欧州八景(Eight scenes in European cities)
西尾 諒
第1話 ミュンヘン 1992年夏 Othello & Periodic Table
市街の中心から
川が削った峡谷には動物園があって、休みの日には結構な数の人が訪れる。と言っても子供とか子供連れだけと言うわけではなく、タトゥーをした青年とか、唇にピアスをした少女とかがやってくるのはちょっと不思議な感じがする。
その動物園には孔雀がいて、夜明けに奇怪な声を上げて時折僕を目覚めさせた。最初はいったいどんな動物が鳴き声を上げているのか知らなかったが、例えるなら孔雀の首を絞めるような鳴き声で、孔雀がその声の主だと聞いた時は妙に納得がいった。納得がいかないのは50メートル以上は離れているはずなのに、すぐそこにいるような声量という事だけだ。
ミュンヘン。
僕が最初に住んだヨーロッパの街だ。今でもその名前を聞くと、その頃の事を懐かしさと共に思い出す。マリエンプラッツの見える食堂で、街路にはみ出した席で食べたヴァイスブルスト、オクトバーフェストにできた即席の遊園地から聞こえる歓声、車で一時間もかからない山間の湖、人々が散策する濃い緑の森。
そしてそこで出会った一人の女性。
彼女は僕より五つ年上で、離婚したばかりで、美しく、時々奇妙な事を言って僕を困らせ・・・そして手がとても小さかった。
彼女に初めて会ったのは、バイトで賃金の代わりに住居をタダで貸してもらった吉水さんに連れて行ってもらったパーティの席だった。パーティといっても正式なものではない。ミュンヘンにいる駐在員以外の人々、日本食料店やら、レストランやら、日本人学校の先生やらそうした人々が集まって行う野外バーベキューのようなものだ。その日は、食料品店をやっている斎藤さんと言う人が郊外にある自分の家の庭でバーベキューを主催することになって、吉水さんは僕を古いメルセデスの助手席に座らせてインスブルックへ向かう
「ドイツではね・・・」
吉水さんは高速の出口を降りると慎重にゆっくりと車を走らせた。
「車の速度違反を図る機械・・・あれ、何ていうんだっけかな」
「オービスですか?」
「そうそう、そのオービスに似た機械があってね。でもその機械が光ると、百パーセント違反の切符が来るんだよ」
「そうなんですか」
「うん、百パーセント」
吉水さんも経験したことがあるらしく、妙に確信を持って頷いた。
「でね、大きな違反をすると年収に応じて罰金を払うシステムなんだ」
「へえ」
どうやって違反者の年収を調べるのか僕には分からなかったが、吉水さんは、
「だからさ、この間、ある企業の社長さんが違反してね、その罰金が百万円くらいだったらしいよ」
と言った
「罰金で百万円?」
どんな年収を貰っているんだろう?
「というのもね、大企業はネット補償っていって、現地でも日本と同じ給料を払う。でね、税金がとってもかかるらしい。おかげで年収がとんでもなく増えて、その挙句が百万円の罰金だってさ。一万マルクだよ、考えられるかい?」
いつもインビスと呼ばれるお総菜屋さんのような簡易食堂で3マルクのソーセージにしようか、3マルク50ペニヒのレバーケーゼにしようか悩んでいる僕には考えられなかった。
「だからね、運転には気を付けてね。国際免許だって、容赦ないんだから」
吉水さんはそう言ったけど、僕が事故を起こしたらいったいどんな罰金を払うことになるのか・・・想像がつかなかった。
五月のヨーロッパはどの都市も美しい。でもミュンヘンはその中でもとりわけ美しいと思う。空は澄み切ったように晴れ、頂に雪を抱いたアルプスが間近に見える景色は深い緑の森と石でできた建築物と相まって自分が別世界にやってきたんだと思わせる何かがある。
唯一問題があるとすれば、深い緑の森から吐き出される杉の花粉が飛んできて車に薄い層のような黄色い花粉がびっしりとつくこと、それと高速道路を走るとウィンドーにカゲロウのような虫がたくさんぶつかって油のように貼りつくことである。車を降りた吉水さんは車のウィンドーとフロントを見遣ると微かな溜息を吐いてから、
「じゃ、行こうか。みんなに紹介するよ」
と歩き出し、僕はその後ろをついていった。
斎藤さんは僕たちを見ると髭もじゃの顔を綻ばせて、よく来たね、と歓迎してくれた。吉水さんは挨拶もそこそこに樽からビールを注いでいる女性たちの方へ行ってしまった。よほどビールが飲みたかったらしい。
「君もビールを飲むかい?」
そう尋ねてきた斎藤さんに、
「いえ、僕は帰りの運転がありますから」
と僕が答えると、
「なんだ。吉水君がビールを飲むために連れてこられたのか。それは災難だな。じゃあ、スペッチにでもしておくか」
と言った。スペッチていうのは、コーラとレモネードを混ぜたという奇妙な炭酸飲料だけど、ちゃんと商品として瓶で売っているもので、意外と大人たちも飲む人気の飲み物だった。
「はい」
と答えると、斎藤さんは一リットル瓶を栓抜きで開けて、空の500ccのビールグラスに注いでくれた。なぜだか分からないけど、コーラは半リットル、とても飲めないけど、スペッチだとその位はなんなく飲める。
「ところで、橘君だっけ、着ているもの日本から持ってきたもんだろう?」
斎藤さんは僕をじろじろと眺めながら尋ねた。
「ええ、そうですけど」
「気を付けた方がいいよ。東西ドイツが統一してから、このかたベトナム人が襲われているんだ。ベトナム人は東ドイツで西のトルコ人と同じような仕事をしてきて、安い給料で仕事を奪っていると思われている。今のところミュンヘンではそんなことは起きてないけどね。アジア系の人間がアジアテイストの服を着ているとベトナム人だと誤解を受ける。スーツを着ればいいんだけど、そうじゃない場合はなるべくこっちの服を着た方が良い。彼らにはベトナムと日本の差なんてわからないからね」
「そうですか?」
