第5話 ブルージュ 1996年 Printemps (春)
チェックアウト時、受付にアンリがいなかったのは幸いだった。もし彼がいたなら互いに気まずい思いをしたに違いない。アンリ自身もそう考えて誰かに代わって貰ったのだろう。
とは言ってもパリに戻った時の宿を変えるつもりはなかった。僕の方から逃げ出すと思われるのは
「お友達、今日はいませんね」
沙織は、よく眠れたのかすっきりとした表情で、チェックアウトをしていた僕に語り掛けてきた。僕と言えばアンリの言葉に悩まされ、昨夜はずっと眠れなかった。短い睡眠を目覚ましに叩き起こされたおかげで目の下に隈ができているのが自分でも分かるできるほどだった。夜がまだ明けてなくて、受付の仄暗い蛍光灯しか明かりがないおかげで目立たないのが幸いだった。
「あ、うん」
僕の曖昧な答えに沙織は首を傾げた。僕らの間に芽生えた気まずさの種が自分自身だとは思ってもいないのだろう。
「いいんですか?挨拶しなくても。まだちょっと時間ありますよ」
「いいんだ。昨日、タクシーを頼んだ時、別れの挨拶はしたから。それに早く出ないと道が混むし」
そう言うと、ああ、そうなんですね、と沙織は微笑んだ。
頼んでいたタクシーは時間通りにやってきて、僕たちはパリ北駅に列車の発車時間三十分ほど前に到着した。タクシーを降りて見上げたパリの空はようやく明けかかっていたが、その表情は昨日までと打って変わってどんよりと曇っていた。
まだその時間には駅の売店は一つも空いてなくて、僕らは前日に買っておいたクロワッサンをホームで齧って朝食の代わりにした。列車は既にホームに入っていたが扉があくにはまだ間があった。
「なんだか、列車の旅って、旅しているって気持ちを余計にそそられますよね」
沙織はクロワッサンを欠片も落とさずに上手に食べ終えるとにっこりと笑った。
「そうだね」
昨晩のアンリの言葉を聞いてからというもの僕は壊れ物を手にしながら旅行しているような気分になっていた。そんな僕の気持ちも知らぬ気に沙織は駅の構内を見回すと、
「ちょっと回ってきていいですか?」
と言った。
「いいよ。時間に遅れないでね」
「分かっていますって」
スキップするかのように沙織は駆けだしていった。
列車を待つ人々が少しずつ集まってきて、やがて車両の扉が開いた。待っていた乗客が全て乗り終えても沙織は戻ってこなかった。次の列車が来るまでには二時間ほど空いてしまう。発車五分前となり微かに苛立ち始めた僕の目にホームの向こうからすごい勢いで走ってくる沙織の姿が見えた。手に茶色の袋を持っていて、頬は上気してピンク色に染まっていた。
「ごめんなさい。待たせちゃって、さ、乗りましょう」
彼女の荷物も僕が抱えて、僕らは車両に乗り込んだ。幸いなことに席は半分も埋まっていなかった。
「ホットサンドを売っていたんですよ」
彼女は手にした袋から一つ取り出すと僕に渡した。
「温かくておいしそうだったから。でも焼くのに思ったより時間がかかっちゃって、焦りました。ごめんなさいね」
既にTALIS(超特急)は運行を始めていたが、僕らが乗ったのはICTだった。沙織がそれを望んだのだ。
「ゆっくりと行く電車の旅って楽しいですから」
早くブルージュに着いた方が良いんじゃない?と勧めた僕に彼女はそう答えたのだった。とはいってもブリュッセルまで三時間ほどの旅で、そこで乗り換えれば、ブルージュまでは一時間ほどで到着する。
やがて何のアナウンスもないまま
「あ」
と持ってきた袋からもう一つのサンドイッチを取り出した沙織が声を上げた時に列車はも動き始めた。
「なんだかあっけないですね」
沙織は唇を尖らせた。
「そうだね、日本に比べると」
丁寧というよりしつこいほどの日本のアナウンスに比べると概してヨーロッパの鉄道は素っ気ない。
「旅立ちっていう感じがしなかったな・・・」
窓の外で、次第に加速して流れていく駅の風景を沙織は恨めし気に眺めていたが、プラットフォームが途切れると諦めたように手元に視線を戻した。
沙織の買って来た温かいサンドイッチを僕は口に運んだ。バターがたっぷり、それに柔らかく溶けたチーズと厚切りのハムが挟んであった。溶けたチーズはまだ熱かった。
