〈十四〉紫宮家の家庭教師

「ヤマト、ぼうっとしてないで台所からお弁当持って来て。早くしないと間にあわない」


「花蔵、我輩が弁当を持つと毛が入るぞ。いいのか?」


「毛? そんなのいいから取ってきて」


 あいも変わらず繰り広げられる朝の喧騒。


 四本の足で台所へ駆ける我輩の後ろで、花蔵はパンをくわえながら、衣替えしたばかりの半袖ブラウスのボタンを留めていた。


 今日も化粧だけはしっかりと仕上げ、十六の誕生日に志乃からもらった香水をまとっている。我輩は鼻がムズムズしてかなわない。


「……クシュン!」


「ヤマト汚い。お弁当に鼻水飛ばさないでよ」


「お前のその匂いのせいだ」


「香水? 学校行くのにつけたりしないわよ。……ほんのちょっとくらいしか」


 強い香りは気配を感じるのに邪魔だ。


 そんな忠告を無視して花蔵は志乃に香水をねだり、我輩の顔をうかがう五十路女に渋々うなずいたのは我輩だった。ほとほと自分の甘さを痛感している。


「志乃。花蔵の弁当はこれか?」


 萌黄色の巾着袋をくわえ、割烹着姿の志乃に問いかける。


「いえ、それは大和様の。花蔵様のはこちらの桃色の巾着袋ですよ」


「我輩にもあるのか」

    

「今日はいいお天気ですから、ミヤビ様とどこかでお召し上がり下さい」


 友永がいなくなってからというもの、志乃はのびのびと仕事をしている。食卓には以前よりハイカラな料理が並ぶようになった。我輩はそのおこぼれにあずかっている。


 温厚だと思っていた友永も、志乃からすれば口うるさい爺だったようだ。


「ヤマト、まだぁ? もう出るよ」


 まだ始業時刻には早いというのに、花蔵は我輩をせっついてくる。


「志乃、我輩はまた戻る。ミヤビも連れてくるから昼は一緒に食おう」


「はい、よろこんで。気をつけて行ってらっしゃいませ」


 桃色の巾着袋をくわえて玄関まで駆けると、花蔵はすでにほうきを手に庭先で待ち構えていた。


「遅い、ヤマト。早くしないとあいつが来ちゃうじゃない」


 花蔵はきょろきょろとあたりを見回している。


「あいつって僕のこと?」


 花蔵が顔をあげ、その視線が屋根の上あたりでピタリとまった。


 我輩は敷居を跳び越え、弁当をくわえたまま花蔵の肩にのる。


 白洲は愉快げな笑みを口元に浮かべ、こちらを見下ろしていた。


 二階の屋根に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしている。我輩と目があうと両手で勢いをつけて宙に身を踊らせ、そのまま一回転して着地した。


