二人目 悠一Ⅴ / 真夜Ⅲ

 ボディソープのボトルが残り僅かになっても、悠一はひたすらに自分の体を洗い続けていた。

 一通り全身をボディタオルで擦って、痛みを感じるくらいになったらシャワーで流す。かれこれもう二桁に上る程の回数をこなしているが、悠一は手を止めなかった。

 

「ぅうっ、あぁもう……」


 どれだけ洗っても匂いがこびり付いているように感じてしまう。

 決して真夜のことが嫌いだという訳ではない。

 少なくとも悠一は彼女を本当の姉だと思って過ごしてきた。確かに彼女は綺麗で明るく、女性としては申し分ないとは思う。が、関係を結びたいかと訊かれれば断じてノーだ。従姉妹とはいえ、家族は家族なのだ。

 

 今まで過度なアプローチは度々あったが、今日のように直接的な行動に出ることはなかった。せいぜいキスや体を撫でられる程度で、拒絶し過ぎるのも悪いかと目を瞑っていたこともあった。だが今回ばかりはやりすぎだ。千里のように他人じゃないのだから、流石にふざけてましたじゃ済まされない。


(なんでこんな……)


 理由はわかっている。その原因が自分にあることも理解している。が、胸中に渦巻く感情が納得することを拒否していた。


 だからと言って気持ちを押し付けられても困るのだ。家族からの行為を受け止められる程器用でもないし、呪いの所為だと割り切ることもできない。

 

(勝手だ……姉さんも灯も、僕も)


 彼女達の好意は分かっている。それでも自分はただ家族として、仲良く暮らしたかっただけなのだ。


 こうなってしまった事については、真夜にも灯にも非は無い。もちろん自分が悪い訳でもない。

 悪いのは、彼女達をこうした誰か。自分を呪った名前も知らない誰か。


 歯がぎしりと鳴る。

 出しっぱなしのシャワーが歯軋りを掻き消して、滝のように悠一に降り注いだ。

 

(でも、ここ以外に行くとこなんてないし……)


 父が殺され、母が後を追って、残された少年に選択の余地など無かった。

 小遣い程度にしかならないバイト代では食べていけないし、ましてや未成年であれば一人で住むところだって確保できないだろう。結局保護者がいなければ何も出来ないのだ。

 

 今の保護者は姉妹の母で、父の妹の詩乃だ。

 今は仕事で海外に単身赴任しているが、連絡すらまともに取れないほど多忙だった。相談するにはあまりにも遠い。

 どちらにせよ、彼女に話したところで即却下されるのは目に見えていた。姉妹程ではないにしろ彼女も悠一のことを溺愛しているのだ。仮に金銭面が解決したところで何の意味も無かった。

 そもそも家を出たところで解決する問題でもないのだから、考えるだけ無駄だと気付く。八方塞とはこの事かと、悠一は肩を落とした。


 シャワーの水圧にすら耐えられないくらいの疲労感が全身を襲う。このまま目を瞑って寝てしまいたかった。

 

(なんかもう、どうでもいいや……)


 優しかった両親はもういない。

 新しい家族は、濁った欲望を自分に向けるようになった。

 逃げ出したくても自分ひとりの力じゃ何処にも行けやしない。


 じゃあ立ち向かえばいい―――と考えて、悠一は思考を止めた。

 

(ははっ、そんなこと)


 出来るわけがないと、悠一は首を振った。

 そんなことをすればきっと家族は壊れるだろう。自動販売機の前で涙を流した千里を思い出して、悠一は胸を押さえた。

 受け入れても拒絶しても、傷は残る。出来事は無かったことになるが、心に残ったそれが消えることはないのだ。


 一度失って、二度と手に入らないと思った家族を壊す勇気はない。


 馬鹿な考えだと自虐的に笑って、悠一は涙を零した。

 なんとか押し留めていた涙腺が一気に崩壊した。ぼろぼろと溢れては、温いシャワーが流していく。唯一嗚咽がでないことが救いだった。

 

