承
まさに、めくるめく体験だった。
すべての感覚器官を通じて、一瞬ごとに、人間にとっては決して得ることができない、大量で高密度の情報群がなだれ込んできた。
ごく少量の、しかも可視光を超える波長の電磁波を確実に捉える視力が、太陽の光が届かない深淵の様相を露わにしてくれた。
彼方に望む海嶺の山並み。
手前を高速で横切る魚影の群れ。陣形を崩さず進む様子から、クロマグロだとわかる。
海底には、すべてを飲み込むかのような大きな裂け目が走り、その漆黒の奥から噴出する熱水の周囲に、無数のチューブワームが群生しているのが見えた。カニやエビが、林立する管の間を蠢きまわる。深海での生活に適応して、身体は大きく成長し、色素が少なく、光の加減次第で透き通って見える。
三十分ほどですっかり操作に慣れて、そのままより深い海へ潜行を試みた。
すっかり気分が高揚してしまい、テストの管制員から「そろそろ引き返せ」と通話やメッセージが送られてきても、「大丈夫」とか「いける」とか、軽く返していた。
ところが……。
海流に乗って遊泳を愉しんでいるうちに、クラゲたちの通信網の辺縁まで来てしまった。ネモに取り付けた補助装置を使えば、誘引物質を放出してクラゲを引き寄せることができるが、それでも五十km以上の距離をカバーすることは難しい。
奇妙なことに、いつしか、研究員との音声通信もメッセージも途絶えていた。自分が深海にいるわけじゃないから、ネモが深海に向かったからといって、通信が不調になるはずがない。でも、あまりに深く没入していたせいか、それを不審に思うこともなく、装置を外すこともまったく頭に浮かばなかった。
海面からの太陽光も弱まり、しばらくの間、光がささない暗黒の海中を、沈黙のまま進み続けるうちに、だんだん心細くなってきた。
そのとき、ずっと向こうの方に、白い光が見えた。
最初は、アイグラスの信号の異常か、長時間のテレイクジスタンスの体験で脳疲労が幻覚を引き起こしたんじゃないかと疑った。でも、なぜだか、その光はまっすぐネモ、というか自分に向けられているように思え、言おうとしていることまでもわかるような気がしてきた。
光の訴えは、来てほしいといざなっているように思えた。
その途端に、すぐ近くの海底から、超高温の熱水が猛烈な勢いで噴出してきた。
三六〇度の視界が返って災いして、完全にバランスを失い、くるくると回りながら、あやうく岩石に衝突しかけた。
慌てふためいて触腕をばたつかせているところに、光がついと近づいてきた。と思う間もなく、身体の回転が止まり、眼の前にイカの甲がぬっと現れた。
どうやら、光の正体はネモと同種類のイカで、長い二本の触腕で支えてくれたらしい。おかげで何とか安定を取り戻して、難を逃れることができた。
流れの穏やかな場所まで来ると、隣にいたイカは、ついと離れて、再び、ちかちかと発光しはじめた。ふらふらと後をついていくうちに、いつの間にか、自分も、先を行くイカに応えるかのように、光をまたたかせていた。「待ってよ」「ついていくよ」というつもりだったが、そのときはがむしゃらで、伝わったかどうかなんてわからなかった。
やがて、信じられない光景が見えてきた。
離着陸する飛行機の窓からはるか下に眺める街の夜景と見まごうような無数の光が、海底でゆらゆらと煌めく。イカの大群が、海底でじっととどまっているのだ。
ひとつひとつの光が、自分と、自分を先導する白いイカに向けられている。
暖かくて安堵を誘う感覚だ。緑色の光からは安心を、白い光からは受容を、橙の光からは歓待の感情を感じる。
どうやら、イカたちは、体表の光を使って高度で複雑なコミュニケーションをとっているらしい。
そのうち、白イカの前方に、ひときわ巨大でぼんやりと輝く蒼い光が見えてきた。
その前で、小振りのイカたちが発する小さな光がまたたく。何種類もの光が織りなす海底とは思えない景色に、しばらく見とれていた。
進む先の方に、巨大な光を放つものの影が、うっすらと浮かび上がった。
十五mはありそうなイカが、じっと海底にうずくまっている。
これにはさすがに興奮した。希少な生物を見つけた昂りというよりは、神聖な何かに遭遇したときの畏怖に近い感情だったと思う。
まもなく、白いイカが、巨大イカの眼の前の海底に静止した。ひれを小刻みに揺らし、その場にとどまっている。見よう見まねでひれを動かし、海底に静止しようと努力した。その間も、自分たちの体長の何倍にも達する大きさの茶褐色の眼が、まるで、こちらを見透かすかのように、じっと睨み据えている。
このイカは何だろうか。さまざまな憶測が頭をよぎった。
イカの大群をコントロールしている?