「結構熱いよ、気を付けて。でも美味しい」
そう言うと、
「でしょう?」
嬉しそうに答えて沙織も食べ始めた。
「なんだか、豊かって感じのする味ですよね。引き算していない」
時折、ふぅふぅとパンから溢れ出てくるチーズを冷ましながら沙織はそう言った。
「そうだね」
確かにそれは原価計算と無縁の味がした。
列車が走り始めてすぐに、列車の窓を雨が叩き始めた。窓際の席に座って英語の本を読んでいた沙織が眼を上げ心配げに窓の外を見遣った。
「ブルージュも降っているんでしょうか?」
「たぶんね。この季節は天気が変わりやすいから」
僕はあくびを噛み殺しながら答えた。
「晴れてほしいなぁ」
そう言うと、僕のあくびにつられたかのようにひとつうーんと伸びをして、沙織は本を膝の上に置いた。
「何を読んでいるの?」
「研究発表の題材です。ありふれているけど、チャールズディケンズの本」
「クリスマスのやつ?」
「クリスマスキャロルですね。でもこれは違います。せっかくパリに来たから二都物語を読んでみようかと思って」
「ああ・・・」
名前は聞いたことがあるが読んだことはなかった。
「外国語学科ってフランス語じゃないの?ディケンズってイギリス人じゃなかったっけ?」
「英語学科ですよ。フランス語は趣味」
「そうなんだ」
趣味の割にはずいぶんと上手だ。
「結構、この小説にはパリの街が出て来るんですよね。戻ったら行ってみたいところもあります。発表にも説得力が出るかもしれないし」
「じゃあ、時間をみつけて」
「そうですね」
そう言うと彼女は再び窓の外を眺めた。その美しい髪越しに灰色の田園風景が流れていく。車内は殊の外暖かかった。いつの間にか僕は眠ってしまっていた。
沙織に起こされ、僕らはブリュッセル南駅で乗り換えると、中途にあるゲントを通過した時も雨は降り続いていた、というかむしろ雨脚は強まっていた。
「ああ・・・」
沙織は恨めしそうに僕を振り向くと、
「ブルージュは雨、ですね」
「なんだか映画のタイトルみたいな響きだ」
眠い目を擦り乍ら答えた僕に
「ふふ」
と、沙織は小さく笑みを返すと、
「まあ、仕方ないか。向こうに着いたら美味しいものでも食べましょう」
「ムール貝をバケツ三杯くらい」
「それ、いいですよ。ムール貝絶滅計画。でもそんなにたくさん食べれますかね?」
「二人いればそのくらい食べれるよ。ムール貝って殻が大きいから、バケツの中は殆ど貝殻」
「そうなんですか?」
「それに安い。だからみんな滅茶苦茶の量を食べる。でもムール貝は絶滅しないんだ。夜中のうちにどんどん増えていくから。どんなに人が食べても一晩経つと元の数に戻っている」
「ほんとうですか?」
沙織は僕を睨むように見た。
ブルージュの街は雨に煙って、石造りの建物は薄暗い曇り空の下で沈んでいた。
「思った通りでしたね」
タクシー乗り場で車を待ちながら沙織はがっかりしたように口をすぼめて僕を見た。
「今の季節はね・・・ずっと晴れっていうのはないものさ」
そう返事をしながらタクシーに乗りこみ、沙織が後に続いた。それがタクシーに乗るときのマナーだ。料金を払う人が先に乗る。
ホテルはこじんまりとした古いつくりのホテルだった。予約してあった二つの部屋の鍵を出す時もレセプショニストはアンリのような失礼なことは言わなかった。僕らは荷物をめいめい手にして部屋に向かった。
「じゃあ、三十分したらロビーで。ちょっと遅いけどランチをどこかに食べに行こう」
「はい、わかりました」
部屋に入ると僕は煙草に火をつけた。まだ、ホテルのそこここに灰皿が置かれている、そんなのどかな時代だった。
三十分してからロビーに降りると沙織はもう降りて来ていて僕を待っていた。ロビーは意外と広く、雨に降られて外に出るのをためらっているような家族の旅行者たちが何組か
「ねえ、先生、あの子」
沙織はその中にいる一人の少女に顔を向けると、
「まるで天使みたいじゃありません?」