自分の着ている服に視線を落としてから、僕は十五人ほど、集まっている人々を見回した。みな、それほど高価そうな服を着ているわけでもないけれど、確かにどこか型や風合い《テクスチュア》が違っていると言われればそんな気もしないでもなかった。
「明日うちの店においでよ。余っている服があるから君にただで差し上げよう」
斎藤さんは鷹揚な調子で言った。
「いいんですか?」
「吉水さんの運転手させられちゃったんだもの、ビールも飲めずに気の毒だからね」
「ありがとうございます」
斎藤さんは僕の肩をぽんぽんと叩いた。その仕草もなんとなしに南ドイツ風であった。
集まりの中で、一人だけ僕と同じように日本ぽい服装をした人がいた。僕のようなカジュアルではなく、明るいグレーのきちんとした女性用のスーツ。首に巻かれた群青と金色のネッカチーフがこちら風と言えばいえるけど、飛行機のキャビンアテンダントのような印象もあった。
炭酸飲料を片手に、僕は皿を持ってバーベキューの列に並んだ。良く焼けたソーセージ、鯖や鱒の燻した半身、焼いたパプリカ、茄子、ズッキーニを手早く皿に乗せると僕はベンチに腰かけていた吉水さんの隣に座った。吉水さんはもう二杯目のビールを手にご機嫌そうにラディッシュをつまんでいた。
「僕はこれに塩をかけて食べるのが好きなんだ。ねぇ、悪いけど橘君、プレッツェルを一つ取ってきてくれないかな?」
プレッツェルというのは、パン生地を紐にして濃い塩水に浸し、水引のように結んで焼いたパンの事だ。ビールにとってもよく合う。取っ手のようなものに掛けられていたプレッツェルを一つ手に取り、自分のためにもう一つ取ると僕は席に戻った。
「吉水さん、あの方誰なんですか?」
僕はスーツ姿の女性をそっと指して尋ねた。彼女は別の何人かの女性とスパークリングワインを手に談笑していた。
「うん、どれ?」
少しとろんとした目で吉水さんはそのグループのいる方角を見た
「灰色のスーツを着た人です」
「ああ、彼女。彼女は結城さん、結城永遠子さんっていうんだ。あ、でも離婚したからなぁ。もう結城さんじゃないんだろうけど・・・」
そう言うと、
「え、橘君、彼女に興味あるの?」
とにやにやした。
「ちょうど空き家になったし、へへへ・・可能性あるよ」
吉水さんの言葉に、
「そんなんじゃないですよ。斎藤さんと日本っぽい服装の話をしていたから・・・。あの人はちょっと日本ぽいかなっておもって・・・。それに空き家だからってテナント募集しているとは限らないですよ」
僕は反論した。世の中には一人で生きて行こうとしている女性だってたくさんいる。
「そりゃあそうだね。暫く心の修繕中ってこともあるからね。橘君、うまいこと言うね」
吉水さんは筋違いのコメントをすると、残っていたビールを飲み干して、
「次はヴァイツェンにしようかな・・・」
と呟きながらふらふらとビールのサーバーの方へ向かっていった。ちなみにヴァイツェンというのはまだ発酵中のビールのことだ。吉水さんもなんだか発酵途中のような人だった。
結局吉水さんはパーティの間じゅう、終始ビールに夢中で、かわりに斎藤さんが何人かの人を僕に紹介してくれたが、その中に彼女は入っていなかった。だが、そろそろお開きになるだろうという、時間、つまり男性陣のかなりの人々が酔っ払ってわけがわからなくなりつつある頃に、酔っ払っている吉水さんに彼女の方から近づいてきた。
「吉水さん、おひさしぶりです」
高くもなく、低すぎもしない落ち着いた声だった。吉水さんはいい加減酔っ払っていたが、女性に対する気遣いはまだぎりぎり保っていた。
「ああ、結城さん。お久しぶり」
そう言ってのろのろと立ち上がると、
「楽しんでますか?」
と彼女に尋ねた。ええ、とっても、と彼女は答え、僕に小さくお辞儀をした。
「こちらは?」
「ああ、橘君といいましてね。うちの仕事をちょっと手伝ってもらっているんですよ。従業員じゃないんですけどね」
僕も彼女に挨拶をした。大きな瞳、柔らかそうな頬とピンク色の唇、ショートボブの髪はちょっと染めているのか傾きかけた陽にきらきらと輝いていた。背は僕の顎のあたりの高さだ。
つまりは完璧だ、というより僕の完璧の定義が彼女の方に寄り添った。吉水さんが余計なことをいうんじゃないかと僕ははらはらしたけど、さっきの話をもう忘れたのか、吉水さんは
「ちょっと引っ越し関係の仕事でね」
と付け加えた。
「あら」
永遠子さんは明るい声を上げた。
「吉水さん、引っ越しのお仕事もなさっているんですか?」
「ええ、もちろん」
事実だった。とは言ってもフランクフルトにある日本の運送業者がこれからはミュンヘンにも日本の企業が進出するだろうと考えて話を持ち掛けてきた先がたまたま吉水さんの知り合いだったというだけで、今まで実績があるわけではない。でも吉水さんはさっさと地元の業者とも話を始めていて、彼によれば準備万端というわけだ。で、僕がたまたま旅行に来て、吉水さんと知り合い、税金対策だという彼の持ち物のフラットに住まわせてもらい、電話当番を兼ねているというわけだった。どんな税金対策なのかはよく分からないけど、僕にはホテル代が浮くというだけで大歓迎だった。
「じゃあ、ちょっと頼みたいことがあるんですけど・・・」
そう言って永遠子さんは僕をちらりと見た。僕は、後片付けを手伝ってきます、と言って席を離れた。
グリルを片付け、チャコールの袋を物置に仕舞いながら、横目で見ていると漸く話は終わったようだった。吉水さんが、おーいと僕に声を掛けた。僕が寄っていくと、
「ついに初仕事だよ、橘君」
嬉しそうに吉水さんは僕の肩を叩いた。
「これで君も晴れて居候、無駄飯食いの汚名を返上できるね」
そんな汚名を着たつもりはなかったが、僕は頷いた。
「じゃあ、あとは彼にアレンジをさせますから」
そう言うと吉水さんは、斎藤さんに挨拶してこなきゃな、と言ってそそくさと立ち去った。それを呆然と見送り、視線を戻すと永遠子さんがふふふ、と笑った。