 片手片膝を着いたその姿は、さながら姫を迎えに来た王子様だ。


「おはよう。ヤマト、それに花蔵」


 白洲が立ち上がる前に、花蔵はすでに言ノ葉を唱えはじめている。


「紫宮花蔵曰く、汝に命吹き込みて今浮遊せん。天地精霊静寂………………也」


 滑らかに浮上したほうきが発進する間際、白洲は花蔵の後ろに腰かけた。


れん。勝手に人のほうきに乗らないでよ」


 花蔵が振り向いた先に友永の姿はあるはずもない。花蔵の瞳がかすかに揺れた。


 友永が残したのはこの無駄に高い花蔵の愛車、それと――。


「花蔵、せっかく迎えに来てるのにどうして先に行こうとするの」


「頼んでない」


「頼まれたよ、ヤマトに」


「それは家庭教師の話でしょ。朝の迎えなんて頼んでないわよ」


「花蔵には真面目に授業に出てもらわないとね。一から勉強教えるの大変だから。僕が来なかったら遅刻常習犯のままだろ?」


 白洲が紫宮家に出入りするようになって、朝の喧騒が裏門、いや、どうやら教室まで尾を引くようになった。そんな朝の居心地は意外に悪くない。


 初夏の風が、緑の深まりつつある樹々をなでてゆく。その根元に広がる大地。その下に眠るもの。


 我輩の目に映る山林の姿は以前と何ら変わりはなくそこにある。白洲の目に、この景色はどう映っているのか。


 眼下に街並みが近づくと、知らずため息が漏れた。


 鳥瞰の景色は否応なしに我が身の小ささを実感させ、そして山林に眠る未知の存在を必要以上に大きく見せる。


 この緊張は、碑を守る者が背負わねばならぬもの。花蔵にもいつか話さねばなるまい。だが、もう少し先でいい。


 白洲が手を伸ばし、我が背の白斑を撫でた。その大きさは変わらないが、知らぬ間にそれは星を形どっている。


 白洲の仕業かと以前問うたら、「分かんないよ」と返ってきた。世の中は分からぬことだらけだ。


 花蔵が小さな声で言ノ葉を紡ぎ、裏門近くの茶室へとほうきは下降しはじめる。


「花蔵、この程度なら言ノ葉に頼らなくてもほうきは操れるだろ? 僕が言ったことちゃんと憶えてる?」


「できるわよ。つい、いつもの癖で唱えただけ」


「そういうのが甘いんだって。あ、そういえば今日の一限の小テストだよ」


「テスト? 聞いてないよ」


「だろうね。花蔵この前の授業寝てたから」


「どうして教えてくれないの、錬」


「知ってても勉強しないだろ。だったら秘術の鍛錬に集中してもらった方がいいから、あえて言わなかった」


「サイテー最悪の家庭教師ね。クビよ、クビ! ――あ、時雨先輩だ」


 裏門に時雨の姿をとらえた花蔵の頬が、かすかに朱に染まる。


 学業よりも、秘術の鍛錬よりも、色恋に興味がある年頃だ。


 時雨を残し、友永は隠居した。


 時雨は変わらず週末だけ紫宮家に仕え、力のない普通の使用人として雑務をこなしている。


 紫宮を去ろうとした時雨を引き止めたのは、花蔵だった。そして、それを許したのは我輩。


 白洲は「やっぱりヤマトは甘いよ」と溜息を吐いていた。


 花蔵の目付は白洲に代わり、白洲の素性も彼自身の口から花蔵に説明させた。


 花蔵が紫宮家当主の座を白洲に譲るのではないかと我輩は予測していたが、どうやら花蔵のことを甘く見過ぎていたようだ。


「当主になるのは十八歳でしょ。義治さんが当主にならないなら、その時に決めればいいじゃない。私も錬もまだ十六だもん。どっちみち私の力が役立てられるのはここしかないわけだし、他に何の取り柄があるわけでもないし、私はそれまでここにいる。錬が当主になる気がないなら、私がやってあげてもいいわ」


