二人目 栞Ⅷ

「お風呂先に入っておいて良かったですねぇ」


 復旧する兆しは当然なく、相変わらず部屋は暗闇に包まれたままだった。

 ガスコンロなどは使えるものの、当然電気を利用するものは一切が使えない。栞のマンションはオール電化であるため、水のシャワーを浴びなければならないところであった。


「そうですね」

「お腹減ってません?ガスコンロは使えますので、一応お料理は出来ますけど。あぁ、冷蔵庫の中身のもの食べて平気なのかしら……」


 停電してから三時間ほど。肉や野菜などは食べてしまうなら今しかない。そもそも停電が翌朝まで続くと知っていたのだから、色々準備しておくべきだったと栞は後悔する。悠一のことばかり考えていて、食事のことなど完全に失念していたのだ。

 

 ソファに掛けていた栞が冷蔵庫の中身を確認しようと立ち上がる。と同時に、悠一が小さく息を呑んだ。

 ひぅ、と雨音に掻き消されてしまうほどの声はなんとか栞の耳に入る。予想通りの展開に、栞はわざとらしく惚けた。

 

「どうしました?」

「あ、いえ……どこ行くんです?」

「どこって、キッチンですよ。冷蔵庫の中身確認しておきませんと」

「あー……僕お腹減ってないですし。後で良くないですか?」

「……」

「……良くないですか?」


 頬が緩むのを堪える。笑い出してしまわないよう、口をぐっと閉じた。

 上目遣いの小動物のような視線が栞を非難している。彼が持つタブレットでは映画のエンドスクロールが流れていて、怖すぎるという理由で人気を博したホラー映画が終わったことを告げていた。彼が異様に怯えていた理由はこれだった。

 ちなみに、悠一はこの手のジャンルが大の苦手である。普段は決して観る事はないのだが、嬉々としてタブレットを取り出した栞の手前断れなかった。

 

 当然、彼がホラー映画を苦手としていることくらい知っている。恐怖を覚えた人間がとる行動は一つで、身近な人間に近づきたがるのだ。些かチープな手段ではあったが、暗闇の中を二人きりで朝まで過ごすというシチュエーションなのだ。利用しない手はない。

 効果は予想以上に出ているらしく、彼は片時も栞の傍から離れようとはしなかった。何か言いげな視線はひしひしと感じはしたが、びくびくと怯える彼に全てがどうでも良くなった。

 何かにつけて小さくびくりとする仕草や様子に何度理性を失いかけたか分からないが、何とか理性を保ちつつも一作目を終えたのだった。

 

 目が慣れてきた暗闇と言えど、嵐は弱まるどころか激しさを増している。窓を叩く雨風に雷鳴は、恐怖を煽るBGMとして十分に役立っていた。


「もしかして、怖かったりします?悠一さんってホラー苦手だったんですねぇ」

「ええ、そうですよ苦手ですよ!だから嫌だって言ったのに……」


 ぐすりと鼻を啜る。雷が一際大きく轟き、悠一は思わず悲鳴を上げた。

 その様子は素直に可愛いと思うし、好きな子を虐めたいという気持ちが今ならよく分かる。このまま泣かせてみたらどんな気持ちになれるのだろうと、純粋に興味が沸いた。

 反面、今すぐ抱き締めて慰めてあげたいという気持ちもあった。だがそれは加虐衝動と比べてしまうと遙かに弱く、もどかしい二律背反に胸を締め付けられた。どちらも同時に堪能できる術はないのだろうかと本気で考えてしまう。

 

 簡単に答えが出るような問いでもなく、栞はすぐに思案を止めた。結局のところ考えた所で何が正解かは分からないのだ。なら、失敗しない程度に試してみればいい。簡単なことだった。

 

 深呼吸を一つして気持ちを落ち着ける。

 湿り気を帯び始めた自身の体をそのままに、悠一の座るソファに腰掛けた。

 

「もう、そうならそうと言ってくれればいいのに」


 嘘だ。知っていたし、態とやった。

 怖がらせて物理的な距離を近づけるつもりで、吊橋効果に近い状況を作り上げたかったのだ。

 

