二人目 悠一Ⅳ / 真夜Ⅱ
「とりあえず、リビングで話しましょう?」
にこにこと弧を描いた目が悠一を捉えていた。
薄く開かれた瞼から覗く瞳は、笑顔を貼り付けた表情とは裏腹に、笑っているようには見えない。
玄関を開けてすぐに捕まった悠一は、鬼気迫る迫力を纏った真夜の言葉に頷くのみだった。
肩を掴まれてリビングへと移動する。
床に砕けて散った食器やグラス、破れたクッションからばら撒かれた羽毛はこの際無視することにした。中々にショッキングな光景ではあったが、今は目の前の姉が最優先だ。なにせここまで怒ったところは見た事が無い上に、その矛先が自分へと向いているのだ。普段と変わらず笑顔でいるところがまた恐怖を増幅させた。
真夜はソファの前へ行くと、悠一の肩を離して浅く座った。下着にシャツ一枚という扇情的な格好のため、彼女が脚を組むと色々と見えてしまう。悠一はとっさに目を逸らした。
所在無さ気にうろたえる少年に座るよう指示をすると、彼は素直にソファへ、彼女の隣に座ろうと腰を下ろした。
―――ぱん。
その唇のように小さく弧を描いて、真夜の手の平が悠一の頬を張った。
小気味いい音の割に威力はそこそこあったようで、くらくらと視界が揺れているような感覚に陥った。
ソファからずり落ちて膝をつく。思い出したくもなかった痛みが、また頬にじんじんと広がっていく。
というか、何故叩かれたのだろう。痛みよりも驚きのほうが大きかった。
「……え、あ、ねえさ———」
「悠くん。お姉ちゃんに何か隠してること、ない?」
今しがた張り手をしたとは思えない程の微笑みだった。
叩かれる覚えがあるだろう、と彼女の目がそう語っていた。
見透かされたような視線にぞくりと背筋を電流が走り抜けていく。同時に体が宙に浮いたような錯覚。彼女は気付いているのだろうか、自分が嘘を吐いていたことに。
(一樹に訊いたのかな……うぅ、やっぱり意地でも帰っておけば良かったなぁ)
とはいえ彼女が見破っていると言う確信は無い。もしかしたらただカマをかけているだけかもしれないし、そもそも一樹はバラしてしまったら一言も言わずに黙っているような男ではないのだ。それが無い以上、あの嵐の中で昨晩自分がどこにいたかなんて分かる筈がない。
不安の泥が纏わりついた疑心が、彼に嘘を上塗りさせていく。
「……隠してることなんてないよ」
「ふぅん、そう。じゃあ昨日は誰の家に泊まってたの?」
「一樹んちだって、電話で言ったじゃ……」
「ねえ悠くん。お姉ちゃんね、隠し事されるのが大嫌いなの。嘘を吐かれるのはもっと嫌い。それを悠くんにされるなんて……お姉ちゃんどうにかなっちゃいそう」
ふふふ、と笑みを零した。
ソファに座る真夜に、床に正座する悠一。母親に叱られる子のような図だ。
彼の言葉を遮ったのは、これ以上嘘を吐くなら容赦はしないという最後通告だ。あくまでも彼の口から白状してほしいのだ。それが彼女なりの拘りであって、あの女よりも自分をとったという証にしたかった。
だが愛する少年は、自分の想いに答えてはくれなかった。
思春期の少年らしい意地と後ろめたい罪悪感が、彼に潔さからは程遠い悪あがきをさせてしまったのだった。
「嘘なんか吐いてないよ。一樹んちに泊まったし、そんなこと言われるようなことはしてない。そんなに疑うなら、一樹に訊いてみればいいじゃんか」
ぴくり、と真夜の眉が吊り上がる。
笑みは変わらず張り付いたままだが、明らかに纏った空気が変わった。後悔の念より先に、後戻りはできないとばかりに悠一は言葉を並べていった。
「もう十六歳なんだよ。自分の意思だってあるし、子供じゃないんだ。姉さんには感謝してるし、大切に思ってるけど……僕だって一人の男なんだから、自分の自由にしたいって思うこともあるんだよ」
「……」
「家事だってしてるし、姉さんや灯に迷惑はかけてないじゃないか。そりゃ僕は居候かもしれないけど、たまには好きに出かけるくらいいいじゃんか」