日本で言えば小学校の低学年くらいであろうか、白いドレスを身に纏い、熱心に本を読んでいる金髪の女の子は天使というには背がもう高いし細身であったが、素晴らしく美しい子だった。くっきりとした眼の瞳は青みがかって長い睫が目を閉じるたびに優美に揺れ、肌は陶器のように白かった。髪に赤いリボン飾りをつけていて、ページをめくるたびにそのリボンが跳ねる。
「ほんとうだね」
僕が頷いたその時、少女は突然本を読むのをやめて立ち上がり、そのまま階段へ向かってった。その後姿に沙織が声を掛けたけれど、その子は振り返ることなく階段をとんとんと上がっていった。
「あ・・・」
残念そうな声を上げた沙織に、
「ふられちゃったね」
と僕は笑いかけたが、その時、ソファに座っていた中年に差し掛かった男性が沙織に何かを言った。フランス語だった。
「ああ・・・」
沙織は頷くとその男性と更に二言三言、言葉を交わした。
「なんだって?」
ホテルで借りた傘を差すと、俯き加減で歩きだした沙織に僕は尋ねた。
「あの男の人はあの子のお父さんで、あの子ナタリちゃんっていう名前だそうです。」
「うん」
「赤ん坊の時に高熱を出して、耳が聞こえなくなっちゃったんですって・・・だからきにしないでねって」
「ああ、それで・・・」
僕は頷いた。
「私、何て言っていいか分からなかったんですけど・・・でも、お父さんは、彼女は不幸なんかじゃないんだよ、彼女は人の
「なるほど・・・ね」
「さあ、ご飯たくさん食べましょう」
気を取り直したかのように沙織はにこりと笑った。
ブルフーシュクロイセという運河沿いのレストランで僕らは昼食を取ることにした。少し気取った感じの店だったけれど、パンとバターが美味しい店に悪いレストランはない。窓から見える運河の
僕らはちょっと遠慮をしてムール貝をバケツに二杯分頼み、それを全部食べ切ってお替りしたパンを余ったソースに浸して貪欲に食べ続けた。
「美味しいですね」
仄暗いレストランの中をオレンジ色に染める電灯の光に、囁くように言った沙織の唇がオリーブオイルに濡れて艶々と輝いていた。
「こんなに食べても、ムール貝の数は変わらない?」
悪戯っぽい目で沙織が尋ねた。
「たぶんね」
「なんだかすごいなぁ」
「これからどうする?」
運河を滑っていく船を横目で見ながら僕は尋ねた。
「船に乗ってみる?寒いからやめる?」
「せっかく来たんだから乗ってみませんか?」
沙織は僕の答えを窺う様に見つめてきた。
「もしかしたら、明日は晴れるかもしれないよ」
「残念でした。明日も雨ですって。天気予報をみましたから」
「そうか・・・。まあ、コーヒーでも飲んで体を暖めてからにしようよ」
「そうですね。ケーキも食べたいし」
そう言うと沙織は窓の外を眺めた。その横顔を僕が見つめているのに気付いた沙織は頬をさっと染めた。
「どうしたんですか?」
少し怒ったような口調でそう言った沙織に、いや、と僕は首を振ると手を挙げて
「滑るから危ないよ」
差し出した僕の手につかまると沙織は木の桟橋から船に飛び移った。少しよろめいて彼女の体が僕に抱き着いた。桟橋近くで買った安物のポンチョに雫が滴り、僕を濡らした。
「だいじょうぶ?」
「ええ・・・大丈夫です」
柔らかな胸の感触が僕から身を引いた。
「ごめんなさい。ぶつかっちゃた」
そう言うと沙織は顔を隠すようにしてすっと船端に身を移した。黙ったまま雨でぬれたシートをハンカチで拭くと彼女は、ありがとう、と呟いて座った。
船はゆっくりと運河を進んでいく。雨のせいかもともと小さなボートの乗客は他に一組しかいなかった。運河沿いに建っている石の建造物が灰色にそぼ濡れていて僕らは無言でそれらを眺めていた。
ホテルに戻ると冷え切った体を、ホテルのロビーに備え付けられた暖炉で僕らは暖めた。やがて今朝見た美しい女の子が一人で階段から降りてきた。沙織は頬を輝かして立ち上がるとその子の傍に寄って何かを語りかけた。最初のうち女の子は不思議そうな顔で沙織を見詰めていたが、やがてにこりと笑うと沙織の手を取った。二人は暖炉の前で遊び始めた。どうやら沙織のいう事を女の子は理解しているようだった。
沙織は手にしたバックから何かを取り出し、暫く二人でしゃがんだまま何かをし始めた。突然女の子が大きな声を上げて暖炉の周りを駆け始めた。手に持っているのは折り紙の鶴でそれを空に飛ばしているつもりらしい。いつまでも飽きることなく女の子は駆け巡り、ロビーにいた大人たちは
