第16話
「……犬吠埼」
夜の静寂を打ち消すように、声をかける。
鋭い瞳がこちらを睨んだ。
髪の毛は殺気立ち、前傾姿勢で身構える。予想はしていたが、やはり、いまの犬吠埼は冷静さを失っている。
「お前……」
そうして、ぼくが二の句を継ごうとしたその瞬間、吸血鬼は地面をえぐるような蹴りでその場を駆け出すと、ぼくとの間合いを一瞬にして詰め寄った。
「……!」
ギリギリのところで腕でその攻撃を受けることに成功するが、血を飲みすぎただけのことはある。凄まじい衝撃が走り、ぼくは勢いよく吹き飛ばされた。
「うぐっ……」
着地点が水田でよかった。ぬかるみが衝撃を抑え込んでくれた。
「おい……、いぬぼうさ……」
姿勢を直すいとまも与えず、吸血鬼は次の一手を打つべく駆け寄ってくる。
これじゃあ対話どころではない。
急激に取り込んだ霊力によって、自我を失っている。吸血鬼性に取り込まれている。
まずはこいつを、冷静に戻さないと。
やるしか、ないか。
ぼくも戦闘態勢をとる。決して得意ではない。けれどぼくとて、神さまになってからというもの、いろんな魑魅魍魎と出会って揉まれてきた。かつては、よもぎを含め、鬼とも何度か相まみえた。
吸血鬼は右手を大きく後ろに引いて、指先の鋭利な爪で振りかぶってきた。
ぼくはそれを喰らいながら、背負い投げを試みる。
けれど、吸血鬼はひょいっと身を翻し、それは不発に終わる。
次から次へと、攻撃を畳みかけてくる。
ぼくはその微妙な隙間を突いて、蹴りを喰らわせた。
「……」
吸血鬼は、まったく怯むようすもない。
「なるほどね」
その傷は、みるみるうちに治癒されていく。
尋常じゃない回復速度だ。彼女の現在の霊力を示している。
そうなったら、相手にとって不足なし、か。
こちらの攻撃が治ってくれるなら、傷跡が残る心配をする必要がない。
「さすがに生身じゃあな」
ぼくは犬吠埼と大きく距離を取った。
そうして合掌のポーズをとる。奥の手だ。その後右手に握りこぶしを作り、ゆっくりと、それを引き抜いた。
現れたのは、十束の剣。八百万の神々の神具。神話の時代、古事記や日本書紀にも登場し、現在においても宝具として引き継げられてきている場合も知られている。
これは、ぼくの霊力を具現化したもの。
物理的な斬撃というよりは、霊力により相手を斬る。
本来は、打撃を与えるための武器だ。
手のひらから十束の剣を引き抜き終えると、ぼくはそれを携えて、戦う姿勢を取る。
一瞬吸血鬼はひるみを見せたが、そんなものが効くかと、再び迫ってくる。
「……!」
上半身を反らし、ひゅんっ、という風音を聞きながら、吸血鬼の攻撃を避ける。そして、十束の剣を大きく振るって、胴体に食らわせる。
「うぐっ……」
吸血鬼は態勢を崩すが、倒れずに踏みとどまる。
攻防は続く。
吸血鬼の一撃はとても重い。最初に犬吠埼に出会ったときも、かなりの握力を感じた。今回はそれ以上のパワーがある。
単純なスタミナで言えば、ぼくの方に圧倒的な不利がある。戦闘を長引かせるべきではない。
十束の剣の側面を叩きつける打撃で倒すことが出来ればいいのだが、そんなことも言ってられない。こうしている合間にもぼくの体力は擦り減っていく。
吸血鬼は、身軽さと膂力を使って跳躍し、高さを伴った一撃を力強く与えてくる。
しかし、その間には、僅かな隙がある。
言うなれば、考えなしの、本能的な身のこなしだ。感情に身を任せて、ただ一直線な攻撃を連続させる。それを冷静に見極めれば、勝機はある。
一瞬の勝負だ。
「ぐっ……」
左足に強烈な一撃を食らい、片膝を付く。
まずい。
ダメージが体に蓄積している。一刻の猶予もない。ここで犬吠埼を止められなければ、手遅れになる。
それだけは、避けないと。
迫りくる吸血鬼の猛攻を、十束の剣で辛うじて払いのける。
さらなる多段攻撃が襲い掛かる。
それは猪突猛進な、戦略性のない切り込み。
ここだ。
この一撃で、すべてが決まる。
「うああああああ!」
吸血鬼が、咆哮する。
ぼくは精神を集中させ、一点を目掛けて剣を向ける。
そして。
吸血鬼の脇腹に、十束の剣を突き刺した。
