漆塗りの角
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第1話 鎮神社
奈良井の街並みは1kmにわたって連なり、
上から上町・中町・下町、と呼ばれては、
上町の先に鳥居峠という難所ゆえ、
宿場としても賑わいを見せけり。
時は400年も昔。梅雨の季節。
『すくみ』という感染症が、驟雨の如く瞬く間に街にかかりて、宿屋も一様に潜戸を閉ざし、
奈良井はかつてないほど氷らんとす也。
さやうな状況下、下総の国より経津主命を勧請し祀ると、病気鎮まり、その社以降名は鎮神社と呼ばるる也
『おそがけだねぇ、傘閉じて、いらっせぇ。一杯お茶でもどうだい』
70を過ぎたかと見ゆる宿場の女将、下駄の音を響かせ、庇から顔を出し、髪の毛濡らす。
『どこから来たんだい』
『鎌倉』
『それはまぁ、随分と遠くから、大変だねぇ』
『雨脚が強く、とりわけ木曽路は長かった、信濃川の瀬響も大きくて、すっかり梅雨ですね』
『蕎麦を作るから入りなさい』
とうとう傘を閉じ、潜戸を潜った。
行燈の横に暖簾を潜り、下駄を整へ、人1人が通れるばかりの長廊下を真っ直ぐに、2部屋したところに和室、窓は開きて屋根から滴る雫3つ。
『誰か天流水舎の水を持ち帰りて、雨乞いでもしたのだろうかねぇ。この頃は雨とすくみがひどい』
『天流水舎?』
『中山道を2つほど進んだところ、諏訪の七不思議じゃよ。この時期だと、上町から蟹座が見えるのだけどね、この雨じゃ』
『この雨じゃ見えないですか』
『見えないどころか』
女将の表情怪しげに、
『宵が深まると恰も蛍かと見ゆる、怪しげな光が夜を飛び回るのじゃよ』
『それは不思議』
『疫病と雨のご時世、街の子はこの光を見て祟りだと騒いでしょうがない』
『魔でもさしたのでせうか』
『それがのお、聞いてくれるか。鳥居峠で霊が出るとの噂じゃ。近々では鳥居峠には立ち入り禁止のテープが張られて、誰も近付かんのじゃが』
奥から女性が顔を覗かせ、慇懃に会釈を交わす。
漆塗りの上には、蕎麦が湯気を立て載って、机の上に並べられた。
『お姉さんは、霊やらの話を聞いたことは』
蒔絵模様に彩られた浴衣、鬢に結われた髪の毛を背に涼しき目を見張りて、
『ええ、一説には霊・疫病・雨の一連の災いは木霊のの仕業ですと』
『それは、一体』
『さぁ、そう言われましても詳しくは』
咳をしかけた娘は、手で口を覆い部屋を駆け出て。
お婆、すかさず
『400年前は鎮神社が、だけど令和にこの病、鎮神社の明神様もこのところ、疫病を鎮める気配はなし』
『やはり我々人間に根源というか、因果が』
『鳥居峠に怒りとともに霊がおるとの話だが、ただでさえ人の命落ちる危険な難所。ましてや、霊を探しになんてとても』
思案顔にひたると、
『さぁさ、蕎麦を召し上がり、上にのるのはフクチドリ。この辺じゃ蕎麦はここが一番さ』
お婆は、五重塔が描かれる襖を閉じて部屋を出て行った。
旅人は、お婆が出てくのを見届けると、座分屯を頭に横になった。
それにしても、とんでもないところに、とんでもない時期に来てしまった。
明日にでも、この宿を出なければ。
しかし、それにしても鳥居峠を越えなければならぬ。これも一つのご縁にて。
さて、休憩してから鎮神社へ挨拶へ向かおう。
思いがけず目を覚ましたのは、廊下に冷たく響く時計の音。雨音に混ざるその音、行燈を片手に、襖をあけ、廊下を歩くと壁に駆けかけられた時計は夜の10時50分。
旅人はそのまま下駄を履き、傘を取り奈良井の通りへ身を投げ出した。
漆の如く夜空に、金箔の如く鏤められた無数の黄金。それはそれで綺麗で。だけども確かに星でも虫でもなく、不気味といえば不気味。
登り坂の先に、例の鎮神社。
そこを目当てに下駄を響かす。
宿のランプには大きな蜘蛛の巣。
下町情緒溢れる奈良井の夜散歩はなんとも言えぬ風情がある。
雨はともかく、本当に疫病なんて蔓延してるのだろうか、ましてや霊。
いやぁ夜道一人で霊のことを考えるのはやめだやめ。
水飲み場を過ぎたあたり、鎮神社の鳥居が見えた。
下を通り抜け御神木、さらに奥へ行くとスラリと人の気配。ゾッとして、然れどしっかり見ると女性の姿。全身を灯すには心細い行燈の燈。思わず後退り、しかしその女性、よく見ると先ほどの。
こちらの姿に気づきて、驚くそぶりも見せずに。
『こんばんは』と一言、苦しそうに喉の辺りを抑えるに、
『どうしてこちらへ』
問い詰めければ女性。申し訳なさそうに、
『この頃どうも、喉が痛くて』
『そうか、それでこの社に』
『ええ。あなたは、どうしてこちらに?』
『明日、鳥居峠を越えなければ』
『それはまぁ大変、それでお参りってわけ』
『ええ』
すると女性、声を細めて
『私もついていってよろしゅうございますか、邪魔にはさせません』
奇妙な申し出に首を傾げると
『一連の祟りの真相がわかれば、私の喉の風邪が治る気がするのです、どうも鳥居峠に謎が秘められてる気配がするのです』
旅人としても、悪い話ではあるまじ。
女性と私、明日の午前10時にここへもう一度集まる約束交わしたり。
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