父親はにっこりと娘を抱きしめると、彼女が手にした折り紙を見て彼女に尋ねた。娘が振り返って沙織を指さすと父親は沙織に向かって笑顔で語り掛けた。沙織は他にもいくつかの折り紙を父親に手渡した。兜、ボート、蛙・・・。女の子は一つ一つ見るたびに歓声をあげた。
戻ってきた沙織はにっこりと微笑むと、
「かわいい。私もあんな子供が欲しいな」
と言った。
「うん」
僕は答えた。
沙織はすっと遠くに視線を遣った。その先に見えているものが何なのか、僕には分からなかった。
翌日も雨が降り続いていた。午前中買い物がてら出かけた僕たちだったが、強くなった雨脚に閉口して、昼ご飯を食べるとすぐにホテルへ戻った。ホテルのロビーで沙織はあのナタリという子に会えるのを楽しみにしていたようだったが、いつまでたっても彼女は現れなかった。
「あの子、来ないね?」
僕が尋ねると、沙織は首を傾げた。そうに違いないのだけど、何となくそれを認めたくないような仕草だった。
「お母さんを見ないよね、どうしたんだろう」
僕が疑問に思っていたことを言うと、
「お母さんは亡くなったって言っていました。あの子を産んだすぐ後に」
と沙織は答えた。
「そうなんだ」
「お母さんも居なくて、耳も聞こえないなんて、やっぱりかわいそうですね」
「うん」
そう答えた時だった。ホテルの戸が大きく開いて、何人かの男たちがどたどたと入ってきた。僕らはびっくりして彼らが受付係とひそひそと話しているのを見詰めていた。話を聞き終えた受付係は慌てて電話をしていたが、受話器を置いて暫くするとナタリの父親が血相を変えて階段を走り降りてきて男たちと一緒に出て行った。
「どうしたんでしょう?」
不安そうに沙織は呟いていた沙織は、暫くすると意を決したように受付係の所へ行った。暫く言葉を交わしたあと戻ってきた沙織の顔は蒼白だった。
「あの子が交通事故に遭ったんですって」
「え?どこで?」
「Wollestraatの近く。お父さんが
「で・・・けがの具合は?」
「それは教えてもらえなかったんですって」
彼女はそう答えると窓の外を見た。雨はまだ降り続けていた。
「行ってみる?」
僕は沙織に言った。
「え?」
「通りの名前が分かっているなら行ってみればどの程度の事故か分かるかもしれない。ここで気にしているくらいなら、一緒に行ってみよう」
「・・・そうしてくださる?」
そう言って沙織は頷いた。
僕らはまた傘を借りて外に出た。Wollestraatは旧市街にある狭い通りで、車が速度を出すような道ではない。そんな通りで起きたのだから大きな事故でないことを信じながら僕らは歩いてホテルから五分足らずの通りまで向かった。
だが、事故はWollestraatで起きたのではなかった。Wollestraatが運河と交差している別の通りで二台の警察車両がまだ留まっていて、事故を起こしたらしいバイクを回収している最中だった。沙織は僕に傘を預けると交通整理をしている警官に向かって小走りに走り出した。警官は日本人に話しかけられて驚いたようだったが、彼女がフランス語を流暢に話すことを知って丁寧に応対した。だが、その警官も事故の後に交通整理によばれただけで被害者の容体は知らないと答えた、らしい。
傘をさしかけると黙ったまま、沙織はあたりを見回していたが、何かを見つけたのか、視線の先へと駆け寄っていった。僕も慌てて彼女の後を追った。放心したように沙織が見つめていたのは緑色の折り紙、沙織が女の子にあげたヨットの形をしていた折り紙だった。それは雨に打たれ濡れそぼり、事故の衝撃なのか、誰かに踏まれたのか原型を留めていなかった。
僕は黙ってそれを拾い上げ、ハンカチに包んだ。
「どうしよう」
沙織は呟いた。
「もしかしたら、あの子は運河にそれを浮かべようとしてここに来たんじゃないのかしら」
「そんなことはないさ」
僕は答えた。
「そんなことはない。こんな雨の中で紙細工のヨットを浮かべようなんて誰も考えないさ」
