【弐 バンダリズムと学芸員】
春の雷など生まれて初めて聞いた。雲の隙間を竜が通り過ぎていったような、そんな幻想に一瞬だけ浸る。雷は嫌いだが、たぶん、もう鳴らないだろう。
コンクリートで舗装された坂道を、青年が一人、歩いている。明るい茶色に染められた髪。毛先があちこちを指差している。耳たぶにピアスをたくさん着けている。黒、銀、クリスタル。総じてシンプルだが、やんちゃな雰囲気に溢れたデザインであった。腰にもチェーンがぶら下がっていて、全身は真っ黒。
アクションよりミュージックが得意なメン・イン・ブラック。
コードネームはアオバといって、本名は青嶋葉太である。
彼は目的も無く歩いているのだった。少しだけ雨がぱらついているが、気になるほどではない。事実、彼も傘は差していないのであった。差していないどころか、持ってすらいない。家を出る時にはそれなりに降っていたから、彼の服は濡れそぼっていた。暦上の春はまだまだ寒い。冷たい風が吹きつけてくると、彼は肩を震わせて、逃げていく体温を引き寄せようと二の腕をさすった。
この時、アオバの頭の中は、形にならない単語の応酬でいっぱいになっていた。彼は《VANDALISM》というバンドのボーカルであり、作詞家の役割も務めていた。インディーズで細々と、しかし着実に努力し続けたことが実を結び、遂にメジャーデビューの話が舞い込んできたのが三月の頭のこと。それから早速、デビュー曲の作詞に取り掛かって、二週間と三日。
見事なまでに行き詰まっていた。
もうそろそろ完成させなければならないのに、最初の一節からまったく思い浮かばない。これまではすらすらと言葉が流れ出てきたのに、と彼は苛立っていた。メジャーデビューという単語が大きな堰となって、歌詞の流れを妨げている。焦れたメンバーから急かされて、余計に苛立ちが募る。仲間からの再三の電話に、とうとう耐え切れなくなって、家を飛び出したのが一時間前。
坂を上り切ったところで、彼は水溜まりに足を突っ込んでしまい、大きく舌打ちをした。黒いコンバースに水が染み込む。浸食される。
彼らは《VANDALISM》などという名前だが、別に美術品の破壊活動を推奨する歌を歌うわけではない。日常の風景を洒落っ気たっぷりに切り取った歌詞が特徴的であり、ユニークな歌い回しと音楽性の高さが評価されている。この名前にしたのは、ただ単純に「バンドリズム」と引っ掛けただけだった。凝ったものを考えるのが面倒だったのと、ちょうどその日に見たニュースで「バンダリズム」という単語を聞いていたからである。
美術品の損壊。公共物の汚染。文化遺産の破壊。
研究者や学芸員らを敵に回すようなネーミングである。とはいえ、彼らはそもそも学術的な物事とは縁遠い。よって、まったく気にも留めていなかったのだが。
アオバは――もしかしてメジャーデビューして、人気なんか出ちゃったりしちゃったら、バンダリズムをする人が増えちゃったりするんだろうか――などと考えて、すぐに、そもそもメジャーデビューするために必要な歌詞がまだ書けていない、ということに思い至る。
再び、舌打ち。
それから青年は、今度は溜め息をついた。眉尻が不安げに下がり、視線が道路の表面を彷徨う。上手く歌詞が書けないのは、自分の実力が足りないからだ。
(わかってんだよ……くそっ)
こんな程度でメジャーデビューなど、無事に出来たところで、その先を続けていけるのだろうか。現実が甘くないことぐらい分かっている。嬉しい話を足枷にしてしまうなら、悲しい話に直面した時は一体どうなってしまうのだろう。自分が書けなければ、書かなければ、困るのは自分一人ではないのだ。三人のメンバーが全員、路頭に迷うことになる。果たして、その重責に、自分は耐えられるのだろうか。
雨が完全に上がり、雲間から光が射し込んでくる。神々しいはずの天使の階段も、今の彼の心には、何の感慨も浮かばせないのだった。
どこかから鶯の声が響いて、アオバは立ち止まった。彼は鶯が好きだった。正確に言うと、『早春賦』という歌が好きで、それで鶯も好きなのだが。立ち止まって、ふと見た電柱に、小さな看板がかかっていることに気が付く。