「ぐあああっ!」
吸血鬼は、痛みから叫び声を出した。
十束の剣は串のように吸血鬼を貫き、身動きを取れなくする。
全体重を使って、彼女を地面に押し倒した。
肉体を貫通した剣は、そのまま地面に突き刺さる。
吸血鬼は、じたばたと藻掻いた。
「ぐうう、があぁぁぁぁ!」
腹部を貫通している剣の切っ先を両手で掴む。そして、力いっぱいに引き抜いた。
「うぐうっ……。っ! はあ……はあ……」
剣は脇にぼとりと落ちた。
立ち上がって反撃してくることを警戒して、ぼくはまだ臨戦態勢を崩さない。
「……」
しかし、吸血鬼は身体の力を抜いて、地面に倒れたままぐったりしている。どうやら、これ以上、攻撃する意思はないようだった。
ようやく、正気を取り戻したか。
「犬吠埼」
声を掛け、ぼくはゆっくりと近づいていく。そして、彼女の顔を覗き込む。
先ほど刺した腹部の傷は、やはり、すっかり完治している。理性を取り戻したが、吸血鬼性は消えてはいない。
「……」
ぼくの声掛けに反して、犬吠埼は、黙って星空を見上げている。力ない瞳だ。
しばしの沈黙。夜風が頬を撫でる。
「もう、いいよ」
かすれた声で、犬吠埼は言った。
いったい、なにがいいというのだろうか。
「言ったはずだよ。吸血鬼になったら、長くは生きられない」
「……」
「吸血鬼とか神さまとか鬼とか、そういったものが現に存在しているのにも関わらず、なおも都市伝説や噂話程度で収まっているのは、どうしてかわかるか」
犬吠埼は、むくりと身体を起こした。
「目立つ怪異は存在を消されるからだよ。いるけどいない、いないけどいないの狭間、ちょうどいい場所に、怪異はいる」
出る杭は打たれる。
「その中間でしか、怪異は生きられないんだ。犬吠埼の行動はそれから逸脱している。それとも、ひっそりと生きていくのか? いかに目立たないか、それを気にして生きていくのか。吸血鬼なら、太陽光も留意しないといけない」
ぼさぼさの前髪の間から、細くなった瞳がこちらを捉える。
「…………」
叱られているときの、こどものような視線だ。
「そもそも、矛盾してるんだよ」
犬吠埼が吸血鬼になりたかった願望の裏には、幼少期の虐待の跡を消したいという思いが込められていた。しかし、それを消したいのはなぜか。その先が重要だ。綺麗な自分を見られたい、自由にファッションを楽しみたい、そういう思いがあったはずだ。さらに、犬吠埼には幼少期からモデル時代に築かれた他者からの承認欲求がある。ならば、傷跡を見られたくないのではなく、きれいな自分を見てもらいたい。彼女の原動力はそこにあるはずだ。だとしたら、あとは単純明快だ。
「吸血鬼になったら、傷跡は消える。理想の姿になることが出来る。でも、じゃあその姿を、いったい誰に見せるつもりなんだ?」
「……え」
言っている意味がわからない様子だ。
「?」
犬吠埼は首をかしげる。
「日の下を歩けない。人に姿を見せられない。なら、自分で見るのか? 自分の美しさに酔いしれるのか? でも、鏡を見ることはできねえだろうが」
大きな犠牲を払って手に入れたその美しさには、何の価値もない。
「せっかく着飾っても、その姿をどうやって見る」
「そ、それは……」
「それくらい、最初に気づけ」
犬吠埼は、言葉に窮している。
「でも!」
「でもじゃない」
犬吠埼は最初、美しくなりたいから吸血鬼になったと言った。でもあれは嘘だろう。本当に望んでいたのは、ファッションを楽しんだり、水着でプールに入ったりなどの、当たり前の日常だ。傷を気にすることのない生活だろう。かといって、美しくなりたかったという気持ちにも嘘はない。でも、願っていたのは単なる美しさじゃない。犬吠埼にはモデルとして活動していた時期に育った、承認欲求がある。ファッション雑誌のインタビューにもあったように、着飾った自分を見ることやおしゃれした自分を見てもらうことに充足感を得ている。吸血鬼になったら、美しさは手に入れるだろう。傷がない分、ファッションを楽しむこともできる。しかしどうだろう。鏡に映らないなら、いったいどうやって着飾った自分を認識する? 一体誰にその姿を見てもらう?
