第4話 パリ 1996年春 Lis Blanc(白百合)
エスカレーターに乗り、僕は空港の
設計者が映画かなんかで見た宇宙基地でも再現してみようとでも考えたのに違いない。シャルルドゴール空港はヒースローや他の欧州の空港が実利的なレイアウトとかけ離れた奇妙なデザインの空港だった。だいたい、アライバルが最上階にあるというのも変な話だ。飛行機から降りたばかりの人をなんで上に再び昇らせようとするんだ?
エスカレーターは透明なチューブで囲まれて空港の中をまるで水道の配管のように走っており、どこからでも一目瞭然で乗っている姿の客が見える。
あるいは何かあった時に簡単に相手を狙撃できるように作られているのかもしれない。飛行機から降りてもそう簡単にパリの市内に入れないためにわざわざ到着を三階にしたのかもしれない。
ロンドンもそうだったけれど、パリも・・・決して平穏な町ではない。そう考えると少し居心地が悪くなった見通しのやたらと良いエスカレーターで体を縮込めながら僕は二週間前に去ったロンドンの事を思い出していた。
裕子をピザエクスプレスへランチに呼び出して日本に帰ることを告げた時、彼女はしばらく何も言わずピザを食べ続けた。どういうわけかロンドンはパスタはまずいのにピザは美味しい店が多い。チェーン店のピザエクスプレスだって十分に美味しい。ただ駅なんかの近くで売っている切ったピザだけはやめた方が良い。
「美味しいね、マルガリータ」
「うん」
「そっちのもちょうだい」
僕は黙って、ピザの皿を裕子の前に寄せた。
「こっちも・・・アンチョビが美味しいわ」
「だね」
「でさ」
「うん」
裕子は上目遣いで僕をじっと見た。
「何で、急に?」
「・・・年も明けたしさ。僕ももういい年だから、そろそろ真剣に人生を考えなきゃならない、と思った」
「でも日本って不況なんでしょ?仕事なんてあるの?」
「一時よりマシみたいだけど」
僕は答えた。とりあえずあてなんてなかったけれど。
「そうなんだ。真剣に人生を考えるんだ」
裕子はそう言うと、黙ってフォークを置いた。
「分かった」
なんだか、店を辞める時より「退職」という文字がはっきりと脳裏に浮かんだ。
「ねえ、買い物に付き合ってよ」
裕子は店を出ると僕を誘った。
「いいよ。何か欲しいものがあれば・・・」
「気にしないでよ」
裕子はそう言うと立ち上がった。ピザの皿には何も残っていなかった。
裕子が僕を連れて行ったのはどこにでもあるような安物のアクセサリの売り場だった。一個1ポンドもしないような、ピンクやトパーズ色の光を放つ紛い物の宝石、銀色の髑髏の形をしたイヤリング、何の鳥から抜いてきたのか分からない羽をあしらった髪飾り、つかの間女の子の体を飾った後にゴミ箱に捨てられる運命を背負ったアクセサリたちが店の棚いっぱいに飾られていた。裕子は熱心に棚を見て回り、その間中僕は壁に掛けられていたチェシャ猫らしいぬいぐるみと睨めっこをしていた。
様々な人種がそこにはいたが、みな若い女の子だという事だけは共通していた。そんな女の子たちと目を合わせるのが煩わしかった。
チェシャ猫も同じ気持ちだったらしく、僕と睨めっこをすることについて沈黙のうちに同意していた。勝者のない睨めっこにピリオドを打ったのは裕子だった。
「行こう」
「え、もういいの?」
店に入って10分くらいしか経っていなかった。いつもならたっぷり30分くらいかけて見て回り、一個か二個のアクセサリーを買ったり、買わなかったりというのがこういう店に来た時の裕子の買い物パターンだった。
「うん」
「買わないの?」
尋ねた僕に裕子は視線を手元に落とした。そこにはエメラルドグリーンのブローチと何のための物か分からない銀細工ともう一つ、髪留めらしいものが握られていた。
「行くよ」
「え?」
僕をよそに裕子はさっさと店を出た。
「ねえ」
呼び止めた僕の声にも裕子は振り返らずに足を速めた。仕方なしに僕もおいかけた。
「走るよ」
裕子はそう言うとほんとに走り始めた。
「待てよ」
僕も走った。だが、危うく杖を突いて歩いている老人にぶつかりそうになり、振り返って頭を下げた時・・・裕子を見失った。
店の周りの道を一周、とぼとぼと歩きながら僕は裕子の振る舞いの意味を考えていた。実際のことを言えば裕子が万引きをしたことに驚いていたわけじゃない。世の中には二つのタイプの女性がいる。万引きを絶対しない女性と、するかもしれない女性。(まあ、このタイプ分けは多分百万種類くらいある方法だけど)
裕子は万引きを絶対しないタイプの女性ではなかった。だけど、彼女が万引きをしたのを見たのは初めてだった。僕が日本に帰ると告げたこととそれは関係があるのだろうか?そう考え少し憂鬱になりながら歩いていた僕の耳に
「ちょっと、そこのお兄さん」
という声が聞こえた。街路樹に寄っかかって裕子は煙草を吸っていた。
「どこに行ってたんだ?」
「ちょっとそこらへん」
そう言うと、裕子はまだだいぶ長い煙草を木の幹で揉み消した。
「ねぇ、ボニーとクライドみたいだったじゃない?」
「うん?」
裕子は映画好きだった。ボニーとクライドは「俺たちに明日はない」の主人公で、彼女と一緒にその映画を見た記憶はないが、僕でも中味を知っていた。カップルが次々と銀行強盗を働き、最後に待ち伏せた警察に乗った車ごとハチの巣にされるという、実在の話である。
「ボニーとクライドは・・・万引きじゃないよ」
幾らなんでも失礼だろう、と言いかけて僕は口を噤んだ。銀行強盗の方が万引きより偉いというわけじゃない。失礼という言葉が適当なのか良くわからなかった。
「でもどっちにしても単なる泥棒」
