第2話 ロンドン 1994年夏 Warrior’s Spirits
色とりどりの花と緑に溢れた公園。綺麗に刈られた芝生の上で歓声を上げ駆けっこをして遊ぶ金髪の男の子。その彼を見守る両親の優し気な眼差しと笑顔。傍らには白い日傘のついた乳母車の中で駆けっこをしている子の妹が
その公園から僅かコーナー一つ離れた所に建っている灰色にくすんだ建物。入り口から
ストリートで仲間同士つるみながら革ジャンの袖からタトゥーを見せびらかす若者たち。その視線は誰かを脅しているのだろうか?
まだ昼だというのに目で獲物を誘っている娼婦、路上に座りこんでいる女、深夜目抜き通りを徘徊する女装の老人。ブティックで目の玉の飛び出るような金額のチェックを切る着飾った女達。
食べれば必ず腹をこわす安物のフィッシュアンドチップスから漂う酢のきつい匂い。シャトーロートシルドの1982年物。 A40をゆっくりと走るロールスロイス、いたずら書きだらけの塀をみながら、のろのろとすすむ地下鉄の中で浮かぶ、座席から舞い上がる埃。
ここには全てがあって、何もない。ロンドンはそんな風に感じさせる街だ。
取り分け貧しい者達にとって。
観光客の目には、ロンドンは公園の多い、緑溢れる街に見える。オックスフォードストリートと交差する小路は買い物にとっておきの魅力あふれる場所に思えるだろう。ビッグベンは壮大な歴史を語り、ネルソン提督の銅像が聳えるトラファルガースクエアは鳩の集まるだけの少し薄汚い広場だとは到底思えまい。ましてや、その鳩たちがネルソン提督に日がな糞をまきちらしているとは考えもすまい。
駐在員たちにとってはヨーロッパのどの都市よりも日本の物を安く手に入れられる街だ。夜になれば数ある日本料理店で食事もできる。ロンドンにやってきた他の国の駐在員はそのまま日本の女の子たちのいるバーにおしかける。女の子たちは大抵貧乏だし、複雑な事情を抱えている。マリファナやそれよりももっと危険なドラッグに手を出している子もいる。その子たちをうまく誘えば翌日の夜の食事を一緒にすることもできるし、もしかしたらそのまま・・・っていうこともあるかもしれない。
でも着の身着のままでこの街に流れてきたような僕にとっては、この街は日本人相手の客商売の仕事を見つけるチャンスと、物価高と、ホームオフィスによる不法滞在者チェックという、様々な要素がぎりぎりでバランスしているお寒い忍耐を強いる街だった。二か月前、レストランでバイトの口を見つけて何とか糊口は凌げているが、滞在許可期間という制約のせいで未来は先細りにしか見えない。
「彼」はシンガポール系の中国人で、僕の働いていた大通りから少し入った日本料理店でチーフシェフだった。僕のような技術のない単なるボーイは日本語を話せさえすれば務まるが、シェフはそう言うわけにはいかない。料理人としての腕がいる。
駐在員もこの頃はそれほど数がいなかった。円はまだ安く人を置くにはコストがかかったからだ。会社の中でも語学が達者で外人と渡り合える能力も必要なのでそこそこのエリートが来ている。そういう人に限って本当に分かっているのかどうか知らないが味にうるさい。本社からお偉いさんが来る、なんかの加減で役人が来るということになればそれなりの体裁と料理が求められる。
だがよほど高級な料理店ならともかく、日本から職人を呼べばコストは数段跳ね上がるだけでなく料理人は気難しい人が多く、外国の生活にも馴染めない人がいる。ビザの手続きは面倒だし、せっかくビザを取っても辞めてしまう料理人が多い中で、彼のように英国籍を取得しているうえに腕の確かな料理人は貴重だった。日本語も流暢で、一見の客は彼の事を日本人だと勘違いする。僕だって働き始めてからしばらくは彼の事を日本人だと思っていた。彼は、店では青木さんと呼ばれていたからだ。
彼が青木と言う名を名乗った理由を知ったのはしばらく後の話だ。