 結局彼は、今のままであり続けることを選択した。

 歪んでいても壊れかけていても家族は家族なのだ。無力な自分に出来ることは、今はひたすら我慢して涙を飲み込むことだった。

 

(栞さんに会いたいなぁ)


 彼女なら笑って抱き締めてくれるだろうか。

 言いようの無い寂しさを感じて、悠一は声を上げて泣いた。


 



 ベッドに寝転ぶ真夜は、まどろみの中で思考を巡らせていた。

 ぼんやりとした頭の中で様々なことが映っては消えていく。半分くらいが悠一のことで、あとは仕事や取り留めの無いことばかりだった。

 

 意識が遠のいては覚醒を繰り返して、彼のことを考えるのはもう何度目だろう。

 なんとなく可笑しくなっては、うつ伏せのまま真夜は笑った。

 

(あー、良かったなぁ……)


 つい先程までの情事を思い出す。

 眠っていない彼とするのは初めてだったが、想像通り堪らないものだった。終始抵抗をして涙を流すばかりでも、切なそうに声を上げる悠一には胸が高鳴った。

 触れて舐る度に体を捩って、嬲れば声を漏らす。睡眠薬で眠りこける彼では味わえない反応に、興奮で気が狂いそうなってしまった。


 事が終わって放心する悠一も格別だった。

 目に光が無いところなんかは以前読んだ漫画のようだった。

 そんな姿に発情してしまい、もう一度彼を襲ってしまったが、それは自業自得と言うものだ。そそる表情で煽るほうが悪い。


「ふふふふ……ぁは、あははははっ」


 くぐもった笑みは高笑いへと変わって、小さく流れるテレビの音を塗り潰した。普段欠かさず見ているバラエティ番組も、今はどうでもいい。


(まだこれでいいわ。笑ってくれなくても、泣いててもいい)


 いつか彼にも分かる時が来る。

 誰が一番彼のことを考えていて、一番幸せにしてあげられるのか。

 彼の境遇を考えればこそ、この方法がベストであるのだ。


 彼は何処までいっても家族を捨てきれないだろう。

 仮に恋人が出来たとしても、決して自分達姉妹を蔑ろにすることは出来ない。姉妹と恋人のどちらを取るかと問われれば、間違いなく自分達を選ぶはずだ。その確信が真夜にはあった。


(あの子は気付いてないみたいだけど。ま、いいかな)


 身内に強姦されようとも、暴力的に陵辱されようとも、きっと彼は明日も変わらずに過ごしていく。

 失って初めて気付くものだってある。それが再び手に入ったのなら尚更だ。

 心の奥不覚に刻まれたそれは、彼を呪いのように蝕んでいるのだ。 


 だからこそ真夜は笑った。

 そんな彼だからこそ姉である自分が伴侶となるべきだし、彼が望む居場所を壊さない唯一の女なのだ。


 どちらにせよ彼は逃げられない。

 何をされようともそんなことは彼自身が許さないし、誰がどう言おうが曲げられない事実だ。


「誰だか知らないけど、私からあの子を奪おうなんて……」


 どうせ彼に色々吹き込んだのもその女だろう。

 でなければ悠一があんな事を言うはずもない。

 とはいえ、結局は何も分かっていない愚かな女だと言う事がよく解った。上辺だけで彼の本質を理解していない。自分達から引き離したいのなら、やり方が違う。


「私を殺すくらいはしなきゃ、ね」

 

 やれるもんならやってみろ。

 その前に見つけ出して、身体中ばらばらにして殺してやる。

 彼の心を弄ろうとした罪は重いのだと、その体で解らせてやるのだ。

 

