第3話 アムステルダム 1995年冬  Great liar

ユーロスターの車内は平日だというのに殆どの席が埋まっていた。「ドーバー海峡を開削してイギリスとヨーロッパ大陸を結ぶ」と、鳴り物入りで開通したこの列車に乗ろうと言いだしたのは僕の隣で眠っている裕子の方だった。

「でもさ、アムステルダムに行くなら飛行機の方が安いんじゃないか?」

規制緩和で航空運賃がだいぶ安くなったと客たちが話していたのを聞いていた僕は彼女にそう言ったのだが、

「だめ。差額は出すからさ。ユーロスターに乗りたいの」

さすがに差額は自分で持った。

それにしてもそこまで言ったくらいの彼女だからさぞかし、列車に乗ったら喜ぶんじゃないかと思ったのだが、ウオータールー駅から発車するころには彼女はすやすやと寝息を立てて時折僕の肩に顔をぶつけてきた。素顔の彼女は鼻と頬に薄く雀斑があって、それが彼女を歳よりも幼く見せていた。


ロンドンでどん詰まりになりかけた僕の生活は、マイクがアムステルダムに発った後、一変した。なぜかマイクの事があってからオーナーが僕の事を妙に気に入って、僕はしばらくの間Working Visaを持ってロンドンに滞在できることができるようになったのだ。もちろん、それには数々の手続きが必要で無犯罪証明とか色々な書類がいるので僕は一度日本に帰国せざるを得なかったし、暫くの間日本で過ごさなければならなかったのだけど、再び訪れたロンドンで僕は正式に働くことができるようになった。

「どうすればこんなことができるんですか?」

そう尋ねた僕にオーナーは、

「Snake traces are traced by snakes」

と答えた。どうやら蛇の道は蛇、という意味らしい。時々オーナーは変な英語を使っては僕たちを煙に巻くことがあった。

或る程度給料も上げて貰えたし、一応の福利厚生もつくようになって僕の生活は少し楽になった。日本に帰っているうちにレストランのメンバーの何人かが辞め、代わりのメンバーが入っていたけれど、それは僕のせいだったかもしれない。でもオーナーは何も言わなかったし、残っていたメンバーも何も言わなかった。

そして何か月か経ったころ、僕は店に客としてやってきた裕子と知り合った。年上のママさんらしい女性や男性客に混じって他の女の子たちと一緒にやってきた裕子は自分はデザインの勉強をしているのだと言った。そして、一緒にやってきた女の子たちとアルバイトで夜の世界で働いているとも。許可を取らずに働くことは、労働時間によっては多少のリスクを伴う事だったが、裕子はあまり気にしている風でもなかった。

その後も、何度か裕子は店にやってきた。殆どの場合、店の客と一緒だった。二・三人と一緒の時もあれば、もっと大勢の客と一緒の時もあった。ただ、一人ではやってこなかった。どんなに日本料理が恋しくても、他の料理に比べて日本料理は割高だった。誰かに奢ってもらえる時。そういう事だった。

ただ一度だけ・・・。その日、客と待ち合わせた裕子が一人でやってきたけど、待ち合わせたはずの客はいつまでたっても現れなかった。カウンター席に座っていた裕子は携帯電話を取り出すと、カウンター越しに僕の目の前で待ち合わせた客に電話をし始めた。

「え、急に用事が入った?で、来れないの」

最初に言ったのはその言葉でそこだけは聞き取れた。それから、小声で話していた裕子は突然、携帯電話を僕に差しだした。

「お店の人と話したいって」

僕は頷いて電話を受け取った。

「あ、お店の人ですか?Y工業の山崎ですけど、すいません。今日予約を入れて、そこで待ち合わせたんだけど急に外せない仕事が入っちゃって、いけなくなってしまったんです。でも、彼女の分、ぼくのつけで・・・食べさせてあげることできますか?」

山崎さんは彼女とよく一緒にやってくる客の一人だった。本来はつけは受けないのだけど、僕はOKした。彼は上客だったし、彼の会社の日本人は良くこの店を使ってくれる。拒否する方がリスクが高かった。電話を切って問い質すように僕を見ている裕子に返すと、

「山崎さんからお食事をしていってくださいという事でしたので・・・何になさいます?」

僕は尋ねた。ふっと、裕子は悪戯っぽく笑った。

「めちゃくちゃに高いものにしよっかな?何が一番高いの?」


でも、そんなことはなかった。メニューから彼女が選んだのは冷ややっこ、サラダと焼き魚定食だけだった。それにビールを一杯。

「これでよろしいんですか?」

「うん」

裕子は答えると、

「本当はこういうのを食べたいんだよね。でもさ、お客さんと来た時に頼むと貧乏くさいと思われるでしょ?」

と付け加えた。

「そうですね、夢を売る仕事ですものね」

「大した夢じゃないけどね・・・」

裕子は微かに笑うと、ところでさ、と身を乗り出した。

「このメニュー、ちょっとださくない」

「そうですか?」

僕は差し出されたメニューを見た。どこにでもある普通のメニューだ。というか、一般にイギリスのメニューは品物と値段を書いただけのものが普通で、それに比べればずいぶんましな方だった。

「レストランだって、お客に美味しいものを食べてもらう夢を売る仕事なんでしょ?」

身を乗り出すようにして、

「で・・・ちょっと相談があるんだけど」

そう言うと裕子はあたりを見回した。まだ客の数は少なかった。


裕子の話は、要約するとメニューのデザインを自分に任せてみないかということだった。学校では実務的なデザインを実践することを求められ、それを提出することが成績に繋がる。それにたとえ日本料理店であってもそれが実際に企業に採用されれば更に評価は高まる。一方で自分には金がない。もし自分にデザインを任せてくれれば素晴らしいものを作る自信がある。実際に掛かったコストにちょっと上乗せしてくれれば、他のデザイナーの三分の一くらいで仕上げる。

届いたビールをそのままにして彼女は熱心に僕を説いた。冷奴が来ても僕を離してはくれなかった。焼き魚が届いた時、僕はついに根負けした。客の奢りだというのに慎ましく焼き魚定食を注文した彼女に好意を持ったのかもしれない。働きながら勉強している彼女の境遇に同情したのかもしれない。あるいはそれ以上の何かがあったのかもしれない。それに、・・・

