなら野良犬はいないし、安全だわ」

彼女と僕は顔を見合わせて笑った。

僕らは一緒に坂を下りそこで彼女はタクシーを拾うと言った。少し残念な気がしたけれど、そんな僕の様子を見てタクシーに乗る間際、彼女はウィンクと共に言った。

「Hasta la vista《アスタラビスタ》。またきっとお会いできますわ」

僕もできればそうあれば、と思ったけれどこの広い街で彼女と二度と会うのは難しいだろうと思った。でも彼女のその言葉には思いもよらない魔法が掛かっていたのだ。


彼女の乗ったタクシーが陽炎かげろうの立ち昇る道に消えていくのを見送ると、僕は空を仰いだ。眼前に広がる真っ青な空を眺めながら考えた。なぜ僕は独りで見知らぬ土地に旅に出たのだろう?団体旅行や仲間と一緒の旅行もできただろう。旧知の友人を訪ねることもできたはずだった。

その理由は分かっていた。大学生の時に突然ヨーロッパに旅立った時のような焦燥感が僕を蝕んでいた。それは説明のし難い衝動で、昔の言葉を借りるなら心中の虫とでもいうものだった。


有体ありていに言って僕の会社生活は恵まれていた。仕事はそれなりに面白かったし、業績も良かった。社長、すなわち僕の義父は良い上司であったし、婿だからと言って依怙贔屓えこひいきをするようなこともない公平な人間でもあった。公平な人間に評価されるというのは楽しいことだ。

他の夫婦の事は良く知らないから断定することはできないが、沙織も得難い素晴らしい妻だった。往々にして同族経営の会社で妻が経営者の娘だったりすると夫が妻に頭があがらない・・・と考えられているらしい。高校の初めての同級会で僕の事情を良く知っている男が、

「橘も大変じゃないか?」

と尋ねてきたのはそんな理由からだった。だが、沙織はそんな素振りは一度も見せず、逆にそれを気にし過ぎて妙に引くようなこともしなかった。僕らはごくごく普通の夫婦で適度な距離感を持っていた。

そんな気楽で穏やかな会社員人生に最初の小波さざなみが立ったのは、思い起こせば沙織の弟の秀樹君が司法試験を受けると言い始めた時だった。その時はそんなことになるとは思っていなかったけど。

沙織は、それを聞いて、

「どうしてかしら」

と首をひねった。弟が会社を継ぐことは妻の実家の既定路線だった。その弟がなぜ司法研修生を目指すのか、それは一家の謎だった。

「卒業試験代わりだなんていっているけど」

「いいじゃないか」

と僕はその時答えた。

「色々な経験をすることは良いことだと思うよ」

だが、司法試験に受かると卒業試験の代わりだと主張していた彼は平然と司法研修生になった。そして、研修を終えた途端、

「僕は弁護士になる」

と宣言した。その宣言だけでも一家には驚きだったのに、更に彼は、

「僕は結婚しない。僕はゲイなんだ。だから性的マイノリティのために働くつもりだ」

と宣言した。その時僕も同席していたのだが、突然の告白に唖然としている両親に向かって、彼は大手の弁護士事務所へ就職が決まり、家も出てパートナーと暮らすと言った。

「この会社は・・・どうするんだ」

父親の問いに、秀樹君は

義兄にいさんがいるじゃないか」

と答えた。みんなの視線が僕に注がれた。

「いや」

僕は慌てた。

「そんなことは・・・」

「でも義兄さんには秀一もいるじゃないか。僕が子供を作らない以上、彼がこの家を継げばいいんだ」

沙織が弟の秀樹という名前と僕の遼一という名前から一つづつ字を取った息子はまさか名前を貰った叔父からそんな人生まで貰ったとも思わずに沙織の膝の上ですやすやと寝ていた。

結局、彼の用意周到な計画に誰も太刀打ちできなかった。一週間後に彼は家を出て都内のマンションで暮らし始めた。

「こんなことになってごめんなさいね」

と沙織は僕に詫び、

「君にまで迷惑をかけてしまったな」

と義父は謝った。それっきりかと思っていたがその一年後、義父から名前だけでもいいから、と僕は取締役になることを依頼された。僕に引き受けない選択肢はなかった。会社の従業員の僕に対する視線はその頃から少し変わった。次の経営者になると目されたのかもしれない。そして、その頃から僕の中の虫はうごめき始めていた。


翌日、僕はラランブラでショッピングをしていた。事務所のみんなへの贈り物、と言っても二人しかいないが、それと家族へ小荷物で送るものを選んでいたのだ。何軒かの店を回ってお菓子屋の店先で品物を眺めていた時だった。突然、ひゅっと何かがしなる音が背後で聞こえ、男の叫び声が続いた。すぐ後ろから誰かが駆けだす音がした。振り返ると二人の男がこっちを向いて毒づくように何かを言いながら逃げて行った。何だろう、と思ったとき右手で誰かが僕の財布を拾って、

「はい」

と手渡してくれた。白いTシャツにジーパンというラフな姿だったが、それは確かに昨日会ったばかりの彼女だった。驚いている僕に、

「スリよ」

と彼女は笑いかけた。

「君が・・・追い払ってくれたのかい?」

「ええ・・・偶然ね」

彼女は悪戯っぽく笑った。

「ありがとう」

「どういたしまして、昨日のお返しよ。バルセロナでよかったわ。マドリッドじゃ、棍棒で殴られていたかもしれない」

彼女は答えた。僕らを見ていたドイツ人らしい団体客が、ブラボーと言って拍手をした。拍手をされたのは多分僕じゃなくて彼女だったけど。

「鞭・・・?」

彼女の手元から垂れるしなやかな細い紐を見詰めて僕は呟いた。

「ええ」

彼女は恥じらうように頬を染めた。

「子供の頃から得意だったの」

「もしよかったら何かお礼をしたいんだけど」

余り期待せずに僕はそう言った。彼女と知り合えば今回の休暇は面白くなりそうだ、そう思った。

「ええ、喜んで。でも、今日はちょっと用事があるの」

はにかみがちに彼女は答えた。思いがけない肯定的な答えに心が弾んだ。

「じゃあ、明日はどう?」

「いいわ」

「だったら・・・」

ラ プラサ レイアルの近くにある店の名前を僕は挙げた。

「ええ、何時に?」

「11時でどう?」

11時というのはスペイン人が昼食を待ちきれずに間食をするために店が開いている時間だった。

「じゃその時間に。あなたの名前は?」

「Ryouichiだ。貴女は?」

「Fransisca」

「でも、君のいう事が本当になるなんて、偶然ってあるんだね」

そう言った僕に、手を振ると

「偶然・・・なのかしら?・・・Hasta pronto(じゃあ、また)」

謎のような言葉を残して彼女は立ち去った。


タパスで僕は彼女を待っていた。浮気をしているつもりはなかった。見知らぬ国でそれまで知らない人と出会い、しばし楽しく過ごしてまた元の世界に戻っていく、それだけの話だ。余計な話を付け加えると僕は結婚してからと云うもの、沙織以外の女性と交渉を持ったことさえなかった。

11時になっても彼女は現れなかった。とはいえ、スペインの国民性はパンクチュアルではない。僕は気長に待つことにした。もし一時間たっても現れなかったらそれはその時だ。勘定を払って店を出ればいい。十五分ほどした時だった。僕の前に人影が立って僕の顔を覗き込んできた。