「……」
真夜は何も応えなかった。
ぶつけるような悠一の言葉に、ただ黙って笑っているだけだ。時折頷くようにしているが、悠一はそれがバカにしているように感じてならなかった。
「学校でも家でも、いつも二人にべったりなのは嫌なんだよ。友達付き合いに口を出されるのも、何かにつけて一緒に行動するのも……自分のことくらい、自分で責任持ってやれるんだよ」
本音なのか、それとも嘘を隠すための誤魔化しなのか分からなくなっていた。
少なくとも頭で考えての言葉ではないのは確かだった。であれば、やはりこれは自分の本音なのだろうと悠一は思った。
真夜は沈黙を守ったまま。
笑顔からは窺い知れないが、見た目通りの感情は持っていないだろう。
過保護、もしくは盲目的に彼を溺愛するからこそ、自分の手を離れようとする悠一の告白は我慢ならなかった。と同時に、何が彼をここまでさせるのだろうと疑問を持った。
(私の悠くんがこんな事言う筈ないものね……)
彼の過去を知っていればこそ、この行動は不可解極まりない。
一度家族を失った彼からすれば、自分たちはある種のトラウマだ。
自分たち家族から離れることは過去の傷を抉り返すことになる。だからこそ悠一は姉妹を何よりも大切にしていたのだから、自発的にトラウマを呼び起こそうとする筈がないのだ。
とすれば、誰かが入れ知恵をしている可能性が大である。
自分たち姉妹が邪魔で、彼の傍から切り離したいのだろう。大切な人が誑かされた挙句、誰かが奪い去ろうとしているという事実に、苛立ちと焦りを覚えた。
(うーん、悠くんは悪くない。けど……)
悪いのは彼をこうした女だ。きっとあの音声データの女だろう。
抵抗した彼を無理矢理貪って、心と体を汚した悪魔のような奴だ。生かしておいてもきっと良い事はない。手遅れになる前に始末しなければ。
自分の為に、何より彼の為に。
さっさと終わらせて、あの楽しくて暖かい家族に戻るのだ。
(あれ、家族?)
ふと矛盾に気付いて、真夜は自問した。
家族に戻りたい?
あれ程嫌っていた関係に?
(あれ、なんで私……)
姉と弟という関係は、自分の望みとはかけ離れていたものである。
居心地が良いのは認めるが、ただそれだけだ。仲良く寄り添うことはできても、結ばれることのない呪いのような関係。
悠一が姉さんと呼ぶ度に、胸にナイフを突き立てられているような感覚になる。以前はちくちくとする程度だったのに、最近は「おはよう、姉さん」と言われるだけでぐさりと刺さるのだ。笑顔を保つのも一苦労になってきていた。
「いつまでも姉さんに……」
ぐさっ。
「姉さんだっていつか……」
ぐさっ。
「姉さん……」
ぐさり。
目の前で好き勝手喚き散らす、少年の言葉が耳に入ってこない。
何かを一生懸命に伝えようとしているようだが、「姉さん」と言われると途端にノイズが走り、胸の中心がずきりと痛んだ。
酷く耳障りな言葉だと思った。
もう幾度も突き刺された心から、何かが溢れ出てきているのを感じた。バケツ一杯に溜まった水が溢れるように、何かどす黒いものが胸を突き破ろうとしている。
それが言葉で刺される度、どろりと音を立てて零れていく。気持ち悪さに吐き気がした。
悠一はそれに気付けず、ただただ自分の感情を発散する。
言いたいことを叫び、まるでそうしなければならないかのように口を開いていた。
「僕だって好きな人くらいいるんだよ。いつまでも姉さんとばかり居られなくなることだって」
好きな人?
一際大きなノイズが耳を劈いて消えていく。
(今、なんて言った?)
聞き間違えでなければ、彼は確かに好きな人が居ると言った。
その「スキナヒト」の所為で、自分とはいられなくなるという事らしい。
つまりは、自分以外の誰か。あの声の主か、はたまた灯か、それ以外の誰か。
(―――ッッ!!)