「とりあえずオーナーに話しておきますよ」

店には少しずつ客が増えていた。他の従業員の手前、いつまでも彼女と話し込んでいるわけにはいかない。ただでさえ、若いそれなりに魅力的な女の子と話し込んでいたらさぼっているのだと疑われかねなかった。

「うん、そうして。これはきっとウィンウィンの関係だよ」

裕子は自信ありげに断言した。


「橘さん、あのお客さんが・・・」

彼女から解放されて、混みあって来た店の中を何とかさばき始めた頃合いに最近入って来たばかりのウェイターの男の子が指をさした。

「お客さんを指さしちゃだめじゃないか」

そう言って注意しておろさせた彼の指先にいたのは裕子だった。

「あのお客さんの勘定はY工業の山崎さんにつけるから、大丈夫だよ」

そう言った僕に彼は、

「いえ、そうじゃなくて、橘さんにお話があるとか」

「ん?」

もう一度見ると、彼女はこっちこっち、とでもいうように手招きをした。

「なんでしょうか」

ウェイターを厨房に戻して、僕は裕子の座っているカウンター席に行って尋ねた。

「お店が終わったらここに来て」

彼女は僕に名刺を渡した。店の名前と真ん中に「裕子」と書かれた余白の多い名刺だった。

「いや、そういうことは・・・」

僕は手を振った。

「オーナーの趣味や店のポリシーを知りたいの。これはビジネスなんだからね。私にとっては大切な」

「でも、そういうお店って高いでしょう」

僕は反論した。

「だいじょうぶ、ただにしておくから。山崎さんからキャンセル料もらうもの」

「え?」

彼女の慎ましさは限定的みたいだった。

「とにかく来てね、何時になってもいいから。店は一時まで開いている。帰りのタクシー代は払うわ。来なかったら店でひどい目に遭ったっていうからね」

それだけ言うと裕子はさっさと帰っていった。

「何の話でした?」

厨房に戻るとさっきのウェーターが心配そうに僕に尋ねた。

「ビジネスの話だったよ」

仕方なく僕はそう答えた。


そういう事態になったらどう対処するのが正しいのか、そんなことはどこの教科書にも書いていないし、そもそも正しい一つの答えがあるわけではない。そして、その選択は別の道へ続き、また新たな選択を僕たちに強いる。一つ一つの選択肢の中でどれがベストだったかなんてわかるわけがない。

だが、その日僕のした選択は確かに僕の人生をちょっと変えた。それが良い選択肢だったのか、そうじゃなかったのかは、たぶん人生の最後になっても分からないのだろう。


僕は彼女の渡した住所を見ながらSOHOの裏手の道を歩いていた。ようやく見つけたそのドアには、

「ここは会員制のお店です。会員の方以外はご遠慮ください」

と日本語で書かれていた。その脇にはブザーがあって、会員の方はそのブザーを押して入る、そういう仕組みらしかった。

会員でない僕としては、ここで入らないという選択肢があるわけだが、わざわざここまでやってきてブザーに負けて帰りました、というような言い訳が裕子に通じるとも思えなかった。

僕はブザーを押した。

「はい?」

インターフォンの向こうから若い女性の声がした。

「すいません、裕子さんという方に言われてきたんですけど橘と言います」

「あ・・・」

声と同時にロックを解除する音がした。

「来てくれたんだぁ」

強要したくせに、いかにも僕が好んで店にやってきたような言い方で裕子は僕を出迎えた。レストランにいた時と違ってチャイナドレスを着て化粧をした彼女はまるで別人のように見えた。

「ビジネス・・・なんでしょ?」

僕の答えに、そうだね、と笑って裕子は僕の手を取った。冷たい手だった。


「どうやって飲みます?」

ウィスキーのボトルを指して裕子は尋ねた。ボトルには山崎という麗々しい名札がかかっている。

「ほんとうにもう・・・。それより仕事の話しないと」

「お酒を飲めないと仕事できないよ。それにお店も困る」

裕子は唇を突き出した。そんな表情が可愛らしいと思う人も多いのだろう。

「でも、それは僕のものじゃないし」

「いいんだよ。向こうはどうせ、会社の接待費」

「・・・じゃあ、ロックで」

ロックね、と嬉しそうに言うと裕子は手早く氷の入ったグラスにウィスキーを注いだ。

「あ、ちょっと濃すぎる」

「いいんだって」

裕子は気にする様子もなく水を注いでマドラーでかき混ぜるとグラスを拭って僕の前に差し出した。

「じゃ、乾杯」

裕子のグラスの中はウーロン茶だった。

「私、すぐ酔っちゃうの。だから最初はウーロン茶」

そう言って裕子は僕のグラスにウーロン茶の入ったグラスを重ねた。そこに少し年配の日本女性がやってきた。最初に会った時店に一緒に来ていた人だった。

「あら、この人が裕子ちゃんの言っていた?}

「あ、ママ。そうなんです」

海石榴つばきでお仕事をしているのね。この間、久しぶりに行ったけど」

海石榴というのがは僕が働いている店の名前だった。ママと呼ばれた人は、髪を掻き揚げた。

「以前来ていたお客さんは良く海石榴を使っていたんだけど、今は別のお店なの。ごめんなさいね」

「いえ、そのうちまたぜひ」

「そうね。それに裕子ちゃんにお仕事をさせてくださるんなら行かないわけにはいかないわ」

どうやら、裕子は少し話を盛っているらしい。

「いえ、まだ正式に決まったというわけでは」

僕は予防線を張ろうとしたが、ママはいとも簡単に、そして無惨に予防線を切断した。

「裕子ちゃん、頑張り屋さんなのよ。ぜひよろしくお願いしますわね」

そう言うと、テーブルの上を見てあら、山崎さんのボトルなの?と裕子に尋ねた。

「ええ、罰として」

平然とそう言った裕子に、

「でもねぇ、一杯目はともかく・・・そうだ、日本にかえっちゃった茂木さんのボトルがまだ残っているでしょ?」

「え、でも・・・」

「いいのよ。だって山崎さんにはNOSHOWのお代は戴くんだから。お酒まで飲んじゃいくら何でも悪いわ」

ママはそう言って、別の女の子に

「ゆきちゃん、茂木さんのボトルまだあったでしょ。持ってきてちょうだい」

と指示をした。お客さんはまだ一組だけでサラリーマンらしくスーツ姿の彼らはカウンターの隅に座っている僕らを時々ちらちらとみていたが、ゆきちゃんと呼ばれた女の子ともう一人がつくと僕らを気にすることもなくなった。