酔いつぶれた吉水さんを車の後ろに乗せて、僕は古ぼけたメルセデスの助手席のドアを開けた。そうするのが何となくヨーロッパらしく思ったのだ。永遠子さんは、
「ありがとう」
ときちんとお礼を言って助手席に乗り込んだ。吉水さんが、
「最初のお客様なんだからぜひ車に乗っていってくださいよ」
と永遠子さんを掻き口説き、電車で近くの駅から斎藤さんにピックアップしてここに来たという永遠子さんを僕らは送ることになったのだ。僕は吉水さんに大いに感謝した。なんだかんだっていうけど、吉水さんは僕に色々な運を与えてくれる人だった。最初のお客様を乗せるにしてはずいぶんと古い車だったけど、でもメルセデスのSL200は十分席が広いことは確かだった。何度か運転させてもらったその車を道路に出すと、暫くして永遠子さんが
「ねぇ」
と僕の方を向いた。
「はい」
僕は緊張して答えた。
「車・・・逆を走っていない?」
「逆?え、こっちの道ですけど・・・」
「そうじゃなくて・・・車線が逆」
あっ、と僕は小声で叫んだ。日本と違って車は右車線を走るのだ。片側一車線で、車が他に走っていなかったからつい日本と同じように左車線を走っていた僕は慌てて車線を変更した。
ふふふ、と永遠子さんは笑った。
「橘クンってなんか・・・弟みたい」
永遠子さんが僕を初めて名前で呼んでくれたその時の事を僕はまだ覚えている。
「結城さん、弟さんがいるんですか?」
「うんう、妹がいるけど。それに私、もう結城じゃないの・・・。聞いたでしょう、離婚したって」
「あ・・・はい」
僕がどぎまぎして答えると永遠子さんは溜息を吐いた。
「ミュンヘン中の日本人が知っているみたいよね」
「あ、じゃ僕その最後の一人です」
「弟君が一番最後に知ったか・・・」
永遠子さんはまた笑った。
「だから、三浦さんだよ、私は」
「・・・永遠子さんって呼んでいいですか」
僕が尋ねると、
「いいよ。姉さんでも構わない」
と永遠子さんは答えた。きっとスパークリングワインを飲んだせいで少し酔っていたんだと思う。
「永遠子さん、にします」
「うん」
頷くと、永遠子さんは視線を車外に移した。そして緑色に靡く畑を見て
「きれいだね」
と呟いた。
眠ってしまった吉水さんの代わりに僕は永遠子さんから頼まれた仕事の概要を聞いた。
離婚した相手の人がもうすぐ日本に帰任する。その船便はもう送ってあるけれど、まだ残っている荷物がある。それを航空便にして送るもの、永遠子さんが引き取るもの、捨てるものに分けてフラットを明け渡す状態にする、というのが仕事の内容だった。作業は帰任日の一日前、すなわち今週の水曜日で、家を空けたら元の旦那さんはホテルに移るんだという事だった。
「頼んだ業者がちょうど吉水さんがお仕事をしている業者さんだったから、そっちから連絡をいれてくれるって・・・助かるわ」
と永遠子さんは言った。
「みんな棄てちゃっても構わないかなって思っていたけど、でも出て行くとき、急いだから私のものもまだ残っているの」
「そうなんですか」
ウィンカーの代わりにワイパーと洗浄液を作動させて、もういちど永遠子さんを笑わせて僕は高速を降りた。
「じゃあ、水曜日のお昼12・00にね。念のために住所を渡しておくわ。吉水さんにも言ってあるけど」
彼女はオリンピアパークの近くの地下鉄の駅で降りるときに、僕にメモを渡した。丸みを帯びた可愛らしい字だった。そこに彼女の家の電話番号も書かれていて、僕は少しドキドキした。もちろん彼女に他意はなかったのだろうけど。
「こちらの連絡先は・・・」
「うん、わかっているから」
そういうと永遠子さんは小さく手を振ってにこりと笑って立ち去った。僕は車を出そうとして、またウィンカーの代わりにワイパーを動かしてしまい、小さくかぶりを振ってから発進した。
引っ越しの日は雨が降っていた。12時に言われた通りの場所に僕は車で向かった。僕の住んでいる場所から南へ少し下った、Harachingという町は比較的裕福な人々の住むところで日本人家族も少なくない。その一角にあるフラットの前に車を停めると引っ越し業者はもうやってきていた。
「時間通りね」
ドアベルを鳴らす前に現れた永遠子さんは、ジャージ姿で前に会った時よりも子供っぽく見えた。二階に上がり、部屋に入ると引っ越し荷物らしきものはあらかた片付いていた。体格のいいドイツ人の業者は、僕なら二人がかりでも持ち上げられるかどうかわからない荷物を一人で軽々と持ち上げ、僕の車の前に停まっているトラックへと運んで行く。
部屋の奥に寝室があって、そこの大きなベッドに人が一人横たわっていた。
「歓送会で飲みすぎちゃったんだって」
永遠子さんが呆れたように言った。どうやらそれが前の旦那さんらしかった。
「洗濯物も畳んでないし、ほんとにしょうがない」
口を尖らせて永遠子さんは文句を言った。うーん、と呻くような声がそれに応じた。
「僕は何をすれば・・・?」
「私が持っていくものは纏めておいたの」
永遠子さんは部屋の隅を指でさした。鞄が二つ、靴とブーツが三足、何冊かの本とそれが入った小さな本棚、それに荷造りのしてある段ボール箱が二つ。それほど大きな荷物ではない。会社のバンを借りて来ればよかったと僕は後悔した。トラックを持ち出すまでもなくこのくらいの荷物なら一挙に今日中に片が付きそうだった。
「ベッドとかは?」
「家具付きの借り家だから、置いていっていいの」
「そうですか。あしたにも纏めて運び出しましょうか?」
そう尋ねると、永遠子さんは首を振った。
「鞄と靴は今日のうちに持っていきたい」
「鞄と靴ですか?」
無理をすれば手に持って運べそうな量だったけど、僕は頷いた。
「じゃあ、車に入れておきます」
「お願いね」
永遠子さんの声に寝室からもう一度呻き声が返ってきた。
「なんで・・・」
永遠子さんの前の旦那さんは僕をちらりと見遣ってから、言葉を継いだ。