とはいえ、暫く一緒に居れば日本人とどこか佇まいが違うことがわかる。私生活で彼は決して社会の群れの中に紛れ込もうとはしない。僕のように日本人社会からドロップした怪しげな野良犬ではなく、彼は孤独な狼のように振舞っていた。
だから僕が「彼」と初めて話をしたのは本当に偶然の出来事だった。たまたま買えりがいつもより遅くなった夜、僕らはナイトバスで一緒になった。僕は停留所から、彼は店の角でバスを止め、乗り込んできた。普段なら彼はもっと遅くまで店に残って、料理の試作をしている。研究熱心な男だった。
「Hi Tachibana。一緒の方向だな」
彼はにやりと、滅多に見せない笑いを唇の端に浮かべると甲高い声で言った。英語だった。深夜のバスの中で迂闊に日本語で話せば他の客から奇異の表情で見られる。
「Mr.Aoki。こんなところで会うとは思わなかった」
「ミスターはやめてくれ。二人きりの時はマイクと呼んでくれて構わない」
「そうか、じゃあ、僕のことはニックと呼んでくれ」
「わかった。ニック。君はどこに住んでいるんだ?僕はセントジョンズウッドに住んでいるんだ」
「高いエリアに住んでいるんだな、マイク」
僕は答えた。
「僕の住んでいるのはもっと先だ」
それが彼との最初の会話だった。黒い革のジャンパー、夜なのにサングラス、スリムなジーンズ。世間から隔絶することを望んでいるようないでたちだった。二人きりの時はマイクと呼んでくれて構わない、というのもいかにも彼らしい言い方だった。 つまりは僕と親密である、ということを他の人には隠しておきたいという事なのだろう。
だが彼が自分の方から他人に話しかける姿をそれまで一度も見たことはなかった。その意味で、彼の方から僕に声をかけてきたのは驚きだった。それでもたまには誰かと話したくなることもあるんだろう。どうでもいい関係、後で災いを齎さないような関係。どこにでもいるようで、滅多に見つけられない相手、それがたまたま僕だったんだろう、としかその時は思わなかった。
翌日、店であった時も彼は僕をちらりと見はしたが、話しかけてこなかった。やっぱりね、と僕は思い、彼が作った料理をひたすら運ぶことに専念した。その日はレストランの上でやっているカラオケに欠員が出たので、二時間ほど余計に働くことにした。一ペニーだって、僕は余計に必要だったのだ。
だが仕事を終え、店を出ると驚いたことに彼が店の外で僕を待っていた。昨日と寸分変わりのない格好だった。
「何か用があるのか?」
僕が尋ねると、彼は小さく頷いた。
「少しいいかい?」
僕が頷くと、彼はのろのろと走っていたタクシーを止めた。古いオースティンのタクシーの木の床には小さい穴が開いていて暗い路面が見えた。向いあわせに座った彼はそんなことを気にも留めないように、ソーホースクエア、と告げると外の景色を眺め始め、進行方向と逆側に座った僕はその穴を眺め続けた。タクシー代は彼が払った。
馴染みらしい深夜営業の中華料理店の小さな個室に座りビールで良いよね、あとは適当に任せてくれる、と彼は僕に尋ね、僕はそれで構わないと答えた。
注文を終えると、彼は煙草に火をつけた。
「吸うかい?」
「いや、いい」
「そうか・・・」
彼は煙を輪っかにして吐き出した。普通なら気障にしかみえない仕草だが、彼が言い出し難い話を躊躇っているように僕には見えた。ビールと前菜がやってきて、軽く乾杯をすると、漸く彼は話を切り出した。
「実は、手紙を書いてほしい」
「手紙?自分で書いたらいいじゃないか」
彼はひらひらと手を振った。
「日本語は少しは話せるけど、書くのは難しい」
そう言うと、彼はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには今よりも少し、若い彼と、ほっそりとした美しい女性が並んで立っていた。歳は二十歳には届いていないだろう、処女のような硬質の美しさがあった。場所は公園で、赤い湾曲した鉄塔が写真の片隅に映りこんでいる。
「芝公園?」
「そうだ、良くわかるな」
彼は目を見開いた。近くに住んでいたからな、と僕は言ってから