《長尾町博物館 この先200メートル右》
不意に、行ってみようか、という考えが彼の中に生まれた。《VANDALISM》と名乗りながら博物館に敵対する意思はないのだから、地元の博物館ぐらい一度は行ってみるべきなのではないか、と。良い気晴らしにもなりそうである。
それで、彼は看板に従った。小さな川に沿った道を進んでいく。住宅地である。こちらが正規のルートでないことは、到着してすぐに分かった。二百メートルともう少し進んだ先に見えた博物館は、こちらに背中を向けていたからである。ぐるりと回って正面に出ると、石造りの重厚な構えが青年を迎え、いかにも博物館らしいと思わせた。
自動ドアを二枚くぐって、中に入る。平日の博物館は人の気配が薄い。なんとなく、空気まで薄いように感じられるから、やや不気味に思えてしまう。どこか気だるそうな受付のおばさんから、三百円のチケットを買った。チケットの半券には、『特別展 様斬の刀と日記』と書かれていて、どうやらそういう展示をやっているらしい、と知る。
「企画展は二階で行っております。こちらが、出品一覧になります」
機械的な説明を聞き流して、アオバは展示室に足を踏み入れた。一階の展示室には常設展と書かれていて、長尾町の歴史がパネルを中心に展示されている。古い由緒を持つ町ならではの、興味深い内容が展示されていたのだが、如何せん難解な文章が多すぎた。案の定、アオバはすぐに飽きて、部屋を後にする。
二階へ上がると、踊り場の壁に大きなパネルが貼られていた。そこの『様斬とは』という見出しに「ためしぎり」とルビが振られていて、――あぁ、これで「ためしぎり」って読むんだ。「ようざん」だと思ってた――アオバの辞典に言葉が一つ増えた。およそ使い道の無さそうな単語ではあるが。
(様斬とは……平和な江戸の時代では、戦がないため、武器としての刀の良し悪しが分かりにくかった。そこで、刀の切れ味の良さを証明するべく、死刑囚の死体を試しに斬ってみせたのが、『様斬』である。江戸時代では、人体を斬るのが最もよく刀の切れ味を表す、と考えられており、様斬で良い切れ味を示せた刀は、高値で取引されたという――)
つまり、この展示室にある刀は――死体ではあるが――一度は人を斬っている刃物である、と、そういうことか。
突然、空気が重たくなったように感じた。気の所為であることは明白だ。自分は変なところが臆病なのだ、と彼は分かっていた。ずっと前から変わらない気質だ。よく、人間は学習し成長する生き物だと言われるが、アオバはそうは思っていない。十年かけて習得した性質は、きっと二十年かけなければ変えられないのだ。それを繰り返している内に、気付けば目の前に寿命が迫る。
(どうしろってんだよな……)
ぼんやりとしながら展示室に踏み入る。
四角い部屋。仕切りは無く、広い。正面の壁はガラス張りになっていて、その向こうに何振りもの刀が鎮座している。離れ島のように、独立したガラスケースが点々と配置されていて、刀が入っているものもあれば、そうではないものもあった。
壁伝いに観覧していく。人を斬っているとは思えない、綺麗な刀身だ。刀にはまったく詳しくないから、正直よく分からないけれど、なんとなく強そうだ、と思う。当然のことだが、庖丁とは違う。
(かっけぇー。やっぱいいよな、かっこいいな)
刀を見るのは、たぶん三度目ぐらいだった。小学生の頃に二回、学校の行事で来たきりである。この時点で、アオバは様斬のことなど忘れていた。忘れられるほど、金属の煌めきは心を躍らせる。
刀の隣に置かれた説明文に目を落とす。
途端、アオバの眉間に深いしわが刻まれた。
(……読めねぇ。なんだこれ。くき……栗尻? 何目? かっ、て、下がり……ふつ、明るく、よく冴え……? どういう意味だ? ――え、帽子? なんで帽子? 何が? どのへんが?)
「日本語とは思えねぇな、これ……」
「――あの、」
思わず呟いたその瞬間に、横から声を掛けられて、アオバはびくりと肩を跳ね上げた。
(いつの間に人がっ?)