裕子が山形の出で、新潟の生まれの僕と、隣同士だね、と盛り上がったことまでは覚えている。それまでに裕子はオーナーの好みについていろいろと僕から聞き出した。どんな車に乗っているか、どんな時計をしているのか、どんな本を読んでいるのか、僕は知っている限りを教えたのも覚えている。だけど、そこで僕の記憶は途絶えている。茂木さんのボトルは半分以上残っていて、その量が僕をノックダウンさせたらしい。


うーん、と唸りながら目覚めたのはいつもと変わらぬ場所だった。つまり僕は自分のフラットに帰っていた。枕元の時計は朝の六時を指していた。

だが・・・いつもと違うことがあった。僕の隣に誰かの温かい体があった。柔らかなその感触を感じた時、酔いは一挙に飛び去っていた。思わずかけていたブランケットを剥がし、僕はそっと横を見た。そこには化粧をしたままの裕子が寝ていた。それも・・・何も着ていない姿で。僕は失われた記憶を取り戻そうと必死だった。いったい・・・?

「うん、どうした・・・?」

横で声がした。僕は慌ててブランケットを被った。僕自身も・・・何も着ていなかったのだ。

「どうしたって・・・。どうして・・・君がここに」

「どうしてって、泊っていけって言ったじゃない」

裕子は目をこすりながら答えた。

「なのにさ、すぐに寝ちゃって」

「・・・」

裕子は拗ねたような目で僕を見ていた。

「どうする?」

「え?」

答える代わりに彼女は毛布の中で僕のあそこをつんつんと突いた。

「元気じゃない」

「いや・・・それはそうだけど」

でも避妊用具も何も持っていない。

「いいよ、中にしても。今日は安全な日だから」

「・・・」

彼女はもう一度僕をつんつんと突いた。

「私は・・・したいな」

そう言って彼女は毛布を剥いだ。小ぶりの乳房と細い腰が晒された。僕に・・・ほかの選択肢はあったのだろうか。


言い訳はできない。僕らは二度、した。一度目は僕が上になって、二度目は彼女が上になって。一度ならず二度までも。そして、彼女が先に、僕が後にシャワーを浴びた。

僕がシャワーから上がると彼女はトーストを焼いて、目玉焼きを作っていた。トーストのいい香りがした。

「コーヒーどこ?」

僕のぶかぶかのシャツとジャージを着た彼女が尋ねてきた。

「あ、戸棚の二番目」

「飲む?作るよ」

「・・・ミルクで良いかな」

「じゃあ、そうしよう」

想像もできないほどの自然さで彼女は冷蔵庫からパックを取り出すと二つのグラスに注いだ。まるでスカッシュをした後に汗を拭いて清涼飲料水でも飲むような感じだった。

「良かった?」

「え?」

「私だよ」

「あ、うん」

「なんだか気のない返事だね」

「そんな事ないさ」

「しばらくぶりだったんでしょ」

「・・・」

その通りだった。

「すごくよかった」

「そう?」

彼女は微笑んだ。実際その通りだった。ロンドンに来てからセックスのことなど考えたこともなかった。

「私も良かったよ」

「あ・・・。ありがとう」

思わず僕はどもっていた。

「昨日の話、覚えている?」

僕は首を振った。

「私には男が二人いるんだよ。同棲している人と山崎さんと・・・」

「あ、そうなの?」

全然覚えていなかった。

「やっぱりね」

裕子は笑った。白い歯が見えた。

「でも、あの人たちには中にさせないの。安全日でも」

「そうなんだ」

それがどういう意味を持って語り掛けられているのか、僕には良くわからなかった。でも、たぶんそれを僕は喜ぶべきなんだろう、とは思った。

「さてと、どうしようかな?」

裕子はミルクを飲み干して、トーストを齧りながら首を傾げた。

「何を?」

僕は目玉焼きにフォークを刺しながら尋ねた。

「昨日、帰らなかった理由」

「え?言ってないの?」

「言っていない」

「・・・」

「追い出されたらここに住まわせてくれる?」

「・・・?」

「冗談よ。あっちだって私がいなくなったら家賃が払えないし」

「どうするの・・・?」

「うーん」

そう言いながら裕子は私を見た。

「あ、いいこと思いついた」

「いいこと?」

どんな言い訳を見つけたのだろう、と思いながら僕は目玉焼きをトーストの上に乗せた。

「お兄ちゃんと出会ったから話が弾んじゃって、夜中じゅう話してたってことにしようっと」

僕のトーストから目玉焼きが滑り落ちて、僕は慌てて膝から目玉焼きを皿に戻した。

「お兄ちゃん?」

「うん、私、腹違いのお兄ちゃんがいるの、昨日話さなかったっけ?」

話したとしても僕は何も覚えていない。

「どういうこと?」

だからさ、と言いながら裕子は話し始めた。裕子の父親は山形のある市の市議会議員で、もともとは地元の会社の社長をやってたのだそうだ。それを名義だけ妻を社長に据えて、二足の草鞋を履いているのだがその妻が裕子の母親で、実は離婚した前妻との間に男の子がいる。それがお兄ちゃんだそうだ。

「子供の頃、何度かあったことがあるの、狭い町だし」

そのお兄ちゃんが中学生の三年生で、裕子が小学校の六年生の時会ったのが最後だそうだから、歳の差はかなり近い。裕子のお父さんの倫理性を若干疑った、と言ってもこんな状態で・・・人の事は言えないけれど。