裕子が言った。
「まあね」
僕は頷いた。
「ちゃんとお金は置いてきたよ、あの後」
「え?」
「隙を見て3ポンド置いておいた、キャッシャーの所へ。そっちの方が緊張したわ」
「でも・・・」
それで犯罪が帳消しになるわけじゃない、と言おうとしたが、裕子はすっと近寄ってきて僕の手に、はい、と言うと銀色の髑髏の飾りを手渡した。
「それで良いっていうわけじゃないだろうけど、そうしないとお別れのしるしを受け取らないでしょ、お兄ちゃんは」
裕子の掌で温められた飾りは思ったよりずっと重かった。それは銀色の髑髏をアクセントにしたタイピンだった。
そして僕がいなくなる前の週末、裕子と同居人の山本君は僕にお別れパーティをしてくれた。前と一緒で鍋だった。裕子と山本君はまるで新婚の夫婦のように振舞い、裕子は熱心に鍋の中味を取り分けてくれて、僕が去るときにはわざわざ建物を出て揃って見送ってくれた。それは、裕子の優しさのようでも、強がりのようでもあった。
結局・・・僕の心は、ボニーとクライドが乗っていたEarly Ford V8のように重機関銃にハチの巣にされて、僕自身はLitter(クズ)になったような気がした。
日本に帰ると告げた翌週にロンドンのフラット宛に母親からDHLで包みが届いた。今までそんなことは一度もなかったので僕はびっくりして急いで包みをあけてみた。中には手紙と2000ドルのトラベラーズチェックが入っていた。
?
どういう事だろうと、手紙を読むとまず、2000ドルの内訳が書かれていた。
「原田沙織さんのお父様から1000ドル。でも貰いっぱなしでは申し訳ないので私たちからも1000ドル。必ずお土産を買ってきなさい」
??
原田沙織という名前には記憶があった。僕が大学生の時に三年ちょっと家庭教師をした高校生の女の子だ。色白で女の子にしては背が高く、眼鏡を掛けた女の子で、僕は彼女に英語と数学を教えた。数学はともかく英語は自力で充分どこの大学も受かるだけの能力を持っていた。彼女の家は代々食料品の会社を経営していて、確か彼女の下にはもう一人、弟がいたはずだ。
「娘さんがヨーロッパに行くのでぜひ、面倒を見てほしいっていうことでした。取り急ぎ到着は3月10日、便は・・・」
!!!
つまり僕には選択肢はないという事だった。大学を出てから就職もせずにふらふらと海外を遊び歩いている僕に拒否権などあろうはずもない。最後のヨーロッパを一人でのんびりと過ごすという予定は無惨にも打ち砕かれた。
「十分、分かっていることだと思うけど、よその大切な娘さんをお世話するんですからね、変なことがあったら日本に帰ってきても住むところはありませんからね」
と手紙は終わっていた。どうやら1000ドルは彼女のために使うお金で、それでホテルやら食事やら交通費を賄えということらしい。親の方からの1000ドルは・・・貰いっぱなしじゃ情けないという親の意地なのかもしれない。それにしてもこちらの都合も確かめずに一方的な要求が・・・住むところはありませんからね、という言葉で終わっているのはこれから日本に帰ろうとしている身には浸みる言葉だ。
マイクの結婚式は3月24日、アムステルダムだったし、それまでの間確かに僕はあと、ちょっとヨーロッパを楽しんでいくとは言っておいたけど・・・まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
原田沙織・・・アルバイトしていた時には沙織ちゃんと呼んでいたが、賢い子だという事以外に特に鮮明な記憶はなかった。賢い生徒は家庭教師にとってはとても楽だ。その意味では理想的な生徒だったけど、他に二人の問題生徒を抱えていたので、そっちの子供たちの方が記憶には鮮明だった。
大学三年の時にヨーロッパに行くことを決めてアルバイトを打ち切った時、彼女の心配は全くしなかった。家庭教師などいなくても彼女は独力で受験を乗り切れる。問題は残りの二人で、野球部の男の子と引きこもりがちの女の子には友人の力を借りて別の家庭教師を見つけるのに苦労をしたことを覚えている。
沙織ちゃんには・・・辞めると伝えた時・・・どうだったのだろう、確か・・・。僕は記憶をたどった。
「はい、わかりました」
彼女はそう答えた。
「誰か、替りを探そうか?」
「いえ、いいです。自分でやります」
「沙織ちゃんなら大丈夫だよ、きっと東大とか京都とかでも十分狙える」
そう励ますと彼女は、ちょっと首を傾げた。
「別の希望があるの?」
「そういうところはちょっと。国立は国のためになる官僚さんとかお医者さんとか、そういう希望がある人が・・・」
彼女はそう言ったのだ。
「何かなりたいものがあるの?」
「お嫁さん」
彼女は頬を染めてそう言ったが、思い直したかのように
「あ、でも翻訳の仕事とかしたいです」
「ふうん」
もし彼女が一人っ子だったら、きっと家業を継がなければならないのだろうけど、弟がいる以上、その人生は彼女自身が決めることができるのだろう。彼女を教え始めたのは高校受験の直前で、それにもかかわらずあっさりと東京で一番優秀な女子高に受かったくらいだから、本当に国立でも狙える筈だった。お嫁さん、という意外な答えに僕は彼女の幼さを感じたような気がする。
ゲートから日本人らしい乗降客が出てきたのは、着いて間もなくだった。念のため目を凝らして最初に出てきた人々のスーツケースのタグを見た。間違いなかった。ただ、思ったより彼女と同年代の女性客は多かった。彼女自身はまだ大学の三年生だが、就職前に旅行をと考えている女性たちは案外多いらしい。僕は内心焦った。見分けられるだろうか?