だが、それは男だった。濃い色のサングラスを掛けた男は僕の肩に手を置くと、

「あなたがRyoichi?」

と低い声で尋ねてきた。どこかで見たことのある男のように思えたが、思い出せなかった。

「そうだけど・・・」

「良かった。フランシスカに頼まれたんだ。彼女、急に用事が出来てこれなくなったんだ。だから僕に市内を案内してくれって」

「そう・・・」

少しがっかりしたのは正直なところだった。

「悪いな。でも彼女は明後日は戻ってこれる。今日と明日は僕で勘弁してくれ」

「そんなにつき合わせたら悪いな」

「気にすることはないさ。この街の事なら何でも聞いてくれ。これでもガイドの資格を持っているんだ」

そう言うと彼はカードを見せてくれた。スペイン語なので詳しくは分からないが、TurismoとBarcelonaの文字があり、それに彼の写真と名前が書かれていた。

「Fransisco?」

僕は眼を上げた。

「そうさ。彼女と僕は双子の兄弟だ」

「ああ、それで・・・」

彼を見た時、どこかで見たことがあると思ったのはそのためだったのだ、と僕は思った。よく見れば肌の色、体つきが彼女にそっくりだった。

「さあ、軽く食べてから行こうか。車で来たんだ」

彼は明るい声でそう言った。

彼の運転は快適だった。Parc Guellの駐車場に借りものだという赤のコンバーティブルのBMW320を停めると、彼は

「僕たちはラッキーだ」

と呟いた。

「?」

「ここの駐車場はいつも満杯なんだ。混んでいたらティビダボに先に行こうかと思っていたんだけど」

「そうなんだ」

「観光地なのにね、駐車場くらい満足に作ればいいのにさ」

と批判すると、さあ、行こう、と彼は言った。


「おとぎの国にいるみたいだ。そう、まるでアリスのさ」

公園を散策し終えた僕が少し興奮気味にそう言うと、彼は

「日本の美意識とは違うだろう?」

と心配げに尋ねた。

「うん、でも面白い。動的な想像力が掻き立てられる」

「そうか」

僕は彼の事を好きになり始めていた。気持ちのいい青年だった。余計なことを言わずに僕が知りたいことは的確に答えてくれた。

「グエィっていうのはアントニオガウディのスポンサーだった」

「グエィ?」

「グエルっていうのはスペイン語読みでね。カタルーヌニャ語ではグエィと読む」

「そうなんだ。きっと変わった趣味の男だったんだろうな」

そう言うと彼は

「ははは。でも、そういう金持ちがいてもいい。おかげでこの街は観光客がたくさん来る」

「君もうるおうっていうわけだ」

「まあね」

「僕も案内料を払わないとな」

「いや、それは妹のおごりさ。彼女、君に助けて貰ったみたいだね」

「でも彼女も僕を助けてくれた。おあいこなんだけど」

「それは彼女に言ってくれ」

「そうするよ」

その後、僕らはモンジュイックに行き、オリンピックスタジアムとカタルーニャ美術館を見て回った。

「夕食の予定はあるのかい?」

見終えると彼は言った。

「いや」

「じゃあ、僕に付き合えよ。知り合いがやっている店があるんだ」

「それはありがたい」

車でホテルへ戻り、僕はいったん部屋に引き上げて二時間後、夜の八時に彼と待ち合わせた。

夏の熱気の名残は街路のそこここに不良少年のようにたむろっていたが、海からの微風に背中をおされ渋々と山へ引き上げていく最中だった。

「この近くなのかい?」

歩いて行こうと言った彼に僕は尋ねた。

「そうさ。君もびっくりするぜ」

「そんなに美味しいのか?」

「昨日、日本人がやってきて皿まで舐めたそうにしていた」

「ふうん?」

ヨーロッパの夏は日が長い。その上スペインの夜は八時はまだ始まったばかりだ。それでも灯りが灯り始めた道を少し歩くと彼はいきなり立ち止まった。

「ここだ」

「ここ・・・は」

何のことはない、昨日僕が夕食を食べたバルだった。

「まだ、気付かないかい?」

彼は僕をまじまじと見て言った。

「あ・・・」

昨日、店で働いていた青年の姿が彼に重なった。

「僕は最初から気付いていたぜ」

「だったら、言ってくれればよかったのに、、、じゃあ皿を舐めたそうにしていた日本人っていうのは」

「君の事さ」

フランシスコは笑った。


「君は働かなくていいのか?」

バルの一角で蝸牛カラコレスの煮込みとパンコントマテを食べながら僕は尋ねた。昨日は僕一人だった客が今日は三組も入っている。

「構わないさ。有休を取っている。かれこれ一年は働きづめだったからね」

「君はガイドじゃないのか?」

「ガイドはテンポラリーだよ。今はバルセロナが一番忙しいときじゃない」

「ふうん」

時折、僕らを鋭く睨みつけてくる女主人の視線に辟易へきえきして、

「しかし・・・助けてあげて貰っても僕は構わないよ」

と言ったが、フランシスコはめんどくさそうに手を振ると、

「その分、昨日は夜遅くまで仕込みを手伝ったし、もうすぐ手伝いが来ることになっている」

と答えた。彼の言葉通り、やがて彼より五つほど若い紅顔の若者が店にやってきてエプロンをつけると働き始めた。

「ほらね」

彼は得意げにウィンクすると、マリアと声を上げた。女主人がその声に僕らのいる方を一瞬見たが、すぐに視線を逸らせると手伝いに来たばかりの若者に何かを言った。

「何ですか、フランシスコさん」

「ホアキン、Vino Tinto(赤ワイン)をもう一本」

「でも・・・」

若者は女主人の方を見遣った。

「マリアさんが、あんまり飲ませるなって」

「だって、まだ一本しか開けていないんだよ」

彼は鼻を膨らませた。

「ちゃんと払うし、それに客は飲むのはだけじゃない」

そう言うと彼は僕の方をちらりと見た。

「分かりました。じゃあそう言ってきます」

若者は諦めたようにカウンターへ戻っていった。

「あの女主人、マリアさんっていうんだ」

「そう」

彼は微笑した。

「マリア・・・。スペインで内乱が起きた年に生まれたんだ。ヘミングウェイに抱っこされたこともあるんだぜ」

「へえ」

「ほらあの、por quien doblan las campanas・・・・。 なんていうんだっけ?あのスペイン内乱を描いた小説・・・」

「For whom the bell tolls(誰がために鐘は鳴る)?」

「そう、あれにマリアっていう女の子が出てくるだろう?」

「ああ」

「あの主人公は彼女の名前から取ったのさ・・・」

とフランシスカは言ってから、宙を見て首を振った。

「あれ逆だったかな?」

「ふうん・・・」

そう答えたが僕は単なる偶然に違いないと考えた。あの小説をヘミングウェイはアメリカに戻ってから書いたのだ。もし、主人公の名前を取ったなら彼の手にその名の赤ん坊が抱かれていた筈はない。

