四 施術とその後
「くふふふ、まったく変な子だなぁ」
ネルニス・イルザリース。自称、『世界で最も優れた研究者』は、施術用の寝台を前に呟いた。
その寝台には一人の少年が意識のない状態で寝そべっている。その顔はまだ幼さを残し、
「"僕が必死に生きることをやめたら、必ず殺すと約束してください"、か……そんな勿体ないこと、できるわけないじゃないか……」
少年を眺める様子には、今までにない感情の色が現れていた。
それは少年自身が、"魔力を持たない"という特性を除いて狂科学者の興味を惹いたことの証左であった。
少年は、褐色の研究者に対してこう述べた。
『僕が必死に生きることをやめたら、必ず殺すと約束してください』
『その約束があれば、僕でも必死に生きることができるかもしれない』
「生きるために"死"を餌として己の前に垂らす……それほど彼にとって生きることは難しいのかねぇ」
微かな憐憫すら感じさせる眼差しで研究者は己の実験体を見つめていた。
彼女は何も感情のない化物ではないのだ。
好奇心と知識欲のため、全てを差し出す怪物ではあるのだが。
「さてと。感傷はほどほどに、始めるとしようか。くふふふっ、滾るねぇ、楽しいねぇ……一切【魔力】を含まない生命体を
慈悲深い聖人のような優しげな顔から一転、研究者の相貌が狂気と愉悦を帯びる。
彼女は己の側においた背の低い金属の棚に並ぶ"発明品"を
人差し指と中指を合わせて伸ばし、そこに親指を添える。一瞬の後、三本の指が混ざり合い溶けるようにして一塊となり、薄く鋭い肌色の刃を形成する。
「想定は、五十二時間だったね……うーん、目標は四十八ってとこかなぁ。それじゃ、開始だ」
人らしい形をしたままの左手人差し指を、金属棚の上に置かれた丸時計に伸ばす。
針が止まっていたはずのそれは、一切触れられることのないままに動き出した。
チッ、チッ、と規則的に音を奏でるそれを横目に、研究者は右手を振るった。全ての衣服を取り除いた、生まれたままの姿で寝そべる少年の右腕に赤い亀裂が走る。
断面から血の一滴も出ないことを確認し、研究者はよしよしと満足気に呟く。
その様子を傍目から眺める者がいたならば、小さくとも連鎖する超常の現象に目を丸くしただろう。
彼女は【探究者】ネルニス・イルザリース。
世界で最も優秀で、そして最も孤独な研究者である。
◇◇◇
「気分はどうだい?」
「……特に何か変わったところは…………いや、心臓が……熱い?」
「正常に機能しているようで何よりだ。感覚野にも問題はないようだねぇ」
「ところでこれは……何をしているんですか?」
「調べているのさ、体内と体外の両方を、隅から隅までねぇ」
「……どうやって、ですか?」
「私の能力を応用しているのさ」
詳細を求める彼の質問は、分かるようで何も分からない答えで返された。
背中に押し当てられる掌を感じながら、少年は同時に体内で熱が動き回るような、そんな気分も感じていた。研究者の言が正しいのであれば、ネルニスのもつ能力とやらを使って体中を調べられているらしい。
施術用の寝台で目を覚ました少年は、まず最初に全てが夢ではなかったことに若干の失望と安堵を覚えた。そして次に、自身が研究者相手にした約束を思い出し、自嘲した。目まぐるしく動く状況に翻弄され、やはり混乱していたのだろう。だからあんな約束をしてしまったのだ、と。必死さを失ったなら自分を殺してくれなどと、馬鹿げた約束をしてしまったのだと。
だが訂正する気にもなれず、後悔もしていなかった。少年の中の常識はふざけた約束だと叫ぶものの、少年自身の感情がそれを宥める。
葛藤がないと言えば嘘になるが、それでもどこか清々しさを覚えたのがつい先ほどのこと。
その後一切の衣服を纏っていないことに気づき、自身に向けられた観察の視線に全力で背を向けたのもまた、つい先ほど。
さらには施術前――
「邪魔になるから服は脱ぎたまえ。それとも無理やり剥いで欲しいかな?」
――ニヤニヤ笑いでのたまう研究者に屈し、人の眼前で服を脱ぐという羞恥プレイを味わったことまで思い出した。
(ああもうっ! なんで自分を実験体として
かつてない屈辱。しかしそれは、今までにないほど少年の感情が揺れ動いているということでもある。
つまり今この状況は、ある種少年自身が望んだ『非日常』そのものでもあるのだ。
「……服、着たいんですが」
少年は深まる思考を一旦振り払い、早急に解決しなければならない問題に取り組むことにした。
「少し待て。これが終わったら用意してやるさ」
「用意って……僕が着ていた制服はどうしたんですか?」
「ああ、処分したよ」
「……はい?」
特に思い入れがあったわけではない。それでも脈絡なく自分の物を処分したと言われれば、その理不尽さに憤りを覚えるのが人情というものだ。
問い詰めてやりたい気分を必死に飲み込み、少年は至って冷静に声を絞り出した。
「いったいどうして処分なんてことになるんですか」
「この世界ではほとんど発見されていないと言っていい技術が使われていた。そういったものを持ち込むべきではないだろう? それに何より……」
少年がもっともらしい真面な理由に感心していると、ネルニスは続けようとした言葉を一旦区切った。
そして背後から少年の顎を摘み、横へと引っ張る。それに合わせて少年の顔が動いた先には、褐色の研究者の左右で色の異なる双眼があった。
「……前の世界の未練となるものは、断ち切っておくべきだ。そう思ってね」
「――――ッ!」
