〈番外編〉白洲君と魔法のカレー

 ターメリック、カルダモン、クミン、オールスパイス、シナモン、クローブ、ローリエ、コリアンダー、ターメリック、チリペッパー、ジンジャー…………


「あ、これ好きな香りです。レモンみたいな爽やかな匂い」


「レモングラスですよ。練さんはスパイスに興味があるんですか?」


 テーブルに向かい合って座る割烹着姿の志乃さんは、目の前にずらりと並んだ小さな瓶を次々に開け、耳かきのようなスプーンでボウルに入れる。


 ひと匙加えるごとに、少しずつ、少しずつ、香りが深く芳醇になってゆく。


「魔法薬にもハーブやスパイスを使うんです。でもまだ簡単な調合しか教えてもらえないんだ。魔法薬の保管庫は、母が鍵を持ち歩いてるから忍び込むこともできないし。僕が自由に触れるのは畑で栽培してる生のハーブだけです。……志乃さん、セロリ切れました。玉ねぎもですか?」


「練さんは料理もお上手ね。花蔵様とは大違い」


「花蔵は料理なんてしないでしょ?」


「お忙しいですから。料理をする時間があったら奥の間で修行なさいますよ」


「へえ。そのわりには成長しないなあ」


 ガラリと音がして台所のドアが開き、そこには仏頂面の花蔵が立っている。


 ひらひらとした淡い黄色のショートパンツに、桜色のカットソー。下ろした髪が片側だけ耳にかけられていた。


 いつもはジーンズと大きめのシャツを着て、髪は邪魔だからと一つにまとめているのに、どうやら今朝の僕の一言が効いたらしい。


『色目使うのはもっと女らしくなってからにしたら』


 花蔵が強引に誘っていたから、きっとこのあと時雨もここに来るのだろう。ノリで口にしただけで言霊なんて込めていないのに、やはり言葉はもっと慎重に選ばないといけない。



 花蔵はあの一件の黒幕が友永だということも、時雨もそれに荷担していたということも知らない。


 その代わり、あの書はうっかり花蔵が寄贈書に紛れさせたことになっている。それをたまたま発見したうちの親父が、自分が出張から帰ってくるまでの保管場所として図書館を選び、誰にも貸し出されないように予約を入れて「縛」を施した。紫宮へ返さなかったのは、それが厳治の遺品だから手元に置いておきたかったのだと。


 そんな嘘を真に受けてくれるのは、きっと花蔵くらいだ。彼女がバカで本当によかった。


 ただ、親父がでっちあげたその嘘の、ほんの一部は本音なのかもしれない。


 何度か紫宮の敷地の上空を一緒に飛び、親父はそのたびに花蔵の住むあの家を寂しげに見つめていた。


 あの離れの場所を教えてくれたのも親父だ。小さいころヤマトと一緒にここで遊んだ。そんな風に言って。

    