「でも本物のマリアは内戦も生き抜いたし、フランコ政権のもとでも生き抜いて、今はこうやって旨い飯を作っているのさ」

僕は彼の話を打ち消すつもりはなかった。罪のない伝説はそのままにしておけば構わない。

「歴史だね」

そう言っているうちにホアキンが赤ワインを一本、運んできた。

フランシスコは、だが、それからはあまり飲もうとしなかった。女主人が言ったことを気にしているようで可笑しかった。


翌日僕らは車に乗ってヴァレンシアへ向かう道を走っていた。それは出発前に僕が思い描いていた休暇と全く異なるものだったがこれはこれで楽しかった。道沿いの濃い緑の柑橘の樹々の中に収穫し忘れたのか、収穫後に実がなったのか、時折明るいオレンジ色が混じっているのを見ながら僕は口笛を吹いた。屋根を開けたBMW の上を吹く風が僕の口笛をちぎって道沿いに撒き散らしていった。


その晩戻って食事を終えた後、バルセロネータの波打ち際で僕らは座って海を眺めた。彼は車の中に置いてあったギターを持ってきていた。

「スペイン人の発明したものって何だと思う?」

僕は彼の手に目を遣った。

「ギター・・・かい?」

「あたりだ。我々が発明したもので一番素敵なものさ。あと何があると思う?」

「分からないな」

「モップとチュッパチャップス」

「モップ?」

「あの床をごしごしこするやつさ」

「へぇ」

「それにしても・・・。チュッパチャップスって発明なのかな?どう思う?」

彼は僕に尋ね、僕は笑って答えた。

「分からないけど・・・。世界中にあることは確かだね」

僕の答えに満足したように、彼は突然アランフェス協奏曲の独奏パートを弾き始めた。それを終えると今度はアルハンブラ宮殿の思い出を弾いた。しみじみとした音色が波の音と絡まった。

「うまいんだね」

一通り彼が弾き終えると僕は小さく拍手した。

「子供の頃ね、よく一日中家にいた。その時覚えたんだ。あとは鞭で色んなものを叩き落とす。百発百中だぜ」

「妹さんもそれを見て覚えたんだろうね」

僕は彼女の手際の良い鞭捌きを思い出しながらそう言った。彼はそれには答えずにまたギターを手に取るとそれを伴奏にして今度は歌い出した。後で聞いたら、その歌詞はこんなものだった。

”初夏の涼しい夜空に僕はひとり乙女座を見、冬の冷たい風の上に孤独なままオリオン座を見る。太陽の強い日差し、月の優しい光、そのどちらも僕にはない。暁と黄昏の一瞬の光芒が僕の全てだ。でも、そんな時をこそ僕は愛してる。”

歌い終えると彼はサングラスの奥から僕を見つめた。

「今日でお別れだね、楽しかった。明日は妹が帰ってくる。ホテルに9時に迎えに行くって伝えてほしいとさ」

「そうか、残念だ。二人と一緒に街を見れると思ったのに」

「それは難しい。どちらかしか・・・だめなんだ」

「なぜ?」

暫くの沈黙があった。

「二人とも好きなのにな」

僕がそう言うと彼は突然思い切ったように手を伸ばして僕の腕を掴んだ。そして僕の掌をそっと自分の胸に当てた。

「?」

彼は視線を逸らして、ゆっくりと僕の掌を横に動かした。その掌が胸の間にある僅かな窪みをなぞっていった。その時漸くぼくは気づいたのだ。

彼は無言でサングラスを外した。そこにあったのは、野犬に襲われた時のあの女と同じ怯えたような黒曜石を思わせる、揺れる瞳だった。兄妹なのだから似ている、という事もできる。

でも・・・その瞳はそうではない、と僕に告げていた。

「兄妹・・・じゃなかったんだ」

「ごめんなさい、あなたをからかったようになってしまって」

濡れたような美しい黒い瞳が僕を見つめてそう言った。それは紛れもなく女の声だった。

「どういうことなんだい?」

僕は静かに尋ねた。

「私、滅多に女性の恰好で出歩かないの。月に一度、あのお墓をお参りする時だけ。その時も人に出会わないように注意しているの。だからあなたと会う時女性のまま会う勇気が出なかった。他の人に気付かれたら困るもの。でもあなたに逢いたくて」

「男装の趣味ってこと?」

彼女は首を振った。

「私、女性であって男性でもあるの、、、ううん、どっちでもないと言った方が正しいかもしれない」

「?」

「エルマフロディーテ・・・それかアンドロギュノスって聞いたことある?」

「いや・・・」

僕は首を振った。彼女は

「男でもあって、女でもある・・・。インターセクシュアルともいうの」

「ああ・・・」

聞いたことがある。世の中には生まれつき、男性と女性の双方の特徴を持って生まれて来る人間がいるということを。ただ、僕らは滅多に出会うことはない。彼らは隠花植物のようにひっそりとそれを隠し、生きているのだろう。

暫くの沈黙が時を支配した。波の上遥か高く、空を一つ流れ星が横切っていった。

「でも、君は美しい」

思い切って僕は言った。

僕は気づいたのだった。僕は彼女を、彼を愛している。それは今まで感じたことのないものだった。沙織や他の女性との間にあった感情が春のうららかなものだとしたならば、その感情は灼熱の夏のような感じだった。僕は・・・知らないうちに彼女のとりこになっていたのだ。

「ありがとう」

フランシスカはきらきら光る眼から涙を一つ零した。

「明日は、フランシスカが良い?それともフランシスコ・・・それとも・・・もう会わない方が良い?」

僕は彼女に顔を寄せた。そして舌先で彼女の涙を拭うように舐めた。それは魂の媚薬のような甘い味がした。背徳の苦い香りがした。

「フランシスカ」

「うん」

彼女は泣き笑いのような表情で答えた。

「そう言ってくれると思っていた」

「声は・・・?」

「どちらでも出せるように訓練したの」

そう言うと彼女はギターを手にすると今度は女の声で別の歌を歌った。

「それは何て言う歌?」

歌い終えた彼女に僕は尋ねた。

「第2の歌って言うの。花に囲まれた茂みの中に私は眠っている・・・。或る詩人の詩を基に私が作った歌」

「・・・」

僕は彼女の肩を抱き寄せた。海を見たまま彼女は体を預けてきた。

「海が好きなの?」

「ええ、海は両性具有だから」

「え?」

「私たちの祖先は海に父を見て、母を見たの。荒々しい海はポセイドン、オケアヌス、優しい父はネーレウス、そして母としての海は女神、イーノー、テティス。海を見ていると一人ぽっちじゃないって思えた」

僕も海を見つめた。白い波頭がいつまでも繰り返し訪れ、永遠の波音を奏でていた。


翌日、フランシスカは黒いドレスを纏ってホテルのロビーで僕を待っていた。晴れ晴れとした表情の彼女はそれまでに増して輝くように美しかった。ホテルのロビーの誰もが彼女を振り返るくらいに。

「Ryoichi」

僕を見つけて手を振った彼女を見て物欲しそうな眼をした男たちは首を残念そうに横に振った。彼女は僕の腕を取って彼女の腕に回した。

「大丈夫なのかい?」

「ええ」

フランシスカは頬を染めた。

「今日からは・・・」

僕らはあてどもなく街を散策した。饒舌じょうぜつだったフランシスコは姿を消し、フランシスカは慎まし気に僕の横を歩いた。

「街の景色が変わって見えるの」

彼女はそう言うと、時折、モードや宝飾の店を覗いてはうっとりとした眼で眺めた。

「何か買ってあげよう」

僕が提案したが、フランシスカは首を振った。

「一緒に歩いているだけでいいの・・・」

ラランブラを腕を組みながら歩き、途中でアイスクリームを買って僕らは歩き続けた。通りにあるかたつむりのようなオブジェを眺め写真を撮り、それから海へ向かう道を歩いている途中の脇の小路で、道に腰かけて銀細工を売っている皴だらけの老婆がいた。