僕らは黙ったままホテルへの帰り道を辿った。帰る途中の沙織は俯いたまま殆ど言葉を発しなかった。僕がいくら否定しても、沙織の頭の中で一度浮かんだ思いは払拭できないようだった。
結局その日一日中僕らはロビーで父親が戻ってくるのを待っていた。時折、沙織は受付に行って父親から何か連絡が来ていないのかを尋ねたが、白い髭の生えた顎が見事な形にしゃくれた、初老の受付係は気の毒そうに首を振るばかりだった。やがて夜の帳が落ち僕は外に出てサンドイッチとピザと缶入りの飲み物を買ってロビーに戻った。
それがその日の夕食代わりだった。だがどれだけ待っていても父親は戻ってはこなかった。ロビーに入れ代わり立ち代わり来た人もやがて部屋に戻り、受付係も裏の小部屋に入って僕らは二人きりロビーに取り残された。
「部屋に戻ろうか。帰ってきたらきっとわかる」
そう言った僕に沙織は頷いた。僕らの部屋はエントランス側に向いていて窓から車が見えるのだ。
エレベーターを待っている時も沙織は俯いたままだった。のろのろと古いエレベーターが僕らを泊っている階へと昇っていった。ドアが開いたとき、
「ねえ、僕の部屋で一緒に待つかい?」
沙織を一人にしておく心配と、そんなことを言ったら沙織に何と思われるかという思いの中間で、僕は思い切ってそう言った。沙織はびっくりしたように僕を見上げ、そして、少し俯くと「はい」と頷いた。
鍵をがちゃがちゃいわせ扉を開くとすぐに沙織は窓のそばによって外を眺め始めた。僕は部屋にあった小さなソファを動かして窓に寄せた。僕らはそのソファに身を寄せ合って座った。窓から流れてくる外の外気が少し冷たくて、沙織は温かかった。沙織もそう思ったに違いない。彼女の柔らかく脆い部分が僕に初めて見えたような気がした
時折、ホテルの前にタクシーがやって来たが降りる客はいなかった。やがて沙織が僕の肩に頭を載せて寝息を立て始め、僕は体をなるべく動かさないようにベッドから毛布を引き抜こうとした。ホテルのベッドメーキングは固く毛布を引き抜くのに適していなかったけど、なんとか引き抜くと僕はそれを二人の体に巻くように包んだ。なんだか子供の頃に戻ったような気がした。暫くの間僕は起きて外を眺めていたが、時折道を抜けていく車の灯りがホテルの前を通り過ぎ、それが次第にまばらになっていって、いつの間にか僕も眠りに落ちていた。
目覚めた時夜は既に明けていた。僕らはソファの上で寄り添ったまま眠っていた。僕らの間で温められた空気はなんだか懐かしい香りがした。まるで昔、一緒に遊んだ子供と押し入れで隠れていた時にした香りのようだった。
まだ眠っている沙織を起こさないようにそっと僕は立ち上がり、毛布を丁寧に彼女にかけなおすと部屋を出た。無理な姿勢で寝たせいで首がだるかった。その首を二三度振りながらエレベーターでエントランスに降りた。掃除人がカーペットにクリーナーを掛け、ホテル用の新聞が玄関にビニールを巻いておかれているままになっているのを横目で眺めながら僕は外に出た。
あんなに絶え間なく降っていた雨はいつのまにか上がっていた。雨を齎した暗い雲を背後に、白い背の高い雲がせりあがるように空を覆っていた。その雲が朝の光が金色の光で輝いていた。それはまるで宗教画、そうフランドルの宗教画家が描く天使の舞い降りてくる絵のような景色だった。
その景色の中を古いタクシーが一台、石畳の敷石に揺れながら近づいてきた。タクシーは僕のすぐそばに止まった。そこから降りてきたのはあの女の子の父親だった。目が充血してはいたが、険しくはなかった。僕はお釣りを受け取って降りてきたその男に近寄った。
「すいません、ちょっといいですか?」
英語で僕は話しかけた。
彼は僕を見て、不思議そうな顔をしたが、思い出したかのように、微笑んで英語で答えた。
「ああ、君はあの女性の・・・」
「ええ、娘さんは?」
彼は微笑んだ。
「ショックで気を失ったんだ。足を骨折して、暫くは入院しなければならないらしいが」
「今まで病院に?」
「うん、もっとも娘の傍にいれたわけじゃないが。待合室でね、夜を過ごした。でも朝になって娘に会うことができた、それで帰って来たんだ」