不安になっている僕の前を急に増えた客が次から次へと通り過ぎて行った。サングラスをした赤の派手なコートの若い女の子、目元が見えないから確かではないが、多分違う。三人組のルーズソックスを履いた女の子たち、一人が何となく似ている気がしたけど多分まだ高校生だ。白いコートに黄色のスカーフをしたモデルのようなスタイルの良い女の子、美人だったが僕の方を見もしなかった。大学生らしい二人の女の子、違う。
ボーイング747の定員は500人くらいの筈だ。いったい何人くらいが僕の前を通り抜けたかさえ分からなかった。一人で来ている女性だけに絞って目を凝らしたが、それでも相当の数が僕の目の前を通り過ぎて行った。やがて、飛行機会社の操縦士やアテンダントたちが一斉に格好良く目の前を通り過ぎていくのが見えた。ラゲッジのピックアップがあるから、必ずしも搭乗員が最後に出て来るとは限らない。そう思ってはいたが、そのフライトから降りてくる乗客らしい姿はそれをきっかけに目に見えて減っていった。
でも・・・トイレにでも行ったのかもしれない。あるいはバッゲージクレームをしているのかもしれない。
つぎの便が到着したらしく、今度は大量のインド人らしき人々がゲートから出てき始めた。日本人らしき人は独りも出てこなくなった。僕はもう一度母からの手紙を確かめた。確かに、さっき通った人たちの便名だった。これは下手をすると・・・帰る場所を失うかもしれない。
その時、ふっと振り返った僕の目に、さっき僕に一瞥もくれなかった白いコートの女の子の姿が映った。微笑みながら僕の事を見ている・・・まさか?
そのモデルのような体形をした女の子は、僕に向かって、小さくお辞儀をした。
「え?」
戸惑った僕を見ながら、その子は近づいてきた。
「先生、おひさしぶりです」
確かに沙織ちゃんの声だった。
「声をかけてくれればよかったのに」
空港のコーヒーラウンジに腰かけて愚痴をこぼすと、沙織はふふふ、と悪戯っぽく笑った。昔は余り見せなかった表情だった。
「だって、先生の方が気付いてくれるかなって思ったから。三年も教えていた生徒に気付かない方が悪いんですよ」
「いや、すっかり変っちゃったから」
「そうですか?」
「うん、前は眼鏡をかけていたせいかな?見違えちゃった。すっかりきれいになったね」
「今まで、先生がかけてくれた言葉で一番うれしいかな、今の」
「そう?家庭教師やっていた時も僕は君の事、随分褒めたつもりだけど」
「よし、良くできた、だけだったですから」
沙織はさらりとそう言った。
「そう?」
「でもあの頃の私、その言葉を聞きたくて、頑張ったんですよ」
「まあ、でも君は勉強ができる子だったから。でも昔はこんな意地悪はしない子だと思っていた」
「でも・・・待っている間中は私の事を考えていてくれたんでしょう?そう思うと声をかけるのが惜しかったんです。今ずっと先生、私の事を考えてくれているんだって」
沙織はコーヒーを一口啜った。
「待っている間中・・・やばい、これで見つけられなかったら日本に帰っても住むところがないって本気で思っていたよ。おふくろにそういわれたからさ」
「あ、ひどい。私の事を考えていたわけじゃなかったんですね」
「そんなことはないけれど・・・」
頬を膨らませた顔は少し昔の名残があった。
「それにしても・・・」
沙織をまじまじと見つめて僕は思わずため息をついた。
「何ですか?」
「五年も会わなかっただものね。三日会わざれば刮目して見よ、っていうけど」
「先生、それは男子です。男子、三日会わざれば刮目して見よ」
沙織は真面目な顔で僕にそう言った。沙織は東京の郊外にある女子大の英文科に通っていると言った。沙織らしい選択だった。他の女の子だったら都心の大学を選ぶだろう。実際彼女は私立大学を二つしか受けず、もう一つの都心にある大学にも受かったけれどそこには行かなかったそうだ。
空港から乗ったタクシーの助手席には割と大きな白い犬が乗っていた。
「可愛いですね。それに大人しい」
沙織は時々アクリル板越しに後部座席を見てくる犬に向かって手を振った。犬は尾を振り返している。タクシー強盗を防ぐためにアクリル板を設置したり犬を同乗させるのはパリのタクシーではそれほど珍しいことではなかった。逆にタクシーに乗る側は白タクでないかを見極めてから乗らないと、とんでもない料金を吹っ掛けられることになる。どちらがいいとか悪いとかではなくて、パリに行けば、パリなりの戦い方があるという事だ。空港から市内までは均一料金というのがルールで、思ったほどに高い料金ではない。
「普通、犬が乗っているとびっくりするけど」
「でも、知っていましたから」
沙織はあっさりと答えると、
「ホテルはどこなんですか?」
と尋ねた。
「凱旋門の近くだよ。高いところじゃないけど、何度か泊まったことがある、普通のホテル」
「そっちの方が良いです。団体客さんと一緒だと、なんとなく日本にいるみたいだろうから」
「だよね」
「十七区ですか?」
「うん」
十七区は凱旋門からディファンスに向かう街路の右側に広がる地区で、パリの中では比較的静かなエリアだ。
タクシーはやがて凱旋門の馬鹿でかいラウンドアバウトに入り、それを巧みにくぐりぬけるとホテルの前に無事に到着した。