 白洲に対する花蔵の高飛車な物言いは、やはりミヤビに似ている。


 あの夜、花蔵は自身の体に眠る力の大きさを実感したはずだ。それが彼女を変えたのかもしれないし、あるいは白洲の存在が彼女を支えているのかもしれない。


 花蔵を導く者、それは我輩ではなく白洲。


 力が暴走したとき歯止めをかけてくれる者がいるというのは、彼女の能力をさらに飛躍させるに違いない。


 花蔵が茶室に降り立つまえに、白洲はふわりと身を浮かせてその傍らに足を着ける。


 漫才のようなやり取りはまだ続いていた。その二人の足元に、楊梅色の猫が姿をあらわす。


「ミヤビちゃん、おはよう。あなたのご主人は本当に性格が歪んでる」


「みゃあう」


 花蔵とミヤビはすっかり意気投合している。拗ねた顔で裏門へ向かう白洲を放って、ミヤビは我輩の元へ駆け寄った。


「私は錬のタクシーじゃないのよ。乗せてあげたんだから鞄くらい持ってよ」


 白洲の背を追いかける花蔵の後について、我々も裏門へと歩く。


 紫宮と朱ノ森の、さらには白洲の血が一つになるという夢想が、少し前から心の内にあった。だが、まだ胸に留めている。


「花蔵様、錬様、おはようございます」


「時雨先輩。錬に『様』なんて付けなくていいから」


「いえ、そういうわけには」


 時雨も律儀が過ぎるところがある。


 力を失ったのなら普通の学生と同じようにそれ相応の青春を謳歌すればいいものを。花蔵だけでなく白洲にまでこうべを垂らして紫宮家に尽くしている。その口元には変わらず柔らかな笑みがあった。


 だが、時雨を紫宮家に留めたことは我輩のひとつの気掛かりとなっている。


『蟻は毒を持っている。群れれば危険だ』


 闇の大きさを垣間見た今、力のない人間であろうと安易に警戒を解くわけにいかない。


 友永が主導したこととはいえ、時雨が花蔵に隠れて書を手に入れようとしたのは事実だ。


 紫宮家に残るよう時雨を説得したのは花蔵だが、時雨は友永と同じ柔らかな笑みを浮かべる。強かに当主代理の座に就いた友永と同じ、温厚な視線を花蔵と我輩に向ける。


 気掛かりは少なければ少ないほど良い。だから、厳治の著したあの書は焼いた。花蔵の手の中で、呆気なく灰になった。


「ヤマト、今日はカツカレーがいいな」


「白洲はカレーばかり要求する。志乃が聞いたこともない名前の香辛料を揃えはじめて、我輩には匂いがきつくて敵わん」


「錬、またうちでご飯食べるつもりなの?」


「親父と母さんは出雲に行ってて金曜まで僕ひとりなんだ。状況によっては帰ってくるのが週明けになるかもしれない。それに、志乃さんも僕がいたほうが楽しそうだ」


「じゃあ、時雨先輩もご一緒にいかがですか?」


「いえ。私がそこまでしていただくわけには」


 白洲の目に冷淡な光が宿り、彼の口元が引き締まった。時雨への警戒を解いていないのは白洲も同じだ。


「時雨さんだって花蔵みたいな子どもの相手は疲れるんだよ。色目使うのはもっと女らしくなってからにしたら?」


 我輩はミヤビと視線を交わし苦笑した。素直でないのはどちらの主も同じようだ。


「花蔵、白洲。そろそろ急がないと遅刻するのではないか?」


「うそ? あ、本当だ。どうするのよ、錬。テスト勉強全然できなかったじゃない」


「僕は完璧だよ。何ならカンニングでもする? 力使って」

    

「バカなこと言わないで」


 花蔵は白洲の腕を叩き、我らにくるりと背を向け校庭へと駆け出した。


 半袖のブラウスから鈍色の鎖がのぞき、五芒星が陽の光を反射する。それは花蔵の胸元で星のように小さくきらめいた。


 駆けていく後ろ姿は、以前より少しはましになっただろうか。花蔵の隣には、共に駆けていく者がいる。


 白洲が不意に振り返り、声を張り上げた。


「ヤマト! 親父が週末に戻れたら顔出すって」


 白洲はなぜか得意げな顔をしていた。そして三人そろって校舎の中へと姿を消す。二人の賑やかなやりとりはまだ続いているようだった。


 厳治の息子。紫宮を去った男。あれから四十五年経った。


 闇を抱えるこの世界で、ふたたび顔をあわせられるというのは奇跡かもしれない。義治が未来に残そうとしたもの、それは今あるこの世界。何も知らぬ人間たちが享受する平穏。


 我らの住むこの世界が、闇に覆い尽くされぬことを願おう。


 ちっぽけな我輩にできることは限られている。だから、願おう。花蔵の穴が満たされることを。彼女の幸せを。彼女の胸元で輝く五芒星に。


 花蔵と、そして白洲が選ぶ未来を、あの星に祈ろう。



〈完〉

※番外編があるにゃん

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