二人目 楓Ⅰ/ 真夜Ⅰ

 人生最高の夜を終えて、栞はベッドで眠る悠一を撫でた。


 髪を優しく梳いた後に頬を撫でると彼は小さく呻いて寝返りをうった。感じたことのない暖かいものが胸を満たす感覚に、自然と頬が緩む。くすくすと笑ってベッドから降りた。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。一晩中行為に耽っていたようで、自覚した途端に身体が悲鳴を上げた。特に痛む腰を摩り、まずは水分をとキッチンへ向かった。


 リビングのドアを開けると、鼻につく異臭に栞は顔を顰めた。ソファ周りは泥棒が荒らしたかのように酷く物が散乱していて、よくよく見ればそれは自分と悠一の衣服だと気付く。最早布切れに成り果てていたことに溜息を吐いて、栞は冷蔵庫を開けた。


(お気に入りの下着だったんですけどね……興奮しすぎちゃいましたか)


 昨晩の記憶は飛び飛びだ。

 彼と映画を見ていたことまでは覚えている。それから匂いに我を忘れて、唇を奪った所から記憶があやふやになっていた。

 断片的に思い出せるのは、嬌声を上げながら蕩けた彼の姿。ソファで散々虐めた後で寝室に連れ込み、後は思うがままに彼の身体を楽しんだのを思い出した。


 濃密な時間はあっという間に過ぎていき、気付けばこの時間だ。

 喉を潤す水は全身に行き渡り、鉛のような身体は若干ながら力を取り戻す。それでもくたくたである事に変わりは無かったので、彼女はシャワーを諦めて眠ることにした。


(体痛ぁ……あぁでも、ほんっとうに素晴らしい夜でした)


 思い出して、身体が熱を持つ。

 足を伝って落ちる白濁が生々しさを感じさせ、心の奥で誰かが「まだまだこれからだろう」と声を掛ける。思わず従ってしまいそうになるが、自分はともかく悠一が限界だった。


(悠一さん可愛かったなぁ……なんであんなに煽ってくるんでしょう。もしかして、態とやってるんですかね)


 彼の行動の一々が琴線に触れるのだ。

 襲って欲しいのかと疑いたくなるくらいに自分の欲望を煽ってくるのだから、こうなってしまったのも仕方のないことだ。泣きながら唇を噛んで声を上げまいとする姿など、もっとやって下さいと言っているものだろうに。

 自分は悪くないと無理矢理納得して、栞は彼の眠るベッドへ潜り込んだ。

 普段とは違い、ベッドが暖かい。誰かと眠ることなど半年前では考えられないことだった。


(あぁもう、これ最高です……!)


 枕に顔を埋めて眠る、彼の頭を胸に抱え込む。自慢の双丘に挟むようにして抱き、目の前で揺れる髪に顔を埋めた。


 思う存分悠一の匂いを肺に入れて、栞は笑顔のまま眠りに就いた。





 自室から出て右に曲がり、真っ直ぐ歩いた先に自慢の道場がある。

 自慢している割に使われる頻度は少ないのだが、使用人が丁寧に掃除やメンテナンスをしている為か劣化を感じさせなかった。

 外は酷い嵐だったが、楓はラフな浴衣姿のままその道場に足を踏み入れた。


 楓は幼少の頃から様々な格闘技や護身術を仕込まれていた。

 今でも続けているのは合気道と剣道だけで、理由は真剣で何か物を切るのが大好きだからだ。合気道は何となく続けているだけ。

 楓は手に持っていた日本刀を抜き、乱暴に鞘を放り投げた。


 がたん、と道場に響く音。すぐに雨音と雷鳴が塗り潰す。

 立ててある巻藁を体の正面に捉え、脳裏に一人の女の顔を思い浮かべた。途端に血が沸騰しそうな程の激情が体を駆け巡り、その勢いで巻藁を袈裟斬りにした。真っ二つにすることは出来なかったが、日本刀は巻藁の半分程まで埋まり、硬く抜けなくなった日本刀から手を離した。