アンリというレセプショニストは僕より三つ年上で、ずっとこのホテルの受付をやっている。まだこの頃はフランス人は英語を喋れようと喋れまいと外国人にフランス語を話すことを強要する風習が残っていた。最初泊まった時は別の受付の女性となかなか話が通じずに僕が困っていた時に手を差し伸べてくれたのがアンリだった。僕らがホテルに到着すると一人きりのベルボーイが彼女の荷物をタクシーから降ろしている間に僕は彼女のチェックインのために受付の所に立っているアンリのところへ行った。
「二泊ですね、ムッシュー」
ムッシュー?僕はアンリをちらりと見た。僕の事をムッシューとなんて最初の時以外、呼んだことのないくせに。
「そうだよ」
「当方のサービスとして、もしあちらのお客様がお望みでしたら、お客様と一緒のダブルの部屋をお安い価格で提供することも可能ですが」
にやりとアンリは笑みを浮かべた。
「彼女は僕が日本で家庭教師をしていた生徒なんだ」
「旅行中のパリにおいてはそのような関係は特に問題ないと思いますが」
真面目な顔でアンリは続けた
「やめてくれ、アンリ」
「では・・・もし彼女を僕に紹介してくれれば個人的に素晴らしいレストランに二人をご招待することも可能です」
「そのオプションもいらないな。貴ホテルが従業員の不祥事によって深刻なダメージを回避することを僕は望んでいるよ」
「なんだ、つまらないなぁ」
アンリは天井を仰ぐと、
「君が女性を連れて来るなんて初めてじゃないか。別々の部屋で名前も違うから、てっきり親戚の叔母さんでも来るのかと思ったんだ。でも素敵に綺麗な人じゃないか」
「たしかに、家庭教師をしていた時とは見違えたよ」
「これはグレートグレートオポチュニティだよ。君の健闘を祈る」
「ちゃんと普通のサービスをしてくれればいいよ」
「そういうわけにはいかないさ。美人には美人なりのサービスをするのがこのオテルのモットーだからね」
アンリがちらと彼女に視線を移し、僕も一緒に彼女の方を見た。彼女はそれに気づいたのか、小首を傾げた。
「ふふん」
アンリは僕を見て言った。
「今年に入ってからの当ホテルのお客様の中で間違いなく、彼女がla meillieureだ。それは保証する。まるで野のlys《ゆり》みたいじゃないか」
フランス語が混じり始めたアンリに、とにかく鍵をよこせ、と命じると彼は不承不承、二本の鍵を取りだした。そして取り澄ました顔で
「このカードにご記入いただくようにお嬢様にお願いしてください、ムッシュー」
と僕に言った。
「何を話していたんですか?」
カードを持って沙織の所に行くと、沙織が尋ねてきた。
「アンリと?」
「お知り合いなんですか」
「うん」
「ああ、それで」
沙織は納得したように首を振った。
「彼、君がきれいだって言っていたんだ」
「お世辞でもうれしいですね」
「今年に入ってこのホテルに来た客の中で一番の美人だって」
ふふふ、と笑いながら沙織は名前をカードに記入した。
「住所は日本の住所ですよね」
「いやあ、アンリが見るかもしれないから・・・でたらめを書いてもいいよ。あいつ女の子にちょっかいをかける悪い癖があるんだ。まさかとは思うけど日本にだってラブレターでも送りかねない」
首をちょっと傾げて受付を見た沙織にアンリが手を振った。
「あの野郎」
僕が毒づくと、じゃあ、と沙織はすらすらと住所を書いた。
「これで」
見るとそれは僕の実家の住所だった。
「それで構わないさ。よく覚えていたね」
「ですね」
パスポート番号と次の行き先をブルージュと書くと、沙織ははい、と僕にカードを手渡した。
「お友達と話してきてくださいな」
背中にアンリの視線を感じながら、僕らはベルボーイと一緒に古いエレベーターに乗った。四階建てのホテルの三階で僕らは隣同士の部屋だった。
「どうする、少し寝る?寝るならちゃんと鍵をかけてロックをしてね」
まさかアンリは部屋まで忍び込むようなことはしないだろうけど、用心に越したことはない。僕がそう言うと、沙織は、
「今寝ちゃうと夜眠れなくなるから、散歩に行きませんか?」
「わかった。じゃあ、着替えたら、そうだな三十分後にロビーでどう?」
「分かりました。じゃあ、三十分したら」
そう言って沙織は部屋のドアを閉めた。
アンリと話すのが面倒に感じたのでその時間になるまで部屋で過ごすと、僕は時間通りに階下に降りた。エレベーターを降りた途端に
「早かったね」
「そうでもないですよ」
そう言って軽やかに立ち上がった沙織に、
「変なこと言われなかった?」
と僕はちらりと受付の方を見た。
「大丈夫です。女の子を口説くのはフランス人の男性にとっては仕事みたいなものですから」
「大丈夫・・・なの?」
「大丈夫です。もう、彼、言い寄ってこないと思いますよ」
そう言って彼女は微笑んだ。
「君がフランス語を喋れるようになったなんで知らなかったな」
「第二外国語ですから。それにもう五年近く会っていないんですよ。私だって変わります」
第二外国語だから喋れるようになったというのは日本の語学教育システム上ありえない話だ。第一外国語でさえ喋れない人がほとんどなのだから。でも彼女がそう言うとごく当たり前の事のように聞こえた。彼女がセーヌ川の畔を散歩したいと言いので、僕らはシャンゼリゼを渡ってエッフェル塔に向かう道をゆっくりと歩いた。
「疲れたらタクシーを拾おう」
「まだ、全然大丈夫ですよ」