「きれいな子だな。何年前の写真なんだ?」
と尋ねた。
「五年前」
「五年前?」
僕は思わず、真剣か?という目で眼前の男を見詰めたが、彼は真摯な目で僕を見返した。
「青木里香っていうんだ。その子」
「ああ、だから・・・」
彼が自分の事を青木さんと呼ばせた理由がそれでようやく分かった。
「でも・・・五年も前の事だろう。それから彼女と連絡は取っていないのかい?」
「ああ、日本で料理の修行をした時、彼女と知り合った。僕らは一緒になることを誓い合ったけど、その時僕はまだ半人前だった。一人前になったら連絡をするって彼女には伝えた。彼女も頷いた。来年には自分で店を持つ目途がついた。やっと彼女を呼ぶことができる」
「しかし・・・」
僕は首を微かに振った。
「五年も消息がなくて、彼女が待っていてくれると思うかい?」
「でも、日本の女性は」
彼は自信たっぷりに反論してきた。
「待っていてくれる。男はそれを信じて戦いに赴いたり、ひたすら修行をする。そう云うものじゃないのか?」
僕の彼を見る視線は化石を見るような色を帯びていたに違いない。
「そういう男女がいたことは否定しない。でもそういう人たちは朱鷺と一緒に滅んだんだ」
「トキ?なんだいそれは?」
「昔、日本にたくさんいた鳥さ。でも農薬や狩猟で滅んでしまったんだ」
でも彼は全く納得しなかった。
「民族のスピリッツというのはそんなに簡単になくなりはしないものだ」
彼は主張した。
「
「ちょっと待ってくれ」
僕は慌てて遮った。
「君はいったい何者なんだ?いくら日本料理に精通しているからって、普通はそんなことを知りはしない。僕だって全然知らない」
「僕は・・・大学院で日本古代中世文学を勉強していたんだ。でも、日本の料理と日本の女性に魅入られて方針を転換したのさ」
「そうなのか?」
彼は頷いた。朱鷺の事を知らないのに、天皇を待ち続けたヒケタのなんとやらという女性の名前を知っている。日本料理を作るのは抜群に上手なのに、日本の女性を誤解している。彼の日本に関する知識は随分と偏っているように思えた。
だが彼は僕の危ぶむような目をものともせずに、
「実際、第二次世界大戦の時だって、軍人の妻の中には夫の死を信じずに生涯独身で暮らした女性もいたというじゃないか。
と続けた。
僕は、心の中で、だからそういうのは、つい最近、朱鷺と一緒にまとめてこの世から消え去ったのさ、と言いたかった。彼が口にした孤閨という言葉だって・・・僕にはようやく理解できたくらいで、漢字で書けと言われたら怪しいものだった。本当に手紙を書くことができないのか?
でも、僕の口からついて出たのは、
「わかった。そこまで言うなら、引き受けよう。但しうまくいかなくても僕を恨むなよ」
という言葉だった。なぜだったのか、今でもよくわからない。
手紙を書くのは旨い中華料理の代償だと思うことにした。彼は手紙を自分の名前ではなく僕の名前で出すように頼んだ。理由は教えてくれなかったが、彼なりの配慮だっだろう。それも中華料理の代償に含まれていた。店の休日、僕は彼のフラットに行き、手紙の内容を相談した。三時間もかかった。中華料理はだんだんと値打ちを下げて行った。
結局三時間かけて書いた手紙は、こんなものだった。一字一句違わないとは言わないが。
「青木里香さんへ
突然、聞いたことのない名前で手紙が届いてさぞやびっくりされたと思いますが、自分は代理でこの手紙を書いております。
貴女はマイク コーという人をまだ忘れておられないでしょうか。彼は今、ロンドンの日本料理店で私と一緒に働いています。五年前、一人前になったらあなたを迎えに行くと約束した彼は、今はチーフシェフとして働き、今後自分の店を出す計画を立てています。そしてもし、あなたがその時の約束を忘れていないなら、その店にあなたを迎えたいと考えています。私は彼の友人として、あなたの気持ちを確かめてくれるように依頼されています。
宜しければ、あなたのお気持ちをお聞かせください。彼は五年もあなたを待たせたことに後悔していますが、あなたを迎えるまでに成長した自分を誇りにも思っていご返事を待っています。