「この店にしたんだい?もう少しちゃんとしたレストランもあっただろう?」
でも、おそらく彼は、なんで、この人がここにいるんだい、って聞きたかったんだろう。
空港の近く、その当時はRiemと言ってミュンヘンの街中から車で二十分も走れば到着するこじんまりとした空港があって、その近くにあるWienerwaldというチェーン店で僕らは夕食を一緒に取っていた。
「懐かしいじゃない、この店。ここじゃないけど、最初にミュンヘンに来た時も同じ店で夕食を食べたのよ」
永遠子さんは鳥の半身をフライにしたものを切り分けながら答えた。
「そうだったけな?」
永遠子さんの前の旦那さんは寝室で倒れていた時にはどんな人かと思っていたが、永遠子さんに急かされてシャワーを浴び着替えるとごくごくまともな人だった。やせ形で運動が好きらしく引き締まった体をしているし、物凄くハンサムとまではいわないけれど、魅力的だと思う女の人がたくさんいてもおかしくない顔立ちだった。
「それに、荷物を運ぶついでにあなたをホテルまで送り届けるにはちょうど良い場所だし」
「ふうん」
余り納得していないように彼は答えた。
「でも、君と最後の食事なんだからさ・・・」
「別に最後にしなければいいじゃない」
「どういうこと?」
「死に別れたわけじゃないんだし・・・」
「そりゃま、そうだけど」
「大学の同窓会で会う事だってあるかもしれない」
「うーん」
唸ると、彼はもう一度僕を見た。出ていけ、と言う風でもなかったけど、なんだか話し難そうではあった。
「ちょっと、僕、車の方で・・・」
サラダを半分くらい残したまま立ち上がろうとした僕を永遠子さんが押しとどめた。
「でも最後の夜だし、お二人で話したいことも・・・」
できるだけ丁寧に聞こえるように僕は言った。
「ずっと、二人きりだったの。ミュンヘンにいる間中。そこで話さなかったんだから二人で話さなければならないことは何もない」
永遠子さんはそう言った。その言葉の勢いに外に出そびれた僕を見て彼が笑った。
「永遠子らしいな。そういえばその通りだ」
それを境に永遠子さんの前の旦那さんは僕にも話しかけるようになった。
「へぇ、大学生なんだ。羨ましいな。僕も大学の頃、海外に出てみればよかった」
「でも社会人になってからでも遅くないと思います」
僕がそう答えると、社会人になるとね、色々とあるんだ、と彼は答えた。
「色々ってなに?」
と永遠子さんが問い、彼は、色々って、色々さ、と答えた。
「その色々を曝け出せっていうのが君の癖」
「だって、色々じゃわからないじゃない」
僕が割り込んだ。なんとなく険悪な雰囲気がしたからだ。
「大学生にだって色々ありますよ」
二人は同時に僕を見て、尋ねた。
「色々って何?」
「色々ってなによ?」
「色々です」
仕方なしに僕はそう答え、二人は笑った。
食事を終え、僕は永遠子さんの旦那さんをホテルまで送った。チェックインをしている最中にちょっとお手洗いに言ってくると言って永遠子さんがいなくなると、手続きを終えた彼が戻ってきて、僕らはロビーのソファに座って彼女を待った。
「明日、出発なんですか」
「うん、デュッセルドルフ経由でね」
彼は答えた。
「君はいつまでここにいるの?」
「そうですね、観光ビザだからどんなに長くてもあと四か月・・・」
「そうか・・・」
僕らは会話の種を失ったように途方に暮れてトイレの方角を見た。
「君みたいな人が間にいたら・・・」
と突然そう言って、彼は僕を見た。
「え?」
「僕らは別れずに済んだかもしれないな」
彼がそう言った時、永遠子さんが戻ってきた。僕らは立ち上がり、彼は僕に手を差し出した。
「なんだか、君まで巻きこんじゃったみたいで、申し訳ないな。気疲れしたろ?」
「いや、そんなことないです」
そう答えると彼はにやりと笑った。
「ときどき、永遠子につきあってやってくれ。気疲れするだろうけど」
「なに・・・私が気疲れのもとなの?」
永遠子さんが割って入った。彼はそれに答えずに、
「また、東京で会おう」
と言った。
「そうね・・・。空港には見送りにはいかないから」
永遠子さんは答えて、手を差し出した。
「うん、わかっている」
それまで気付かなかったけど、永遠子さんの手はとても小さかった。その手を軽く握って、じゃあ、と言って彼はエレベーターホールの方に向かった。
ミッテラーリングという名の、東京で言う環状六号線のような道路に乗って僕は永遠子さんを家まで送った。彼女はその間中ずっと喋らなかった。暫く走って、
「あ、その信号を右に」
というまで、助手席からずっと外を眺めていた。
僕がウィンカーを出して右折レーンに入ると、永遠子さんは、急に僕の方を向いて
「間違えないんだ、ワイパーと」
と責めるように言った。
「え、ああ。そうしょっちゅう間違えるわけじゃないですよ」
そう僕がこたえると、
「こういう時は間違えるもんだよ」
と永遠子さんは呟き、僕は首を傾げた。
言われた通り、街灯の傍に車を停めると
「荷物、部屋までもっていきましょうか?」
僕が尋ねると、永遠子さんは首をふった。
「他の荷物とまとめて持ってきてくれればいいよ」
「え、じゃあなんで?」
それだったらわざわざ、僕がここまで送る必要も・・・一緒に夕食を取る必要もなかったはずだ。
「だって、そうしたら・・・前の旦那と二人きりになっちゃうじゃない」
永遠子さんは答えた。
「それに、帰るとき、一人っきりになっちゃうじゃない」
「ああ・・・」
「荷物はいいからさ、しばらく星でも眺めていよう。こんな時間に引っ越し荷物を運びこんだらドイツ人は怒るよ」
「そうですね。車の中からですか」
「うん」
僕は車のエンジンを切って、窓を開けた。
「ねえ、私ってどんな風に見える?」
暫くすると永遠子さんは僕に尋ねた。
「気疲れする?」
「そんなことないですよ・・・。賢い女性だと思います」