「これ、続きは見ないでいいですよね……?」

「え、だめですよう。ここから面白くなっていくんですから、見ないと損しますよ?」


 ええぇ、と悠一は抗議の声を上げた。

 栞はタブレットを奪い、問答無用で続編のアイコンをタップする。一面に映し出されたパッケージ画面に、再び彼は息を詰まらせた。不気味な目玉や爪の剥がれた手は栞でも恐怖を覚える程だ。

 

 栞はくすくすと笑い、悠一との距離を詰めた。外国製の二人掛けのソファはさほど大きくはないので、肩から腰、脚までが密着する。薄着の栞の体温や柔らかさがダイレクトに伝わってきた。一瞬ドキリとするが、同時に安心感もあった。

 身を離すという選択肢は彼には持ち得ない。歪に顔を歪ませた女が画面一杯に広がってるのだから、離れられる訳がなかった。

 

(怖いなら見なければいいと思うんですけどねぇ)


 一緒に見ようと誘われたのだから、一緒に見なければならないと思っているのだろう。馬鹿が付くほど真面目で律儀な少年だからこその行動だ。それが羨ましくもあり、妬ましくもある。自分には真似できそうもない。


 最早栞の視線はタブレット画面に向いてはいなかった。

 人気作だけあって話は面白いのだ。引き込まれるストーリーや演出は、昼間観た映画とは違った種類の面白さがある。例え苦手なホラーでも、見始めるにつれて悠一は目が離せなくなっていた。

 時々びくりと体を弾ませては、小さい手で栞のシャツの裾を掴む。息を呑んでは小さな悲鳴をあげたり、映画よりも彼を見ているほうが心満たされていく感覚があった。


(なんか、我慢できなくなってきちゃいますね)


 女性に引けをとらないくらいにいい香りがする。栞が使うシャンプーなどの匂いではなく、彼自身の甘い匂い。強烈なフェロモンのように栞を刺激していく。

 悠一より幾らか背が高い栞は、隣同士で座ると顔の前に彼の頭が来る。さらさらの猫っ毛に鼻先を埋めて目一杯香りを堪能したくて仕方がないが、そんなことをすればどうなることか。


(引かれちゃいますかね……意外と驚くだけだったり。あぁ、もう)


 以前どこぞの女が彼は麻薬のようだと表していたが、今まさにその言葉の意味を理解した。

 確かにコレは麻薬で、中毒性がある。抗えない衝動が身体中を突き抜けている。思考の一切を捨てて、何もかもを放り投げて襲い掛かってしまえと、本能が叫び声を上げていた。

 悠一はタブレットの画面に釘付けになっている。完全に映画に夢中になっていて、周りが見えなくなっているようだ。


 今がチャンスだと、見えない誰かがそっと栞に耳打ちした。


(少しくらいなら、平気ですよね)


 ほんの少しだけだ。

 バレないようにゆっくり、彼の髪から香る匂いを吸い込むだけ。

 眠ってしまったフリすればいい。そうすれば、顔を埋めてしまっても不自然には思われないだろう。私って天才、と自画自賛した。


 そうと決まれば行動あるのみ。

 ゆっくりと目を閉じて、体を預けていく。彼と触れ合う部分が大きくなっていき、その分心臓が大きく鼓動するように感じた。

 ゆっくり、ゆっくりと、首を傾けていく。彼はまだ気付いていないようで、画面に見入っている。呼吸も変わっていない。まだまだいける。


 額にさらりとした感触があった。彼の髪が額から頬にかけて触れていた。

 体が一気に熱くなったような気がした。しんとした室内に鼓動が響かないかと心配になる。ホラー映画によくある緊張を煽るシーンのせいで、耳に入るのは自分の呼吸と鼓動だけだった。

 

(あぁ、悠一さんの……)


 ミルクに蜂蜜を溶かしたような、やけに甘ったるい匂い。

 それが鼻腔を擽る度に子宮が疼く。今すぐ慰めたいくらいに火照っているが、今はまだ我慢だ。彼の前で披露するには早すぎる。

 

 顔を傾ければ、その香りはさらに濃密なものになっていく。

 耳の裏に唇を寄せるように距離を縮めていった。努めて呼吸を平静に保ちつついるが、気を抜けば今にも息を弾ませそうなくらいに興奮している。ほんの少し背中を押されてしまえば理性の箍などすぐに外れてしまうだろう。