「ちょっと待って」

その前に膝を曲げるとフランシスカは熱心に商品を眺め始めた。

「ねえ、これ・・・ほしいわ」

フランシスカはその中にあるペアのリングを指でさし、それを摘まむと、一つは自分の薬指にもう一つは僕の薬指に嵌めた。ぴったりの大きさだった。

「こんなのでいいの?」

「ええ」

フランシスカは消え入るような声で答えた。

「じゃあ、これを」

老婆に差し出すと、老婆は20ユーロだと指で示し、

”Sois novios?(恋人同士かい)"

歯の殆どない口を動かして尋ねた。

”Si"

僕らは顔を見合わすと、口を揃えてそう答えた。


僕らは通り沿いで一緒に海を眺めていた。カモメが空に舞っていた。緩やかな風が彼女の髪を揺らした。

「それは・・・かつらかい?」

「そうよ。でも髪は本物、私の髪なの」

バルセロナを一度出て、マドリッドで女の子として暮らしたことがあった、と彼女は言った。その時は、モードの店で事務員として働いたわ、その時に髪を伸ばしたの。戻って来る時に髪を切って、それでかつらを作ったの。

「ふうん」

「髪の長い子と、短い子とどっちがいい?」

「そうだな。長い方がいいかな」

「じゃあ、また伸ばすわ」

僕は彼女にキスをした。

「どうして、、、僕のことを?」

僕は尋ねた。いくら野犬から助けたって言ったって、彼女がそれだけで僕を好きになる筈がない。

「あの時ぴんと来たっていうのかしら。あ、私が探していたのはこの人だって思った。占いの事もあったし」

「占い?」

「一月前にとってもよく当たるヒターノの占い師に占ってもらったの。ヒターノっていうのはユダヤ人の事よ」

「なんて言われたんだ?」

「もうすぐ人生を大きく変える人に出会うって。それまでの人生と全く違う人生になるって、彼女は言った。その人は東からやってくる。でも注意をしなければいけないって」

「どんなことを?」

「その人との間で私は重大な選択を迫られる。正しい選択をすれば私は天国に行ける。間違った選択をすれば地獄に落ちるんだって」

「ふうん」

「人生を変える人ってあなただって、思った。だって叔母の墓参りをした時に出会ったのだもの。あんなところであんな形で会うなんて、奇跡よ。そうじゃない?」

もう一度僕は彼女にキスをした。

「どんな選択が君を待ち受けているんだ?」

「分からない。あなたは?家族がいるんでしょう?」

「そう思う?」

「そうね。分かるわ」

「うん」

もちろん僕は家族の事を考えていた。実の両親は相次いで亡くなっていた。父は心臓病で、母は癌で。もし両親が生きていれば僕は迷ったに違いない。なぜなら彼らを看取ることができるのは僕だけだったからだ。子供と沙織、義父、義母、僕にとって大切な人であることに変わりはない。でも、彼らは共に助け合って生きていける人たちに囲まれていた。フランシスカには?

「君は・・・家族は?」

「私は・・・父にも母にも棄てられたの。もうみんな死んじゃったけど、火事でね。でもこの間一緒に行ったお墓に眠っている叔母だけは私の事を見棄てないでいてくれた。私の働いているバルの女主人、マリアは叔母の友人だったの。でもその叔母も一昨年死んでしまった。だからマリアだけが私の事を知っている・・・。今はあなたもだけど、あ、あと一人だけ」

僕が首を傾げると、彼女は微笑んだ。

「でもその人はウルグアイにいるの。私とおんなじ境遇の人が」

「へえ」

彼女はマドリッドで働いていた時、その人(That person)に会ったのだと言った。HeでもなくSheでもなく、That person。

その人に彼女が出逢ったのはマドリッドで働いていた時だった。ある休日、彼女はカフェでお茶を飲んでいた。そしてその人が入ってきた。そして荷物を置いてあった彼女の隣の席を指さし、

「ここ、構わないですか?」

と尋ねられた時、彼女にはピンと来た。この人は私と同じ種類の人間だ。

その人は男の姿をしていたが、南極のペンギンが集団の中で自分の子を見つけることができるように直感的に彼女にはそれが分かった。自分と同種の人間を彼女は渇望していた。

だが、実際に出会った時、彼女は躊躇った。ちらちらとその人の横顔を眺めていたが、せわしなくコーヒーを頼んでいる姿を見て、すぐにいなくなってしまうと思った彼女は、コーヒーが届く前に二枚のメモを書いた。

そしてコーヒーを持ってきた給仕係が去るのと同時に、一枚目の紙をするりとコーヒーカップの横に置いた。そこには、androgynosとだけ書いてあった。もしそうでなければ、相手は何のことか分からず彼女を変な目で見るだけだろう。不審げにその紙を覗き込んだその人ははっと息を呑み、その表情は一瞬で凍てついた。怯えを含んだ目を見開いたその人の前に彼女はもう一枚のメモを置いた。そこには、

"Yo, tambien(私もよ)"

と書いてあった。相手はそれを食い入るように見つめると、もう一度彼女を見た。そこから怯えは消えていた。忙しなく目を瞬かせるとその人はバッグからペンを取り出し、二枚目のメモに何かを書き込むなり、コーヒーを一息で飲み干して立ち去った。彼女の方には目も向けなかった。だが、そこには、

「夜、電話して」

という文字と共に携帯電話らしい番号が書かれていた。その夜、二人は出会い、食事をし、そして彼女は「その人」のホテルに泊まった。

「話すことはたくさんあったし、一緒に肌を触れ合ったわ。でもそれだけ。あの人にはウルグアイにパートナーがいたし・・・。でも人の肌に触れたいという欲望を理解してくれた。それまで、私は怖くて、人の肌に触れることができなかったから。その人も同じだったんだって。だから私の気持ちも分かるって」


それから「その人」とは時折手紙を交わしているのだと彼女は言った。それは彼女がバルセロナに戻ってからも続いている。

「僕の義理の弟はゲイで、彼も同じようなことを言っていた。何となく相手がそうかどうか分かるんだってね」

「私たちは敏感なの。人と違う、人に知られたくないという気持ちがあるから」

「うん」

「でもゲイやレズビアンは私たちより数が多いし政治的な力を持ちつつある。カミングアウトする人も増えてきている」

「みたいだね」

弟を思い浮かべながら僕は答えた。

「そういう人たちの中には差別される気持ちを分かる人たちもいるし、普通の人よりもっと差別的な事を言う人もいるの」

マドリッドにいる時、多少の親近感もあって彼女は男の恰好でゲイの集まりに出たことがあるのだ、と言った。何人かが彼女に興味を示し、言い寄ってきた。彼らに両性具有についてどう思うか、それとなく聞いた時その中の一人が、