敬具」
三時間かけて、便箋僅か一枚にも満たない手紙を書き終えて、じっくりと僕は読み返した。到底それが自分の書いた文章だとは思えなかった。
「いいのかい?これで」
「うん」
彼は少し頬を染めて頷いた。
「なんだか事務的な文章だな。どこかの弁護士が書いたような文章だ」
「それでいいのさ」
彼は棚を探して、見つけた切手から僕は60ペンスのものを拾い上げると封筒に貼り、JAPAN por avionと赤いボールペンで表書きの脇に記し彼に手渡した。
「うまくいくことを願っているよ」
「うん」
彼は答えると、
「シャンパンを冷やしてあるんだ。飲んでいくかい?」
と尋ねた。十分そのくらいの時間を拘束されていた僕は、うん、と頷いた。
シャンパンのグラスを打ち付け、
「ところで・・・色が奇麗だな、あの鳥は・・・」
と呟いた。ん?と僕が尋ねると、朱鷺?と彼は尋ねるように言葉を紡いだ。
「Nipponia Nipponというんだな、その鳥。よほど日本的な鳥なんだな」
ああ、と僕は応じた。
「らしいな。でも日本では一度絶滅したんだ」
「鵜に似ている。でも色はずっと綺麗だ。ただ・・・目が怖い」
「たしかにな。鳥っていうのは目が怖い生き物だ」
「そんなことはないさ。雀なんてよく見ると黒目がつぶらで可愛いものだ」
「それはそうだな・・・」
それから暫くの間、働いているときにふと視線を感じて振り向くと彼が僕を見つめているという事が続いた。小さく首を振り、それとなく返事が届いていないことを告げると彼は黙ったまま目を逸らした。彼は一層、料理にのめりこんで、帰り路が一緒になることもなかった。どうやら店に泊まり込んでいることもあるらしいとも聞いた。
三週間がそうして経った。僕は彼に、いつ諦めるべきだと言おうか迷っていた。結局、僕の思った通り五年も待ってくれるような女性は日本では絶滅したんだ。それも、朱鷺と同じようにもしかしたら中国の農村あたりから輸入すればまた生まれるのかもしれないが・・・。
故郷に多少自虐的になりながら、日ごとに小さくなってくるように見える彼の後ろ姿に身内の不行跡を責められているような気持になっていた僕は、ある朝・・・朝と言っても10時はとっくに過ぎていたが・・・14インチのポータブルテレビでニュースを見ていた。
マーガレットサッチャーのおかげで英国病という糖尿病のような病気から快復しつつあったイギリスでもまだ様々の問題はあるようだった。アイルランド問題は片付いていなかったし、サッチャーの跡を継いだメージャー首相の人気はネズミに齧られていくチーズのようにちいさくなっていっているようだった。その時、扉の向こうでがさがさと音がして玄関に何かが落ちる音がした。
持ち上げかけたカップをソーサーに戻すと、僕は玄関に出た。大きな音のわりにそこに落ちていたのは小ぶりの横長の封筒だった。思ったより封筒は重く、何枚かの便箋が入っているようだった、表には懐かしい日本の切手が貼られていて、ブロック体のような女文字で僕の住所と名前が記されていた。裏返してそこに記された名前を見て、僕は眉を顰めた。
そこには、青木里香という名ではなく、青木優子という名前が記されていた。暫く考えてから僕は封を切った。宛名は僕である。僕が最初に読んで悪いという事はあるまい。もし、それが本人からの手紙だったら、僕は黙って彼にそれを手渡したかもしれないけれど。
そして読み進めるうちに僕の顔は少しずつ憂鬱の色を濃くしていったに違いない。あなたがそれを見ていれば、の話だが。
そして、この手紙の中味はそのままだ。なぜなら僕がまだ保管してあるから。
「橘 夏生様
返信が遅れて大変申し訳ございませんでした。
実はお手紙を受け取った時、大変奇妙な気がいたしました。その理由は後述いたしますが、良く言う虫の知らせと言うものではないか、と今は思います。