「なんでも東京の大学に行ったって聞いているけどずっと会っていない。そのお兄ちゃんとロンドンで偶然巡り合ったっていえば、いいじゃない」

「それはどうかな」

思ったより遥かに突拍子もない言い訳に僕は慎重に言葉を選んだ。

「そんな偶然があるとは誰も思わないんじゃないかな。それにその人の事、僕は何も知らない」

「私だってほとんど知らない。でも他の人はもっと知らない」

「そもそもそんな話を急にでっちあげても・・・」

「でも、お兄ちゃんがいるっていう話をしたことあるから」

「彼に?」

「うん。悪口は言っていないし、名前も教えていない」

「悪口?」

「うん、本当は嫌な奴。小学校の私の事を物欲しそうにじろじろ見ていた。これでも成長が早かったからね。途中で止まっちゃったけれど」

そう言って裕子はシャツの前をはだけた。可愛らしいおっぱいが目の前に現れ、僕は慌てて俯いた。

「もう一度触ってみたい?お兄ちゃん」

「いや・・・」

そう言うと、裕子はじとっとした眼で僕を睨んで

「他に良い言い訳、思いつく?」

と口を尖らせた。

「・・・・」

「じゃあ、決まり。橘のお兄ちゃん」

「その人、本当はなんて名前?」

「橘だよ」

裕子はにっこりと笑った。


翌々日、僕が店で開店前の準備をしていると、店に僕より古くからいるあかねさんが、

「橘君、電話だよ。女の人から」

と声を掛けてきた。

「誰?彼女?」

悪戯っぽく受話器を渡した茜さんに多少へどもどしながら、

「はい」

と僕は電話に出た。想像通りそれは裕子からだった。

「お兄ちゃん、全然連絡してこないじゃない。どうなっているの、電話番号、教えたでしょう?」

確かに裕子は僕の家から出るときにテーブルの上に携帯電話の番号をおいていったけど、それはまだそのままそこに置かれていた。それどころか、昨日の朝コーヒーを零してしまったために茶色く染まり、番号は少し滲んでいる。

「・・・。大丈夫だったの?」

「何が?」

裕子の声は少し甲高く、尖ったままだった。

「この間の事」

「ああ」

裕子は声のトーンを少し落とした。

「ぜんぜん。今度お兄ちゃんと会いたいって言っているよ」

「え?」

「そんなことはいいから、ちゃんと話してよね、オーナーさんに。もうだいたいプランは仕上がっているんだから。今週中にプレゼンしたいの」

「プレゼン・・・」

のんびりと構えたまま、うまくすればやり過ごせるかな、などと期待していた自分が間抜けだったことに気付いた。

「ちゃんと話してね。こっちにも準備がいるんだから。明日また電話をする」

というと裕子は一方的に電話を切った。


滅多に店にやってこないオーナーとは電話で話すしかなかった。いろいろと考えた末に、僕は仕方なく山崎さんの名前を使うことにした。

「そうかぁ、山崎さんの知り合いだと無下にするわけにもいかないかなぁ」

予想通りオーナーは考え込んだ。

「じゃあ、まあ一度話を聞いてみよう。別に断ったってかまわないんだろう?」

「ええ、それは」

その時に何がおこるかなんて考えても仕方がない。

「分かった。じゃあ、土曜日のランチが終わる時間にそっちに行くことにするから相手にそう伝えておいてくれ」

「わかりました。すいません、よろしくお願いします」

何も君が謝ることじゃないだろう、とオーナーは笑いながら電話を切ったが、そうでもないと僕は思っていた。少なくとも心の中には深い負い目があった。


土曜日、裕子はかちっとした新品のスーツ姿で現れた。レストランでのいかにもホステスっぽい格好、クラブでのチャイナドレス、そして僕の家での男物のシャツとそこから覗くオッパイを見ていた僕は内心、心配以上で彼女の現れるのを待っていたが懸念はあっさり払拭された。

僕らの前に裕子はきちんと製本されたプランを置き、説明をし始めた。まるでビジネスウーマンに生まれ変わったかのような様子だった。

僕とオーナーは目を見合わせ、彼女の話を聞いていた。いつの間にかオーナーの目はいつもより真剣な眼差しに変化していった。


「どう思った?」

裕子が丁寧にあいさつをして帰っていったあと、オーナーは僕を見て尋ねた。

「どうって・・・」

「いやあ、どうせ女の子だから少女趣味のメニューでも持ってきて時間の無駄になるかと覚悟していたんだけどね」

オーナーは渡された資料をもう一度捲ると、

「なかなかのものだったよ。客層と店の雰囲気と出される料理、メニューは基本的に一貫したフィロソフィーでベースを作って、どこかにちょっと遊びを入れる、という考え方は・・・僕の趣味に合っているな」

と言った。

「そうですか。だと良かったです」

僕は頷いた。

「それに確かに出来栄えに比べて安い」

例として持ってきたメニューの一部を眺めながらオーナーは頷いた。

「ちょっと真剣に考えて・・・頼んでみようかな」


そして、翌日僕は裕子にセルフリッジというデパートまで付き合わされ、彼女が着てきたスーツを一緒に返品した。どうやら彼女は意図的に買うふりをして、一回だけそれを使い返品したらしい。そんなことが許されるなんて僕は思ってもいなかったけど、裕子は、

「みんなやっていることだよ」

と平然として言った。その日彼女は受注祝いと言って僕を店まで呼び出し、そしてまた僕の部屋に泊まった。


列車が海峡のトンネルを進んでいく間、僕はこの半年の間に彼女との間に起こったそんな出来事を思い返していた。


パスポートコントロールの時に裕子は目を覚まし、ブリュッセルに到着するころには化粧を直しにトイレに行った。

「楽しみだね。アムステルダム・・・」

トイレから帰ってきた裕子は僕の手に掌を重ねた。彼女の楽しみとは・・・コーヒーショップでマリファナを買ってホテルで吸う事だった。でも僕は僕でアムステルダムに来る別の目的があった。