「僕らは精神的な愛で結びついている。それは崇高なものだ。だけど、彼らは肉体的な欠陥だ」

と言った、と彼女は言った。

「ひどい・・・ね」

「世の中はRyoichiみたいに優しい人ばかりじゃないの。もっとひどい人たち・・・私たちを性的な興味の目でしか見ない人たちだってたくさんいる」

「僕は優しくないよ」

彼女はふるふると首を振った。

「私を助けてくれた。野良犬に襲われた時。私のバッグを拾ってくれた。ちゃんとはたいて。そして私の願いを聞いてくれた。一緒にお墓まで来てって頼んだ時、あなたは頷いた。そしてあの時ようやく分かったの。自分が・・・やっぱり女だったんだということに」

「うん」

僕は頷いた。

「これから私たち・・・どうする?」

彼女は呟いた。

それは大きな問題だった。

妻の実家を説得する鍵は秀樹君だ、と僕は思っていた。彼は僕という人間を得て自由になった。今度は彼がそのつけを払うべきだろう。フランシスカという存在は性的マイノリティの人権を守るという彼の姿勢に少なからぬ影響を与えるに違いない。

だとしてもなお異国の地で僕ら二人が共に暮らしていくのには大きな障害がある。僕は沙織につらい思いをさせなければならない。でも彼女と婚姻関係を継続する限り僕らは共に暮らしていけないのは明らかだった。それだけではない。例え彼女と離婚してもフランシスカと結婚して永住権を得るのは困難だ。なぜなら、彼女は男として存在するからだ。僕の労働ビザがすぐに撤回されなかったとしても更新するのは難しいだろう。かといってフランシスカが日本にやってきても事態は改善しない。

だが困難を克服することに僕は躊躇いはなかった。

「自分たちを信じよう」

僕は彼女にそう言った。

「ねぇ」

彼女は遥か彼方の水平線を見詰めながら僕に言った。

「ひとつだけ、アイディアがあるの」

「どんな?」

僕は彼女を振り向いた。

「さっき、話した人なんだけど・・・」

彼女の説明では、そのウルグアイ人は国でも十の指に入る企業のトップで、もし何か困ったことがあればいつでも相談に乗ると言っていたそうだ。そして、もし暮らしに困ったらいつでも彼女をウルグアイに招待するとも。

「万一、パートナーが見つかったらその人も一緒に」

とその人は言ってくれた、と彼女は話した。

「普通の世間が住みにくい世界だってことを僕らだけが知っている」

その人は言った。

「そういう人には手を差し伸べる人がいないといけないんだ」


「でも・・・」

そのためには二人共ビザを取らなければならない。例え、その人がどんなに金持ちであろうと、様々な手続きと理由が必要で、その中で彼とフランシスカの秘密が公にならないとも限らないのだ。

そういうと、彼女は、

「そんな方法じゃなくても、幾らでも手があると彼は言っていたわ」

と反論した。

「どんな?」

「密入国」

「え・・・」

一瞬、僕は固まった。

「ふふ・・」

悪戯っぽく彼女は笑った。

「そういう手もあるってこと。パンパにある放牧場で牛を飼うのもいいなって、ちょっと思っただけ。人の目に触れずに隠棲のような生活をする・・・」

「本当にそんな手があるの?」

「その人は何でもできるって言っていたけど・・・でも冗談・・・気にしないで」

フランシスカは僕の肩に首を預けた。

「その話・・・もっと詳しく聞けないかな?」

乗せていた首を持ち上げてフランシスカは僕を見た。

「本気なの、Ryoichi?」

「少なくても話を聞く価値はある、と思う。パンパで牛を飼って暮らす、そんな暮らしもいいんじゃないかって」

「うん」

フランシスカは両手で僕を強く抱きしめた。それは確かに女の子の力だった。


電話をかけ終えて戻ってきた彼女の目はきらきらと輝き、頬は紅潮していた。

「信じられない」

「どうしたの?」

「彼、今近くにいるの。クルーザーで大西洋を渡ってきたの、ヴァカンスを兼ねて」

「ほんとうに」

「あなたにも会ってみたいって」

「もちろん」

「今週のどこかで会わないかって、彼、スケジュールを組みなおしてまた後で電話してくれるって」

「うん」

「あなた・・・Ryoichi。いつまでここにいる予定なの?」

「予定は明後日まで」

「もう少し長くいられる?」

「もちろんさ、もしかしたらそのまま・・・」

「そのまま?」

フランシスカは目を見開いた。

「そういうことになるかもしれないじゃないか」

「Ryoichi・・・」

フランシスカは喘ぐような声で言った。

「今日、私の所へ来て」

その誘いの意味は明らかだった。

「いいの?」

僕が尋ねると彼女は頬を染めた。

「ええ、お医者様は言った。私は肉体的にはほんとは女なんだって。あなたさえ良ければ」


驚いたことにフランシスカが住んでいるのはバルの上の部屋だった。そこはバルを通ってしかいけない秘密の小部屋みたいになっていて、つまりはバルの女主人である、マリアの前を通らないといけない仕組みになっていた。

バルは開店前だった。薄暗い店内でマリアは開店の準備をしていた。ドアを開けて入ってきた僕らを見てマリアは眉を寄せた。

「マリア、彼はRyoichi」

フランシスカは英語で僕を紹介した。

「私のnovio(男の恋人)なの」

ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして女主人は開店準備の作業に戻った。

暗く狭い階段をマリアが昇っていき、その後を僕が続いた。踊り場の小さなドアを開くとそこには意外に広い空間がひらけていた。

「これが私の部屋」

綺麗に掃除されていたが、女の子の部屋と言われればそうも見えたし、男の子の部屋と言えばそうも思えた。ブルーとペパーミントグリーンと淡い黄色で統一された部屋は部屋の主と同じ中性的な佇まいだった。

「座って」

ペパーミントグリーンのソファに僕を座らせると彼女は僕の膝の上に乗って、そして僕にキスをした。彼女の唇は吸い付くほど柔らかく、小さな乳房の先は固くなって僕の胸にあたった。やがて彼女は左手でズボン越しに僕のペニスをもてあそび始めた。まるでギターを弾くように。

その繊細な動きは僕の官能を波のように揺さぶった。今まで感じたことのないほどの愉悦に耐えきれず僕は彼女をソファに押し倒そうとしたが、彼女は抗った。

「先に体を洗って・・・。うちにはバスがあるの。日本では当たり前だろうけど、こっちでは滅多にないわ。私の自慢よ」

「うん」

僕は素直に従った。


温かなお湯にしばらく浸かったけれど、僕の気持ちはいていた。シャンプーをして、体をざっと洗い、拭いたバスタオルで体を包むと僕は部屋へ戻った。

だが、その時部屋の温度が二度ほど下がってしまったようなそんな感覚に襲われた。フランシスカはさっきと同じソファに座ったままだった。

「どうしたの」

尋ねた僕の声に振り向いたフランシスカは泣き笑いのような表情を浮かべていた。

「Ryoichi・・・」

「ん?」

「ごめんなさい。今日は・・・許して」

「どうして?」

僕の問いにフランシスカは腕に顔を埋めた。

「怖くなったのかい?」

「・・・、そうね」

一瞬、彼女が遠ざかったような気がした。でもフランシスカはこんな言葉を続けた。

「明日。もう一度ここで会いましょう。同じ時間に・・・来て。信じて。私はあなたを愛しているの」

そう言って腕に埋めていた顔を上げるとフランシスカは微笑んだ。彼女の気持ちがどうして変わったのか、僕にはよく分からなかった。明日になれば何かが解決するのだろうか?でも無理強いはしたくなかった。

