五 暴食、少年の肉体
音もなく、木の扉が開いた。
今もまた、その扉に触れることすらない女性が開いたそれをくぐって部屋に入った。
そして窓際に置かれた寝台の、
「やぁ、ご機嫌
「……ん、ん………………お腹すいた」
かけられた声に反応し、体を起こしながら目を開けようとした少年は顔を
そして幼い子供のように寝ぼけた頭で、己を実験体として扱う研究者に食事を要求する。頭が明瞭な状態の少年がもしも今の自分を見たならば、焦りと羞恥で顔を歪めることは間違いない。
「だろうねぇ。少々無理をさせ過ぎたから。食べるものは用意してある、腹を満たすといい」
ネルニスがそう言い、何でもない部屋の床に視線を向けると、突如として床板が口を開いた。
「…………えぇぇ」
開いた穴から迫り上がる食台を見た少年は、まだうっすらとしか開いていなかった目を見開き、呆然としながら声を漏らした。その部屋に存在する数多の仕掛けの一端を、少年が垣間見た瞬間であった。
「————!」
しかし次の瞬間にはそんなことなどどうでも良くなるほど、食台の上に並べられた大量の食事に目を奪われる。肉類を主とする多種多様な料理群。豪華絢爛の様相からは離れたシンプルなものばかりだが、そのどれもが作り手の習熟ぶりを悟らせる、完成された品々であった。
少年は思わず手を伸ばしかけ、引っ込める。そして
「……これ、いいんですか?」
「構わないさ。どのみち我慢など出来はしないだろう?」
足らない言葉の意図をくみ取る研究者の言葉通り、少年の目はその料理達に釘付けで、凄まじいまでの空腹が我慢を許さない。
少年は並べられた肉料理の内の一つ、こんがりと焼かれ、香ばしく甘辛い香りを放つ照り焼きのような料理が乗せられた皿を手に取った。間近で見ると口中に涎が溢れかえり、痛みと誤認するほどに胃と喉が収縮するのを感じた少年は、たまらず齧り付いた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
脂と、甘さの中にある塩味。歯で噛みしめる肉感がかつてない感動を呼ぶ。パリッとした皮も柔らかい肉も、硬い骨すらも美味。
涙すら出そうな気分になりながら、一心不乱にその凄まじいまでの美味を貪る。
……明らかにその料理の形状は何かの生物のほんの一部位——具体的には脚部もしくは腕部を輪切りにしたような——でありながら、七面鳥の丸焼きを凌駕するサイズを誇っていた。が、今の少年は食べているものの形など気にする余裕はなく、食欲に囚われている愚かな亡者のようであった。少年は凄まじい速度で空腹を満たしていった。
◇◇◇
「……これ、全部僕が?」
「ああそうさ。想像以上の食欲だねぇ」
少年の体感で、約二時間。その間、一心不乱に食物を口に運び続けたのだ。積み重ねられた食器の数は、その全てが一人前に相当する量だったにもかかわらず、両手の指では数えきれない。
至って一般的な、ともすれば少食ですらあった少年が一食に食べた量としては、当然過去最大である。
何よりも異常なのはいくら消耗していたとしても、これだけの量を食べて腹が膨らむ、丸みを帯びるといった変化が起きていないことだ。
「どうして、こんな……」
脂がついた手と自分の体を眺め、狂った食欲から我に返った少年が
「ふふん、不思議で不思議で仕方がないようだねぇ。それもそのはずだ、君に理解できるようなものではないのだから」
得意げに少年を笑う、褐色の研究者の他になく。
汚れた口を手で拭いながら少年は、当然ネルニスに視線を向けた。
「……いい加減、説明してくれよ。あなたは僕をどんな風に、どう作り変えたんだ」
「知りたいかい? 知りたいかぁ。そうだろうねぇ、あれだけの大手術は私も久しぶりだったよ。おっと、そう腹を立てないでくれ。君とはぜひとも仲良くやっていきたいからねぇ」
どの口が、そう心中で思う少年はしかし、ネルニスとの関係性を計り兼ねていた。目の前の研究者が果たして、自分にとっての恩人であるのか、はたまた己の体を弄ぶ、真っ当な敵であるのか。
少年には分からなかった。
「仲良くしたいならはやく教えてくれ。僕は……どうなったんだ? 人間じゃなくなったのか?」
「まぁ人間ではないだろうねぇ。さぁさぁまずはこれだ」
どうでも良さげにもう人間ではないと言ってのける研究者は、掲げた手の指を弾き、パチンと鳴らした。
その瞬間だ、少年の眼前に空中で静止する奇妙な物体が現れた。それは円柱状のガラスの容器を、上下から金属部品で挟み込んだような形をしていた。何らかの機能があることは間違いなくも、しかしそれが何なのかは少年には分からなかった。