ブリュッセルで僕らはインターシティに乗り換えた。

「来年にはタリスっていうのが走るらしいよ。そうすればもっと早くアムステルダムに着ける」

「へぇ、そうなんだ」

裕子はあまり関心がなさそうに頷いた。列車に特に興味があるわけではないらしい。どうして彼女が飛行機でなしに列車の旅を強く主張したのか、いまだに僕には良くわからなかった。会話の接ぎ穂を失ったまま、僕はブリュッセルで買った昼食代わりのグラニースミスという素敵な名の青リンゴを齧り、裕子はミルカのチョコバーを食べた。


アムステルダムCS(中央駅)は運河に面して立っている。その駅を出て暫く歩いたところに僕らは宿を取っていた。アルプスの北側のヨーロッパは冬は北極とアルプスに閉じ込められたように雲が立ち込めている日が多い。

その日もそんな日で、風が海の方から吹き付けてきた。髪を靡かせ、風に吹きとばれそうに見える裕子はそれでも重そうなスーツケースをごろごろと転がしながら僕と一緒にホテルへの道を歩いていた。風に吹き飛ばされて運河に落ちたら、きっと彼女はセイレーンになるに違いない。セイレーンというのは、美貌と歌声で船乗りを魅了して、うっかり座礁させて犠牲者にする妖精の事だ。


チェックインを済ませるとすぐに彼女は、

「ね、行こう」

と僕を誘った。

「え、もう?」

僕自身はあまりマリファナに興味がなかった。

「いい気分になるよ。お兄ちゃんもきっと好きになる」

袖を引かれるようにして僕は外に出た。風はますます海の方から強く吹き付けてきた。運河沿いの少し薄汚れたコーヒーショップに彼女が迷いもせずに行ったのはこれが初めての訪問ではないという証左だった。

「どれにしよう?」

まるで紅茶やコーヒーを売るかのように幾つかの商品が並べられ、それぞれに値札が付いていたけど、僕に聞かれても答えようがなかった。店は商品を売っているだけではなく、そこで買った物を消費することもできるらしく、何人かの男女が椅子に無気力そうに座り、特有の匂いがした。説明するのが難しい匂いだ。

「じゃあ、とりあえずこれにしよっかな」

裕子はそれほど値段の高くないものを選ぶと、巻く紙を一緒に買った。

「お兄ちゃんもどう?」

空いていた椅子に腰かけると裕子は僕に尋ねた。

「どうなるか分からないからとりあえずここではやめておく」

そう言うと裕子は、

「そうだねぇ」

と語尾を延ばして答えた。

「じゃあ、私が一本だけ吸い終わるまでちょっと待っていて」


とろりとした目をした裕子と僕は店を出て、運河沿いの道をゆっくりと歩いていた。さっきまで強く吹いていた風はだいぶ穏やかになって、雲の間から微かに陽が差していた。リンゴ一個だけでは満たされないと僕の胃はさかんに要求していた。

「何か食べようか?」

そう誘っても、裕子は緩く首を振って、

「今はなんにも食べたくない」

と答えるばかりだった。人によるのかもしれないが、どうやら彼女の場合はマリファナを吸うと食欲がなくなるらしい。

「じゃあ、コーヒーでも飲もうよ・・・」

そう言うと、裕子は漸く、うん、と頷いた。

普通の喫茶店はコーヒーショップではなく、カフェという。運河からそれた小路でカフェに入り、僕はメニューにあった料理とコーヒーを、裕子はミルクを頼んだ。暫くして出てきた料理は、トーストの上に目玉焼きが二つ、それに焼いたベーコンとトマトやたっぷりの葉野菜がプレートの上に乗った素敵な料理だった。

「美味いよ、これ」

僕が言うと

「ふうん」

裕子はあまり関心なさそうにミルクを一口啜ってから、腕をテーブルの上で枕のようにして首を乗っけた。なんだか本当に素行に問題のある妹を見ているみたいでおかしかった。でも、ほんとの妹だったら・・・きっと頭を抱えたに違いない。

料理を綺麗に平らげて勘定を払うと僕はできの悪い妹を連れてホテルに戻ることにした。


部屋に戻ると、さっそく裕子は僕にマリファナを勧めてきた。

「きっと好きになるよ」

「そうかな?」

好きになることで何のメリットがあるのか僕には分からなかったけど、裕子の言うがまま僕はベッドの上に座り、彼女が咥えて火をつけた日本の紙巻きのうちの一本を唇の間に置いた。

「ゆっくりと吸うの。煙草なんかよりもずっとゆっくり肺の中に広げるように」

裕子は残りの一本を吸いながら、僕に実地訓練をした。

「こう?」

「うん、そう」

そう言いながら裕子は僕をじっと見つめてきた。まるで理科の実験動物を見るみたいに。

それからの事は・・・実はよく覚えていない。僕が目覚めたのはそれから四時間も経っていた。目覚めた時、裕子はベッドの上で何かをくゆらしていた。さっきと同じままの恰好で。だから僕はてっきり眠っていたのはほんの少しの間で、彼女はまだ最初に火をつけたマリファナを吸っているんだと思った。

「あ、起きたの?」

「うん」

答えた僕は彼女が吸っているのが普通の煙草だと気づいた。それどころか灰皿の上にはそれ以外にも吸い終えた煙草の残骸が数本乗っかっていた。

「・・・どのくらい寝ていた?」

彼女は答える代わりに引いてあった窓のカーテンを開けた。もう夕闇が降りていて、隣の建物の幾つかの窓に明かりがついていた。慌てて時計を見るともう六時を過ぎていた。

「寝言を言っていたよ」

裕子は何でもないかもようにまだベッドの上に横たわっていた僕の隣にちょこんと座った。

「?」

「すごく、エッチなこと」

僕の体を優しく包むと、

「寝言って本音が出るんだよ」

裕子は言った。僕は彼女の唇にキスをした。すこし乾いて、膨らんだ彼女の唇からはやっぱり奇妙な匂いがした。

「する?」

答える代わりに僕は彼女をベッドに押し倒した。

「・・・ふふふ。お兄ちゃんと、これって近親相姦じゃない?」

そう言った彼女の唇を塞ぐと僕は荒々しく彼女の着ていたスエットを剥いだ。

「うんん」

顔を横にした裕子の唇から溜息が漏れ、腕が僕の背中に絡まった。すぐに僕らは互いに相手に望むものをまさぐりあっていた。


翌日、朝食の時間ぎりぎりまで僕らは寝ていた。よろよろとベッドを這い出てから、裕子を起こすと僕らはシャワーも浴びないまま食堂へと行った。ブッフェ形式の朝食にはもう、無くなっているものもいくつかあったけれど残っていたベーコンや卵、サラダでまともそうに見える朝食を二人分整えると、熱いコーヒーを飲みながら僕らは一日の計画を話した。美術館に行って、夜警とひまわりの絵を見ること、アムステル運河の周りを散策して景色を写真に収める事、夕食はマイクの店に行って食べる事。そう、僕がアムステルダムにやってきた目的の一つはマイクに会う事だった。