私共の娘は、現在この家にはおりません。それでお手紙をどうしようかと考えておりましたところ、たまたま娘から電話がありまして、あなた様のお名前を出して尋ねてみました。娘が存じ上げないという事でしたので、意を決して開封してみた次第です。
あなた様の友人でいらっしゃるマイク コーさんという方は名前だけですが、私も存じております。娘が大変お慕いしていた方です。その名前をこんな形でもう一度、聞くことになるとは私も思っておりませんでした。
娘は、大学の三年生の時にその方と知り合い、互いに惹かれあって将来、いつかは一緒になることを夢見ていたのでございます。その方がいつか一人前になって日本料理店をやる資格を持ち、私共に胸を張って結婚を申し込む、というのが二人の約束だったという事でした。
もっとも夫は旧弊な性質でしたから、外国の方と結婚することには反対で、苦々しい思いで娘の話を聞いておりましたようです。娘は卒業してある企業に就職してからもその方を待ち続けていたのですが、一向にご連絡いただけないことに苦しんでいたようでもございます。それでも娘は待ち続けたのですが、夫が・・・娘にとっては父ですが、一昨年の末に癌を患いまして、娘の晴れ姿を見てから逝きたいと申し始めたのでございます。もしも、その時にあなた様のご友人と連絡がついていたならもしかしたら、娘の希望を夫も許したかもしれません。ですが、連絡もつかないまま、ある方と御縁がありまして、娘はその方との結婚を承諾したのでございました。何とか夫の方も間に合いまして、去年の春、式を挙げ、まもなく夫は逝ったのでございます。
それだけでしたら、あなた様からの手紙に私が心を乱すようなことはございませんでしたでしょう。実は娘が結婚した相手が転勤で今、ロンドンに駐在しているのでございます。そちらに日本の料理店がどれほどあるのか知りませんが、もし娘が偶然あなた様のお友達に会うようなことがあったら、と考えますといてもたってもいられない気がいたします。
先日あった娘からの電話は子供を授かったらしいという話で、娘はもう少し早かったら夫にも見せてあげることができたのにと悔やむような口調でしたが、母親の私でも娘があなた様のお友達を思い切っているのか、よくわからないですし確かめようもないのです。
ただ、もし二人がそれと知らずに突然出会ったら、良くないことが・・・誰かが不幸になることがおきるのではないかという不安がございます。そのような事が起こらないように、できましたらあなた様からもお友達にお伝えいただけませんでしょうか。まことに勝手なお願いだとは思いますが、子供を不幸な目に遭わせないのも親の務めと考えております
本当に単なる親のわがままにしか聞こえないでしょうが、どうか、どうかご配慮頂けますよう伏してお願い申し上げます」
黙ってもう一度手紙を読み返してみた。それから手に取って啜ったコーヒーは冷めきっていた。
その晩も彼は僕に視線を送ってきた。僕は小さく頷いた。彼は一瞬、驚いたように目を瞠った。そして、重々しく頷き返した。
僕が店を出ると彼はそこで待っていた。
「もう・・・良いのか?」
「うん」
彼は少年のように頷き返した。
「どうする?どっかに寄っていくか?」
「いや・・・」
彼はかぶりを振った。
「良ければ・・・君の家に行ってみたいんだ」
「僕の家?」
僕は少し驚いて彼を見た。人の家に行きたいというような人間には思えなかったのだ。
「だめかい?」
「いや・・・構わないが、しかし何にもないぜ」
「そんなことかと思って、店からちょっとくすねてきた」
彼は手にしたバッグを開けた。そこにはワインと日本酒が一本ずつ入っていて、それから料理を詰めたらしいタッパーが顔をのぞかせていた。僕が改めて彼の顔を覗くと、
「いや、冗談だ。ちゃんと金は払ってあるから」
と真面目な顔で彼は答えた。
「そうか・・・」
僕らはバス停まで歩き、時折彼は打診をするように僕の顔を見た。僕は気が付きながらそれを無視した。もし彼がきちんと尋ねてきたら、きちんと答えるつもりでいたが、そうしてこない彼には躊躇いがあるのだと思ったのだ。