 ひと通り落ち着いてから考えてみると、わざわざ紫宮義治の名を出して閲覧を制限する必要なんてなかった。


 紫宮と、ヤマトと、再び関わることを望んだからこそ、親父は自分の名前を出したのだ。そう、今は思っている。


「早いね、花蔵。もう数学の課題終わった?」


「終わるわけないじゃない。家庭教師のくせにこんなところで何してるのよ」


「花蔵においしいカレー食べてもらおうと思って、志乃さんの手伝い」


 花蔵は冷蔵庫からお茶を出し、空になった僕のグラスに注ぎ足した。自分は立ったまま、黒猫の形をしたマグカップでお茶を飲む。


 尻尾が持ち手になっていて、その背にはヤマトと同じ星印があった。それはどうやら花蔵が書き足したものらしい。


「花蔵、女らしさは服装や香水だけじゃ身につかないよ。座って飲んだら? ねえ、志乃さん」


 ガタリと隣の椅子を引く僕を見て、志乃さんがくすりと笑う。その椅子に腰かけた花蔵は、持参したテキストとノートをテーブルに広げた。


「錬、この問題に使う公式って、これでいいの?」


 スパイスと花蔵の香りが混じり合ってふわりと漂う。花蔵の使う香水は森林のような匂いがした。


 彼女は、時雨にもこんなふうに平然と近づいたりするのだろうか。


「その公式でいい。あってるから、続き解いてみて」


 長い睫毛、瞼にもうっすらと色がのっている。花蔵が化粧をおとすのは時雨が帰ったあとだろう。


 伏した目が手元のペン先を追い、左右に小さく動いている。


「あ、解けた。錬、あってる?」


 不意に顔をあげた花蔵は、間近にいる僕に満面の笑みを向けた。その距離の近さに動揺しているのは僕だけで、癪なので平気なふりをする。


「うん、あってる。家庭教師がいいからね」


「よく言う。放ったらかしのくせに」


「花蔵はスパルタのほうがいい? それならそうするけど」


「スパルタは秘術の方だけで十分。錬、容赦しないじゃない」


「あっちはね。花蔵の命にも関わることだから」


 花蔵は、ふうんと顔をそむけた。それから、取り繕うようにスパイスの小瓶をひとつ手に取り、蓋を開けて鼻先に近づける。


「あ、いい匂い。レモンみたい」


 志乃さんがくすくすと笑った。


「レモングラスというハーブですよ。花蔵様も錬さんも、レモングラスがお好きなんですね」


 花蔵は僕を見て、僕は花蔵から目をそらす。花蔵は他の瓶も次々に開けて、順番に匂いを嗅いでいった。


「花蔵も魔法薬の勉強する? 僕もまだまだなんだけど」


「魔法薬? このスパイスでできるの?」

    

「花蔵の持ってる力で練り合わせれば、簡単なものはできると思うよ。ちゃんとしたものを作ろうと思ったらそれなりの材料が必要だけど、ここのスパイスでも練習にはなるんじゃないかな」


「へえ。錬、今ここで何か作れる?」


「無理だよ。本当にまだこれからなんだ」


「そっか。じゃあ私も勉強しようかな。スタートが同じなら錬に勝てるかもしれない」


「同じじゃないよ。料理もできない花蔵より、僕の方が断然有利」


 花蔵が頬を膨らませて、不機嫌をアピールした。かわいいなんて思ってしまったのは、「出来の悪い子ほど」というやつだ。


「惚れ薬とか、作っちゃおうかな」


 口を尖らせたまま、花蔵がつぶやいた。


「きっと材料が足りないよ」


「バカね。冗談に決まってるじゃない」


「ふうん、時雨さんに使うんじゃないの?」


 花蔵は考え込むように真っ赤なパウダーの詰まった小瓶を見つめる。それから小さくタメ息を吐いた。


「錬は、好きな人ができたら惚れ薬使うの? 言ノ葉で使役したりする?」


「……どうかな。分からないよ。僕にはそういう相手がいないから」


「私も別に、いるわけじゃないよ。時雨先輩はそういうのじゃない。家族みたいなもの」


 花蔵の本当の親は今どうしているのだろう。彼女の成長が気になったりしないのだろうか。


 ジュ、と油のはねる音がした。


 台所に充満したスパイスの香りに、香ばしさが混じる。


「志乃さん、僕炒めましょうか、それ」

    

「あら、じゃあお願いします。ちゃんと魔法の呪文を唱えて下さいね」


「魔法?」


「はい。私も魔法が使えるんですよ。笑顔の魔法。『おいしくなあれ』って唱えるんです」


 茶目っ気たっぷりの笑顔を、志乃さんは僕と花蔵に向ける。僕は木ベラを志乃さんから受け取って、鍋に向かって呪文を唱えた。


「おいしくなあれ」


 後ろから花蔵の含み笑いが聞こえる。振り返ると、歌うような彼女の声が僕の耳に届いた。


「おいしくなあれ」


 その軽やかな響きは、魔法薬よりも簡単に僕の心をとらえた。




〈おしまい〉(ΦωΦ)ニャン

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言霊使い黒猫ヤマトの、にゃんとも事件簿。 31040 @hakusekirei89

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