眼鏡をかけた大人しそうな男性が、にこにこと笑ってアオバを見ていた。アオバにとって、こういう人種は苦手だ。勉強第一、学術こそ至宝なれ、と真顔で言いそうな連中。
「よろしければ、ご説明――」
「いや、いいです、大丈夫です、もう帰るんで」
「――あれ、君、青嶋くん?」
「は?」
唐突に名前を呼ばれ、そむけていた顔を向き直らせる。
「あぁ、やっぱり、そうだ。青嶋くんだ」
眼鏡は、太い眉毛を驚きに持ち上げて、満面の笑みを浮かべていたのだった。その顔に、なんとなくアオバも見覚えがあるような気がしてきて、必死に脳内を捜し回る。
「僕のことなんて覚えてないかな? ほら、小学校と……高校も一緒だったよね、確か。小学校の時は、修学旅行が同じ班だったと思ったんだけど」
小学校の時の修学旅行――どこへ行ったのだったか。確か東京……眼鏡……待った、眼鏡の男子で同じ班ってまさか――
「まさか、小坂?」
「うん、そうだよ!」と、小坂は嬉しそうに歯を見せた。「久しぶり。青嶋くんは同窓会にも来なかったから、本当に久々だよね」
「あぁ、うん……」アオバは俯きがちに言った。「お前、痩せたな……」
口に出してしまってから、――ヤバい、失礼なこと言ったか?――と思ったが、小坂はからからと「皆にそう言われるよ。まぁ、自分でも、驚くくらい痩せたから、当然かも」と笑った。
それを見てアオバは、そっと胸を撫で下ろした。
記憶が鮮明に蘇る。彼の名前も――小坂兵庫。アオバの同級生で、皆からいじめられていた――かつて、自分が、何をしたのかも。
小学生のいじめに、大層な理由は必要なかった。大人しくて、真面目で、気が弱くて、眼鏡をかけていて、そして小太りだった――というそれだけの理由で、小坂は標的にされていたのである。
かく言うアオバも、別に小坂自体を嫌ってはいなかったが、あえていじめない理由も無かったので、気軽に無視をしたり蹴ったり、そういうことをしていた。面白かったのかと言われると、そういうわけでもなかった。ただ、その当時は、なんとなく他人を見下してみたかっただけなのだった。
「青嶋くんは、最近は何をやってるの?」
「……なんか、音楽活動、みたいな……」
アオバが一瞬、返答に窮したのは、馬鹿にされるのではないかと思ったからだ。小坂は頭が良くて、進学先は誰もが知っている名高い大学。高校が一緒だったのは、それが私立校で、アオバは中学から単願で進学し、小坂は中学受験をして特進コースに進んでいたからだ。高校三年間での接点は微塵もない。特進コースにいた連中にとって、アオバのような底辺の連中は軽蔑すべき存在であっただろう。おそらく、それは今でも変わるまい。
ところが、アオバの予想を裏切って、彼は目を輝かせたのだ。
「へぇ! 音楽かぁ、凄いね! 僕、音楽はからっきしだから、羨ましいよ」
心からそう言っているらしい表情に、アオバは喉を詰まらせた。
(……いつの間に――)
――こんな、大人になったのだろう。
覚えている最後の小坂の顔は、やはりあの修学旅行の時だ。いじめられているとかそういうことに関係なく、修学旅行がある限りは、班を組まなければならない。小坂がアオバたちの班に来たのは、くじがそう指示したからというだけだった。アオバにとってはまさに『貧乏くじを引かされた』状況であって、つまらなくなりそうな二泊三日をどう遊ぼうか、と考えるのに必死であった。とはいえ、小坂をいじめるための修学旅行ではないことぐらい、誰もが理解していたため、無視する態度を貫きそれぞれの旅行を楽しんだ。
たぶん、小坂にとっても、無視されることが一番楽だったろう。れっきとしたいじめでありながら、唯一最も実害の少ない行為であるのだから。
三日目の日程に遊園地があったことは、小坂にとって最大の不幸であっただろう。せめて、そこでも無視を続けてくれていれば良かったのだが、一度くらいは仕掛けておかねばならない、という謎の使命感が、アオバたちの中に存在していた。
嫌がる小坂を無理やり引き連れて、お化け屋敷に入ったのはアオバである。自分で進んでいくタイプのもので、それなりに怖いと評判のお化け屋敷であった。本当はアオバもびびっていたのだが、お化け役がお化け屋敷を怖がらないのと同じように、これから他人をびびらせるのだと思うと恐れは消えた。これこそ臆病者の気質である。小坂は、こちらが恥ずかしくなるほど怖がって、アオバの背中を追いかけていた。当然のように、二人の間に会話は無かった。
道程の半ば程で、アオバはわざと立ち止まったのだ。背中に小坂がぶつかる。その隙にすかさず、アオバは彼から眼鏡を奪い取った。それで、一気に走り出して、彼を置き去りにしたのである。
泣き叫ぶ声に名前を呼ばれた気がした。