「健全だね」

ふふふ、と笑って裕子は同意した。

「今日はちゃんとお兄ちゃんのいう事を聞くよ」

疑わしそうな目を向けた僕に、

「ホントだったら」

裕子は僕の腕を抓った。

「私だって、観光したいもの。買い物もあるし」

朝食を食べ終わるとリュックを背負った裕子と僕は市電に乗って街を歩いた。市電に乗ると、

「お兄ちゃん、スリに気を付けた方が良いよ」

と裕子は言った。

「アムスでスリにあった人、何人も知っているから。パリより多いみたい」

「そうなの?」

大して金の入っていない財布だったけど、僕は用心のためポケットの蓋を閉じた。

僕らは美術館を二軒回り、運河沿いを散策し、彼女や僕の入った写真を何枚も取った。歩き疲れるとカフェでコーヒーを飲み、裕子は僕がコーヒーを飲んでいる間に幾つかの店を回って買い物をした。その日一日の僕たちは何となく普通の恋人めいた感じだった。

夕方の六時、僕たちは中央駅の近くでホットワインを飲みながら暖を取っていた。

「その人、私の事を知っているかな」

マイクが昔、一緒に働いていた料理人だという事を知っていた裕子は首を傾げた。

「でも、店には昔から行っていたんだろ?」

「うん、でも料理人の人は知らない」

「まあね、接客は滅多にするもんじゃないから」

「私の事をなんて紹介するの?」

「恋人?」

「妹だって言いなよ」

「ばれるよ」

「ばれていないじゃん。他の人には」

「でもなあ、腹違いの妹と旅行なんかするかな?」

僕たちが一緒にアムステルダムにやってきていることは他の人には知られていなかった。彼女が同棲している山本君という男性は法事で日本に帰っているし、山崎さんは年末で仕事が忙しいらしい。二人で旅行に来ているのを知るのはマイクが初めてだ。

「しても変じゃないと思う」

「じゃあ、そうするよ」

僕がそう答えると裕子は微笑んだ。

「可愛い妹がいて、幸せだねって思うよ、その人」

「自分で言うか?」

「だって、可愛いでしょ」

唇を尖らすと、裕子は肘で僕を突いた。

「ああ・・・じゃあ、そろそろ行こうか?」

空いたグラスと交換にリファンドしてもらうとその金で、僕らは空色のタクシーに乗った。オランダのタクシーもメルセデスが多い。暫く走ってホテルの前で僕らはタクシーを降りた。彼が働いているのはホテルの中にある日本料理店だった。

「立派なホテルだね」

僕らが泊っている安いホテルと引き比べたらしく裕子が羨ましそうに呟いた。

「そのうち、泊れるようになるさ」

「お兄ちゃんと?」

「誰とでも・・・」

背負っていたリュックを手に持ち替えると、裕子は精一杯背を伸ばして見せた。

「じゃあ、いこっか」

ベルボーイは胡散臭げな若い日本人に精一杯の愛想を込めて料理店の場所を教えてくれた。中二階までエスカレーターで登り、突き当りの手前に店がある。まあ、胡散臭いと言ってもアムステルダムにも日本人はたくさんいて日本料理を食べに来るわけだからとりわけ僕らだけが胡散臭いわけじゃない。むしろ胡散臭いと思うのは自分たち自身が胡散臭いと思っているからに違いない。

予約を告げて通されたテーブルは窓際の一等席だった。

「注文は承っております」

僕が何にも言わないうちから、ボーイがそう告げると、飲み物だけを尋ね下がっていった。

「どういうことなの?注文したの?」

「いや・・・」

たぶんマイクが気を利かせてくれたのだろう。そう言うと、

「ふうん、そんなに仲がいいんだ」

裕子は頬杖をつくと、

「もしかして・・・?」

僕をじっと見た。

「ん?」

「バイ?」

「違うよ」

僕は不機嫌に答えた。彼との仲をそんな風に思われるのは不愉快だった。

すぐに、飲み物と一緒に最初の皿が運ばれてきた。

「あ、すごい。綺麗」

裕子が華やかな声を上げた。柿と鯛の刺身を合わせたもの、海老の真薯に里芋とさやえんどう・京人参を添えた小皿、山芋の小ぶりな短冊にすりおろしをとイクラをあしらったもの。どれも美しく盛り付けられ、丁寧に作られていた。