石畳の道のそこらじゅうにテーブルを広げているレストランやカフェを時折物珍しそうに覗きながら、彼女はスキップするように軽やかに歩き続けた。
「元気だね」
「もちろんです。楽しみにしていたんだもの」
少しずつエッフェル塔の形が夕闇の中で大きくなり、30分ほどかけて僕らは川沿いの道に出た。
「素敵」
近くの橋の欄干から、光が滲む川面に大小の船が浮かびその中を観覧船がゆっくりと川を遡っていくのが見えた。
「観覧船に乗ってみる?」
沙織は少し考えてから、首を横に振った。
「もう少し歩きましょう。そのあと、どこかで夕食を食べません?」
「わかった。御姫様の仰る通り・・・」
僕らはゆっくりと川の流れに沿って下っていった。実際の所、川がどちらに流れているかは川面をみただけではわからないけど。川岸にはたくさんの人々がいて、とりわけカップルが目立っていた。
「ロマンチックな場所だね」
「川岸って・・・そうですね。京都の鴨川もたくさんカップルがいますもの」
「川によるのかな?うちの近くの川にはいなかったけど」
「目黒川にだっていますよ。桜の季節には」
「そうかな?ちょうどドブくさくなる季節だけど」
僕は首を捻った。目黒川の桜がまだ今ほど有名ではなかった頃の話だ。小半時も歩いただろうか、川の中にある小島が途切れた先に掛かっている橋の所に来ると沙織が、
「これがミラボー橋ですね」
と対岸を見遣った。
「ちょっと渡ってみましょう」
「うん」
何の変哲もない橋だけど、ミラボー橋の名前くらいは僕も知っている。
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
川の真ん中位で沙織は立ち止まると、川を眺めながら口遊んだ。
「ミラボー橋の下、セーヌは流れるって詩だろ?」
「ええ・・・ロマンチック。でもこの歌は失恋の歌なんです。et nos amours,僕らの恋もって」
「あ、そうなんだ」
「でも、私は失恋の歌だって思わないんです。愛は終わっても日常の生活は何の変哲もなく続いていくんだ、セーヌの流れるようにって、そういう風に聞こえます。だから最初にセーヌ川・・・」
ふと瞳を上げた沙織がもしかして傷ついた心を癒しにこの旅に来たのではないか?ふとそう僕は感じ、さて何て言えばいいのだろうと僕が川面に目を落とした途端、
「じゃ、何か食べに行きましょう。おなかがすいちゃった」
沙織が大仰におなかを押さえてそう言った。
その店は、戻る途中の交差路の角にあった。
「ここ、美味しそうですよ」
沙織がそう言い、僕は頷いた。店の扉を開けると、初老のウェイターが入ってきた見知らぬ東洋人を胡散臭そうな目で眺めた。だが、沙織がフランス語で話しかけた途端にその顔は急激に変化した。
Bien sur Mademoiselle, bien sur. Pour deux. D’accord(もちろんですよ、お嬢さん、もちろん。二人ですね、わかりました)
笑顔で腕を大仰に振って中に招き入れたウェイターの後ろについて僕と沙織は店の奥へと通された。
「たぶん、僕がいなくても君は十分パリで楽しめるよ」
お勧めの品を沙織に説明して次に沙織が僕に尋ねるという形式で長々と注文を取り終えたウェイターが去ると僕はそっと沙織にそう言った。
「社交界にもデビューできるかもしれない」
「そんなことないですよ、先生」
「そのさ、先生っていうの・・・」
そう僕が言いかけた時、さっきのウェイターがワインとグラスをお盆に乗せて戻ってきた。そして、今度はワインの説明を一通りしてコルクを抜き、一応僕を立てて味見をさせ、頷くと重々しくコルクをコルク抜きから外してテーブルの上においた。
Merci beaucoup. Je vous en prie.(どうもありがとう、どういたしまして)
このくらいなら僕でもわかる。
「で・・・?」
「え?」
「さっき、言いかけたじゃないですか」
「なんだっけ」
「先生っていうの・・・って」
「ああ、そう。もう僕は君の家庭教師でもないからさ、先生っていうのはやめない?」
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「橘さんとかさ、橘君でもいいや」
にこりとしてからしばらく考えると沙織は
「でも、まだやっぱり先生にしておきます。そっちの方がいいです」
そう言って、グラスを持ち上げた。
「乾杯」
「ようこそ、ヨーロッパへ」
食事を終えてホテルまで歩いて帰り、僕は鍵をアンリから受け取った。なんだか急に愛想の無くなったアンリに、
「どうしたんだ?」
と尋ねたけれど、
「別に・・・」
と素っ気ない返事が返ってきただけだった。
その会話の僅かな間に沙織の電池が急に無くなったことに気付いたのはアンリが送ってきた視線で沙織の方を見た時だった。ソファの上で、まるで魔女の林檎を食べてしまった王女のように沙織はぐったりとして目を瞑っていた。鍵を手に急いで沙織のもとに戻って
「どうしたの?大丈夫」
と尋ねたけれど沙織は目を開かなかった。アンリに助けを求め送った視線は完全に無視された。仕方なく沙織の腰を抱いて肩に凭れかかせて僕はエレベーターに運んでいった。エレベーターが閉まる直前に
Bon nuit(良い夜を)というアンリの声が聞こえたような気がして僕は振り返ったが、アンリは受付のデスクに覆いかぶさって何かを書いていた。気のせいだっただろうか?