アオバは出口まで一度も止まらず、走り抜けた。お化けなど何も見ていない。無事に抜けたところで、仲間たちが待っていて、奪った眼鏡を見せると小さな喝采が上がった。それからすぐに、眼鏡は職員さんに「落とし物です」と言って預け、出口から離れた茂みに隠れた。
やった直後は、達成感でいっぱいになり気持ちが高揚していた。しかし、その興奮は徐々に冷めていったのである。十分待っても、二十分待っても、小坂が出てこない。もしかして内部で何かあったのでは、という不安が全員に広がった頃、小坂はようやく出てきたのだった。本来の出口とは違う、建物の側面に開いた非常口のような場所から、職員に手を引かれて。酷く泣き腫らした目を擦りながら。
どうしようもなくみっともない姿だった。他の仲間たちが、安心したように息を吐いて、次の瞬間指をさして笑い出した。――何だアイツ情けねぇ。みっともねぇ。臆病者だ。恥ずかしい。同級生とは思われたくねぇな。あんなに泣いて馬鹿みたい。――安心した分、というよりは怯えさせられた分、いつもより辛辣な声が飛び交った。そして、彼をあのまま放置して行くことに決まったらしい。
アオバはそれを背中越しに聞きながら、小坂を見ていた。
真っ赤に腫れた顔。しかし、その目はもう濡れていなかった。何かを決心したように、前を見据え、拳を握りしめ、二本の足でしっかりと立っていた。アオバはその時、見つかったら殺されるんじゃないか、と思ったのだった。それほど、彼は真っ赤に燃え上がっていた。
あの炎は、きっと、雨に打たれた程度では消えないのだろう。
「青嶋くんって、博物館にはよく来るの?」
「いや、来ねぇ。」即答してしまってから、言い訳がましく付け加える。「今日は、たまたま近くを通ったし、暇だったから寄ってみただけ」
「そうなんだ」と、小坂は笑って、「この企画展、どう? 僕が初めて手掛けたやつなんだけど」
アオバは少しだけ考えて、やがて正直な評価を告げた。
「説明が分かりにくい」
「……あー、うん、それは、ごめん。言い訳するつもりはないんだけど、刀の世界って難しくってさ。最近流行ってるからやってみたはいいんだけど、細かい説明が無かったり、変にふざけた感じにしたりすると、昔からのファンの方々に嫌がられちゃうもんで」
悩みどころだよ――と小坂は、さして悩んでいるようには見えない楽しそうな顔で、頭を掻いた。
「特に知りたい単語とかってある?」
唐突に尋ねられたアオバは、咄嗟に辺りを見回し、真っ先に目に入った言葉を指差した。
「……この、『みつどう』? ってやつ」
「あぁ、それね」
餌を貰ったイルカが飛び跳ねるように、小坂は流暢に口を回した。
「三ツ胴、っていうのは、切れ味の評価の一つで、この刀は、重ねた三つの死体の胴を、一太刀で両断しました、っていう意味なんだ。入り口のところにあった様斬の話は読んだ?」
「まぁ、一応」
「ありがとう。あそこに書いてあった通り、江戸時代には戦が無かったから、切れ味を見るために、様斬、っていうのをやったんだよね。でも、刀だけじゃなくって、使い手の腕によっても結果は大きく異なってくるんだ。だから、様斬を専門に行う武士、というか、浪人が、幕府の御膝元にいたんだよ。有名なのが、山田浅右衛門という一家で――」
小坂は振り返って、独立したケースの一つを指し示した。その中には、古びて茶色くなった冊子が入っていた。
「――あの古文書は、その山田浅右衛門家の弟子となり、死刑の執行とかも請け負った一人の武士の、生涯の日記なんだ。尾崎藤兵衛という人で、この辺りの出身だったらしい。かなり、波乱のあった人生を送ったみたいでね。面白かった、と言っては失礼かもしれないけど……面白かったんだ」
随分、あの古文書に入れ込んでいるようだった。アオバは、過去の後悔も手伝って、続きを尋ねなければならないような気になった。
「どんな内容だったんだ?」
小坂は、ガラスケースを見つめたまま、まるで親戚の人生を語るような口調で、話し始めた。
「彼は、剣の達人でね。若い頃に辻斬りに襲われて、それを返り討ちにするんだけど、その辻斬りの正体が、同じ道場に通っていた友人だったんだよね。それが理由で、藩を出て江戸に行ったんだ。それから、剣の腕を買われて、死刑の執行や様斬なんかをやるようになっていくんだけど、ある年に突然、仕事を辞めて、地元に帰ってくる。……なんで辞めたのか、っていう理由も、しっかり綴られていて――」
――渋壱、という名の罪人を処刑した直後だったんだ。と、彼は小さな声で言った。