 ふう、と大きく息を吐く。

 ストレスや苛立ちが一気に霧散し、平常心が戻ってきた。頭の中では肩口から真っ二つに斬り落とされた女の姿が浮かび、楓は思わず笑みを零した。


「ははは……っ、そうね、私、頭にきているのね」


 自分の感情は認めよう。

 イヤホンから流れる悠一の嬌声に、自分は苛立っていたのだ。それが拒絶の色を含んでいないことが大問題で、今まで彼のあんな声は聞いたことがなかった。


 だからと言って、彼女にそれを非難する権利はない。友達というスタンスを貫いているのは自分だし、彼が誰と付き合おうが文句を言うことは叶わない。

 それを理解した上で尚、楓は苛立ちを覚えていた。犯罪行為に走るくらいの好意を彼に抱いているのだ。横から掻っ攫われて腹が立たないはずがない。

 先を見据えて現状に甘んじていたが、今さらながらに間違いだったかと後悔した。


「灯はこの事知っているのかしら・・・いえ、そんな訳ないわね。許すはずが無いもの」


 灯もその姉も、彼が女の部屋で外泊することなど許す筈が無い。ともなれば誰か協力者がいるのだろうと推測する。

 楓はスマートフォンを取り出し、簡潔にメッセージを送った。相手は恋人で、すぐに返事が返って来た。


『悠一からは口止めされてるんだけどな。俺んちに泊まってるってことになってる』


 思った通りの回答。ふふふ、と楓は笑う。

 安っぽい手だと思うが、彼が考えつく言い訳などその程度だろう。少し踏み込んで調べればすぐにバレてしまうと何故考えが及ばないのだろうか。

 それも彼の可愛いところだと、楓はまた笑った。このことを姉妹に告げ口した後の事を考えて、更に笑みは深くなった。


 刺さったままの日本刀には一瞥もくれず、そのまま彼女は道場を出た。ストレスの発散は終わったのだ。後片付けは自分の仕事ではない。

 再び嵐の中を歩き、びしょびしょになった浴衣を自室で着替えた。世話役の使用人が着替えを手伝おうとしたが、彼女はいらないわ、と短く言って下がらせる。子供じゃないのだから着替えくらい自分で出来る。


「灯ばかりじゃつまらないわね・・・先生に言えば、もう少し面白くなるかしら」


 音声データは撮ってある。少し加工すれば、メッセージに添付できるくらいのサイズにできる。

 きっと今は荒れ狂っているのだろうから、火に油を注ぐならこのタイミングだろう。燃え上がるときは一気に燃えてくれた方が、観ている方としても楽しい筈だ。楓は早速ノートパソコンを起動して、録音していた音声データを加工し始めた。


 加工はすぐに終わり、時刻は丁度零時を回った頃。

 差出人不明になるよう準備していたアドレスを使い、真夜にメッセージを届けた。


 楓は布団に転がり、けらけらと笑った。

 眠気は無いが、今寝ておかないと明日のイベントを逃してしまう。荒れ狂う嵐の中、電気を消してイヤホンをつけた。


 耳障りな水音と嬌声を子守唄代わりにして、楓はすぐに夢の中へと落ちていった。


 



 酒はあまり好きではないが、飲まないとやってられない時だってある。それは年齢を重ねれば重ねるほど多くなっていき、その度に空しさが募っていくような気がした。

 嵐に負けないくらいの感情を胸中に抱えながら、真夜はグラスを煽った。二本目のワインが見る見るうちに減っていく。悠一が帰らないと言った後からひたすらに杯を開けていた。


 灯は依然部屋から出る様子はない。

 元々姉妹の仲は最悪で、悠一がいない空間で仲良くする義理もない。「仲の良い家族」を理想とする彼の前では自分の灯も演じてみせるが、不在であれば言葉を交わす必要もなく、妹が部屋に閉じこもろうが知った事ではなかった。

 まして同じ男を好きになったのであれば尚更だ。

 いっそこのまま部屋に閉じ篭って死んでくれ、と思うあたり、大分酔っているのだと自覚した。

 

(家族……かぞく、ね)


 彼を家族と呼ぶ事に、真夜は抵抗を覚えていた。

 出会ってまだ二年しか経っておらず、血だって半分しか繋がっていない。厳密に言えば従姉妹ではあるのだが、それまで存在すら知らなかったのだ。殆ど他人と言っても可笑しくはないだろう。


 本当の弟だと思えるならそもそも恋心なんて抱きはしないのだ。そうでないから辛い訳で、悠一が自分を姉と呼ぶ度に酷く心を抉られるような気分になる。そんなことはおくびにも出さないが、心の内に溜め込んだどす黒い泥水はいつか溢れて零れるだろうと真夜は思っていた。

 

(ふふ……そうしたらもう、悠くんには責任とって貰わなきゃ)


 責任という言葉に、真夜は自虐的に笑った。

 彼のどこにそんな責があるのだろう。両親を亡くして親戚に引き取られて、ただそこで良い子に暮らしているだけなのに。

 責任なんて雑な言葉で一方的に押し付けているのは自分自身だ。それを理解していても、この気持ちを生んだのは彼の所為だと本気で思っていた。

 

「くふ、ふふふっ、あはははは……っ」


 ああそうだ。全てあの子が悪いのだ。

 こんな気持ちを生むのも、くだらない家族ごっこをしなければならないも全て。


「家族、かぞく。ふふ、何が家族よ」


 そんなもの望んでなどいない。

 彼が望む「家族」と、自分がなりたい「家族」は意味が違う。欲しいのは伴侶であって、弟ではないのだ。

 