犬吠埼の考えには、吸血鬼になったその先が決定的に足りていない。
「吸血鬼になっても、お前の願いはかなわない」
「…………」
犬吠埼は俯いて、黙りこくった。
そしてなぜだか、肩を震わせ始めた。
言い過ぎただろうか。これくらい言わないと、説得することができないと思った。
説教じゃなく説得をして、彼女を人間の道に戻したい。
すると。
「うふっ」
犬吠埼は、顔をほころばせた。
「あはっ。ふふふっ」
唐突に、笑い始める。
「そうだよ。そのとおりだよ」
「わたし、ばかじゃんか」
自虐するような言い方をする。
「傷をなくしても、みんなみたいには暮らせないのにね」
ようやく、わかってくれたか。僕が言わんとしていることを。
吸血鬼になっても、無意味だということを。
「淀町くん」
「ああ」
「迷惑ばっかりかけてごめんなさい。わたし、ようやくわかったよ」
犬吠埼ひのでは、星空を見上げる。
一瞬、くしゃっとした悲痛の顔を見せたが、それはやがて穏やかに変わる。
「吸血鬼になるの、諦めます。ちゃんと、人間として、生きます」
「そうか……」
決定的な解決にならないのはわかっている。だが、理想論では終われない。傷を背負って生きていく以外の結末を与えることはできない。
これは諦観と捉えるか、再起と捉えるかは、犬吠埼の今後を見守るしかすべはない。
「ほら、帰ろう」
ぼくは手を差し伸べる。
「ふたりとも泥だらけだ。今すぐにでもシャワーを浴びたい」
犬吠埼は、微笑んで、その手を握りしめた。
犬吠埼のマンションに向かいながら考えていた。
犬吠埼ひのでという人間は、すごいやつだと思う。
本来、ただの人間が怪異になってしまうことなどありえない。犬吠埼の例をとればなおさら。彼女が吸血鬼になれたのは、徹底的なまでに吸血鬼に出遭おうと行動し続けたことだ。毎夜毎夜街へ繰り出し、さまざまな方法で吸血鬼を探した。そうして、実際に、出会おところまでたどり着いた。
ほとんどの人は、途中で気づく。
吸血鬼などいないだろうと。
しかし、犬吠埼が吸血鬼になることができたのは、どこまでも信じ続ける心があったからだろう。
だから、ぼくはあいつを、すごいやつだと思う。
これから将来、彼女の傷を原因として、つらいこともたびたび経験するだろう。
けれどそれ以上に楽しいこともいっぱいある。
ぼくもかつて、死にたいと思い詰めたことがあった。しかし、いま振り返ってみれば、あそこでぼくの人生が終わらなくてよかったと、なんだかんだ思えている。
犬吠埼なら、この先もきっと、うまくやっていける。
確信するレベルで、そう思っている。
犬吠埼の横顔を見る。
たとえ傷だらけだとしても、彼女の心は、よどみない。
吸血鬼の治し方 ぽかんこ @pokannko
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