――光――

 黄昏時の、斜陽が差し込む図書室の中で、彼女は物憂げに本のページを手繰っていた。放課後から今、五時半に至るまで、彼女はこの図書室にこもりきり、途方も無い数の書物と格闘していたのである。

 実際のところ、探し出すべきものとその作者は分かっていた。問題は、それがどこに並んでおり、そしてその本のどこに記載されているのかだ。恐らくはほんの数行か、良くて一ページほどの、目当ての文章のために、彼女は長い時間を割いて、図書室の本を確認していたのだった。

 かつて憧れた大学のキャンパスも、今では彼女にとって当たり前の光景であり、日常を形作る大きな要素であった。すぐそばで手を差し伸べてくれていた大切な人は、もうその場所を離れてしまっていたが、それでも彼は変わらずに、彼女の日常の中に居続けてくれている。だから、一人で過ごす大学生活も平気だった。

 ――この辺りので最後にしようか。

 目の前の棚に並ぶ本の背表紙を見つめながら、彼女は――光井明乃みついあきのは心の中でそう呟いた。これ以上遅くなると、彼が心配するだろうし、探し出すのに期限があるわけでもなかった。ただ、気がかりになってしまったが故に、それを探しているだけなのだ。

 記憶世界。

 その単語をふと見かけたのは、運命的なものだったかもしれない。今もまだ、伍横町で起きた数々の事件について密かに調べ、そしてその後始末をつけている彼女の恋人や友人たちに、少しでも協力できればと、オカルト情報に目を通すようになったことがきっかけだった。そんな日々の中、何の気なしにインターネットで調べた記憶世界という言葉が、一人の学者によって説明されているのを発見したのだった。明乃にはあまりにも馴染みある言葉。そのために、多くの葛藤を、そして幸せを感じたあの世界。それが現実に、他の誰かによって語られているということに、驚き、そして惹きつけられたのだ。

 学者の名は志賀健(しかたける)といった。脳科学の分野で研究を続けている人物のようだが、あまり有名でないためか、名前で検索をかけても、ほとんどは無関係の情報しか上がってこなかった。だが、彼について記載されている記事には、志賀健が記憶世界という仮称のついた領域について持論を展開しているという一文が記されていたのである。

 明乃はその記事を見つけてから、大学の図書館に志賀健の著書が収蔵されていないか、早速調べてみた。すると、蔵書の検索サービスで、その書籍が収蔵されており、誰にも貸し出されていないことがすぐに分かった。彼女は僥倖だとばかりに、書籍が並んでいる棚を必死に探してみたのだが、しかしそれは、あるはずの棚に収められていなかったのである。以来、彼女は時間があれば、図書館内を見て回っているのだ。

 最後の棚。今日も発見できないまま終わるのかと、諦めの溜息を吐きかけたそのとき、それは視界に入った。


「志賀……健」


 書籍は、何人かの学者が書いた論文等をまとめたものであり、その中に志賀健の名が、確かに入っていた。なるほどこれか、と明乃はニヤリと笑い、薄っぺらい書籍を手に取った。

 その書籍は、様々な分野で研究を行っている学者の、まだ体系として出来上がっていない仮説についてまとめられたもので、専門的な知識のない明乃にとっては内容を理解するのは困難であったが、それでも結論が非常識的な、非現実的なものになっていることだけはなんとなく分かった。

 そんな草稿染みたものをいくつか流し読みしていくと――やがて、目当てのものに打ち当たった。


『脳内電気信号の解離後伝達について』


 脳科学の研究を主として行っているという志賀健の、それは妄想とも呼べるような論文らしく、彼自身もそのように前置きしている。その内容は、人間の脳内において情報を伝達する電気信号が、人体の移動後も残留し続けるという仮説であった。それ自体はよくオカルト現象を説明するものとして持ち出される超常科学であり、例えば、霊と呼ばれるものは死後も残り続ける脳のパルス信号だと結論づけるものがある。要するに、霊を見たという人は、そこに残る微弱な電気信号を脳が受容し、それを霊として認識してしまうのだというものだ。

 明乃もその程度の話なら知っていた。しかし、その説と記憶世界とを結びつけて考えたことは、一度もなかった。彼女は志賀健の考える説について、科学的なことは抜きにして、辻褄だけは合うかもしれない、と感じた。

 つまり、彼の論旨は、明乃たちが経験した記憶世界もそれと同じものだという仮説だった。

 しかし、志賀健という人物は何故、記憶世界について知ることができたのだろうか。それだけでなく、記憶世界という明乃たちが便宜上名付けていた仮称もそのまま使用されている。これは偶然なのか、それとも何か意味があるのか。彼女にとって最も疑問なのは、むしろそういう部分だった。

 記憶世界に関する記述は数行で尽きており、明乃の満足できるような内容とは言えなかった。こんなものか、と本を書棚に戻そうとしたとき、手に持っていた鞄から振動音が聞こえてきた。