だとしてもその目的は何か?
群れを守る?
逆に捕食している?
隣の白イカはこの巨大イカの食糧を連れてくる役割か?
そこまで想像して、底知れぬ恐怖にぞっとした。今にも、目の前で大きな口が開いて、ぱくりとやられてしまうのではないだろうか。ネモが食われたからといって自分が死ぬわけではない。だというのに、なぜだか、死の危険を間近に迫るものとして感じた。
白イカが、また自分に向かって体表の光を向けてきた。
「どこから来たのか」といった意味合いだと解釈した。
こちらも何かを伝えようとして、自分の体表に光を纏わせようと努力したが、体色が赤くなったり黒くなったりするばかりで、なかなかうまくいかない。
そのうち、巨大イカが大きく身じろぎして、見たことのない紫色の光芒を放った。
すると、それに呼応して白いイカが海底を離れた。
先ほどと同じように、ついて来い、という合図を出しながら、暗黒の海中を純白の身体が舞う。
成長途上の小ぶりのイカの幼体が数十匹ほど、深海でも真っ白に見えるそのイカと自分にくるくるとまとわりつく。
そのとき、このイカの呼び名を思いついた。
「ホワイティ」。
シロスジアオヤリイカの雌雄を区別するには、触腕以外の八本の足のうち、腹側の左右二本の足を見ればわかる。
二本の形が他の六本と違っていたら雄、同じ形状ならば雌だ。
ホワイティ……彼女は確かに雌だった。
彼女に誘われるままに海底を泳ぎ回るうち、ようやく次の場所に辿り着いた。海底からまるで角のように高く突き出た、穴だらけの溶岩の柱だ。
無数に開いた穴のひとつに、ホワイティがすべりこんでいく。
いざなわれるまま中に入り、ごつごつ突き出た鋭い岩塊の合間を、奥へ奥へと追っていった。暗がりの中を、彼女の体光を頼りに追いすがり、途中にある球形の空洞の入り口で、やっと追いついた。
おそらく火山性の爆発で造られたらしい空洞の内部には、これまで見たよりもさらに多くのイカたちの群れがひしめきあい、たゆたい、互いに身体の光をきらめかせていた。その光が空洞の壁に反射して、ホワイティと自分の影を映している。
ここは、彼らの大群が回遊するときの一時的な寄留地だ。灯っては消えるイカたちの橙色の輝きは、歓待の気持ちの奔流となって自分を包んだ。地上にいる自分の本体の眼からは、きっと、滂沱の涙が流れていたことだろう。
そのとき、光に映えるホワイティの左眼の下に、小さな星型の黒い泣きぼくろがあるのに気付いた。
泣きぼくろというのはおかしい?
イカは体表の色や斑を自在に変えられるんじゃないかって?
野暮は言わないでくれ。
あのとき自分は、あのほくろのおかげで、あらためて、ホワイティが雌だと認識した。そして……、一目ぼれしたんだ。
ところが、その刹那、空洞全体を激しい震動が襲ってきた。
穴の奥の方にたむろしていたイカたちが、一斉に出口へと向かって勢いよく溢れ出てきた。何が起きたのかわからないうちに、その中に飲み込まれ、ホワイティも自分も、たちまち外へと放り出されてしまった。
視界の隅で、岩の柱が中央のあたりからぽきりと折れ、ゆっくりと崩壊していくのが見える。
もうもうと土砂が舞い上がり、次の瞬間、中から灰色の巨大な影が素早く滑り出てきた。
塊のように見える頭をふりかざしつつ、黒い闇の中をまっすぐ向かってくるその姿は、まぎれもなくマッコウクジラだった。
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