彼女の部屋のカギを開けて、ライトをつけると僕はソファの上に彼女の体をおろした。部屋はきれいに片付いていて、着るものはクローゼットにきちんと整理されていた。パジャマらしきものがあったけど、横に下着が並んでいたので僕は目を逸らし、どうしようか考えた。寝たまま起きる気配はなかった。パジャマ僕が着替えさせるのは現実的な選択とは思えなかった。仕方なく、彼女の履いていたスニーカーを脱がし、ベッドカバーを外して、毛布をめくると、僕は彼女の温かくて柔らかい体をベッドの上に横たえた。
「うーん」
と彼女が声を出し、僕は少し後ずさった。でも、彼女はそのまま目覚めることもなく、眠りの王国に囚われたままだった。王子様がキスをすれば目覚めるのだろうか?アンリだったらきっとそうしたに違いない。でも僕は王子様ではなかった。毛布を体に掛け、そっと僕はbon nuit(おやすみ)とだけ言って彼女の部屋を後にした。
電話が鳴っていた。気づかないほど控えめな音だったけれど、それは随分と長い間鳴り続けていたようだった。朝の光が部屋に満ちているのに気付いて僕は受話器に漸く手を伸ばした。
「先生・・・ごめんなさい、起こしちゃって」
沙織の声だった。
「あ、いや・・・」
寝ぼけた声で応答しながら、僕は部屋の時計を見た。九時、僕は跳ね起きた。
「ごめん、寝坊した」
受話器越しに謝った僕に、
「そんな・・・こっちこそ昨日の夜はごめんなさい。急に眠くなっちゃって。ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや・・・今どこ?」
「部屋です」
「今から着替えるけど・・・もう朝食の時間が終わっちゃったね」
このホテルの朝食の時間は朝の六時から九時までだった。
「昨日いっぱい食べたから大丈夫です」
「いや・・・そうだ、カフェに行こう。シャンゼリゼに良く行くカフェがあるんだ」
「あ、いいですね」
沙織は弾んだ声を返した。
「じゃあ、十五分後に」
「はい」
寝過ごしたのは部屋に戻ってから妙にもやもやとした気分が晴れなかったせいだった。運んだばかりの沙織の柔らかくて、温かい体や、肩を貸した時に感じた寝息の感触が纏わりついてきてなかなか眠りにつけなかった。浅い夢の中でちっち、と指を振りながらアンリが僕をバカにしていた。
そんな思いを熱いシャワーで流してさっぱりしてから部屋を出た時、ちょうど沙織も部屋を出るところだった。昨日の事があったせいか恥ずかしそうな顔をした沙織と一緒にエレベーターに乗って、ホールに降り、鍵を渡すとアンリはにやりと笑って、
今度は間違えなくbon Jour(良い日を)と言って僕らを送り出した。
行きつけのカフェレストランはシャンゼリゼ通りに面してちょうど、凱旋門とグランパレの中間くらいにある店だった。
「なんか、良い感じですね」
通りに面した一番手前の席に座って僕らは朝食を頼んだ。他にもちらほらと客がいるけど、東京の朝のような慌ただしさはなく、旅行客も地元の人もゆっくりと食事と景色を味わっていた。
「沙織ちゃん、どうして急にこっちへ来ようと思ったの?」
僕は思い切って尋ねてみた
「え?」
「いや、なんかさ、昨日も妙にしんみりとしていたじゃない。川を見ながら」
「そうでした?」
「二人の恋は流れるとかさ・・・」
「まさか、私が失恋して傷心旅行に来たとか思っています?」
沙織は笑った。
「違えばいいんだけどさ」
「違いますよ。先生が日本に帰って来るって先生のお母様から聞いて、じゃあ、早くいかなきゃって思って・・・」
「え、沙織ちゃんが母から聞いたの?」
「そうですよ」
母の手紙を見ててっきり沙織の父親と母が偶然なんかの機会にそんな話をしたんだと思い込んでいた僕はびっくりした。
「先生のお母様とはときどきお会いしています」
「そうだったんだ、知らなかった」
「そう書いてありませんでした?」
「いや、なんかお父さんからお金を預かって・・・」
「お金?」
今度は沙織が驚く番だった。
「私ちゃんとお金を持ってきていますよ。あとで精算するつもりですから」
「家からもおんなじ金額を送ってきた。君のお父さんにお土産を買ってきなさって。ま、それは見栄みたいなもんだろうと思うけど」
「あら・・・」
「お蔭で僕は今大金持ちなんだ」
「じゃあ、こんなところでカフェオレ飲んでいる暇はないですね。ポンポン、シャンパンでも空けないと」
そう言いつつ美味しそうにカフェオレを啜りながら、
「先生は・・・どうなんですか?」
と尋ねてきた。
「どうって?」
「恋人とかいないんですか?」