「これは?」
突如として物体が空中に現れたことにはもう驚かない……ということはなかったが、それを押し隠しながら少年は問いかけた。
「【既色魔力光観測器】……は長いかなぁ。【魔力観測器】でいいだろう。これは生物が放出する微細な【魔力】を吸収し、光を特殊な方法で当てることで【魔力光】として可視化させる装置さ」
「……ちょっと何を言ってるか分からない」
「生物が空気中に存在する無色の【魔力】を取り込む際に、それぞれ固有の色がつく。だけど本来は色が薄すぎて、自然に放出された微細なものではその色を目で
「なるほど」
「だから例えば、私が触れるとこうなる」
そう言ってネルニスは【魔力観測器】の
それはみるみるうちに容器の内部を埋め尽くした。化学実験のようなその様子に少年は、「おぉ……」と小さく感心の声を漏らす。
研究者が【魔力観測器】の下部に触れると、内部を埋め尽くしていた紫色の煙が排出されるようにして消えていく。しかしおそらく外に出たはずのそれは既に無色透明で、目に見えないものとなっていた。
「次は君だ。やってみたまえ」
言われた通り、空中に浮かんでいるそれを手にとって、少年は先ほどのネルニスと同じように上部の平らな金属部分に触れた。
「おぉ……うん? あれ?」
しかし内部に色が広がることはなかった。やり方が間違っているのかと試行錯誤するものの、一切の反応を示さないそれに、少年の視線は研究者へと向く。
予想通り、ネルニスはニヤニヤ笑いで少年を見つめていた。しかも幾分か、いつもより楽しそうに見える。この事態の元凶、犯人を発見した少年は責めるような視線を送る。
「くふふふふ、残念だったねぇ? 君は色が出ないのが正解さ」
「……正解?」
悪戯好きな子供のようにネルニスは、答えを告げた。
説明してくれ、少年は目でそう訴えかける。
「本来ならば、これはどんな微細な【魔力】であっても、その【魔力光】の色を表すことができる。しかしだ、ならば何故空気中の【魔力】の色は表れないのだと思う?」
「さっき言ってたじゃないか。空気中にあるものは無色だって」
「きひっ、そうだったそうだった! 忘れていたよ……そう、大気に元々存在している【魔力】には、色がない! 完全なる無色だ。ならば……何故君が触れても同じように色が出なかった?」
「それは……僕に【魔力】がないから?」
ネルニスの実験体として、少年は手術を施された。しかしそれは何も【魔力】を与えるものではなかったのではないか。少年はそう考え、胸中に広がる落胆を隠して答えた。
「くふっ、くふふふふふふふふふふふ」
「……うげ」
しかし、研究者は笑った。
その笑い様に少年は、一歩後ずさった。
「私は君に、【魔力】を与えた。そう、内部に器を作り、君自体を【魔力容器】とすることで! だが! だが、君は、君の【魔力】は……」
そこで研究者は言葉を止めた。
大きく口で弧を描き、息を吸いこみ、肩を震わせ……感極まった様子で言い放つ。
「"色がない"まま! 無色透明なままだッ!」
「…………?」
それは確かに、異常なことなのかもしれない。少年が認識できるのはその程度だ。ネルニスが何を喜んでいるのか、どこにそれほど感情を揺らす要素があるのか、理解などできない。
「【魔力】の存在しない世界からきた君は! 君の体は、【魔力】を取り込む力もなく、当然その色を変えることもしない! 君は世界で唯一、【魔力】を自然のままの姿で扱える可能性を秘めているのさ!」
「……それは、凄いことなんですか?」
「いいや? 言っただろう、君の体には本来【魔力】を扱うのに必要な力が備わっていない。無能と呼んで差し支えない」
「ちょっと?」
「だが、私が君に施した手術は、君のためと言っていいほどに適している。安心したまえ、君を無能な役立たずで終わらせることなどしないさ」
「あの————」
増えた暴言、諫めようとする少年の口に研究者の細い指が当てられた。
少年の口を封じ、ネルニスは口端を裂いて笑った。
そして言う。
「私が君に施したのは、名付けて————『キメラ化手術』!」
「……キメラ?」
どうだと言わんばかりに、ネルニスが胸を反らし、言い放つ。
が、当然少年が即座に賞賛できるはずもなく。ピンと来ることなどない言葉に首をかしげるのみだった。
キメラ少年生存録〜とある研究者との契約〜 Lizard @leez
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