実際彼女は賢い女性に見えた。引っ越しの時も業者と話している彼女のドイツ語は完璧で、大学で習った片言でしか話せない僕とは雲泥の差だった。
「賢い女性は幸せになれる。でも賢く見える女性は幸せになれない」
彼女はことわざのようにそう言った。
「誰の言葉ですか?」
「私が言ったの」
永遠子さんは、ふふふと笑った。
「やっぱり橘クンといると気が晴れる。橘クン、オセロって知ってるよね」
永遠子さんは夜の空を見上げながら尋ねた。
「あのゲームですか?白と黒の」
「うん、それ。あのゲームってさ、白の石が一挙に黒になることあるじゃない」
「そうですね」
「何となく人生って、そういう事もあるんじゃないかなぁ。だから私たちはそうならないように、一生懸命白の石を置いていく。盤の隅をめがけてね。盤の隅はひっくり返らないと決まっているから」
「そうですね」
「私にとっては、結婚って盤の隅に置いた石だったのね。うんう、そのつもりだった。でもさ、人生ってオセロゲームより複雑なんだよね」
そう言うと永遠子さんは僕の方を振り向いた。
「今日はありがとね。ビールも飲めなくって、つまらなかったでしょ。今度ビールを奢るから、飲みに行きましょ」
「ええ」
「じゃあね、私帰る。明日もよろしくね」
「分かりました」
僕は車を降りて、助手席のドアを開けた。
「橘クン、紳士だね」
そう言いながら永遠子さんは車を降りた。フラットのある建物の手前に立って玄関に灯っていた明かりで鍵を見つけると、永遠子さんは僕に手を振った。
翌日、僕は車に乗せてあった荷物をバンに積み替え、預かった鍵でHarachingの家の鍵を開け言われた通りの荷物を載せると永遠子さんのフラットへと向かった。永遠子さんは昨日と同じ格好をして建物の外で待っていた。靴と鞄は永遠子さんが、残りの荷物は僕が二回に分けて運び入れた。永遠子さんの部屋はやはり家具付きだったけど、前の家よりだいぶ狭くて、さっぱりとしていた。
「女性っぽくない部屋だよねぇ」
と永遠子さんはしみじみと言った。
「そんなこともないですよ」
と僕は答えた。
「じゃあ、そのうち電話するからね」
「はい、楽しみにしています」
そう言って僕らは別れ、僕は最初の仕事を終えた。
どういうわけか、最初の仕事が終わった次の日から急に忙しくなった。何軒かの家から引っ越しの見積もり依頼が来て、僕は吉水さんと毎日のように車で出かけた。ミュンヘンだけではなく、フッセンとかアウグスブルクからも依頼が来たので僕らはそのたびに吉水さんの車で高速道路に乗ってクライエントを訪問することになった。
「いいねぇ」
吉水さんは満足げだった。
「橘君はラッキーボーイなんだ。この調子だと、誰か雇わなくちゃならないかな。橘君はどう?」
「僕は観光ビザだから駄目です」
「何とかならないものかな」
「無理だと思いますよ」
行きと帰りの車で同じ話を繰り返した後、
「ところでさ、結城さんの奥さん・・・どうだった?」
と吉水さんが尋ねてきた。
「どうだったって、何がです?」
「そりゃあさ・・・」
「あの人はそういう人じゃないと思いますよ。それと離婚したんで三浦さんという名前に戻ったそうです」
「三浦さん。そうか・・・でも、そうかなぁ。女の人って寂しがり屋だよ」
仕方なく、僕は三人で食べた食事の話をした。
「え、そうなの?じゃあ旦那さんにも会ったの」
「ええ」
「そりゃ、なんだね、大変だったね」
「別に二人が喧嘩していたわけでもないですから」
「でも、今度ビールを飲みに行くんだろう?」
「そうですけど・・・変な想像してもらっちゃ困ります」
「うん、まあだいたい話を聞いて分かったよ。そんな人じゃないっていう意味がさ」
吉水さんは真面目な顔でそう言った。
「じゃあさ、その時は言ってよ。住まいを提供はしているけど、その時はさ、少しお小遣いをも渡すからさ」
日本から持ってきた手持ちの現金が日々、減っていることは事実だけど僕は強がりを言った。
「いいですよ。向こうが奢ってくれるんですから」
「そんなもんじゃないよ、やっぱり男は多少お金位もっていかないと」
「分かりました、じゃあ、その時に言います」
でも、永遠子さんからの電話はなかなかかかってこなかった。まだ携帯電話なんて高くて誰もが持っている時代ではなかった。住んでいるフラットの電話が鳴るたびに心はときめいたのだけど、永遠子さんからの電話ではなかった。
その日、僕はたまたまちょっとした打ち合わせで吉水さんの事務所に行っていた。電話が鳴ってたまきさんという事務所で雇われている唯一の日本人女性が、僕を呼んだ。
「三浦さんという方からの電話ですけど」
吉水さんがにやりと笑い、僕は慌てて電話の方へ飛んでいった。
「はい、橘です」
受話器の向こうから永遠子さんの声が聞こえた。
「ああ、橘クン。遅くなってごめんなさいね。今日の夜って空いている?」
「ええ」
「じゃあ、約束の飲み会、今日でいいかな?」
「もちろんです」
永遠子さんはマリエンプラッツの近く、聖母教会の裏手にあるというレストランの名前を言った。
「そこに今日7時に予約してあるから」
「わかりました」
戻ると吉水さんがにやにや笑いを浮かべながら財布を出していた。
「良かったね」
「ええ」
誤魔化しようもないので僕は頷いた。
「へへ、お小遣いを上げるよ」
そう言って吉水さんは財布から50マルク札を二枚出して、それから滅多に見かけない小さな緑色のお札を足した。5マルク札だった。
「これは、お守りだよ」
そう言って僕に渡した。
「ありがとうございます」
僕がこたえると、吉水さんは無遠慮に僕をじろじろと眺めた。
「デートに行くんだから着替えた方がいいよ」
その声にたまきさんが素っ頓狂な声を上げた。
「え、橘さん、デートなんですか?意外」
僕は西部劇で撃たれたガンマンのように両手を上げた。