「お気の毒な事でした。でももっと悪いことにならなくてほっとしています」
「うん、ありがとう」
彼は微笑んで、目を擦った。
「実は、僕の彼女が・・・、その、娘さんが外出したのは彼女があげた折り紙のせいじゃないかって思い悩んでいて」
「折り紙?」
ええ、と僕は答えてポケットにハンカチに包んで仕舞ってあった潰れた折り紙を取り出した。彼はじっとそれを見詰めてから、首を振った。
「いや、そうじゃない。娘はたまたまそれを持って行っただけだと思う」
「そうですか・・・」
「彼女は僕と買い物に行く約束をしていたんだが、前日に友人と飲んだせいか、僕は眠くてね、昼寝をしてしまった。だから娘は独りで出かけた、その帰りに事故に遭ってしまったんだ。だから君の彼女が気にする必要はないんだよ」
「わかりました、そう伝えておきます」
「あ・・・そうだ」
彼はポケットから何かを取り出すと僕に渡した。
「これは娘から君の彼女に・・・Origamiのお礼だって、渡してくれないか?娘に頼まれたんだ」
僕はそれを掌の上で眺めた。包みが少し破けて、破けたところからルビー色の髪飾りがのぞいていた。
「申し訳ない。事故の時に袋が破けてしまったんだ」
「・・・じゃあ、娘さんはこれを買いに?}
「そうだ・・・。そうか、これを買いに出かけたって言ったら君の彼女はその事に責任を感じてしまう・・・かもね。約束を守らなかった僕が悪いんだが」
彼はこめかみをこんこんと叩いた。
「そうですね・・・」
僕は呟いた。
「じゃあ、こうしてくれないか、いつか適当な時、思い出話になるころまでそれを君に預けておくから、その時になったら彼女に渡してあげてくれよ。そのかわり、」
と彼は僕の左手を指した。
「そのOrigamiを僕にくれないか?娘の足が治る御守りにしたいんだ」
「わかりました」
僕はハンカチに包んだまま彼に折り紙を渡した。
「これでおあいこさ、彼女にはうまく伝えてくれ。彼女は優しい人だ、大切にしたまえ」
「ええ、そうします」
じゃ、と彼は手を上げるとホテルのエントランスへ向かっていった。その背中は疲れ切っていたが、挫けてはいなかった。
僕は再び、空を見上げた。雲の間から太陽の金色の光が溢れだし、まるでバッハのオルガン音楽のような荘厳な景色だった。
エレベーターから降り、沙織を起こさないように部屋の鍵をそっと開けた。朝の光が部屋の中にも満ちていて、暗い廊下から入った僕は思わず眩しさに目を細めた。
「先生?」
窓を背にソファの上から沙織がこっちを見ていた。その姿は金色の布を背負った天使のように見えた。その時天啓のように僕には閃いた。
そう、あの女の子ではなくて、沙織が僕の天使なのだ。
「彼女は、大丈夫だ。さっきお父さんと会った。骨折はしたみたいだけど、命に別条はないそうだ」
その言葉に、天使が立ち上がるのが見えた。
「先生・・・」
沙織が駆け寄って僕の腕の中に飛び込んだ。体のぬくもりが心地よかった。その柔らかく温かいものに、
「ねえ・・・。僕たち、一緒にならないか?」
僕はそう言った。それが天使への僕のプロポーズだった。
それから後の事をくだくだしく書くつもりはない。
ただ・・・僕の腕を枕に沙織は
「私、最初の人は先生ってきめていたんですよ」
と言った。
「だから、もし先生が私の事を好きじゃなくても・・・。でも自分の方から言い出す勇気はなかったし、昨日一緒の部屋で待っていようって言ってくれた時、すごくドキドキして」
「でも、君の方が先に寝ちゃったじゃない」
「寝たふりしていたんです」
「うそだ」
「うそじゃないです。先生が毛布で包んでくれたことも知ってます。でも先に先生が寝ちゃったし・・・」
僕は沙織の口を塞いだ。
「でも・・・」
キスを終えると、沙織は少し眉間にしわを寄せた。
「私、勝手ですよね。あの子のこと、心配していたのは確かなのに心の底でそんなことを考えていたなんて」
「彼女の事を君は天使だって言っていたけど、でも彼女は天使じゃなかったんだ」
「え?」
沙織は毛布を巻いた体を起こすと僕を見た。
「彼女はキューピッドだったんだよ」
「キューピッド・・・」
そう呟くと彼女は、
