転
クジラは、口をくわっと開けて、そのまま、尾びれを力強く一打ちした。
海中に躍り出た大量のイカたちが、その中に次々飲み込まる。顎が閉じられ、イカが切り裂かれてすりつぶされていく。
歯列の奥に彼らの断末魔の光が見える。そのひとつひとつの悲しい叫びが、心の底に突き刺さる。
まだ食欲を満たしていない獰猛などす黒い目が、分厚い皮膚の皺の奥でぎらりと光り、逃げていく一群に目を止めると、再び尾びれを大きく波打たせた。
と、群れが左右に分かれ、その間から、さっきの巨大イカが姿を現した。やはりこのイカの群れの首長、あるいは守り神だったのか。
二本の長い触腕がすさまじい勢いで伸び、クジラの頭に巻き付いた。口を開くことができず苦しげにのたうつクジラに、巨大イカがのしかかってきた。
海底の岩盤にクジラが叩きつけられ、もうもうと砂煙があがり、水流が襲う。視界を覆う煙の中から、突然巨大な触手が現れ、すぐそばをかすめていく。
次の瞬間、舞い飛ぶ砂に黒々としたものが混じって、視界がふさがれた。巨大イカが苦し紛れにスミを吐いたらしい。
あわてて漏斗から水流を噴射して、ようやくその場を逃れた。
ホワイティも追いつき、寄り添うように身を寄せて、触腕を自分の触腕に巻きつけてきた。先端の吸盤と吸盤が、ぴったりと合わさる。
必死でもがきながら、やっとのことで、岩と岩の隙間に二匹で潜り込むことができた。
暗がりの中で、息を……ではなく、漏斗の水流をひそめて様子をうかがう。
ホワイティと視線が合い、その体表が不安そうにぼうっと光る。
感謝を伝えるために視線を返し、こちらも体表を発光させる。
じっとお互いに見つめ合う。彼女に魅入られた気持ちの昂りはいや増すばかりだった。しかもこんな状況で……。
危機的状況の中では一緒に居合わせたもの同士が恋愛感情を持つ確率が高まる、という話を聞くが、そんな心理状態だったのかもしれない。
ホワイティの二本の触腕が伸び、おずおずとこちらの外套膜に触れ、ゆっくりと撫で回す。体表で、光の帯が幾重にも重なりながら明滅する。
いつしか、自分の体表でも光の点がきらきらと点滅し始めた。せき込むように全身が律動して、ホワイティの光の帯と同期するように輝く。
イカが行う「交接」は、脊椎動物などの「交尾」と違い、気ぜわしいピストン運動の繰り返しではない。
それどころか、とても優美で神聖な行為だ。
自分……ネモが、交接腕をそっと差し出した。先端には精子を収めた鞘状の袋、精莢がある。
ホワイティは、八本の短い腕を広げて、精莢をふわりと受け止め、ゆっくりと口吻へ送り込んだ。
彼女の全身が、淡い桃色に包まれてぼうっと輝いた。
いつの間にか、外の轟音はおさまってきた。
すさまじい勢いで灰色の煙が行き交う中を、おそるおそる一緒に泳ぎ出ると、クジラも、巨大イカも姿を消していた。
注意深く周囲の様子を警戒しながら、煙が薄れるところまで泳ぎ続ける。
海底のあちこちに、砕けた岩盤の欠片が散らばっているのが、うっすらと見えるようになった。やはり二体の巨大生物の影は、どこにも見えない。
ホワイティの触腕と自分の触腕をぴったりと重ね合わせて、離れないように進む。
マッコウクジラがあの場所に突然出現して、自分たちを襲撃したのはなぜか。ずっとそのことを考え続けていた。彼らの習性からして、あまりにも不自然に過ぎる。
そのとき、一つの推測、いや憶測が閃いた。
おそらく、マリアナ海溝西の大陸棚の海底油田のせいだ。ノーチラスプロジェクトが発足する理由のひとつにもなった計画だ。
人間による大規模な採掘活動が始まり、マッコウクジラたちは回遊ルートを変えざるを得なくなって、充分な食糧が確保できなくなった。
そのうちの一匹が、あんなふうに凶暴化したんだろう。
しばらく進むうちに、案の定、人造の構造物が現れた。
三六〇度の視界のほぼすべてを覆うように、プラントの設備が海底一杯をはい回るかのように埋め尽くしている。
着底したユニットからは固定用の鉄骨が伸び、海底のパイプライン同士を縦横無尽に結ぶ。遠隔操作の重機のアームがまばゆい水中用ライトに照らし出されて、まるで絶滅した首長竜が、何頭も海底で息を潜めているかのように見えた。
ホワイティが触腕を震わせる。
このような光景を目の当たりにして怯えているのだ。
大丈夫だ、と応えるために、彼女の触腕をぎゅっと握りしめた。
それとともに、徐々に怒りが湧き上がってきた。
人間がこうやって化石燃料を採掘することで、海洋資源の無意味な簒奪と破壊が進行していく。多数の海の生物たちが苦しみ、本意ではないはずの争いを強いられる。
この状況を、少しでも何とかしたい。
「行くぞ、ホワイティ」
言葉には出せないが、そのような気持ちを込めて体表を光らせる。
どうやらうまくいったらしく、ホワイティが同じように体を光らせた。
自分の秘かな決心も、伝わっただろうか。
海洋資源調査では、プラントの建造に適した地形の探索も同時に行う。
資源の所在とともに、中枢となる設備と末端の設備をどのように配置するか、海底の地盤の状況から策定して報告する。深海調査を実用に供したいという研究所のトップの意向で、何回もそのセミナーを受講した。
そのおかげで、無数のユニットの中から、特に安定した岩盤の上に設置された一基が、集中制御用のコアユニットだと識別することができた。
気が急いて、漏斗からの水流がどうしても荒々しくなる。
バランスを崩しながらも、パイプの森の間をぎりぎりでくぐりぬけて、ホワイティと連れ立ってコアユニットに近づき、やっとたどりつくことができた。
立方体のユニットの周りには圧力制御のためのボンベがびっしりと取り付けられて、まるでスクラムを組んで中に入るのを防衛しているようだ。
それでも、ようやくのことで、ケーブルカバーと瘤のようなボンベに覆われた側壁に、潜り込めそうな狭い狭い隙間を見つけた。
柔らかい体をなんとか冷たい金属の間に押し込めて、ユニットの内部へと進む。
ホワイティも、懸命に自分の後からあとをついてくる。彼女の触腕が、今度は自分の触腕をぎゅっと握り返してきて、なんだか力がわいてきた。
だが……。
目指す方向に、蒼白く点滅するものが見えた。
気閘だ。この中に入れば海水はない。情報処理通信用の基盤を正常稼働させるために空気が充満し、深海の水圧に耐えるよう高気圧に圧縮されている。
呆然として、ホワイティの触腕を思わず離してしまった。
お互いの触腕が、ユニットの中のわずかな海水の中で、ゆらゆらと揺れる。
イカがこの中に入って生きていられるはずはない。残念だが終わりだ。
諦めた瞬間に、気閘の壁を覆う装置の群れと、中の海水のすべてを大きく震わせる衝撃が襲ってきた。
動揺して、狭い空間の中で四方八方へと突進する。これはイカの習性として仕方がない行動だ。
混乱する頭の片隅で、考えをめぐらす。
何かがこのユニットにぶつかってきた……としか思えない。
たてつづけの震動の中で、ホワイティがきわめて冷静なままで、ふわふわと揺れているのが視野に入った。
助けが来たよ……と、体表の光が瞬いている。
まさか……。
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