斎藤さんからもらった服の中で一番似合う服を着て僕は地下鉄の階段を上がっていった。店は飲食店を除いてこの時間になると閉まっているのだが、明かりはついたままで、道行く人々は時折ウィンドーの中を覗き込みながらゆっくりと歩いて回る。探していたレストランはすぐに見つかった。中を覗き込むと永遠子さんが手を振っていた。
「時間通りだね」
永遠子さんはそう言って目尻を下げた。
「なんか、ドイツ人みたい。時間通りなんて。着ているものも・・・変えた?」
「あ、これ貰いものなんです」
そう言いながら僕は永遠子さんの前に腰を掛けた。ドイツのレストランの椅子はどういうわけか、どれもこれも重くて頑丈にできている。椅子を引くのも結構力がいるのだ。
「ビールで良い?どれにする」
「じゃ、ピルスナーを」
永遠子さんが手を上げるとウェイターがすぐに寄ってきた。そして、メニューを指してついでに幾つか注文した。
「ここのソーセージ、おいしいんだよ。何か食べたいものある?」
「任せます」
「分かった」
そういうとあと二三品を追加して、ウェイターが去っていくと、
「ごめんね、遅くなって。ちょっと仕事が忙しくて」
永遠子さんは言った。
「永遠子さん、仕事しているんですか?」
「うん、もちろん。そうじゃないと食べていけないもの」
「何のお仕事を?」
「領事館でね・・・」
「あ、そうなんだ」
「仕事してないと思った?もしかして離婚で前の旦那からがっぽりせしめたとか思ってた?」
「がっぽりってわけじゃないですけど」
「だって、離婚を言い出したのは私だよ。世間的には大して理由もないのに。それでお金をもらうわけにはいかないじゃない」
「そう・・・だったんですね」
ビールがやってきて僕らは乾杯した。Prosit!それから次々に料理が運ばれてきた。
「どのソーセージが好き?」
ソーセージの盛り合わせが来ると、永遠子さんが僕に尋ねた。
「うーん、どれも美味しいですよね」
「選びなよ」
「じゃあ、カリーヴルスト」
「取ってあげる。私はレーゲンスブルガーにしよっと・・・」
上手に取り分けると、永遠子さんは僕に尋ねた。
「どうして別れたかって、聞かないの?」
「どうして・・・ですか?」
「・・・どうしてかな?」
「色々・・・あったんですかね?」
僕がそう言うと、だよねぇ、と永遠子さんは微笑んだ。
「みんなが聞くけど良く分からないんだよね」
「いい人みたいに思えましたけど」
そうそう、と永遠子さんはフォークをつんつんと突き出しながら言った。
「両親にも言われた」
「別れるくらいならなんで結婚したのって?」
うんうん、レーゲンスブルガーを頬張りながら永遠子さんは頷いてそれから、首を傾げた。
「私の事を、いつも不機嫌な雌のシャムネコみたいだって言ったからかな」
不機嫌なシャムネコ・・・ですか?僕は繰り返した。
「でも大学が一緒だったんでしょ。大学の時はそうでもなかったんですか?」
「大学の時はもっと不機嫌だった、と思う」
そう言うと、永遠子さんは僕を見た。
「不機嫌なシャムネコがいたら、橘クン、どうする?」
「たぶん・・・放っておきます。引っかかれるの嫌だし」
「そうなのよね。不機嫌なシャムネコは放っておけばいいの。機嫌を直させようとしちゃだめよね」
僕らはビールをそろぞれお替りした。
「私には妹がいてね、美子っていうの」
「そうなんですか?」
「うん、なにか気付かない?」
「え?」
「私が永遠子、妹が美子」
「・・・」
首を傾げた僕に、何か書くもの持っていると言うと差し出した僕のボールペンと手帳を受け取り、その最後のページに永遠子さんは永遠子と美子と並べて書いた。
「永遠の美・・・ですか?」
「父親って馬鹿よねぇ」
しみじみとした口調で永遠子さんは言った。
「でも美子には子供がいて父親はおじいちゃんになった。おじいちゃんて楽しいみたい。私はそんな楽しみも父親にあげることができなかったなぁ」
「まだ・・・遅くないじゃないですか」
僕がそう言っても永遠子さんは頷きはしなかった。永遠子さんはその日、白のブラウスと鮮やかな黄色のスカートを着ていた。そのブラウスに深緑と赤の刺繍が施されていて、
「なんだか可愛らしいですね」
僕が話題を変えてみると、そう?と顔を少し顰めて、
「でも安物だよ。そこのカウフホフで買ったの」
と永遠子さんは言った。カウフホフっていうのは、デパートとスーパーの中間みたいな店だ。
「なんか、バイエルンぽい」
僕がそう言うと、永遠子さんは悪戯っぽい目をして聞いてきた。
「橘クンはどんな服が好き?女の子が着るとしたら」
「そうですね・・・」
僕は目の前の女性を見た。
「ちょっと季節は違うけど、厚手の白いセーターを着て、暖炉の横でその火で少し、オレンジ色にセーターが染まって・・・そんな風景かな」
そう答えると、橘クンってロマンチックだね、と永遠子さんは笑った。
食事を終えて、勘定をする時、僕は吉水さんに貰ったからと払おうとしたけど、永遠子さんは
「だって、私が誘ったんだから、この間のお礼だし」
と受け取ろうとしなかった。
「じゃあ、こんどはそのお金でビアガーデンに行こうよ。うまくすれば三回くらい、行けるかも」
永遠子さんはそう言った。僕にはそれを断る理由なんてなかった。これっぽっちも。
それから僕らは、ときどき・・・時々と言っても一月に二回か三回だけど会って食事をした。昼ごはんの時もあれば夕食の時もあり、ちゃんとしたレストランの時もあればインビスで会う事もあった。
ビアガーデンの時だけ、僕は吉水さんから貰ったお金を使った。僕の家から近いところにも永遠子さんの家から近いところにもビアガーデンがあって、僕らはビアガーデン評論家のようにそれぞれを批評しあった。そして、飲んで、食べて、笑った。
でも・・・僕の時間は限られていた。
月は9月、ミュンヘンは8月の半ばを過ぎると秋の気配がしてきて、もう外で夜のビアガーデンを楽しむには寒すぎる季節になる。8月の半ばに会ってきり、永遠子さんとは会っていなかった。時が進むにつれて、僕らは・・・少なくても僕は彼女との別れが近づいていることに耐えきれない気持ちになっていた。