沙織が聞き上手なせいで、なんとなく僕はロンドンで女の子と付き合っていたことや、ミュンヘンで年上の女性に恋心を抱いたことを話してしまった。
「ふうん・・・。まだ付き合っているんですか?」
沙織はクロワッサンの最後の欠片をつまんで口に運びながらそう尋ねた。
「いや、ミュンヘンの人とは全然そこまでの話じゃないし、もう一人ももうそんな関係ではないし・・・。それに今の僕はそんな価値はないよ」
「価値?」
沙織は目を丸くした。
「人に好きになってもらうにはやっぱり相手を幸せにする義務があるだろ?僕は仕事もしていないし、これから・・・さ」
クロワッサンを飲み込む沙織の白い喉の滑らかな動きを眺めながら僕は答えた。
「でも、価値を決めるのは相手の人でしょ?先生じゃなくて」
食べ終わると沙織はそう僕に問いかけた。
「それはそうだけど」
「先生は相手が自分にとって価値のある人かどうかを考えればいいんじゃありません?それに人の価値って、お金に換算するものじゃないと思います」
「ありがとうね、慰めてくれて」
「もちろんですよ。先生は慰めがいがあります」
冗談めかしたようにそう言うと沙織は伸びをして、
「さあ、今日はどこへ行きますか?」
と僕に尋ねた。ブルージュに行ってからもう一度パリに戻ってきて二泊してから沙織は東京に戻ることにしていた。だから天気のいいうちに戸外の場所を先に見て回ろうという事になって、美術館なんかは後回しにして僕らはその日のうちにモンマルトルへ行くことに決めた。
晴れた日、モンマルトルから見晴らすバリはほんとうに美しい。
季節柄、まだ空気は冷たいが、人出は多かった。素人画家が似顔絵を描く商売も相変わらず流行っていた。彼らが飾っている絵をいちいち興味深けに眺めていた沙織は突然、一人の髭だらけの中老の男が眠たげに座っている椅子の前で立ち止まった。東京だと浮浪者に見えかねないいでたちなのにモンマルトルだといっぱしの画家に見えるのは、何故なんだろう?それはその人が纏っている誇りと周りの見る目のせいなのかもしれない。
彼の描いた絵をしみじみと眺めるていた沙織は、突然
「この人に絵を描いてもらいましょう」
と言った。こんなところで絵を描いてもらうなんて人は初めてだった。まして沙織のような聡明な人間がすることではないと思っていた僕は一瞬、呆気にとられた。
「でも・・・」
「いいでしょう?記念に」
そう言うと彼女は僕たちが前に立っても石のように動かないままでいた中年男に話しかけた。彼は最初に沙織を、そして次に僕にじろりと目を遣ると、小声で何かを呟いた。沙織は頷くとポシェットから財布を取り出して彼に二十ユーロを渡した。
「じゃあ、先生。私と並んでください」
「僕も?いや、遠慮するよ」
「もう二人分払っちゃいましたよ」
沙織は僕の手を引いた。結局僕らは色々なポーズを取らされて、小半時ほどじっとしていなくてはならなかった。絵描きは、時折何かを呟き、そのたびにくすりと沙織が笑った。通りかかる人が時折興味深そうに僕らを眺めるのを辛抱していると、やがて、絵描きは筆を措き、沙織に向かってFiniと短く言った。
描き終えた絵を見た沙織は何かを絵描きに言って、彼は顔を綻ばせた。沙織は手を猫のように振って僕を呼んだ。
ポーズを取らされた時に気付いてはいたけど・・・普通なら正面から二人が笑っているところを描くというのが定番なのに、それは不思議な構図の絵だった。沙織はとても美しく描かれていたけれど、少し目を伏せ寂しげにも見える表情をしていた。僕はと言うと、あらぬ方向に目を向けてなんというか気も漫ろという表情だった。
「これ・・・僕かい」
「よく似ていますよ」
確かに、似てはいたけど・・・。でも僕がそれ以上何かを言う前に絵描きは、その絵を古新聞にくるくると巻いて輪ゴムで止めると沙織に手渡した。
「ところでさ・・・」
僕らはオペラ座の近くのレストランで夕食を食べていた。彼女がぜひ食べてみたいといった豚の足を揚げた料理を目の前にして、そのあまり食欲をそそらない見かけに、別に頼んであった牡蛎や蛤を食べながら僕は尋ねた。
「なんですか?」
彼女は躊躇うこともなくピエドコションという、フランス語で言えば聞こえはいいが、豚の足というストレートな名前の料理をフォークで口に運びながら僕を見た。
「絵を描いてもらった時、何か絵描きさんがぶつぶつ言って、沙織ちゃんが笑っていたじゃない、あれ何言っていたの?」
沙織の横の席に置かれた丸めた新聞紙にちらりと目を遣りながら尋ねた僕に、
「気になりますか?」
と沙織は笑った。
「なんかさ、僕だけが分からないって納得がいかないんだよね」