 真夜はワイングラスをテーブルに叩き付けた。がしゃん、と大きく音を立てて割れる。気まぐれに買ったグラスだから何の未練もない。

 三本目のボトルを空けて、そのまま口を付けて飲んだ。

 味わうなんてことはしない。ただストレス発散の為の飲酒なので、酔えれば良かった。ボトルの半分程を消費したところで、地面に落ちていたスマートフォンから電子音が流れた。

 

「何よ、こんな時に……」


 覚束ない足取りでそれを拾い上げ、画面を確認する。見たこともないアドレスからのメールで、何かのファイルが添付してあった。

 酔った頭でも、これは怪しい物だという事くらいは認識できた。不用意に開けばウイルスか何かに感染してしまうんだろうと疑い、削除してしまおうとする。

 ただ、添付ファイルの名称が彼女を思い留まらせた。まさに今彼女の心を掻き毟る人物の名前と今日の日付が付けられていて、彼女の好奇心を強く擽った。

 数瞬思案を巡らせて、結局真夜は開くことにした。数秒のダウンロードの後に、これが音声データであることが分かった。

 

 再生ボタンをタップする。擦り切れるようなノイズの後、聞き慣れた声がスピーカーから流れ出た。

 

『し……さん、まって……ぁあッ』


 ぞくりとした。

 全身が粟立って、視界がぐにゃりと形を変えた。酔いが一気に吹き飛ぶ。誰の声かなんてすぐに分かった。


「……ッ」


 奥歯が鳴る。

 目の奥がじんと熱くなって、漏れ出る呼気が荒くなった。獣のような息遣いだ。

 音声は止まることなく流れ続けていて、憎らしくも愛おしい弟の声が、ノイズの向こうで嬌声を上げていた。

 

『ちょっとだけ待ってくだ……っあ』

『ふふふふ……ぅいちさん、可愛いですよぉ』

 

 彼の声に混じって、どこかで聞いたことのある女の声がした。考えを巡らせる余裕がなく、誰の声だかは分からなかった。


『わかっ、わかりましたから……ぅ少しゆっくり……っ』


 少年の受け入れる言葉。

 今まで聞いた事の無い甘美さを孕んだ、真夜が最も聞きたかった声。寝ている隙をつかなければ事に及べない自分とは違い、この女は堂々と正面から彼と交わっているようだ。


 その事実が、これ以上無い程頭に来た。


「ぁあああアッ!!」


 地面に思い切りスマートフォンを叩きつけた。

 ワイングラスとは比べ物にならないくらい大きな破壊音がした。画面は砕け、明らかに壊れたと分かる。肩で息をする真夜はまた大きく歯を鳴らした。


「ホント何なのよッ、なんで、悠くんは友達の家に泊まってるんじゃなかったの……!」


 データの日付は本日日付。

 過去に録音された可能性もあるが、ノイズに混じった雷鳴は間違いなく今日の物だ。過去だろうが現在だろうが関係はなかったが。


 しかしそれよりも今特定しなければならないのは、データにあった女が誰なのか、ということである。

 神代の声ではなかった。もちろん灯はあんな口調ではないし、学校の関係者の中では聞いたことのない声だった。

 が、確かにどこかで聞いたことがある事だけは確信を持って言える。それさえ分かれば、後はじっくりとその女に話をしに行けば良いだけだ。


「はーっ、はーっ……」


 怒りでどうにかなってしまいそうになるが、今はぶつける先がない。

 これ以上物に当たっても仕方が無いのだから、今はこの激情を溜め込んでおくほうがいいだろう。いずれ声の主を見つけ出した時、思い切り叩きつける為に。


「探さなきゃ……探して、見つけて……はははっ、そうよ、人の家族に手ぇ出したんだから。死んだって文句無いわよね、あははははっ」


 笑みが零れる。

 誰彼構わず殺したっていいくらいには頭に来ているのに、自然と笑ってしまうのだ。可笑しいなと思い、それがまた笑い声に変わる。


 ひとまずは帰ってくるだろう悠一を問い詰めることから始めよう。

 隠し立てするなら、お仕置きだってしなければならない。灯が邪魔ではあるが、どうしてもと言うなら混ぜてあげてもいい。仲の良い姉妹の方が好きだと言うのだから、彼だって喜ぶだろう。


「くふっ、ふふふふ……早く帰ってこないかなぁ。お姉ちゃん、我慢できなくなっちゃうなぁ……」


 怒りが収まった訳ではない。

 破裂寸前の風船のように、今にも破裂してしまいそうだ。

 そんな状態でなければ行動に移せない自分が本当に嫌になる。手遅れ寸前になって、やっと自分の気持ちに素直になれたのだ。腹を括って覚悟もできたのだから、不幸中の幸いと言うべきか。


 今はとりあえず、胸に煮え滾るマグマを宿したままでいい。


 真夜はソファに深く座って、彼の帰りを待ち続けた。

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