「渋壱は強盗でね。家に押し入り、女子供構わず全員殺して、金目の物を根こそぎ奪っていたらしい。それを数十軒と繰り返し、何十人もの人を殺したから、裁判はあっという間に死刑と定められた。その時彼の首を刎ねたのが尾崎藤兵衛だったんだけど……彼は、その渋壱という人物と、江戸に来る途中で会っていたんだ。会話も交わして、それなりに、仲が良いというか、印象深い出会いだったみたい」
そこで、小坂はアオバの方へ向き直った。
「藤兵衛は――渋壱は大罪人になってしまったけれど、錆びたようには見えなかった。つまり、これこそが彼の人生だったのだろう。彼に最期を与えた者が、私であって、本当に良かった。それにしても、人生とはなんて恐ろしい道行きなのだろうか。どこが分かれ道となっているか、皆目見当が付かないのに、我々は歩んでいかなければならない。――と、いうような文章を書いて、日記は終わるんだ」
「へぇ。確かに――」アオバは言葉を探した。なんだか最近の自分は、ずっと言葉を探してばかりいるような気がする。「――何だろう。興味深いっていうか、面白いな」
「そうでしょう? こんなに波乱万丈な、なのに強い、二百年も前の人間の日記を読まされちゃったら、自分の過去なんてどうでもよくなるよね」
さりげなく言われたその言葉に、アオバは反射的に顔を俯けた。鋭利な刃物で――それこそ、三ツ胴の刀で――切り裂かれたように感じた。あの時、真っ赤に腫れた顔を見て、感じたのは罪悪感だったのだ。それが、今、一刀のもとに両断された。なのに、確かに痛みを覚えたのに、彼が『どうでもよくなる』と言ったことが救いにも思えてしまった。
情けない。
「青嶋くんぐらいだよ」
「……何が?」
「僕の話、真剣に聞いてくれたの」
「そうなんだ。もったいねぇな、面白いのに」
その感想は贖罪ではなく、本心だった。小坂は意外そうな顔をして、それからニコリと笑った。アオバは、随分笑顔が増えたな、と思う。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいね」
それから、小坂はふいと踵を返した。
「それじゃ、僕は仕事があるから、これで失礼するよ。ゆっくり見ていってね」
「おう」
見送る小坂の背中は、覚えているものより平べったくなっていた。太っていた当時は、丸々としていて、柔らかそうなフォルムをしていたのに、今となっては面影すら残っていない。平たい背中は真っ直ぐに伸びて、侍のごとき凛々しさを備えているように見えた。
ふと、(俺はなんて寂しい人間なんだろう)とアオバは思った。寂しいというのは孤独であるということではなく、人間性が寂しいということだ。一緒に夢を追いかけてくれる仲間がいて、目の前に分かり易いチャンスがぶら下がっているのに、それらを素直に喜べないなんて。それどころか、自分は一体何をしている。与えられたチャンスを恨んですらいなかったか。大切な仲間を、厭わしく思っていなかったか。
(駄目だなぁ、俺……もっと頑張らねぇと。あのいじめられっ子がここまで変わったんだ、俺が変われないはずがない)
アオバは、その古びた日記を覗き込んでみた。とある武士の生涯が刻まれている一冊の本。そこにはミミズがのたくったような、文字かどうかすら分からない線が並んでいて、俺のメモ帳より汚いな、と思う。こんな文字をどうやって読むのだろうか、アオバには見当もつかなかった。世界はまだまだ広い。
展示室を出ると、博物館の外は再び雨に覆われていた。さっきまでは晴れていたのに、気まぐれなことである。しかし、アオバは構わず雨天の下に踏み込んでいった。冷たい水が全身を濡らし、ほとんど乾いていた服が、また水を含んでいく。
こうやって、時と場所を選ばず、突然に降り始める雨のことを、何と呼ぶのだったか。
(ゲリラ豪雨……違うな。なんかこう、もっと、狂ったみたいな……――そうだ、気違い雨だ)
その名前を思い出した瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
(気違い。気違いに刃物。――気違い雨にカッターナイフ。鶯も鳴かない。早すぎる春の雷に、侍気取りの馬鹿が歌う。所詮、世界に答えは無い。誰かを導く、鶯の声なんていらないんだ。僕は僕の声だけに従う。狂い咲きの雨音の中、背筋を伸ばして歩いていく。歴史は繰り返す。繰り返しながら、少しずつ変わっていく――)
メモを取らずに歌詞を考えるのは苦手だった。思い付いた端から忘れていってしまうようで、怖いからだ。けれど、今だけは気持ちが良かった。荒削りの歌詞が、雨に磨かれて、研ぎ澄まされていく感じがする。
アオバは、次の言葉を見つけるために、背筋をピンと張った。
完
気狂い雨に刀 井ノ下功 @inosita-kou
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