「それよりも、先生。これ美味しいですよ。食べてみてください」
「え、どんな味なの?」
うーん、と沙織は空中を睨み、
「お餅みたい」
と答えた。
「お餅?」
こわごわと小さく切ったそれを試しに食べてみると、確かにねっとりと上質なお餅のような味がした。
「どうですか」
「確かに・・・。意外といけるね」
「でしょ、先生も少しは食べてくれないといくら私でも一人じゃ食べきれませんよ」
「ああ、じゃあ」
そう言ってもう一切れ、大きめのを取り分けていると、
「ほめてましたよ、先生の事」
沙織は真面目な顔で言った。
「え?」
「あの画家さん、です」
「なんて?」
「こんなかわいい女の子を連れているなんてなんてラッキーな男だって、そう言っていました」
「それ、僕をほめているんじゃないよね」
「そうですか?ほめているんだと思いますよ」
「もう少し、飲もうっと」
「じゃあ、私もお付き合いします」
「昨日みたいにいきなり電池切れしないでね」
「それを言わないでください。今日は大丈夫です・・・大丈夫だと思います」
大丈夫・・・ではなかった。昨晩と違って、タクシーを拾ってホテルへ向かう途中で沙織は電池を切らしてしまった。僕の肩に頭を載せたままホテルに帰りついた沙織はなんとか目を覚ましてタクシーから降りたけど、足取りが覚束なくて僕は再び彼女に手を貸して部屋まで連れて行くことになった。
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
ドアの鍵をあけると、沙織はそう言った。
「明日の朝は早いからね」
ブルージュ行きの列車は北駅からなので、ホテルを遅くても六時には出なければならない。
「分かりました」
大事そうに手に持っている絵とポシェットに目を遣ると、
「じゃあ、おやすみなさい」
そう言って沙織はドアを閉めた。
ロビーに降りたのは翌朝のタクシーを頼むためだった。アンリは僕を見ると、盛大なウィンクをした。
「彼女があと五年も待たなくて済んで良かったよ」
何を言われたのか分からずに僕が首を傾げると、アンリは
「分かってる。今からでも構わないぜ。特別だ。ダブルは一つ空いている」
そう言って鍵の輪を指に絡めて回して見せた。
「何の話だ?」
「何の話って・・・ベッドがシングルじゃ小さすぎるんだろ?」
「いや、明日の朝のタクシーを頼みに来たんだ」
そう答えると、アンリは不審そうな顔で、
「だって・・・今朝君たちは一緒に降りてきたじゃないか。彼女はあんなに恥ずかしそうな顔をして・・・」
「それは君に酔っ払った姿をみられたからだろ」
アンリが何を誤解しているのかは想像がついた。
「じゃ・・・まだ?」
「まだも何も・・・」
そう答えた僕に向かってアンリは拳を突き出した。
「君はそれでも男か?」
「何を言っているんだ、アンリ?」
「だって、彼女は・・・。タチバナ、君は僕が彼女を口説こうとした姿をみただろ?」
「ああ、あの時ね」
「あの時、彼女は言ったんだ。私には五年間ずっと思って来た人がいるの。それを言うために日本からここに来たの。だからごめんなさいって」
・・・・。不意を突かれて僕は立ち竦んだ。
「俺は言ったんだ。あいつは君の事をそんな風に考えていないって、そしたら彼女なんて言ったと思う?じゃあ、あと五年待ちます、そう言ったんだぜ。あんな可憐な女性にそんな思いをさせるなんて、それでも君は男なのかってきいているんだ」
「すまない、気付かなかった」
僕はそれだけ言うのが精いっぱいだった。
「で、何時だ?」
ぶっきらぼうにアンリは尋ねた。
「タクシー、何時に必要なんだ」
「六時・・・だ」
答えた僕に、
「またパリに戻って来るんだよな。三日後、予約が入っている」
「うん」
「それまでに答えが出せないなら、僕は彼女にもう一度アタックするよ。今度は友達だからって容赦はしないから覚悟して・・・おいて下さいませ、お客様」
ドアを開けて入ってきた客が僕らの険悪な雰囲気に思わず足を留めたらしいのに気付きて、アンリが突然口調を変えた。
「タクシーは確かに六時に配車いたします。十分前に、おいでくださいませ」
僕は頷くとエレベーターに乗った。三階で降りると薄明りのついた廊下が続いていた。部屋の前で立ち止まってポケットに手を突っ込んだまま沙織の眠っている部屋をしばらく眺めていた。ふとポケットの中に重いものがあるのに気付いて僕はそっとそれを取り出した。
裕子に貰った銀の骸骨のタイピンの飾りが、薄暗い光の中で僕をあざ笑っていた。
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