「・・・」

僕は視線を落とした。理性と裏腹に僕の欲情は収まっていなかった。

「仕方ないわね」

そういうとフランシスカは僕のズボンのジッパーを引き下ろした。そしてベルトを外すと僕の下着の上からペニスに触れた。それは間違えなく今までにないほどいきり立っていた。お尻をずらすようにして下着を脱がせると彼女は優しく僕のペニスに指を絡め始めた。それから思い出したように部屋のテーブルの上からティシュの箱を取ってくると横に置き一度に何枚かのティシュを引き抜いた。

「いきそうになったら、言ってね」

そういうと、彼女は舌で僕のペニスを舐り、再び指で刺激を送り始めた。長く、体の底からマグマのような熱い快感が波のように沸き起こってきた。それは今までのセックスとどこか根本的に違うものだった。波は僕を震わせ、僕は吠えるような声を上げたような気がする。意識が白く輝き、長いストロークの猛烈な快感と共に僕は射精した。

ぐったりとした僕の唇にキスをして、

「すごい量だ。これなら僕だって妊娠しちゃうな」

男の声でそういうとフランシスカはプラスティクバッグにティシュを包んだ。その冗談めかした言い方にはさっき感じた彼女が遠のいていったような感じはなかった。

「からかうなよ」

腕で目を覆いながら抗った僕に向かって

「うん、そうするわ」

フランシスカは女の声で答えた。

「バスにもう一度入りなさいな」

「分かった」

そう言い残して僕はバスルームに入った。

シャワーで体を洗い流し、その間に溜めたお湯に浸かると僕は少しうとうととした。妻とのセックスに不満を感じたことはない。僕らはいつも穏やかなセックスをした。叫び声を上げることもなく荒々しい交合をしたこともない。それでも十分だった、そうだったはずだ。しかし、ただ指でしただけで僕はそれまでにない強烈な快感を彼女から味わった。

普通の生活、親しい家族、そうした大切にしてきたものと別の世界がクレパスのように足元に開いていた。高所恐怖症の人間が魅せられるように僕はその恐怖と落ちていきたいという気持ちの境で揺蕩たゆたっていた。

部屋を出る僕を引き留めるとフランシスカは僕に長いキスをした。彼女の舌は僕の舌と絡み合い、僕らは強く抱きしめあった。

「ねぇ、信じて。あなたは私の最初で最後の男なの。愛しているの」

「分かっているよ」

長いキスの後で僕らは言い交わした。

「明日、七時にね。今日はここでサヨナラしましょう。私の普段を見知っているお客さんをびっくりさせたくないから」

フランシスカはそう言うと僕に手を振った。

「うん」

僕も小さく手を振った。


その晩、僕はホテルに帰り、夕食も食べずに眠りについた。夜はまだ浅かったけれど体中からエネルギーが抜けてしまったような気がした。夢さえ見ずに12時間眠り続けて起きたらもう朝の十時になっていた。

彼女とは七時まで待たないと会えない。仕方なしに僕は彼女の知り合いのウルグアイ人がどんな人なのか想像してみた。うまく想像はできなかった。暫くベッドの上で寝転がっていたが昨夜夕食を食べてなかったせいか腹が減ってきて不承不承起きた。シャワーを浴び着替えると街に出たが店は開いておらず、通りでワゴンカーを使って商売をしていた店でホットドッグを一つ買って飢えを満たした。

フランシスカのいない街の風景は味気なかった。


まだ約束には半時間ほど間があったけれど、僕はホテルを出た。通りの花屋でバラの花を買おうかと思ったけれど、なんだか気障っぽく思われるかもしれないと躊躇った。結局カスミソウだけを手に僕はバルへと赴いた。

マリアはドアを開けて入った僕を見ることもなく

「店はまだだよ」

と不愛想な声を上げた。

「フランシスカに逢いに来たのさ。七時の約束がある」

マリアは顔を上げた。

「ああ、あんたかい。あの子ならいないよ」

「そんな筈はない。昨日約束したんだ」

「朝、荷物を持って出て行った。あんたは一緒じゃなかったのかい?」

「うそだ」

そう反論しながらも僕はおののいた。マリアが嘘をついているように見えなかったからだ。

「うそをついてどうなる・・・。じゃあ、待ってみるがいいさ」

マリアは店の中を指さした。

「部屋に行ってもいいかい?」

「勝手にしな。鍵はかかっていると思うけどね」

マリアの言うとおりだった。部屋をノックしても答えはなく、鍵が掛かっていた。

降りてきた僕を憐れむように見るとマリアはカウンターの一番奥の席を指さした。

「何か、飲むかい。店を開ける前だけど飲み物くらいならいいよ」

「セルベッサを」

目の前にビールが置かれ、僕はそれを一気に飲み干した。

やがて店が開き、何組かの客が訪れ、去っていった。僕の前にワインの瓶が何本か並び、そして夜は更けていった。

「もうおしまいだよ」

というマリアの声を聴いたような気がする。


翌朝目が覚めたとき、見慣れない景色が目の前に広がっていた。天井で朝日を受けて光っているワイングラス、積み重ねられた椅子、並んだ酒のボトル・・・。頭が割れるように痛く、僕は呻いた。マリアのバルの片隅で僕は眠っていたのだった。誰かが掛けてくれたブラケットを椅子に置きなおし、体に積もった痛みと疲れを解そうとして、危うく椅子から転げ落ちそうになった。その音を聞きつけたのか、奥からマリアが出てきた。

「起きたかい?」

「ああ・・・済まない。毛布を掛けてくれたのはあなたかい?」

「風邪でもひかれたら困るからね」

相変わらず不愛想に答えると、

「勘定を払っておくれ」

と手のひらを差し出した。

「ああ・・・」

懐から財布を取り出すと僕は言われるがまま勘定を払った。思ったほどは高くなかった。

「あの子は帰ってこなかったし、たぶん帰ってこないよ」

マリアはお釣りを渡しながら僕にそう言った。

「どうしてわかるんだい?」

僕の質問に頭を振っただけでマリアは奥に戻ると金庫に金をしまった。

「今日も来ていいかい」

「ちゃんと店を閉める時にホテルに帰るなら・・・。勝手にするがいいさ」

「うん」

そう答えると僕はふらふらと立ち上がった。

「約束するよ」

ホテルに戻って会社に電話をした。秘書のリサがすぐに出た

「病気にかかったんだ」

そう言うと、

「ほんとうにすごい声ですね」

リサは心配そうに電話の向こうで言った。

「こちらから医者を手配しましょうか?」

リサは有能な秘書だった。その冷静な言葉で僕は少し現実に引き戻された。

「いや、いい。少し寝ていれば大丈夫だと思う。急ぎの用事はないかい?」

「緊急案件はありません。でも今日お帰りになることを前提にいくつかアポが入っています。それらはリスケジュールをして、東京にも連絡をいれておきます」

「そうしてくれ」

「いつ、お帰りになれそうですか?」

その質問の答えは用意していなかった。暫く考えて、

「明後日には・・・大丈夫だと思う」

と答え、僕は電話を切った。

その晩、次の晩と僕はマリアの店でとぐろを巻き続けた。彼女の代わりに入ったホアキンは、僕を薄気味悪そうに見ると、

「マリアさんから、ワイン一本以上給仕するなと言われています。No mas de una botella de vino・・・分かりますか?」

僕は頷いた。出してくれるだけましだ。

でも、いくら待ってもフランシスカは戻ってこなかった。

コペンハーゲンに戻る日の朝、僕はもう一度だけ、マリアの店に行った。マリアは店を掃除していた。僕を見ると、少し気の毒そうな目をして首を振った。


コペンハーゲンに戻ってからしばらくの間僕は体の調子を元に戻すことはできなかった。フランシスカの指で放出した精液と共に僕の体力はどこかへ消えてしまったようだった。そんな状態が半年続き、仕事にも少しずつ支障が出てきた僕を立ち直らせたのは皮肉にも僕が裏切ろうとした家族だった。生まれてまだ三か月も経たない子供を連れて沙織は僕のもとに戻ってきた。初めて見た子供は女の子だった。