「じゃあ、今日はキューピッドをお見舞いに行きません?」
「いいね、そうしよう」
そう答えて僕は沙織の頭を抱き寄せた。
「でも・・・なんで僕を?・・・最初にって」
沙織は抱き寄せられたままくぐもった声で答えた。
「・・・だって、誰かに傷つけられるんだったら、思った人に傷つけられたい。でしょ?」
「・・・」
「こんな気持ち、ずっと持っていたなんて恥ずかしいけど・・・。先生が女の子だったら分かるのに」
沙織はそう言って頭を上げると、小指と親指で僕の頬を抓った。
「その先生っていうの、やめないか?」
僕は抓られたまま答えた。
「そうですね。それは私のもう一つの望みだったんです」
沙織は指を離すとそう言った。
「望みって?」
「いつか遼一さんって、呼びたいってずっと思っていたんです。先生の次の呼び名は下の名前でって、だから橘さんとか呼ぶんじゃなくて・・・」
「・・・」
「ね、先生?」
沙織は悪戯っぽく笑った。
「今のが最後の『先生』、で良いですか?」
「うん」
僕は答えた。
「じゃあ・・・・。遼一さん・・・」
恥ずかし気にそう言って沙織は僕をじっとみつめた。僕はもう一度腕の中へ彼女を抱きしめた。強く、強く。彼女の体は抵抗もせずに僕の腕と胸の間でしなった。
出かける前に彼女は部屋に戻って着替えたいと言った。暫く考えて、
「ちょっと待って」
僕はそう言うと彼女に朝あの子の父親から手渡された髪飾りを渡して、彼から聞いた話を彼女に伝えた。もし、髪飾りをつけて行かなかったらあの子ががっかりするかもしれないと思ったのだ。彼女は頷きながら僕の話を聞いていたが、
「わかりました」
というと手渡された髪飾りをじっと見た。
「じゃあ、三十分後に」
着替えにはそのくらいかかるだろうと思ってそう言うと彼女は
「十五分」
と答えた。
「そんなんで大丈夫?」
「だってなるべく長く遼一さんといたいんだもの」
彼女の答えに僕は少し照れた。
僕らはその朝から今までよりもずっと近く、ずっとはっきりとした思いで一緒に旅を始めた。突然、僕らの旅はそれまでとは違った旅行に変容した。
最初はちょっとぎこちなく、でもすぐに自然に僕らは腕を組んで街中を歩いた。ブルージュはそんな新たな恋人たちにとっておきの街だった。とりわけ、晴れたブルージュは。昨日まで雨にそぼ濡れ沈んでいた建物は陽の光を受けて白く輝いていた。
受付係から教えてもらった病院は茶色の石造りで、三階建ての古い病院だった。だが中は清潔で薬の匂いが満ちていた。教えられた病室のドアをノックすると、彼女の父親がドアを開け、にっこりと笑って
「やあ、どうぞ」
と僕らを迎え入れた。病室に入った彼女の髪飾りに気付くと彼は僕にウィンクをした。僕は頷いた。ベッドの上にいたナタリは僕らが来ることを知っていたらしく(たぶん受付の老人が父親に連絡したのだろう)沙織を見て目を輝かした。
ナタリの父親と僕は病室の窓際に並んで窓枠に腰を軽く乗せたまま、彼女たちを眺めていた。
「彼女は素敵だね」
父親が僕に囁いた。
「ええ、僕たち結婚するってきめたんです。今朝」
「それはおめでとう」
「ナタリちゃんが僕らを結び付けてくれたんです。彼女は僕らのキューピッドです。沙織・・・彼女の名前ですけど、沙織は貰った髪飾りを結婚式の時に付けるって、そういっていました」
「娘はそれを喜ぶだろうし、誇りに思うだろうね」
「ですね」
そして僕らはパリへと戻る電車に乗った。帰りはブリュッセルからTALISに乗った。僕らにはやるべきことがたくさんあった。彼女は研究発表のためにパリの街中を見に行かなければならない。僕はそんな彼女をエスコートしなければならない。それまでに比べて時間は遥かにスムーズに流れ始めた。
列車の中でも僕らは手を繋いでいた。それはできたての恋人の儀式のような物だった。彼女の手はするするして少しひんやりとしていた。そして僕にいつまでも握っていて、と伝えてきた。
列車に乗って一時間ほどした時、突然、車内で大声がした。僕らと通路を隔てた列の二つ前の座席で若い男女が言い合いを始めたのだ。何語か分からないけれど、言い合いはヒートアップするとやがて男の方が立ち上がって憤然としたまま席を立った。あっけに取られて見つめていた僕らの視線を無視するかのように男は車両の後方へ立ち去っていった。