「……ぁ、はぁ……っ」


 思わず唇から呼気が漏れる。

 悠一は擽ったそうにするが、怪訝に思う素振りは見せなかった。気にすることもなく画面を見続けている。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は吐いた溜息が彼の耳を撫でた。

 しまった、と思うときには既に遅く、悠一はびっくりしたように身を捩った。振り向いた視線と目が合い、栞の体は凍りついた。


「えっと、栞さん……」


 違うんです、と言い訳をしようとしたが、言葉は一切出てこなかった。

 その代わりに悠一の肩を抱き寄せる。反射的に空いた手で頭を抱え込み、首筋にその唇を押し付けた。

 先程とは違う悲鳴が上がった。困惑の色が強いそれが耳元で震える。焦がれるほど求めていた匂いと温度を身体中で感じながら、栞は腹を括った。


 もうやるしかない。もう少し時間を掛ける気ではあったが、やってしまったものは仕方がない。

 様子見なんて元から無理な話なのだ。彼の温度が自分を狂わせ、漂う匂いが火を付けた。もっと強く、深いところで感じたいと思うのは女として自然なことだ。

 

「もういいです。我慢なんて出来るわけないんですよ、最初から。ははっ、あぁあ、もう……なんでこんな」

「ちょ、栞さん、どうしたんですか。急に……」


 先程まで寝ていたかと思っていた矢先、急に抱き締められた。

 柑橘系の香りが悠一を包み、驚くほど熱を持った身体が押し付けられる。隙間を埋める双丘がぐにゅりと形を変えた。

 

「ねえ、悠一さん。覚えてますか、初めて家に来たときのこと」


 栞は無視して、独白のように呟いた。

 悠一の抵抗は弱々しい。彼に拒絶の意思はないと改めて確認できたことが、彼女の行動を加速させていく。言葉の合間に舌を這わせた。

 身の内に渦巻いた衝動は最早抑える必要はなく、呼吸も荒くなっていた。後ろ髪を引かれつつも首筋から唇を離し、代わりに耳元を舐るように言葉を吐いていく。いっそ吐息と共に沁み込んでいけとすら思った。


「覚えてますよ。栞さんが風邪引いたときでした」

「そうです。びっくりしましたよ。急に訪ねてくるんですから」


 くすくすと笑う。

 悠一の緊張が若干解けていくのが分かった。抵抗はしていないが、それでも彼のほうから抱き締めてくれそうにはない。とは言え拒絶されていないという事実が栞には大きな意味を持っていた。


「あの日から私、生まれ変わったように思えるんですよね。なーんにも色が無かった日々を生きてきましたけど、あの日から世界に色が付き始めたんです。空が青かったり、花が鮮やかだったり、生まれて初めて人を好きになったり」


 ぐっと抱く腕に力が篭る。

 悠一も黙って彼女の話を聞いていた。


「思ってもみなかったですよ。私が人の好みを気にするなんて。お陰で口調まで変わっちゃいました」


 誰のこととはまだ言わない。言わなくても分かるだろうと、言外にプレッシャーをかけた。


「分かりますよね、悠一さんなら。私、誰でも家に上げるほど軽い女じゃないんですよ?」

「栞さん、あの……」


 耐え切れずに口を挟んだ。

 泊まると決まった時に覚悟はしていたが、いざとなって腰が引けてしまったのだ。

 頭の片隅で姉妹がこちらを見ている。その後ろで、金髪の悪魔が紅い目を向けていた。これが彼の心に楔を打ち込んでいて、踏み込もうとする足を掴んで離さないのだ。

 何かを言おうとする悠一を遮って、栞は悠一の耳に口付けた。態と長く息を吹き込んだ。身体を捩ろうとする彼を離さず、栞は唇を付けたまま言い切った。


「好きですよ、悠一さん」


 そう言って、栞は強く彼を抱き締めた。

 初めて他人に好意を伝えたことで、栞の気分は高揚していく。堪えきれなくなった感情が溢れ出していくのが自分でも分かった。計画していたプランはとっくに頭の中から消え去っていて、今はもう彼と結ばれることしか考えられなかった。