それなのに僕は彼女に自分の本当の気持ちを伝えられなかった。そうすることで彼女との関係が壊れてしまうことが怖かったのだ。そうなったらきっと、それが彼女との最後の出会いになってしまう。
僕の仕事を引き継ぐのはたまきさんの知り合いのドイツ人の青年だった。日本語を勉強している彼は聡明で感じが良かった。彼に引き継ぎをしなければいけないという事を自分の言い訳にして僕は忙しいふりをしていた
「ねえ、橘クン、エーリッヒ。9月の29日、開けといてね」
エーリッヒと言う名前のドイツ人青年とオフィスを訪れた時、吉水さんは僕らを見てそう言った。
「何かあるんですか?」
尋ねた僕に吉水さんは、
「橘君の送別会と、エーリッヒの歓迎会。オクトバーフェストに行こうよ。うちは貧乏だからフィヤレスツァイテンで歓送会なんかできないけどさ。夕方の六時に来てよ」
フィヤレスツァイテンというのはドイツ語で四季という意味で、ミュンヘンで一番の老舗高級ホテルの名前だ。
「わかりました」
「ゲナウ」
と僕とエーリッヒは同時に応えた。
「橘君の帰りの飛行機は3日だったっけ。デュッセルルドルフ経由だよね、何時の飛行機?」
「10時です」
「斎藤さんがね、見送りに行くってさ」
「そんな・・・迷惑じゃないですかね?」
「気にしない。斎藤さん、君のことを気にいっているから。それと・・・どこか行きそびれたところはない?土日なら車使っていいよ」
「あ・・・いいです。また来ることもあるだろうし」
「そか」
ぽんぽんと僕の肩を叩くと、吉水さんは外へ用事を思い出したと言って出て行った。
もうミュンヘンにいるのはあと、一週間しかない。し残した大きな仕事を抱えたまま僕はテレジアンヴィーゼの駅におりた。
駅から出て空を眺めると、陽は西の空に落ちかかっていた
「Paulanarのテントにいるからね」
昨日、吉水さんが電話をかけて来てそう言った。
「ゆっくりでいいよ。荷物とか整理しなければならないだろうからさ」
Paulanarはミュンヘンの大きなビール醸造所の一つだ。HB(ホフブロイ)やアウグスティナー、レーベンブロイのテントを一つ一つ確かめながら、僕はPaulanarのテントを漸くみつけると中に入った。ちょうどアコーディオンを片手に、ビールジョッキをもう片手に持ったレーダーホーゼンという革のズボンをはいた男の人が舞台の上で、1《アイン》、2《ツヴァイ》、3《ドライ》、4《フィァ》、ツンボルグと叫んで、テントの中にいた人々がジョッキを互いにぶつけ合っている時だった。ビールジョッキを山ほど手にした女性が忙しそうに通り過ぎていくすぐ向こう側で吉水さんが手を振っていた。
そしてその横に一つ席を空けて・・・永遠子さんが座っていた。白い、あたたかそうなもふもふのセーターを着て。一瞬、立ち尽くした僕に向かって吉水さんは、
「早くおいでよ。三浦さんにも来てもらったんだ」
と叫んだ。その声が場内のざわめきの中でも、はっきりと聞こえた。
テーブルの上には山ほどの料理が乗っかっていて、僕らが食べても食べてもまだ残っているほどだった。
「社長、奮発したわね」
たまきさんが呆れたようにラディッシュをポリポリと噛みながら言った。その社長はビールの飲み過ぎでテーブルに顔をのっけたまま突っ伏していた。
「ほんとうにたべきれないほどですね。もったいないから何かにいれて持って帰りましょう」
エーリッヒは流暢な日本語でそう言った。
「僕があとで入れる容器、貰ってきます」
「そうして」
たまきさんはエーリッヒに向かってそう言うと、
「社長、橘さんのこと気に入っていたから・・・だね」
と残念そうに僕をみた。
「また、来ますよ、そのうち」
「そうしてあげてちょうだい。社長、結婚していないし、家族が近くにいないから淋しいのよ」
「ええ」
それから、たまきさんとエーリッヒはどの位の量の容器を貰ってくるか相談を始めた。
「ねぇ、橘クン。おなかいっぱいだし、ちょっと外で散歩しない?」
永遠子さんが僕にそう言った。
「いいですね」
「あ、じゃあ、私が荷物を見ていてあげる」
たまきさんが、そう言ってくれた。
「よろしくお願いします」
僕らはそう言うと、ベンチから腰を上げた。
テントの外はもう涼しい、というよりちょっと寒い位だった。
「ねぇ、遊園地の方にいってみない?」
「いいですね」
僕らは賑やかな灯りが瞬く、歓声のする方へ歩いていった。
「いつもここに遊園地があるんですかね」
メリーゴーラウンドと回転ブランコの間を歩きながら僕が言うと、
「違うよ。これはお祭りのたびに設置する移動式遊園地だよ」
と永遠子さんが答えた。
「じゃあ、あれも?」
僕はジェットコースターを指でさした。さまざまな叫び声を乗せてがらがらと轟音を立ててそれは僕らの斜め上を走っていった。
「そうだよ」
「大丈夫なんですかね」
「ためしにのってみようよ」
「え、何を試すんですか?」
僕の懸念をよそに永遠子さんは、小走りにジェットコースターの乗り場の方へ走っていった。
「5マルク50だって。二人で11マルク、持っている?」
「その位なら・・・」
僕はお尻のポケットから財布を抜き出すと、僕は20マルク札を出した。
「後で自分の分は出すから」
「いいですよ。僕のおごりです」
「貧しいものほど、奢りたがる」
永遠子さんはまたことわざのように言った。
「・・・」
僕は、ちょっと感じ悪いよ、という顔をして見せた。
ジェットコースターの手すりを握っている永遠子さんの手を僕はじっと眺めていた。それに気づいて、永遠子さんは、
「なに?」
と首を傾げた。
「手、ちいさいですよね」
そう言うと、そうなの、と永遠子さんは頷いた。
「こんな小さな手で、幸せって掴めるのかしらね?」
「大丈夫ですよ。しっかり掴めば」
「でも、わたし、握力もないの」