頭の中でぷつん、と何かが切れる音が聞こえた。
何気ない悠一の言葉が決壊のきっかけになった。
「あ、ぐぁッ……!」
真夜は衝動的に悠一の首を掴んだ。そのまま両手で締め上げ、力任せに床へ捩じ伏せる。手足をバタつかせて抵抗する悠一を意に介さず、爪が首へ食い込むくらいの力で器官を握りつぶした。
女性とは思えない程の力強さだった。腕をどかそうにもビクともしないし、首が折れてしまうのではと本気で考えるくらい容赦無く締められていた。一切の空気は肺に届かず、死んでしまう、という危機感が全身を襲った。
「悠くん、私から離れたいの?」
首を傾げて、真夜は優しく言った。
依然として表情はにこやかなままだ。嗤って首を絞める真夜は、嬉しそうに爪を食い込ませた。
「好きな人できたって、昨日一緒にいた女のこと?」
「ッぁ、なん、でっ……」
「悠くんのことなら何でも知ってるんだから。昨日私の迎えを断ったのだって、その女と一緒にいる為でしょう?」
力が更に強くなった。
酸素が足りず、視界が暗くっていく。そういえば前にもこんなことあったな、と場違いな思考が頭を過ぎった。
「大丈夫、大丈夫だからね。ちゃあんと分かってるんだから。気付いてないかもしれないけど、悠くんはその女に騙されてるんだよ。そうじゃなきゃ、悠くんが私から離れたいなんて言う筈ないもの」
家族なんだから、と耳元で囁いた。
「……ぁあッ、はあっ、ぅ、ッ……はぁっ……!」
真夜が首から手を離した。
眼前で涙を流しながら呼吸する少年を見て、彼女は小さく嗤う。何度も何度も大きく息を吸い、しばらくしてやっと落ち着きを見せた。
馬乗りになる真夜を見上げ、悠一は唇を震わせて問いかけた。
「なんで、なんでこんな……姉さん……」
今度は片手で顎を掴んだ。
勢い良く掴んでしまったものだから、悠一は後頭部を床に強くぶつけてしまった。再び訪れた痛みに、得体のしれない恐怖が身を凍らせる。
「姉さんっていうの、やめようか。灯ちゃんのことはあかりーって呼んでるのに、私だけ姉さん、なんてだめだよ」
さっきは自分のことを家族って言ったくせに、と内心思うが、今はそんなことを言う気力も度胸もなかった。既に心が折れてしまっているのだ。抵抗するだけ無駄だと悟っていた。
「そうね……私のことは、真夜って呼んでくれなきゃ。これから本物の家族になるんだから、姉さんじゃおかしいでしょう?」
にこにことする真夜の言葉が理解出来なかった。
こんな状況ではまともに思考することも難しく、彼女の真意が分からない。本物の家族になるというのなら、今の関係は何なのだろうか。
姉さんと、弟の自分。
二年前から上手くやっていけている思っていたのに。
そこでふと、違和感に気付く。
彼女は今、自分のことを何て呼んだ?
「ふふ。私、緊張してるかも。本当はもっとムードある感じにしたかったけど、仕方ないわよね」
くすくす笑いながら、真夜はシャツを脱いだ。大きく形の良いバストが黒いレースのブラに包まれている。今度は目を逸らす余裕もなかった。
「大丈夫よ。私が助けてあげるから。悠くんだってあんな女とスるなんて嫌だったもんね?」
昨夜のことは完全にバレている。
そう気付いたときには、既に手遅れの状態だった。
「待って……っ、姉さんっ!」
「もう、悠くんったらまた姉さん、なんて。まや、でしょう?」
諭すような、優しい笑み。
普段と変わらない柔らかな雰囲気の彼女だが、やろうとしていることは彼にとってのタブーだ。
千里とは違うのだ。半ば諦めて身を任せられるような、あの時とは違う。
「いやだッ、ねえさ、僕ら姉弟だよ……!お願いだから、やめて……っ!」
「あはははっ、可愛いなぁもう。私は姉弟なんて嫌だもの。寝込みを襲わなきゃエッチもできないし、悠くんはどっか言っちゃおうとするし。あー、でも家族って関係はなぁんか捨て難いのよねぇ」
けらけらと、真夜は悠一の両手首を掴んで嗤った。
床に押し付けた勢いで、悠一の頬を舐め上げる。やたらに熱い舌が顎先から目尻までゆっくりと這い、生暖かい息が耳を擽った。
我慢できずに、そのまま耳たぶを舌先で撫でた。ぴくりと反応する悠一が愛おしく感じて、またけらけら嗤った。
「ふふっ……ね、良い事思いついたんだ。悠くんの大切な家族のままで、私が望む関係になれる方法。なんで今まで思いつかなかったんだろうなぁって思ったけど、まぁどうでもいいわよね」
真夜は身を起こして、悠一のそれをぐにぐにと撫で回した。
予想外にも、それは若干ながら大きくなっていた。火傷しそうなくらい熱い芯が、手の平の中で更に熱を増していた。
それは自分もか、と苦笑した。自身も彼を迎え入れようと準備万端になっていた。
「お姉ちゃん……じゃなくなっちゃうけど、家族には変わりないものね。それならいいでしょう?」
彼が泣きながら喚いているが、耳には一切入ってこなかった。どうせやめろ、とかその程度のことなのだから、聞くだけ無駄だ。
いずれこの選択が最良のものだったと彼も気付くだろう。なにせ家族と伴侶を同時に手に入れることが出来るのだし、悪い虫も払われるのだから、一石二鳥どころか一石三鳥である。
「心配しなくても、これからずっと私が守ってあげるからね。だいすきだよ、ゆういち……」
真夜が嗤う。
少年の涙を舌先で掬いながら、ゆっくりと腰を下ろしていく。
嗚咽と悲鳴を甘い言葉で上書きして、真夜は抱え込むように少年へ口付けた。
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