ロンドンのバスに時刻表が存在しているのか、僕には分からない。なんだか気分次第で運転手が時間や行き先を決めているようにさえ思えるときがある。ただ、ナイトバスだけはほぼ時間通り、きっちりとやってくる。その日はナイトバスまでにはまだだいぶ間があって、僕たちと行き先の違う、でも同じ行先のバスが三台続いた後に漸く僕らの待っていたバスが来た。僕らは会話を交わさないまま、バスに乗り、バスに揺られた。
人っ子一人いないクリケット競技場を過ぎ、彼の家のあるバス停を過ぎても僕らは黙ったままだった。やがて、そのバス停から七つ先のバス停に近づくと僕はブザーを押した。
「ここか?」
と彼は目で尋ね、僕は頷いた。
ジーンズ地のジャケットを脱いでハンガーにかけると、部屋を物珍しそうに眺めているマイクに僕は目でジャンパーを脱げ、ハンガーに掛けるからと伝えた。
「ああ、悪い」
そう言って、革のジャンパーを脱ぐと彼は僕に手渡した。それをハンガーに掛け、僕は自分のジャケットの内ポケットから手紙を引き抜いた。
「渡す前に、二つだけ教えて置く。一つはこの手紙が彼女自身の物じゃないという事だ。もう一つ、彼女は今、このロンドンに住んでいる」
最初の言葉で彼の瞳は揺れ、次の言葉で更に大きく揺れた。
「読んでいいのか・・・」
「もちろんだ。これは僕あての手紙であって、僕あての手紙じゃない」
彼は薄い青地の封筒を手に取り、意を決したように中味を取り出した。僕は彼の持ってきたワインと料理を袋から取り出して、ワインの栓を開け、料理をレンジで温めなおした。
横目時折で彼を観察していた僕は、彼が溜息と共に手紙を置くと、ワインをグラスに注いだ。そして自分のグラスを手を付けていない彼のグラスの縁に当てると、飲み干した。
「・・・どうする?」
「どうするって・・・?」
彼は僕と視線を合わせないで呟いた。
「彼女は近くにいる」
「・・・」
「結婚して、子供ができた。彼女は君を待てなかった。彼女の事を嫌いになったか?」
首をゆっくりと振ると、彼は途方に暮れたような目を僕に向けた。
「なぜ、この手紙を僕に見せた?手紙の主は君に配慮してくれと言っている。配慮とは、僕に諦めさせるように仕向けてくれという事じゃないのか?」
「そうかもしれない。でも僕に彼女にも彼女の母親にも義理はない。だが君は友人だ」
「友人・・・」
彼は反芻するようにその言葉を呟いた。
「ならば教えてくれ。僕はどうすべきなんだ」
「彼女を諦めるか、そんな彼女でも奪い取るか、結局二つしか答えはない」
「・・・」
彼は乱暴にグラスを掴むとワインを飲み干し、少し噎せた。僕はレンジから料理を取りだして、皿の上に並べた。
「食べるか?」
フォークを差し出したが、彼は小さく手を振った。
「彼女は貞節ではなかった。だから君がWarrior's Spiritsに拘ることはない。君の好きにすればいいのさ」
「でも・・・」
彼は遮るように答えた。
「彼女は三年間、僕を待っていたんだ。そして父親の事を思って結婚したのだろう」
「そうかもしれない。でも結局、彼女は好きでもないかもしれない男と暮らすことを選んだ。そのつけは彼女が払わなくてはならないかもしれない。歳をとった時、彼女はそれを後悔しないだろうか?」
僕は反論した。
「相手の男を好きでなかったとは限らない」
彼は苦しそうに答えた。
「それに彼女にはもうすぐ子供が生まれる。その子を不幸にしてはいけない・・・」
「子供が不幸になるとは限らない。いや、愛し合ってもいない両親の間に生まれて、その子はそれを知って道を過つかもしれない」
「君は何を言いたいんだ」
憤然として彼はグラスを叩きつけるようにおいた。
「世の中は
僕は静かに言った。
「君は君の正しいと思った選択をすればいいのさ」
「蓋然性とその積算?」
彼は戸惑ったように繰り返し、それからワインを自分のグラスに注いだ。それっきり僕らは静かにワインを飲み、食事をした。
「この肉じゃが、旨いな」