 真夜はまた一際大きく笑って、ソファを強く叩いた。

 何度も何度も叩いて、けたけたと壊れたように笑い続けた。


 悠一は一向にバスルームから出ようとはしない。きっと泣いているのだろうが、今は感情を発散させたほうがいい。色々と溜め込むタイプなのだ。こういうときは泣いてスッキリさせた方が都合が良かった。


(このままお風呂に突撃したらどんな顔するかなぁ)


 また泣くだろうか、それとも怯えて身を丸くするだろうか。

 想像に易く、真夜の笑みは無邪気なものに変わっていった。

 けらけらと笑う様はまるで子供のようだ。


 と、かたりと頭上で音がした。

 次いで人の気配がする。視線を送る前に、冷たい声が降りかかった。


「何一人で笑ってんの。キモいんだけど」


 いつの間にか帰宅していた灯が、ソファで悶えて笑う姉を見てばっさりと切り捨てた。

 彼女がドアを開ける音すら気付かないくらいに笑いこけていたようだ。急に恥ずかしくなるが、誤魔化すように笑い続ける。


「あははははは……」

「……」

「はははー、はは……はぁ」

「……」


 黙ってその様子を見つめていた灯に恥ずかしくなって、真夜はついに音を上げた。こほんと一つ咳払いをして、うつ伏せのまま話し始める。


「おかえり、灯ちゃん」

「おかえり、じゃないわよ。家だからって変なことすんの止めてくれる?」

「なぁに変なことって。ちょっとテレビ見て笑ってただけじゃない」


 真夜は顔を上げない。

 自分でも分かる位に赤くなっているのだ。押し通す他に道は無かった。

 無理矢理にでも誤魔化してみせる。一気に頭が覚醒して、真夜は顔に押し付けたクッションを抱き締めた。


「へえ、テレビ。お姉ちゃんってニュースであんなに笑う人だったんだ」


 ちらりと目だけを向けると、知らない間にバラエティ番組は終わっていたようで、真面目そうな顔をしたキャスターがニュースを読み上げていた。

 内容は重々しいような事件のことだったのが恥ずかしさに拍車をかける。


「……さっきまで面白いのやってたもん」

「どうでもいいけどさ、身内に変人がいるってバレると私まで変な目で見られるんだから、ちょっとは大人しくしててくれる?」


 大げさに溜息を吐いて、灯は止めとばかりに言葉を吐き捨てた。クッションを姉の後頭部目掛けて振り下ろし、痛がる彼女を無視して自室へと引っ込んだ。


「灯ちゃん痛い!」


 改めて大声で抗議する。

 バスルームの悠一に声を掛けていた灯は、その言葉も堂々と無視してのけた。

 もう一度抗議しようとして、時刻が夜九時を過ぎていたことに気付く。いい大人なのだから、夜に大声で騒ぐのはやめようと自制した。


 気分が削がれたのか、物騒な考えを遥か彼方へと投げ捨てた。今までと変わらないような家族のやり取りが、何故か心地良く感じていた。


(うーん。なーんか、変な感じ……)


 「お姉ちゃん」はもううんざりだった筈なのに。

 他愛ないやり取りに、悠一が優しげに笑うのが今までの家族だ。暖かいが欲求は満たされない、もどかしいそれ。つい先程まで嫌っていたのに、何故今になってほっとしたのだろうか。


 考えが纏まらず、真夜は首を振って起き上がった。

 表情はすっきりしない。どこか不満が残っているようだ。

 せっかく一歩を踏み出したのだが、それを引き戻そうとする何かが纏わりついているようだった。


 それが何なのか理解できないまま、真夜は苛立たしげに浴室へと向かった。

 灯が帰宅しているのだから何も出来はしないだろうが、彼女に怒られるまでイチャつく事くらいはできるだろう。ついでに彼にフォローもしておこうと決め、胸に掛かったもやもやを取り払う。


 普段と変わらない真夜に混乱する悠一を抱き締め、自分の選択は間違っていないのだと言い聞かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

1/5のファム・ファタール Ryoooh @Ryoooh99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