少年の心臓が跳ねた。
「なに、ちゃんと君が身につけやすいものを用意してあげよう。それとも思い出が消えてしまうようで嫌かな?」
「いえ。大丈夫です」
皮肉る研究者の言葉に、首を振る。
少年には元の世界に捨てがたい思い出などなかった。だから未練など、微々たるものだ。
では大きくなった鼓動の理由は……そう考えて、彼はすぐに気づいた。思い出すのは、先ほど間近で見た研究者の顔だ。
(……思ったより美人だったなぁ)
……言ってしまえば、稀にすら見ない美女を前にして緊張度が跳ね上がった、というだけだった。超然とした、そして人を小馬鹿にする態度で気にしていなかっただけ。褐色の肌をした研究者の相貌は、以前の世界ではありえないほどに整っていた。
(もしかして顔の形を変えたりしてるんだろうか。外見を気にする方には見えなかったけど)
ネルニスならばそういった手術も簡単だろうな、とそう考える少年の。
「いいや? この顔は生まれつきだよ」
背後から聞こえた声に、その鼓動は先ほど以上に跳ね上がった。
ドクンドクンと心臓の調子が速まる。
「えっと、声に出てましたか?」
「安心したまえ、君は独り言を口にするタイプではないようだ。しかし……私に触れられている間は、
「え、まさか……聞こえるんですか。思ったことが?」
「『思ったより美人だったなぁ』」
「……っ!?」
「前の世界に引きずられることはなさそうで、何よりだよ。自分の顔がこんな風に役に立つとはねぇ」
研究者のニヤついた笑いが一層深まる。
少年の問いの答えは、先ほど少年自身が心中で
つまりネルニス・イルザリースは体に触れている間、心の声が読める。どうやっているのかなど分からずとも、少年にはそんなことはどうでもよかった。
あるいは着替えを見られた時よりも恥ずかしい、顔が真っ赤に染まるような過去最大の羞恥心を感じていたからだ。
この短期間で少年は二度も"人生で最も恥ずかしいこと"を経験したのである。
◇◇◇
「……それで? 具体的に、僕の体はどうなってしまったんですか?」
「そろそろ機嫌を治してくれたまえよ。私は己が実験体を慰める術など持っていないからねぇ」
褐色の研究者に連れられた先、
やれやれ、と肩をすくめて見せるネルニスは、言葉と裏腹に心底楽しそうで。少年の機嫌を更に悪化させる。
苛立ちの原因はつい先ほど経験した人生最大の羞恥ではなく――それも一因ではあるのだが――体が鉛になったかのような怠さだ。この場所にくるまでの短時間の歩行すらも
さらに結局大した説明もされず、勢いに任せてまんまと施術を受けてしまったことまで思い出し、更なる機嫌の悪化を果たしたのが今の少年である。
交差する金属の縁取りに飾られた、立体的な大窓から光が差し込んで室内を照らす。そのうち少年は息を吐き、立っているのも馬鹿らしいと置かれた椅子に腰をおとした。
なぜか体に感じる気怠さが少年をそうさせた。奇妙なほどの疲労感。そうだと気づくのに時間がかかるほど、少年の体は疲弊していた。
そして自らのうなじに存在する、硬質な物質に手を伸ばす。
研究者が【記憶水晶】と呼ぶそれは変わらずそこにある。夢などではなく、少年の体に埋め込まれているのだ。
そのことに対し嫌悪を感じていると、研究者が口を開いた。
「君の体は現状、施術の影響で運動的な酷使をした後と同じように名状しがたいほどの疲労と、空腹に支配されているはずだ。今説明したところですんなりと頭に入ることはないだろう。まずは身を休めたまえ」
もう話すことはない、そう背中で語るネルニスは
残された少年は内心で研究者の言葉に同意した。凄まじいまでに変化し流れ行く状況に翻弄され、精神的な疲労も間違いなくあった。そこに加わった肉体的な疲労感。即座に床に寝転がってしまいたい欲求を抑えつけ、周囲の
二つある大窓の片方を見やる。
その窓際には簡素な、されどしっかりと作り込まれた天蓋のついた寝台が置かれていた。
(実験素材の扱いではないな……)
置かれた現状を
そして垂れ下がる天蓋の端を掴んでどかすと、一人用としては大きなそのベッドにどさりと倒れ込んだ。綺麗に寝そべる体勢へと動く気力もなく、うつ伏せでうっすらと開いた目で優しい光が降り注ぐ窓を眺める。
しかし分かっていたことだが、寝台に備え付けられた天蓋が光を遮って外の景色など見えはしない。少年は最後の気力を振り絞り、必死さすらも漂わせて片手で体を起こし、もう片方の手で薄い天蓋を払い除けてベッドの角に存在する柱へと引っかけた。
力を使い切ったように、少年は再び倒れ込んだ。そして寝るには少し過ぎた明るさを物ともせず、満足げに窓から覗く空を眺めながら意識を手放していく。
退屈な人生を送り続けた少年は、窓から見える空が好きだった。絶えず移り変わり、様々な姿を見せる空が。
カーテンをどけた窓からベッドに寝転がり夜空を見るのは、少年の数少ない趣味だった。特に窓を開け、爽やかな風が入り込んだ時には高揚すら感じていた。そのまま寝入り、虫に刺されて翌日に苦労することが多々あるという欠点は存在していたものの、少年の生を繋ぎ止めていたのはその静かな時間だったのかもしれない。
そうして薄まっていく少年の意識に合わせ、部屋の中は不思議と暗さを帯びる。
窓から降り注ぐ明るい光が確かに消えていく。
そのことに気づく間も無く寝息を立て始め、数瞬の後には少年は泥のように眠っていた。
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