イカアバター
安岐ルオウ
起
やあ、久しぶり。
最近、ずいぶんと勢いづいてるな。
この海洋資源研究所が持ち直して、一周年を迎えられたのも、君のおかげだろう。おかげで今日は、探査船でこんな盛大な船上祝賀会が開催されているわけだ。
そっちは元気がないな、だって?
話を聞きたい?
なんだ、さっそくソファに座り込んで。
本当に聞きたいのか? 長い話になるぞ。
そう、お酒の上の与太話だと思ってもらったほうがいい。
ああああ、その舟盛には手をつけないで。
え、イカの姿造りがおいしそう?
……そうか。さきに話を聞いてくれるかな。
自分は「ノーチラスプロジェクト」にこの六か月参加していた。知ってるだろう。
バイオテクノロジー、画像認識、センサー、人工知能、海洋地質学、気象学の各分野の専門家を集めて、深海調査のためのシステムを実験する試みだ。
自分が所属していたのは「デバイスチーム」、テーマは生物を探査用端末に応用することだ。深海に生息する生物は耐久性もあるし、危険を回避することもできる。
生物が感知する情報を収集して、これまで有人探査船も無人探査機も到達できなかった特異な環境での計測、調査、研究を実現させる……はずだった。
ところが、次々難局に見舞われた。いろいろと噂は聞いているかもしれない。それで悩んでいるのかって? 違う。そこはクリアしたんだ。まずその話からしよう。
第一に持ち上がった問題は、どの生物を選ぶか、だった。
最初に検討したのはスケーリーフット…ウロコタマフネガイ。水温三百度ほどの熱水噴出域に生息できる硫化鉄の鱗を持つ貝だ。ただ、移動能力がプアで、広範囲の情報を得るのには不向きだった。
次にダイオウグソクムシを選んだ。身体も頑強だし、視覚や嗅覚も発達しているから、どうにか初期実験までこぎつけた。ただ、移動範囲が海底の地形に左右されるし、火山活動で地形が刻々と変化する環境などには不向きだった。
ラブカやアンコウなどの深海魚もそこそこまでいけたんだが、体内に挿入した装置群が脊髄や内臓を傷つけて装着後に死ぬことが続いて、やむなく断念した。
イルカ?とんでもない。動物愛護とか環境保護の団体から、猛反発があがってくる。検討以前の段階でストップがかかる。
そこでやっとのことでたどりついた選択肢が……イカだ。
イカの眼は、脊椎動物と同様の構造を持ち、視覚認識の能力は、ほぼ人間と変わりない。彼らの脳では、これだけ大量の視覚情報を処理しきれないんじゃないか、ともいわれている。
でも、これだけの視覚情報があれば、人工知能を経由して人間の知覚処理に変換することで、高精細映像を得ることができるわけだ。
一方で、運動器官も発達していて、海中を俊敏に移動したり、触腕でものを掴む繊細な動作も可能だし、なによりも神経系が大きくて加工しやすい。
その上、発光機能も持っているから、深海で補助的な照明として使える。
深海を安定して探索するためには、環境の変化を敏感に捉えることができる感覚器官と、迅速に行動ができる運動器官を兼ね備えていることが必要だ。
まさにイカこそ、この役目にうってつけの生き物だといえる。
なんだ、反論か?まあ、この話が終わってからにしてくれ。
これらの能力をバランスよく持つ種類を、やっと見つけることができた。最近、マリアナ海溝付近で捕獲されて繁殖に成功した、通称「シロスジアオヤリイカ」だ。見た目は日本近海のヤリイカと見分けがつかないんだが、習性がまったく違う。
次に行き詰まったのは、デバイス自体の不安定さだ。デバイスの知覚・感覚データをログに残して後でピックアップするスタンドアロン方式の設計だったから、生物自身に行動の選択を委ねるしかなく、生きて帰る可能性が低い。生き延びたとしても、後から捕獲するのは難しい。
そこで考えた。
医療科学の分野では、いくつかの技術の応用が進んでいた。全盲の患者に視覚を取り戻すためにカメラが捉えた映像を視神経の信号へと変換したり、その反対に、視神経の信号を映像として解読する試みが行われていた。筋委縮症や各種の麻痺などの治療で、電位差を応用して筋繊維を脳波で動かす研究も、それなりに成果が出ていた。
