蟻
蛙鳴未明
蟻
最後の一冊を本棚に立てる。
「これでよし、と」
ダンボールを放り出し、大きく伸びをしてあたりを見回した。来た時には随分と殺風景だった部屋は、たったの数時間で居心地のいいこじゃれた部屋になっていた。やっぱりセンスあるじゃないかと自画自賛してもう一度部屋を眺める。と、甲高い音がけたたましく鳴り響いた。慌ててコンロを見るとヤカンが盛んに湯気を立て、怒ったように鳴いている。咄嗟にコンロに手を伸ばしガスを止めようとした瞬間、ソファに引っかかってどんがらがっしゃんすっ転んだ。
「いっ……つつつ」
下手すれば大火傷するところだった。憎らしげにソファを睨む。と、何かが視界を縦切った。目を滑らし、軽く眉をひそめる。蟻だ。黒蟻が一匹、せかせかとソファの背を伝っている。そいつが行く方を見ると、また一匹。あ、もう一匹。ため息を吐く。いくら家賃が安いとはいえ、引っ越してすぐに蟻が我が物顔に闊歩している部屋というのは、ちょっとどうなんだろうか。
「……苦情だな」
呟き、蟻の列を辿る。どうも押入れの襖の隙間から伸びているようだった。そういえばあそこはまだ開けていない。前の住人が何か忘れていったんだろうか……いやそんなことあるかな、などと考えつつ襖に手をかけてみるとやけに重たかった。向こうで何かが寄りかかっているような感覚。思いっきり引いてみたらギシリと嫌な音がした。
「……開けられんのかこれ」
だが蟻の発生源は突き止めておかないといけないだろう。ため息をつき、襖の両脇を抱えてぐいと手前に引いた。と、
がったん
ものすごい音を立てて襖が外れたかと思うと、凄まじい重みがのしかかってくる。慌てて身を引き飛び退くと、大量の茶色い袋が雪崩をうって転げ落ちてきた。雷のような音にここが一階でよかったなんて思いつつ、恐る恐る静まった袋を眺める。
「米袋……?」
茶色い紙袋は口の端から伸びた帯でぞんざいに封をされている。注意深く観察してみると……いた、蟻だ。少しだけ開いた袋の口から、我が物顔に出たり入ったりしている。きっとこの袋の中は蟻でいっぱいになっているんだろう……ぶるりと体を震わして、いそいそと袋を抱え上げた。米袋なだけあってかなり重い。幸い大家宅はすぐ隣だ。扉を開け、のしのしと外廊下に出て隣のインターホンを叩く。
「すいませーん」
こもった返事、パタパタ足音
「はいはい、何用でしょうか」
出てきた老人をキッと見下ろす。
「101の者ですけど、なんかうちめっちゃ蟻いるんですけど」
老人は目をぱちくり
「はあ……その米は?」
「米?ああこれは蟻が押し入れの中に入ってってたんで、押し入れ開けたら出てきたんすよ。多分これのせいで蟻居たんじゃないかなって思うんですけど。」
「はあ……で?」
ムカつく野郎だ。
「いや、『で?』じゃないですよ。こういうのちゃんとしてくれませんかね。前の人が忘れていったのかなんなのか知らないですけど、ちゃんと部屋の中確認してそういうの無いようにして頂かないと。そういうの、大家の責任でしょう?」
老人は無言で瞬き。なんなんだこいつは。
「いやだからーー」
怒り心頭。荒々しく身を乗り出したその瞬間、ズボッと袋の底が抜けた。うわっと叫んで飛び退る。BB弾をぶちまけたような音とともに、米が辺りに飛び散った。それに紛れて、
ごとり
「え?」
ありえない音に興味を抱いてしまった。それが間違いだった。誰かと目が合った。とてつもない悪臭が襲った。思いっ切り咳き込んで、肩を震わせる。理解が出来なかった。見間違い、などと言い聞かせ、再びそっちを見てしまう。
そこにあるのは生首だった。腐れ落ちた生首だった。むき出しになった歯の上を、むき出しの骨の上を、とろけた眼窩の中を蟻が這っていた。てらてら光る黒い体が、ちろちろ触手を動かしながら、ペンチのような顎に白っぽい何かをくわえて這いずり回っていた。
吐いた。体を二つ折りにして思い切り吐いた。目を背けながらふらふらと身を起こしかけて、ちらりとそれが目に入る。頭皮に張り付き艷めく髪の毛。
それは全てうごめく蟻だった。
再び吐いたが、既に胃液しか出てこなくなっていた。震え、震え震え震えながら助けを求めて目を彷徨わせる。老人と目が合う。彼の口がにいいと歪んだ。何かを言おうと開いて、口から零れたのは大量の蟻ーー一匹一匹うごめいて、こちらへこちらへ顎を振りかざし振りかざし六肢を動かしせかせかと――
「ピーンポーン」
はっと目を覚ます。見慣れない床にパニックを起こしかけ、そういえば自分の部屋だと思い出す。ヤカンがグツグツ唸っている。コンロの火は消えていた。何か夢をーー
「ピーンポーン」
ぶるりと頭を振る。思い出したくもない。あんな夢、早く忘れてしまおう。ふらりと立ち上がり、玄関へ向かう。ドアを開けると大家の顔。思わずびくりと身体を震わせる。彼はにこやかな笑みを浮かべ、
「引越し祝いを、と思ってね」
ちらりと下を見る。彼は米袋を抱えていた。茶色い紙の袋ではない。今風の何の変哲もないプラスチックの袋だ。
「どうぞ」
手を伸ばしかけて一瞬止まる。ええいあれは夢だ。袋も茶色くない。大丈夫だ。自分に言い聞かせ、また手を伸ばして恐る恐る米袋を受け取った。大家は自由になった手を腰に当て、大きく息を吐いてにかりと笑った。
「これからよろしく」
「ああいえ……こちらこそ」
ぎこちなく笑い返す。邪魔したね、と言って大家は帰りかけ、ふと足を止めた。
「お米はにおいが移りやすいからね、気を付けるんだよ」
扉が閉まる。移りやすい。ということはニンニクの近くに置いといたらガーリックライスが炊けるんだろうか。なんてくだらないことを考えて、いやないなと首を振って小さく笑う。コンロのそばに米を下ろしてふとソファを見ると、蟻が一匹、ソファの背で潰れて死んでいた。
蟻 蛙鳴未明 @ttyy
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