転々
この揺れは、もしかして……。ホワイティに光の合図を送る。
そうよ。あなたは怖がっていたけれど、私たちの守護神よ。
ホワイティが送ってくる合図が、言葉として伝わってくるようになった。
まさか、あの巨大イカが来たのか。質問を投げると、ホワイティは、すかさず肯定の答えを返してきた。
衝撃が幾度となく繰り返される。
傷だらけの巨大イカが、コアユニットに突進を繰り返すさまが目に浮かぶ。
ケーブルカバーのあちらこちらに、細かい亀裂が走った。気閘の周囲から気泡が放出されはじめ、次第に勢いを増していく。
何度となく立て続けに揺さぶられる間に、気閘の表面で蒼白く点滅していたLEDが、血のような赤色に切り替わった。
やがて、ゆっくりとドアが開いていくのが見えた。さほど劇的ではない。
ドアの間からするりと入る。ホワイティが後に続く。部屋の中で、すっかり水没したサーバータワーが緑色の光を瞬かせていた。左右の触腕をグリップバーに吸い付かせて、体ごとバックさせてぐいと引く。
キーボードとモニターディスプレイが引き出される。モニターのスイッチを入れる。
まだ水圧で破損していない。
さらにラッキーなことに、どこかの愚かなオペレーターが、自動ログイン設定にしておいてくれたらしい。IDとパスワードが表示され、リターンキーを押す。
メニュー画面が現れ、ハイライトされたメニューを確かめて、触腕でリターンキーをなんとかして叩き続ける。
コアユニットだけが破壊されても、バックアップが起動する。プラントにダメージを与えるチャンスは、この瞬間しかない。
画面に現れるメニューから次々と選択し、なんとか「全プラント停止」の画面を表示させることができた。勢いづいて、もう一度リターンキーを押す。
とたんに、深い絶望に襲われた。
「パスワードを入力してください」の文字が光っている。
このプラントのシステム管理の最高機密権限のパスワード。
まさか、このパスワードがわかるはずがない、今度こそ万事休すだ……。
そう思った次の瞬間、ホワイティが両方の触腕を伸ばしてきた。
長い長い二本の腕が、優しく自分を抱きしめる。
あきらめないで……。
皆があなたに力を貸してくれるわ。
さあ、そこに腕をおいて。
言われるままに、右側の触腕をキーボードの上に置く。
やがて、彼女の身体の内側からたくさんの蠢くものが瞬き、湧き上がり、そのうち彼らの言葉が聞こえはじめた。
イカたちだ。イカたちが無限に続く呪詞を唱えている。
これは……パスワードの組み合わせだ。
さきほどの大群のイカの生き残りたち、この海域の他のイカの群れ、他の種類のイカの群れや、さらには太平洋を回遊する大群のイカたちまでもが、巨大で複雑な情報処理のクラウドネットワークを構成し、パスワード破りのブルートフォースアタックをかけている。
ホワイティから他のイカへの呼びかけは、おそらく微弱な電磁波だ。それが、深海の高い水圧の中で減衰しつつも、海底に点在して分布している磁性を帯びた岩盤を経由することで、増幅されていったに違いない。
そして、逆の経路をたどり、こうして、おそらく太平洋の全域に散らばるイカの群れから、ホワイティを通じてレスポンスが返ってきたのだろう。
一体一体が行う情報処理はきわめて単純だ。でも、これだけの数の個体が、互いに結び付き合うことで、厖大なパターンの情報を生成することができる。
まもなく、彼女の全身が光芒に包まれ始めた。視界すべてが眩い光に覆われていく中、ホワイティの姿がうっすらと浮かび上がる。
長い触腕がゆらゆらとゆらめき、短い方の腕も四方へと広がって、白い羽根を広げているようにも見える。
それとともに、無限の数のイカが送り込んでくるパスワードが、自分の体を駆け巡り、触腕からキーボードを抜けて、キータッチと同じ信号をサーバーへと次々に送り込んでいく。
やがて、モニターの画面に、緑色のスクエアが現れて、「OK」の文字が輝いた。水没した気閘の中で瞬いていた多数の機器のLEDが、いきなり沈黙する。
終わった。
全身の力が抜け、気閘の床にふらふらと漂いながら横たわる。
このプラントは、当面稼働しないだろう。
でも、クジラの回遊ルートは、果たしてこれで戻るのだろうか。自分のやったことが、どこまで意味があるのか、まったくわからない。
まあ、やれるだけのことはやった。
光り輝くホワイティが、自分に向かって舞い降りてくる。
まるで天使のようだ。いつのまにか、知らないうちに、深海底ではなく、天上に来てしまったのではないか。そう思えた。
彼女は自分の体を抱きかかえて、気閘を後にした。
目の前に、今度こそ本当の意味で、信じられない、そして見たことがない光景が広がっていた。
視界全体を埋め尽くすように、無数のイカの大群が、ゆらゆら舞いながら、まばゆい光を瞬かせている。
光と光が重なり合い、まるで銀河系の中心に来てしまったかのようだ。
皆が祝福の合図を送ってくる。
歓喜に満ちた、暖かいエールだ。
ありがとう。
ありがとう、英雄。
やったな。
よくやった。
おめでとう。
行き交うイカが、次々に呼びかけてくる。
さあ、行こう。飛ぼう。
自分を抱いたホワイティが徐々に浮上を始め、イカたちはそれに続いた。
まもなく海面だ。ホワイティの腕の中で、ようやく力が戻って来た。
飛ぼう。
ホワイティも自分にささやく。
飛ぶ?飛ぶって……。
言うなり、ホワイティは速度を上げた。周りのイカたちもホワイティに合わせて、水流を吹かし、びゅんびゅんと通り過ぎていく。
自分も慌てて後を追う。
やがて、ホワイティが鰭を大きく広げ、他のイカもそれに続く。
さあ。
自分も、何とかして鰭を精一杯広げる。と、いきなり上へ上へと向かう力が働く。
ついに海面を突き破って、空中に躍り出る。
水しぶきがぱあっと上がった。
飛んでいる。確かに飛んでいる。
空中での三六〇度の視野は、海中とはまた違って、あらたなめくるめく体験だった。
蒼い空には雲がちりばめられ、遥か彼方の水平線が、視界をぐるりと囲んでいる。
たゆたう波を遥か下に見て、風に乗って中空を滑っていく。
自分と一緒になって、無数のイカの群れが飛び交っている。
隣にホワイティがぴったりとついてきた。
まさに、彼女こそ空を飛ぶ天使かもしれない。
そう思った瞬間だった。
突如として、視界が突然真っ暗になった。
何が起こったのかわからずに、慌てて周囲に触腕を伸ばそうとする。
手ごたえを感じない。両手の指をがむしゃらに動かしてみたが、何の反応もない。
そのまま、数瞬が過ぎた。
「おい」
声が聞こえる。
両頬が痛くて熱い。
重い瞼を無理やりこじ開けると、目の前に管制員の強面があった。
他にも、二、三人のクルーが眉をしかめて心配そうにこちらをのぞきこんでいた。
「大丈夫か」
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