永遠子さんは悲し気に答えた。その途端、ジェットコースターが動き始めた。
永遠子さんの話を聞いていたせいか、ジェットコースターのレールの継ぎ目に差し掛かってガタンと音がするたびに僕はお尻がむずむずし、僕は日本でジェットコースターに乗る時と別の種類の恐怖を飲み下していた。最初は、きゃあ、と声を出していた永遠子さんも途中から却って大人しくなって声を出さなくなった。ふと隣を見るとジェットコースターの揺れに逆らう事さえせず、永遠子さんは真剣な表情で目を瞠っていた。
漸く停止したジェットコースターから降りるとき僕も足元がふらついたけど、永遠子さんはそれ以上だった。なんとか手を引っ張って乗物から降ろした永遠子さんは、そばにあったベンチにへたり込むように座った。
「二十年ぶり・・・なの」
言い訳するように永遠子さんはそう言った。
「その時は大丈夫だったんですか?」
尋ねた僕に永遠子さんは首を振った。
「じゃあ、またなんでジェットコースターになんて乗ろうと思ったんです?」
「だって、大人になれば大丈夫になると思うじゃん」
永遠子さんはぼんやりとした眼で僕に抗議するように言った。
「二十年間、わたし、何にも成長していなかったってこと?」
「ジェットコースターに関しては・・・そうかもしれませんね」
永遠子さんはがっかりしたように項垂れた。
「しばらく休んでいきますか?」
「でも・・・みんな待たせているかもしれないし」
「大丈夫ですよ。吉水さん寝ちゃっていたし」
「ねえ、負ぶってよ」
「え?」
「負ぶって連れて行って」
「負ぶるって、背負うってことですか?」
「他に意味があるとは思えない」
永遠子さんは断固とした口調でそう言った。
「いいんですか」
「うん」
僕がベンチの前にしゃがむと永遠子さんは僕の首に手を回して背中に乗った。モフモフとしたセーター越しに柔らかな永遠子さんの体を感じた。
「立ちますよ」
「うん」
永遠子さんの体は思ったより軽かった。
「吐いたら、許してね」
「勘弁してくださいよ」
「できるだけ我慢する。重いでしょ。ごめんね、二十年かけて体重だけは増えたの」
「そんなことないですよ。軽いです」
「橘クン、優しいね」
そう言うと、永遠子さんは右手で僕の頬を撫でた。
「ねえ、永遠子さん」
「うん、なあに?」
永遠子さんは優しい声を出した。
「僕が永遠子さんのオセロの・・・」
「うん」
「オセロのコーナーになることってできないんですか?」
それは僕の心のプロポーズだった。まだ僕は結婚できるほど大人でもない、稼いでもいない。でもいつか・・・
「ああ、前にそんな話したよね・・・」
ふふふ、と永遠子さんは僕の背中で悪戯っぽく笑った
「ね、橘君。私、あの時思ったの。君を見ながら。きっと私のオセロの盤も、君のオセロの盤もコーナーに石を置いた積りになって、ふと振り返ると、そのコーナーの向こうにも盤が続いているんだよ」
「・・・どういうことですか?」
「私たちには絶対にたしかなものなんてないんだよ」
そう言うと永遠子さんは僕の背中でちょっと黙り込んだ。それから
「橘クン、周期表って覚えている?」
また、永遠子さんの謎めいた質問が出た。
「周期表ですか」
「うん、元素の・・・」
「ああ、理科でやる」
「私ね、自分の事、周期表の右端だと思ったことがある」
「右端?」
「ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドン、私」
永遠子さんは歌うように口遊んだ。
「どういう事ですか?」
「私の仲間は、ほかの元素と結びつくことはない。不活ガスっていうらしいよ。ほら、酸素と水素が結びついて水になるとか、塩素とナトリウムが結びついて塩になるとか、でも私は私のまま・・・ずっと」
「そんなの淋しくないですか?」
永遠子さんは僕の首の後ろで溜息をついた。
「淋しくは・・・ない」
僕はゆっくり首を上げて空を見た。永遠子さんの体は軽くて、そしてとても重かった。
「見送りには・・・行かないからね」
永遠子さんがそう言った。
「はい」
「だって、別れた旦那が帰るときにもいかなかったんだから」
「そうでしたね」
「だって・・・・泣いちゃうかもしれないから、変でしょう?」
僕は彼女から十分のものを貰った。白いモフモフのセーター姿、素敵な別れの言葉、これ以上彼女に何を求めることができるだろう。僕は彼女を背負ったまま、後ろのポケットから財布を引き抜いて、5マルク札を取り出した。
「これ、ビアガーデンのお金の余りです。吉水さんが僕にくれるとき、お守りだってそう言っていました」
「うん」
「また会う日まで。永遠子さんが持っていてください」
「分かった」
永遠子さんはそう言って、僕からお札を受け取った。
それが永遠子さんとの別れだった。祈りを込めて渡したお札を大切そうに永遠子さんは胸のあたりにしまい込んだ。
でも、お守りは残念ながら役に立たなかった。
それから二年後僕はロンドンへ行く前にフランクフルトから大回りをしていったんミュンヘンに寄った。吉水さんは相変わらず同じ場所で仕事をしていた。発酵はちょっと進んでいて涙もろくなっていて、突然現れた僕を見て懐かしいね、といって涙ぐんだくらいだ。
でも、彼女は・・・永遠子さんはもういなかった。
「なんでも仕事の関係でね、半年前にフランクフルトへ移ったよ。話では日本に帰ったという噂もあるけど・・・」
吉水さんはそれ以上の事を知らなかった。そして知り合いに聞いてみようか、と言ってくれたけど・・・。
ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドン、永遠子さん・・・心の中でそう呟いてから、僕はいいです、と断った。
それでもきっとどこかでまた彼女と会えるんだ。そう信じて。
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