で、これらを結びつけて、人間がデバイスとなる生物を操作する、という方式をとることにした。これなら、効率的に目的の場所へ辿りついて、危険を回避しながら必要な情報を探索、収集、送信するまでを一手に解決できる。
最後にぶちあたった課題は、深海の大容量通信だ。海中では電波の減衰が激しくて、低周波帯の電波しか利用できない。そこで、ミズクラゲやオワンクラゲなど小型のクラゲに、マイクロサイズの中継装置を埋め込んで、数mほどの距離で電波をリレーして順繰りに仲介する通信網を構築した。データを多層に分解圧縮して複数経路で送信し、深海淵に敷設した設備に集約して、そこから光ファイバー経由で海上の観測船に繋ぎ、欠損部分も含めて復号化する。これで、超高速の双方向通信ができるようになった。
イカの飼育は、昔から難しいと言われている。
大変な速度で一直線に遊泳するうちに、水槽の壁に何度も衝突して、そのうち衰弱死してしまう。何匹も一緒の水槽に入れると、争いが始まる。
ところが、この種類は様子が違った。
もともと大きなドーナツ型の回遊水槽を使っていたから、回転する水流にのれば壁との衝突は防げるんだが、それだけでなく、とても器用に壁を避けて遊泳している。眼球がひときわ大きくて前後に動かせるから、前方の視野がよくきく。
しかも、繁殖した同種と一緒にいても、争いごとを起こさない。お互いによけながら泳ぐし、向き合って何かを会話しているような様子も観察された。
中でも特に敏捷に動く個体の「NM-09」を、最初の実験体に選んだ。
IDで呼ぶのも味気ないから「ネモ」と命名した。プロジェクト名にちなんで、「海底二万哩」に出てくる潜水艦「ノーチラス」の船長の名前をつけたんだ。
ここからプロジェクトはがぜん勢いづいて、まもなく、なんとかアルファ版の試験までこぎつけた。
あとは、このシステムの最後のパーツとして「人間」が必要だ。これには自分自身が志願した。考案者としての責任感もあったが、むしろ、イカの眼と身体を通じて、深海の世界を体験してみたいという思いの方が強かった。
アルファテストの前日に、ネモと「面会」した。
養殖場から移送されてきたネモは、研究所の倉庫に臨時で設置された回遊水槽の中を泳いでいた。ガラス窓を通してじっと見つめていたら、ネモの方も、漆黒の眼球でまじまじと見返してきたのをよく覚えている。
翌日、テストは予定通りに開始された。
両手の微細な動きをトラッキングするグローブと、密着式の小型ディスプレイに映像を投影するアイグラスを装着した。視神経を刺激する極細の端子を頭部の皮膚の「ツボ」に刺して、イカの視覚をエミュレートする。
テストを開始した瞬間、世界の感じ方がはっきりと切り替わるのがわかった。
もともとのイカの視野をAIが補完・合成することで、上下左右、すべての方向へ三六〇度に広がった視界に、全焦点の精細で鮮明な像が映し出される。イカにはない色覚も補完され、十億色が識別可能だ。
それ自体が驚異の感覚だというのに、そのまま高速で移動するという、ジェットコースターに乗ってぐるぐると回転しているような眩暈の快感。
それでいて、左右の手指の微かな動きと連動して、繊細な姿勢制御と速度調整が容易にできる。
ネモの皮膚に受ける水流の圧力をウェットスーツ内の気圧に変換することで、感触によるフィードバックも得られる。鼻の下を通るチューブの穴から香料を合成して噴霧し、臭いも感じる。口にくわえたマウスピースで、吸盤にある味覚も再現する。
最初のうちはファイバーを直結して水槽で数回トレーニングした。さすがに有線では動きに制限があって不自由だったから、観測船で外洋に出て、クラゲの無線網の試験を兼ねて、船の周囲をぐるっと巡ってみた。やっぱり水槽とはまったく違う。水の重さと匂いが心地よく感じられて、いつまでも泳いでいたい気分にかられた。
そして、いよいよ深海に潜る日が来た。
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