「おいしい」

裕子は刺身を頬張ると笑った。

「だろう?」

「天才だね」

「それはおおげさかもしれないけど、彼は一流の料理人だよ」

「うん、さっきはごめん。変なこと言って」

裕子はけろりとそう言った。そうやって後に曳かないところが裕子の良いところだった。

茶碗蒸しを食べ終わった時、マイクが顔を見せた。

「久しぶりだな、顔を見せてくれて嬉しいよ」

相変わらず流暢な日本語でそう言うと、裕子に視線を遣って、

「こちらは?」

と僕に尋ねた。

「妹です。いつも兄がお世話になっています」

僕が答える前に裕子がそう言うとちょこんと頭を下げた。

「そうか、こんなかわいい妹さんがいたんだ」

マイクはそつなくそう答えると彼女に握手を求めた。

「とっても美味しいです」

「どうもありがとう」

天才料理人は笑うと、

「今日は年末のパーティに出す料理の試食をお願いしていることになっている。好きなだけ楽しんでくれ」

「悪いな」

僕は答えた。

「店の閉店まで待っていてくれるか。積もる話もある」

「分かった」

僕が頷くと、彼は笑みを浮かべ、

「どうぞ、妹さんもゆっくりとお食事なさってください」

と言ってから厨房へと戻っていった。

「感じのいい人だね。でも、やっぱり会ったことはないみたい」

彼の姿が消えると裕子は言った。

「それにしても・・・これタダっていう事?」

「みたいだね」

「こんな美味しいの、ロンドンでも食べたことない。本当に昔ロンドンで働いていたの?」

「そうさ、僕の働いている店でね」

でも、彼は辛い恋を乗り越えて、一段と腕を上げた、それは確かだった。


デザートを食べ終えると、裕子は

「じゃあ、私タクシーでホテルに戻るよ。お兄ちゃんはあの人とゆっくりお話ししていって」

と言って席を立った。

「ああ、じゃあ」

鍵は二つ渡されていた。万一裕子が寝てしまっても大丈夫だ。

「あんまり、やりすぎるなよ。明日は帰るんだから」

「うん。美味しかった、ご馳走様、って言っておいてね」

そう言うと、裕子は僕の頬に軽くキスをして立ち去っていった。


ラストオーダーの九時半が過ぎて暫くすると着替えた彼が僕の目の前の席に座った。

「もういいのか?」

「ああ、あとは飲み物とデザートだけだ。他のスタッフで回せる。今日は特別だ」

彼はウィンクをして僕を促した。

「どこかで飲むか?」

「ホテルの地下にバーがある」

「じゃあ、そこで。今度は僕に払わせてくれ」

「分かった。彼女は・・・帰ったのか?」

「ああ、ゆっくりしていってくれってさ。ご馳走様、美味しかったって伝えてくれと言っていたよ」

「そうか・・・」

彼はちょっと奇妙な目で僕を見つめると、

「じゃあ行くか」

と立ち上がった。


穴倉の中に入ったようなバーは暖かく、落ち着いた雰囲気だった。僕らは彼が好きだというアイリッシュウィスキーのストレートで乾杯をした。

「こっちに来て、腕を上げたみたいだね」

僕が言うと、

「そうか?」

彼はにやりとした。

「京人参を使っていたけど、コストは大丈夫なのか?」

「まあね、特別な仕入れ先を見つけた」

「茶碗蒸しの味が変わった。出汁を変えたのか?」

彼は目を丸くした。

「良くわかったな」

「前のも美味しかったけど、新しい方が上品だ」

「うん」

彼は嬉しそうに微笑んだ。

「そう言って貰えると作り甲斐がある」

「こっちに来たのは正解だったな」

「ああ・・・。それに来年、結婚する」

「そうか?」

初めて聞いたそのニュースに僕は思わず手を差し出した。彼は僕の手を強く握ってきた。本当に嬉しそうだった。

「こっちで見つけたのか」

「ああ、今もう一緒に暮らしている。彼女も料理人だ」

「おめでとう」

「茶碗蒸しの出汁も彼女と一緒に考えた。彼女は日本料理じゃないけどね」

「相手はオランダ人か?」

「国籍はね。でもオランダとシンガポールのハーフだ。実は日本人とカナダ人の地も流れているらしい。マルチナショナルだな」

「良かった」

「ありがとう。結婚式には招待するからぜひ来てくれ」

「もちろんだ」

それから僕らはたわいのない話をだらだらとし続けた。ロンドンで続いている爆破事件の事、ロンドンにミレニアムセンターができる事、店のオーナーが新しい店を出したがっていて、海石榴に戻ってくる気はないかと聞いてほしいと言った事、話のネタはたくさんあった。

彼の昔の恋人が来年の春に日本に帰るという話は僕の方からはしなかった。もし聞かれたらその時話すつもりだった。だから、

「ところで彼女は・・・」

と彼が話を振ってきたとき、僕はてっきりその話だと思って少し身構えた。

「うん?」

「いや、一緒に来ていた彼女さ」

と彼が言ったので、僕は肩透かしを食らったような気がした。

「ほんとうに君の妹なのか?」

「いや」

僕は首を振った。

「やっぱり、分かるか?」

「うん、なんとなくね」

「ロンドンでは彼女は僕の腹違いの妹で通っているんだ」

恋人ステディなのか?」

「だったら、腹違いの妹だなんて面倒な話にはならないよ」

僕は彼女が別の男性と同棲して、もう一人の男とも付き合っていることを正直に話した。実際、僕はその二人と会ったのだ。同棲している山本君とは彼らが住んでいるフラットで鍋をつついた。山崎さんとは店に彼女が一緒にやってきたとき、兄だと紹介された。二人とも彼女の言っていることを少しも疑っているようではなかった。

「ふうん」

彼は疑わしそうに僕を見た。

「それで良いのか?」

「良いって?」

「彼女のこと好きなんじゃないのか?」

「好きと言えば好きだ。だけど、独占したいわけじゃない。そもそも僕の方が後から割り込んだわけだし」

「そんなものかな」

「なんだか、妹と言われればちょっとできの悪い妹みたいな気がしてきているんだ」

うーん、と彼は唸った。恋愛に禁欲的な彼にはいずれにしろこんなだらしない状況は理解しづらいに違いない。

「で、彼女は・・・」

「これ」

と、僕は口もとで煙草を吸う真似をした。

「ああ」

彼はそれはすぐに理解したらしい。

「君もやるのか?」

「昨日初めて試した。眠くなっただけだ。体に合わないらしい」

「その方が良いよ。僕は吸ったことがないけど、合ったら合ったで面倒だ」

「そうだな」

「君たち・・・鉄道で来たのかい」

「よく分かったな」

僕がそう答えると、彼は溜息を吐いた。

「言いにくい話なんだけど」

彼は躊躇うように一口、酒を飲みそれから煙草をゆっくりとふかすした。

「イギリスからマリファナを買いにアムステルダムに来る若者がいるらしい。彼らは飛行機を使わない。飛行場は検査が厳しいからね。だから最近開通したユーロスターを使っているって話がある」