最後に僕はそう言った。彼は、少し驚いたように僕を見て、それから小さく頷いた。
それから一週間後、珍しくオーナーが店を開ける前にやってきた。山田という平凡な名前のオーナーは平凡でなく太っていた。まだ四十代に差し掛かったばかりだというのに、日本中の医者が、その姿を見ただけで首を振る、その位太っていた。僕らは奇異の目で彼を迎えた。時折、客を連れて店に来ることはあるが、全てをマネージャーに任せ、開店前に店に来ることなど滅多にない。その彼が神妙な面持ちで従業員を集めた。
何が起こるんだ?店を閉めるのか?それともオーナーが変わるんだろうか?従業員のさざめく様子を一通り見渡すと、オーナーは厳かに言った。
「マイクが店を辞めてアムステルダムに行くことになった」
従業員の中から、マイクが進み出てオーナーの横に立った。みんなあっけにとられた顔をしていた。この店がマイクの腕で持っていることを誰もが知っていたからだ。だが、オーナーは
「店の事は心配ない。マイクは辞める前に次のシェフを選んできてくれた。彼の腕は私が保証する」
そう言うと、ヤンと声を上げた。店の奥から一人の中年の男が現れた。おそらく中国人なのだろうけど、誰も何も言わなかった。
「ヤンはグラスゴーの日本料理店にいた腕っこきの料理人だ。彼の料理を私はグラスゴーでも食べたことがあるし、契約する前にも二度食べた。マイクとは流儀が少し違うが、味は遜色ない」
オーナーはチーフシェフの退職をうまく乗り切ったことを自慢したかったのかもしれない。
だが、マイクはマイクだ。彼に代わる料理人はいない。
「じゃあ、マイク。一言別れの挨拶を」
そう言われてマイクは一歩先に出て、僕らを振り向いた。厨房とホールの合計八人の男女が彼と向かい合った。下っ端の僕は一番右端に立っていた。
「すまない。みんなに迷惑をかけることになった」
そうマイクは切り出したが、特別に僕の方を見ることはなかった。
「いろいろと考えたんだけど、心機一転してやりなおすことに決めた。勝手なことだとはわかっている。でもどうしてもそうしなければならない事情があるんだ」
そういうと、マイクは一人ひとりと握手をして別れの挨拶をし始めた。みな、少し不安そうな表情だった。それはそうだろう。今までマイクの下でうまくやってこれたけど、新しいシェフの下でうまくやっていけるという保証はない。その気持ちをほぐすかのようにマイクは一人ひとりに丁寧に挨拶をしていった。最後が僕だった。
彼は僕の手を握ると、頷いた。僕も頷き返した。彼が自分自身で行った選択だ。悪い選択じゃない、そう思った。突然、彼は左手で僕の肩を抱き、
「済まなかった。でも、ありがとう」
と耳元でそう言った。みんなが唖然として僕らを見詰めていた。そんな姿を今まで一度も、誰にも見せたことのない彼に。そしてよりにもよってその相手が僕であったことに。
彼が去った職場で、皿を片付けていた僕にオーナーが近づいてきた。彼の発する熱量が感じられるくらいに近寄ってくると、
「橘君、あのさ」
と体形に似合わぬ小声で囁いた。
「君、マイクと友人だったの?」
「友人、と言えば・・・そうですね」
皿への注意を保ちながら、僕は精一杯の愛想笑いを浮かべてオーナーを見た。
「きみ、何で彼が突然辞めたかその理由を知らない?突然さ、辞めるって言って来たんだよ。何か気に食わない事でもあったのかなぁ」
気に食わないことがあったなら、後任まで紹介しないでしょ、と僕が言うとオーナーは、確かに、と頷いた。
「でも、マイクはいつか独立を考えていたみたいですよ。ロンドンで物件も心あたりがあるみたいだったし・・・」
僕の言葉に
「そうなの?」
オーナーは知らなかった、と呟いた。
「でも、ロンドンで店を開いたら・・・この店と競合しちゃうわけだし」
そうか、とオーナーは軽く手を叩くと、
「世話になったこの店と競合するのをマイクは嫌だったんだろうな」
と深く頷いた。僕は彼の勘違いを否定しなかった。
「マイクは義理堅い男だから。あいつは武士道を知ってる男だからなぁ」