「喧嘩かな、何言っていたか分かる?」
沙織は首を振った。
「たぶん、イタリア語かスペイン語だと思います」
「そうか」
「いつか私たちも喧嘩するんでしょうかね?」
沙織は手を握りなおした。その柔らかい感触を感じながら僕は彼女の耳元で囁いた。
「その時は、ムール貝の神様にお願いするんだ。ブルージュの事を思い出しながら」
「え?」
「一晩たったら、ムール貝の数みたいに愛情が元に戻っていますようにってさ」
沙織は僕を見ると、
「愛情ってフランス語だとアムールなんですよ。ムール貝と相性がいいかも」
と囁き返した。
「そうなの?」
「ほんとはLとRで違うけど」
「なんだかフランス語の先生みたいだな」
「目指していたんだけどな」
「目指せばいいじゃない」
「でも・・・」
沙織はそう言って僕を見た。
「今の私にはもっと優先順位が高いものがあるような気がする」
ホテルのエントランスを入っていくと、いつもの通りアンリが受付にいた。
「すまないけど、君」
僕が言うとアンリは片目だけを上げて僕を見た。
「二つ、シングルを予約してあったんだけど、ダブルに変えることはできるかな?」
アンリは目を落とすと、予約帳をペラペラと
「本日は予約がいっぱいですが・・・」
彼は眉を顰めると忙しなげに予約帳を捲り続けた。
「そう・・・」
「ですが」
アンリは続けた。
「昨日ご予約のアンリ ベルナールという方がおそらく予約をキャンセルなさるでしょう。結構でございます」
ベルナールはアンリの苗字だった。チリンとベルを鳴らしてアンリはポーターを呼んだ。
「このお二人を最上階のスィートへ、お連れしてくれ」
そう彼に命じると、
「ダブルの料金でいいよ。僕からのサービスだ」
と小さな声で言った。
「ありがとう」
「幸せにしてあげるんだぜ」
「約束する」
「結婚式に呼べよ」
「ああ・・・日本に来るかい?」
「うーん」
アンリは腕を組んだ。
「従業員が不足していてね。なんとかこっちでやれないかな?できればうちのホテルのバンケットルームで。教会も近くにある」
茶目っ気たっぷりにそういうと、突然謹厳な様子になって、
「では、ゆっくりお休みくださいませ」
僕に金色の鍵をアンリは渡した。
パリに到着したばかりの時、見分けることもできなかった教え子は、パリから戻るとき、僕のかけがえのない人になっていた。マイクの結婚式に参列してから帰国する僕を残して、日本に帰る日見送りに行った僕はつい数日前彼女を迎えた空港で彼女と別れようとしていた。
カチャカチャッと空港のタイムテーブルが日本行きの飛行機の搭乗開始を告げた。今では信じられないかもしれないけどどの空港でもタイムテーブルはその頃はみんな機械式だったのだ。その音は僕のヨーロッパの思い出の中でいつも懐かしく音を鳴らす。
その音がして、搭乗開始を知った沙織は突然僕に抱き着いた。
「ほんとうにちゃんと帰ってきてくださいね、遼一さん」
沙織は泣いていた。
僕はふと、最初にヨーロッパに旅立った時のことを思い出した。成田空港へ沙織も見送りに来てくれた。その時の沙織は不機嫌そうに唇を結んで、まるで怒っているみたいな顔をしていた。その時は、家庭教師を放り出して外国に行く僕を怒っていたのだと思っていたけど、きっとそうではなく、何かを堪えていた表情だったのだ。
そして今流しているのはきっと何年間分の涙なのだ。そう思った途端、彼女を今までよりずっと愛おしく思えた。
「心配しないで。結婚式を終えたら今度は自分が結婚するために帰るさ。ちゃんと仕事を見つけて、君と一緒に暮らすために・・・」
そう答えると、沙織は涙に濡れた目で僕を見上げた。僕は彼女の体を抱いて、キスした。沙織はびっくりしたように、
「人が見ていますよ」
と抵抗した。
「パリだもの、誰も気にしやしない」
そう言って僕はもう一度、彼女の唇を奪った。彼女はされるがまま、僕を強く抱きしめ返した。
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