「なるほど・・・」

それが裕子が飛行機を使わない理由だったのだと僕はようやく悟った。

「巻き込まれないようにしたらいい。いざとなったら無関係と主張するんだ。それと彼女から荷物を預からない方が良いと思うよ。さもないと思わぬことになるかもしれない」

「そうか」

「僕が知っている位だからね」

「うん、ありがとう」

そうは言ったが、万一ユーロスターで検査でもされた時に裕子と無関係を主張するなんて、できるのだろうか?考え込んだ僕に向かって、

「君には結婚式に来てもらいたい。明日帰るんじゃなければ、フィアンセにも会ってもらいたかったんだ。あいにく今日は仕事でね、ライデンにいる」

「いつ、結婚式の予定だい?」

「来年の三月さ」

「うん、必ず行くよ。約束する」

その言葉で僕が吹っ切れた、と思ったのだろう。彼は僕の背中を強く叩いた。


ホテルに戻ると裕子はもう寝ていた。部屋にはあの特有の匂いが残っていた。僕はまず黙って自分の荷物を点検した。何も不審なものはなかった。ただ、彼女の買い物袋の一つに見覚えのあるものが入っていた。それはかなりの量のマリファナを入れた袋だった。とても今日、明日で使い切れる量ではなかった。僕は思わずため息をついた。

遠くで若者たちが騒ぐ声が聞こえた。それはだんだんと近づいてきて、ホテルの前で暫く続くと、今度は遠ざかっていった。

僕は静かに着替えるとベッドに横たわった。少なくとも彼女は僕の荷物に紛らわせるつもりはないのだ、とそう思いたかった。

うまく眠れないまま、日がまだ昇らないうちに僕はシャワーをそっと浴び、部屋を出た。街はまだ暗く、灯った街灯が運河の黒い水面をときおり光らせた。大通りに出るとトラックほどもある大きな清掃車が通りのごみを纏めて攫って行くのが見える。 その車のライトが街の奥の闇を照らし出していた。煙草を片手に僕は歩き続けた。

やがて幾つかの店の明かりがつき、空が白々とする頃に僕はホテルに戻った。


帰りのユーロスターは行きほどには混んでいなかったが、それでも空席はちらほらある程度だった。僕らは進行方向に向けて並んで座っていた。裕子はミントガムを噛みながら頻りにあくびをしていた。いつもとちがうふわっとした花柄の服と行きと違う、ゆったりとしたコートを膝の上に乗っけていた。僕はポータブルのカセットデッキで音楽を聴いていた。MDプレーヤーが出たばかりで、まだiPodもない時代だった。朝、もう一度確かめたけど僕の荷物に不審なところはなく、昨日みつけた袋はどこかに無くなっていた。

後から肩を軽く叩かれて、僕は振り向いた。

「パスポートを見せていただけますか」

制服を着た検査官がにこりと笑った。僕は懐からパスポートを取り出した。裕子はあくびをしながらバッグに手を伸ばした。

「ご友人ですか、名前が違うが」

検査官が裕子のパスポートを見て尋ねた。僕が答える前に裕子が、

"We are going to marry next year(私たち、来年結婚するの)”

と言って僕の腕を取った。僕は驚きを隠すので精いっぱいだった。

"As I have a baby here(ここに赤ちゃんがいるから)”

検査官にゆったりとした服のおなかの辺りを指して裕子はにっこりと笑った。

"So you are going to be a papa(じゃあ、君はもうすぐパパだね)”

ちょび髭を生やした人のよさそうな50代の検査官は僕にそう言うと、

”Congratulations(おめでとう)"

と囁いた。僕はありったけの笑みを浮かべて"Thanks"と答えた。


パスポートをチェックしながら少しずつ遠ざかっていく検査官の大きな背中を眺めながら僕は小声で裕子に尋ねた。

「いつ、結婚するって決まったんだっけ」

裕子は小声で答えた。

「だってここに赤ちゃんができたから」

そう言うと絡めていた手を解き、僕の掌をゆっくりと彼女のおなかにあてた。そこには柔らかな赤ん坊のかわりにかさかさとした枯れた植物の葉のような感触があった。その感触を確かめながら僕は昨夜マークが最後に彼女について漏らした言葉を思い出していた。

「そういう女性と付き合うのは二つのタイプだ。一つは彼女より嘘がうまいこと、もう一つはどんな嘘をつかれても我慢できるタイプ。でも君はそのどちらにも思えない」

確かに、そうかもしれなかった。


年が明け、ささやかな新年の祝いをレストランのスタッフとやった時に、僕はオーナーに日本に戻るつもりだと告げた。

「え、でもマークが戻って来るかもしれないんだろ」

オーナーは少し狼狽えて僕を見た。確かにアムステルダムで僕は彼にロンドンに戻ってくるつもりはあるか、とオーナーの問いをぶつけ、彼は今すぐでなければ、と答えた。でも、それは僕がいるかいないかに関わらない、と僕はオーナーに言った。

「でもさ、新しい店ができたら君に任せようかと思っていたんだよ」

「すみません、そんなに考えていただいていたとは。でも、オーナーの実力があれば店なんていくつでも」

「うーん」

オーナーはちょっと渋い表情をしたけど、まあ、仕方ないかなぁ、と呟いた。


裕子は新年明けに、今度は山崎さんとバルセロナに旅行に行った。行く前に、

「なるべく、やらせないように逃げるからさ」

と僕に言い訳するように言っていたけど、僕はうん、と頷いただけだった。赤ん坊がいるの、と言われて触った彼女のおなかに掌をあてたときの枯草のかさかさとした感触が蘇った。

僕が日本に帰ってもなんなく彼女は生きて行けるだろう。


最後の務めを終えた日、ロンドンの通りは降り続く小糠雨に濡れていた。家に帰るバスの停留所に向かいながら、僕はふと後ろを振り向いた。街はオレンジ色の光に滲んで佇んでいた。カーブを曲がった車がスキッド音を立てて通り過ぎていく時、通りの向こう側黒い円筒に金文字で書かれたlitter《ごみばこ》と言う字が鮮やかに浮かんだ。





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