 明乃は慌ててスマートフォンを取り出し、電話を掛けてきた相手の名前を見る。


 ――心配してるのかな。


 その名前に、彼女はひとり微笑みながら、通話のボタンを押して、相手に明るい声で挨拶をした。





「……分かった。さすが明乃だね。……うん、気をつけて。じゃあ、また」


 彼は別れの挨拶を告げると、相手の返答を待ってから、電話を切った。そして、ズボンのポケットの中にしまうと、目の前にいる壮年の男性に向かい、声をかける。


「どうも、彼女は見つけられたらしいです。あまり面白いことは書いてなかったみたいですけど」

「まあ、出版されるような本に怪しいことはそう書かないだろうね」


 青みのある髪を払いながら、男――青野光は苦笑した。


「そもそも、これを書いた人物の名前が果たして志賀健なのかどうかも、分からない」

「……そんなものですか」


 青野――今は諸事情からコウと名乗っているらしい――の言葉に、遠野真澄とおのますみは曖昧な返事をした。彼の言葉を疑うわけではないが、だからと言って、簡単に受け入れていいような話でもなかったからだ。


「それほどまでに、その……GHOSTという組織は、底が知れないと」

「……というしかないだろうね」


 コウとの出会いは、遠野にとって青天の霹靂であった。コウは突然に彼の前に現れ、そして遠野の名を呼んだのだ。

 生徒の行き交うキャンパスの中、遠野はその瞬間だけ、世界が止まったかのような錯覚に襲われた。

 今ではその情景も、懐かしいものに変容していっている。

 遠野は、伍横町で起きた事件の解決に寄与していた。それについて、彼も、他の人物も決して容易には他言していなかった。にも関わらず、彼らの名前は、密かに闇の領域へと伝わっていたのである。


「GHOSTと、通……ドールの関係は?」

「端的に言えば、ない。むしろ関係しているのは風見照という人物の方だね。私も実際のところ現実主義者なもので、まだ信じがたいのだけど、彼は降霊術の手法を確立したのだったか。その技術がGHOSTの行なっていた研究に光明を与えた、という感じかな。勿論、それは組織が行なっている研究の一分野なわけだけど」


 風見照。懐かしいようでもあり、しかし聞き慣れた名前でもあった。自分たちは彼を、いや降霊術を中心として、非常に多くのことを経験した。しかしそれは、彼らにとって終わったはずの物語であり、あとはその片付けをしながら、静かに過ごしていくばかりであると遠野は思っていたのだが。


「私たちの身に起きた長い長い事件も、その裏側でGHOSTの援助があったらしいことが分かっているんだ。彼らはそれを、エンケージ計画と呼んでいたようだけど」

「……直接的でないにせよ、彼らの利得になりそうなことには、介入しているということですね」

「人類の進化が目的だそうだ」


 人類の進化。極めて曖昧な上に、一歩間違えれば恐ろしい道へ進みかねない目的だ。

 そして、GHOSTはきっともう、その恐ろしい道へ進んでいる。


「僕らにとっての事件が終わりを迎えても。……何もかもが綺麗に収まってくれるわけではないんだな」


 世界は自分たちだけの舞台ではない、と遠野は感じていた。その思いは、コウの話を聞いてなお強くなっていた。


「ここから離れたところだけれど、鈴音町という場所でも、何らかの動きがあるようだ。怪しげな実験が、近郊の高原で行われていたという噂が立っててね。それは……多分降霊術とやらなんだろう」

「……後片付けは、存外難しいものですね」


 風見照の遺したものを、彼の望む通り、消し去ろうとしても。世界はそれを、許してはくれないようだった。


深央みおも、それを聞いたらショックを受けそうだ」

「……円藤えんどうくん、だったか。……いや、彼は強いよ。僕は流石に、もう危険へ飛び込もうという勇気がないから」

「はは、そんなことはないでしょう」


 情報を探ることだって、十分に危険なことではあるはずだ。きっと、知らぬ間に、それくらい大きな闇に、自分たちは対峙している。

 遠野はそう思い、苦笑した。


「……やれるだけのことはしていきましょう。それが、多少なりとも関わりを持った僕たちの、責務みたいなものですから」

「……君も、強いね」

「あなたほどでは」


 遠野は、冗談でなくそう口にする。

 全てを失ってなお、自分は彼のように微笑むことができるだろうか。明日を信じることができるだろうか。

 きっとそれは、途方も無い苦行だろう。


「……あなたもいつか、必ず。あなたの大切な人たちの所へ、行けます。それは、僕らが知っている」

「……遠野くん」


 そう。それが彼の物語を貫き続けた約束だから。

 未来を喪ったコウのために、遠野は自身の物語の約束を捧げる。


「また会う日まで。……そう信じるのも、決して悪いことではないですよ」


 その言葉に、コウは静かに、笑みを浮かべた。

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エンケージ! ―Children in the bird cage― 【ゴーストサーガ】 至堂文斗 @burityann

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