 じん、と頭が痺れていく感覚。

 自分が自分でなくなるような、酩酊にも似た熱が栞を侵していた。


「ふふ、好きです。大好きです。悠一さんは、私のこと嫌いですか?」

「そんな、嫌いなわけないです」


 嫌いではない。正直なところ惹かれていると言ってもいいくらだ。

 美しくて優しい、思いやりのあるお姉さん。何より自分の為を思ってくれるところに心が揺らめいていた。

 だが、素直に踏み出せない自分もいた。

 姉妹のこともあるし、呪いの件もある。栞が二人目だとしたら、安易に彼女に応えることはできないのだ。未来で自分と結ばれるのが彼女であれば問題ないのだが、千里のように何か箍が外れている可能性もある。疑心暗鬼が彼を蝕んでいた。


 だからこそ、悠一は素直に返答できなかった。

 嫌いではないと言うのが精一杯で、自分の覚悟の足りなさに恥じ入るばかりだ。


(栞さんが二人目?でも、もし違ってたら……)


 リリィに尋ねれば何かヒントが得られるかもしれないが、今はそんな暇もなさそうだ。この場で彼女の気持ちに答えなければならない。考えさせてください、などで切り抜けられそうにも無かった。


「ふふ、悠一さん。愛してます。私の悠一さん……」


 擦り付けるように自分の身体を押し付ける。

 返事の無い悠一を無視して、栞の熱は更に高まっていった。唇で耳の縁を食み、舌を耳たぶに這わせる。反応する悠一を力ずくで押さえ込んで、栞は愛撫を続けた。


「ぁ、ぅあっ……まって、しおりさっ」

「はぁ……あ、んぅ……んんっ」


 言葉は既に聞こえていない。

 夢中になって耳を舐り回した。舌が触れれば触れるほど欲求が満たされていくが、それよりももっと深くと欲望が渦巻いた。

 

 悠一はその行為を止めることはできなかった。

 自分の気持ちが定まっておらず、応えたい気持ちもあるが、疑心がそれを邪魔している。

 とはいえ女性の家に泊まると自分で言ってしまった手前、拒絶する気にもなれないのだ。複雑なジレンマが悠一の行動を阻害していた。


「はぁ、はぁ……ん、ゆういちさん、いいですよね?」


 何もしないことを肯定と捉えた栞は、抱き締めていた腕を放した。そのままハーフパンツの紐を解き始める。明らかな行為に、流石の悠一もこれには抵抗の意思を見せた。


「まって、おねがい……」

「ふふ、大丈夫ですよ。私は初めてですけど、ちゃあんと勉強してますから……痛くしませんし、気持ち良く出来ます」


 あの女より、と付け加えた。

 誰のことだと一瞬考えて、すぐにその思考が停止した。栞の手がするりと入り込んで悠一自身を捉えたのだ。すでに主張を始めていたそれが撫で摩られ、悠一は嬌声を上げた。


「ふふふふ。これって、いいって事ですよね。悠一さんも私と同じ気持ちだったんですね」

「ち、ちが、あッ……」

「違わないですよぉ。コレが何より、ふふっ……おっきくなってきたぁ」


 手淫は悠一の抵抗をものともせず続き、だんだんと栞の歯止めが利かなくなっていく。

 ここで初めて、悠一は彼女が二人目だと確信を持った。普段の彼女からは考えられないような行動で、千里と重なる部分が疑心を確信へと変えていった。


「大丈夫です、大丈夫ですから……あいしてますから、にげないで」


 ソファに完全に押し倒される。

 抵抗の意思を示していた腕が押さえつけられ、身動きが取れなくなってしまった。

 暗闇で見下ろす目が爛々と光り、雷光が照らす栞の表情に薄っすらと狂気が混じる。

 千里と同じ、自分の欲望に飲み込まれた目。あの日々の映像がフラッシュバックして、千里と栞が重なって見えた。


 栞は懇願するような言葉の後に、唇を近づけた。一息吐く間もなくそれが押し付けられた。息が混ざり合い、熱が悠一にも伝染していく。


 悠一は結局何も言えないまま、栞の唇を受け入れた。

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