満足げにそう言ったオーナーに僕は頷いた。
「確かに、マイクは武士道を知っているやつでした」
何もかも・・・金も技術も尊敬も、武士道まで持っているような人間でも、ロンドンの街ですべてを失って
マイクが去ってから二週間が過ぎた。チーフシェフが変わったことに気が付いた客は殆どいなかった。ときどき、それを言ってきた客もいたけど、人づてにマイクがアムステルダムへ行ったと聞いた人ばかりで、料理を見たり食べたりして気付いた人は皆無だった。マイクは後任者にレシピを忠実に教えたのだそうだ。
「最初のうちはそうした方がいい。たとえ君の料理の方が美味しくても、突然味が変わったというだけで店にやってこなくなる人がいる。客が馴れるまで少しずつ、変えて行った方がいい」
新しいシェフはマイクに言われたことをきちんと守った。その意味では彼は優秀なビジネスマンだった。腕も決して悪くはない。でも、料理を運んだり皿を洗ったりする僕はやはり分かる。料理の盛り付け方、添える野菜の種類、皿に余る量の僅かな増加。
そして僕は時間を少し持て余すようになっていた。そんなある日、レストランの休日明けのディナーの時間、僕は店のフロントで客を案内していた。予約の客を三組入れ、活気づいてきた時間、そこに入ってきた男女を見て思わず僕は二度見した。男の方じゃない。女性の方だった。見間違えようもない。僕が写真で見た、あの女性、青木里香と言う名の女性だった。黄色いワンピースを着た彼女は、慎ましやかに男性の後ろから店に入ってきた。
彼らを奥の席に案内して注文を取ると、僕はどうしようか悩んだ。彼女の母親の手紙、それを読んだ時の彼の悲しい目付き。様々な思いが僕の頭を過った。
注文した品物を届けた時、でも僕の心は決まっていた。僕は武士じゃない。でも人が武士であろうとすることを邪魔する権利は僕にはなかった。
「ご注文の品ものです」
四合の日本酒、酢の物、刺身・・・。彼らが最後に頼んだのが卵焼きだった。卵焼きを最後に頼む客と言うのは珍しい。
「あれ?」
男性が首を傾げた。
「卵焼き・・・前に頼んだのと違うね」
少なくとも、彼は料理を覚えていた、味を知っていた。卵焼きだけは新しい料理長が自分のレシピで作ったものだった。
「料理長が変わりましたので」
僕は丁寧に答えた。
「そうなんだ。青木さん、辞めたの?」
僕は目を瞠った。
「青木の事ご存じでしたか」
「うん、彼の料理、とっても美味しかったから。だからワイフを連れてきたんだ。そうか、辞めちゃったのか。あの卵焼き、ワイフが好きだった日本の料理店の味に似ていたんだ」
彼に見覚えはなかった。多分僕が休みの日にやってきたのだろう。僕は黙って女性の方に目を移した。
「青木っていうのはね、彼女の旧姓でもあるんだ」
男が横に並んだ女性を見てそう言った。
「彼女の料理の勉強にもなるかと思ってね」
「申し訳ございません。青木の料理を楽しみに来られたのなら。奥様にも」
僕を見つめる彼女の瞳の奥が微かに動いた。
「青木さん・・・。その方、日本人なのですか?」
その問いに、男性が笑った。
「そうに決まっているじゃないか。青木なんて・・・日本人以外にいるかい?」
軽躁な笑い声が耳に障った。だが・・・彼女は縋るように僕を見た。嘘を吐くことには慣れていた。それだけが僕がロンドンで学んだことだったような気がした。
「もちろん、日本人です。生粋の」
僕はそう答えた。
でも・・・いつも嘘を吐く時の苦い思いは、どこにもなかった。そう、彼は間違いなく日本人だった、少なくともその心の中には、Warrior's Spiritsに溢れていた。
会計を済ませて出ようとした時、彼女はもう一度僕を振り向いた。僕の目に嘘がないか、確かめようとでもするように。僕は彼女に向かって丁寧にお辞儀をした。
目の前に並んだグラスの向こう側を、黄色い影が過っていった。
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