彼女は・・・可愛かった・・・。


それから三年が経った。僕らはまだコペンハーゲンに留まっていた。北京でオリンピックが開かれたその年の夏、妻はスペインに旅行をしたいと言い出した。

「まだ、早いんじゃないか?」

娘の詩織はまだ二歳だった。ヨチヨチ歩きを漸く卒業したばかりの詩織を見ながら言った僕に

「大丈夫よ」

と妻は答えた。

「じゃあ、そうするか・・・」

僕は、妻にプランを任せた。沙織はそういうことが好きな女性で幾つかの旅行案内書と旅行会社のパンフレットを手に入れるとてきぱきと旅程を作り始めた。

「ねえ、バルセロナってあなたが病気になったところよね」

娘をあやしながら妻が呟いた。

「やめておく?」

「いや、別に構わない」

僕は答えた。

「そう?サグラダファミリアを見てみたいの」

「いいんじゃないか」


結局、セビリアからグラナダを回り、バルセロナから戻るという旅行日程に沿って僕らは旅に出た。長男の秀一は飛行機の窓際に座り、飽くこともなく雲を見ていた、詩織は最初のうちぐずぐずと言っていたが、飛行機がタクシーングに入るなり寝入ってしまった。日差しの強い空港に降り立ち、僕らはセビリアの街を見て回り、それからバスでグラナダへ向かった。遠くにアルハンブラ宮殿を見た時、ふと海辺でフランシスコが弾いた曲を思い出した。

夕日に沈む宮殿のシルエットじっと見つめている僕に妻は

「どうしたの?」

と尋ねた。

「なんでもない」

僕は答えた。

「きれいだわね」

妻の言葉に僕は黙って頷いた。


旅の最後の街、バルセロナに到着した時、僕は激しい既視感に襲われた。乗ったタクシーも前と同じSEATだった。運転手は鼻歌を歌っていた。

だが、僕らに国籍を尋ねることもなく、タクシーは以前独りで泊まった時よりも遥かに高級なホテルの前に止まった。

「素敵なホテルね」

と妻は微笑した。秀一は嬉しそうにホテルの玄関へ駆けて行った。


バルセロナの滞在は三日間だった。子供連れの僕らはゆっくりと街の中心部を散策した。そして翌日タクシーでグエル公園に行き、街に戻ると海岸へと足を向けた。

子供たちは海を見て歓声をあげた。秀一は波打ち際まで行って水と戯れ、詩織は羨ましそうにそれを見ていた。

「ねえ、あなた」

沙織がベンチの隣に座った僕を振り向いた。

「なに・・・?」

「バルセロナへ来てから、お話が少なくなりましたね」

「そうか・・・?」

的を射た指摘だった。何かを口にすれば、そこにフランシスカの面影が宿る、それは消しようもない、僕にはそう思えた。だから、言葉は自然と少なくなっていた。

「前に来たことがあるからね。感動も少し・・ないのかな」

「そうですか」

沙織は波打ち際で遊んでいる子に目を移した。

「ごめんなさいね。わがまま言ってしまって」

「そんなことはないさ」

できるだけ軽く響くように僕は答えた。

「子供たちも楽しそうじゃないか」

「ええ」

「今日はどこか外で食事をしよう」

「大丈夫かしら」

沙織は娘を見た。

「大丈夫だよ。南欧では子供は嫌がられない」


ホテルに戻ったのは三時過ぎだった。秀一は疲れたのか、ベッドでごろごろしているうちにいつの間にか寝入ってしまった。

「ちょっと、外に出て来るよ」

僕は娘をあやしている沙織に言った。

「ええ」

沙織は娘を撫でながら答えた。財布を手に持って出かける間際に

「ちゃんと帰っていらしてね」

沙織がそう言った。僕は振り返ると頷いた。沙織はこっちを見ることもなく子供をあやし続けていた。


いったい、僕はどうしようとしているんだろう?マリアのバルがある方角に向かいながら僕は自問した。

もし、フランシスカが戻っていたら・・・僕はどうするつもりなんだろう?そう思いつつも脚は次第にせっかちに動いてた。マリアのバルがまだあるかどうかさえ分からない。そう思いつつ、角を曲がるとそこには昔通り、バルが佇んでいた。

Cerrado(閉店中)と書いてあるにも関わらず僕はドアをノックした。マリアが店に早くからいることを僕は知っていた。

「まだ、やっていないよ」

案の定、中から返答があったが僕は構わずにノックし続けた。

「うるさいね、誰だい」

呪うような声と共にドアが開いた。マリアは以前と少しも変わっていなかった。目をすがめ、

「おや、あんたかい」

と女主人はぼそり、と言った。

「あんたなら・・・仕方ない、入んなよ」


マリアは、仕事に戻ろうとして思い直したように僕を振り向いた。

「また、ここでとぐろを巻かれちゃあかなわないからね」

自分に言い訳するように言うと、

「あんたには悪いけど、あの子はほんとうに出て行っちまったのさ。一度だけ・・・あんたがいなくなってから戻ってきた。そしてそのまま居なくなってしまったんだよ」

そう言うと、それを証明するつもりなのか、

「こっちへおいで」

と店の奥に僕を導いた。それは彼女の住んでいた部屋へと向かう階段だった。前掛けから重そうな鍵の束を取り出すと、マリアは

「どれだったかね」

と呟いて慎重に鍵束を探り、真鍮色の鍵を摘まむと鍵穴に挿した。

「うん、これだよ」

かちゃり、と音がして扉が開いた。前見た時と同じレイアウトのまま部屋は残っていた。時々掃除でもしているのか、ほこりはうっすらとしか積もっていなかったが、そこに誰も住んでいないことは冷たい部屋の空気で分かった。

僕は部屋に入るとバスへのドアを開いた。彼女が自慢していた湯舟がそのまま残っていた。

「あんた、あれを使ったね。あの日、あんたの体から風呂上がりのいい匂いがした。あの子がバスを使った時と同じようなね。それでてっきり、あたしゃ、あんたたちはそういう関係になったんだと思った。でもその翌日、あの子は出て行った。荷物を持って、いつもの男の姿で。だからてっきりあんたがすることだけして逃げ出したんじゃないかと思ったよ。あの子もあの日降りてこなかったからね。でもあんたは次の日もやってきた。あの子が出て行っちまったのも知らぬげにね。だから何が起きたのか分からなかった」

 そう言うと、

「あんた、あの子とほんとにやってないんだね」

 と僕を見た。そのぶっきらぼうな物言いに反してマリアの顔には羞恥しゅうちの色が浮かんでいた。僕は首を振った。

「そうなるところだった。でも最後の最後に彼女は今日はダメ、って言ったんだ」

「ふうん、そうかい」

マリアは溜息を一つ吐いた。

「それがあんたにとって悪いことだったのか、良いことだったのか、あたしゃ分からない。でも、もしあの時そうなっていたらあの子はあんたを一生離しはしなかった、と思うよ。あんたには家族がいたんだろう?そうあの子からは聞いたよ」

「それは僕も覚悟していた。家族と別れることも」

「そうかい・・・」

マリアは昔を思い出すかのように遠くを見つめる目付きをした。

「戻って来た時、あの子はものも言わずに部屋に籠った。それから暫くして女の子の姿になって下に降りてきて、ずっと私の膝で泣いていたんだよ。ずっと。いったい何があったのかね」

「僕にも分からない」

「彼女は・・・それまでにそんな事があったのかい、つまり誰かを部屋に上げたりとか」

マリアは首を振った。

「そんな事をしたらあたしが叩き出してやったよ。あの子はどんなchicos(男の子)やchicas(女の子)より真面目で純情だったさ。あんたが初めてだった。でもあの子が本気だって分かっていたから、黙っていたのさ」

そう言うと、マリアはふと何か思い出したかのように、そう言えば、と継ぎ足した。

「あの子は泣くだけ泣いた後、ぼーっとそこに座って、これでよかったんだよね、

って呟いた。あたしは仕事に戻っていたけど、その声で振り向いた時、あの子は写真に向かってそう言っていたんだ。何だい、その写真はって尋ねたけど、あの子は、首を振ってそれを胸元に隠したんだ」

「そう・・・。何の写真だったんだろう」

呟いた時、一瞬で僕にあることが閃いた。

「その写真・・・子供の写真じゃなかった?」

「さあね、写真だとは思ったけど、表を見たわけじゃない」

「・・・それはたぶん、僕の息子の写真だ」

フランシスカがいなくなって僕が苦しみの淵にのたうち回っていたバルセロナからコペンハーゲンに向かう飛行機の中で、ふと手帳を取り出した時、そこに挟んでいたはずの子供の写真がないことに僕は気づいた。でも、その時はどこかに落としてしまったんだと思っていた。写真は家族を捨てようとした僕への神の罰のような気がした。家族の代わりにその写真がどこかへ消えたのだ、、、その時はそう思った。でも、フランシスカがそれを僕の手帳から取ったのならば・・・。

「それで説明がつくね」

とマリアは言った。

「あの子は親に捨てられた子なんだよ。あんな体だったもんだから、それをあの子の叔母が育てたんだ。私も一緒にね。だから・・・きっと・・・自分みたいな子を・・・好きな相手の子供をそんな目に遭わせたくなかったんだよ」

僕は無言で頭を振った。

「僕は彼女に不幸な目をみさせただけなのか・・・」

「どうだかね・・・。でもあんたが来てから、彼女の人生は変わったね。あたしにゃ、あんたは余計なことをしたと思うけどさ、あの子にとっては良く分からないね。いずれにしろ神様があの子を助けてくださるとあたしゃ祈っているよ」

そう言うとマリアは十字を切った。

「最後に逢った時、着替えると女の子の姿はもうしない、ずっと男になるって決めたんだ、これが最後よ、そう言ってあの子はかつらを置いて行ったんだよ」

僕はそれを見せてくれないか、と頼んだ。だけどマリアは首を横に振った。

「もう、あの子の事は忘れておくれ。あの子とあなたはもう別の道を歩んでいるんだからさ」

その言葉に僕は頷かざるを得なかった。

「けど・・・そう言えば思い出した。あの子があんたがもし来たら渡してって言っていたものがあるんだよ」

マリアは勘定場に行くと何やらごそごそと探していたが、漸く目当ての物を見つけると僕のもとへ戻ってきた。そらは茶色の封筒で中には写真が入っていた。開けてみると僕らが最初で最後のデートをした時の写真が出てきた。フランシスカはとても幸せそうな笑顔をしていた。

最後の写真だけが違っていた。それはバルの外から撮った写真で、フランシスカがいなくなった日の写真のようだった。バルの片隅で僕がカウンターに突っ伏し、マリアは僕の後ろで背中を向けていた。

マリアはそれを見て、

「あの子、この近くにいたんだね」

と呟いた。

その写真の裏側にセピア色の文字が書かれていた。

de la virgen siempre

マリアに見せずともその意味は分かった。永遠の処女から。

「どうするね。持っていくかい?」

マリアが僕に尋ね、僕は首を振った。そしてペンを取り出すと、その脇に、次の人生でまた会おう、その時は僕らは一生、一緒にいよう、と書いた。

もうこの場所を訪れることはないだろう。去り際にふと思い出して、僕は最後にマリアに尋ねた。

「ねえ、ヘミングウェイの小説に出てきたマリアとあんたは関係あるのかな」

マリアは、

「おや、あの子はそんなことも言ったのかい?」

と言うと頷いた。

「本当さ。その男は今度内戦の小説を書く。その主人公の名前はマリアだ。だから、マリアと名付けるといいよって母親に言ったそうだよ。それを信じて私にマリアと付けたんだけど、その娘は右翼の奴らに乱暴されて男と行き別れるって筋書だったのさ。母親はその事でずいぶんと腹を立てたらしいよ」

そう言ってマリアはにやりと笑った。初めて見た彼女の笑い顔だった。

「でも、本物のマリアはそんな目にあいやしなかった。そしてまだまだ生き続けるよ。あたしが死にでもしたらあの子も帰ってくるだろうよ。この店しかあの子の戻るところはないんだからね。この店をあの子に残してやるつもりなんだよ」


ホテルに戻ると沙織は外出着に着替えていた。子供たちも出かける装いをして、

「パパ、遅いよ。早くご飯を食べに行こう」

と秀一が文句を言った。

「ああ、そうだな」

僕は言って、彼を抱き上げた。


秀一は取り分けたトルティージャで口をいっぱいにして僕を見上げた。飲み込むと、

「おいしいね、パパ」

と笑顔を向けた。

「だろう」

と言うと僕は白ワインのグラスを持ち上げ、

「ねぇ、どうしてあんなこと言ったんだい?」

と沙織に尋ねた。

「何のこと?」

「出掛けにさ、ちゃんと帰ってきてね、みたいなこと」

そう言うと、沙織は首を傾げた。

「そんな風に言ったかしら?」

「うん」

「子供の面倒を見てほしかったのかしらね」

「そう・・・か」


子供を寝かしつけ、その夜僕は久しぶりに妻を求めた。あの事があって以来、僕は妻を抱いていなかった。病気もあって、それは不自然ではなかったようにも思えた。いつもと同じ慎ましやかな交合だったけれど、妻はそれまでよりも少し激しく反応した。きっと彼女は何かを分かっていたんだろう。正確に何かを知っていたわけではないにしろ、この街で何が僕に起こってたのか、感じるところがあったのだろう。

それがもしかしたら別離に繋がる可能性があった事さえ見抜かれていたのかもしれない、そう思った。

成就できない恋は苦みだ。鍋の底にできた焦げのように・・・南欧の濃いコーヒーのように。そして・・・きっとその苦みが僕らの人生を複雑にさせてくれるのだ。



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