二人目 悠一Ⅲ / 栞Ⅶ

 真夜の大激怒を覚悟していた悠一は、思いの外あっさりとした承諾に肩を透かした。


 今日出かけるにあたり、一樹に口裏を合わせてもらうようお願いしてはいた。栞と出かけるとなれば姉妹の機嫌は悪くなることは分かりきっていたからだ。

 万が一彼に確認を取られても問題はなく、やましい事をしている訳ではないのだが、何故か悠一は浮気をしているような気分になった。

 

(姉さん、怒ってるよね……)


 真夜と喧嘩することは滅多にない。が、彼女が怒っているかどうかくらいは分かる。冷たい態度や言葉は不満や怒りの表れなのだ。

 

 じゃあね、と一言のみ残して切れた通話に不安を感じつつも、悠一は電話を掛け直そうとは思わなかった。悪いのはお前だけだと言わんばかりの態度が、どうしても受け入れられなかった。

 

「電話、終わりました?」

「あ、はい。なんか、怒ってたみたいですけど」

「あら……妹さんのほうです?それともお姉さん?」

「姉のほうです。好きにすればって言われちゃいました」


 姉と言われ、栞はなんとか顔を思い浮かべた。はっきりとは覚えていないのだが、いけ好かない奴だということは覚えている。

 姉妹と彼が仲違いするのは歓迎すべきことだ。あの女は邪魔にしかならないのだから、いっそこのままでいてくれた方がいい。

 どうやって煽ってやろうかと考えながら、栞は申し訳なさそうな表情を作った。

 

「悠一さんは悪くありませんよ。お姉さんを心配してのことですから、きっと分かってくれます」

「どうですかね……そうだといいんですけど」


 拗ねた子供のような口ぶりだった。視線は逸れ、表情には影が差す。

 どうでもいいです、と言いたげな振る舞いだったので、栞はあえて言及しなかった。彼女の目的はあくまで仲裁ではないのだから、ここで彼を宥めることは無意味だ。

 むしろもっと煽ってやれと心が叫んでいる。逆らうことはせずに、その声に従うことにした。

 

「悠一さんも、お姉さん離れする年頃なんですかねぇ」

「お姉さん離れって……もともとそんなにべったりしてた訳じゃ」

「ないです?いつも一緒にいるイメージでした。バイト先に来たりしてましたし」


 少年の心を擽っていく。暗に保護者が付きっ切りの子供のようだと揶揄してやった。

 彼が姉妹を家族として大事にしているのは知っている。が、それと男としての心は別物だ。十六歳の少年が考えることなど、手に取るように理解できる。

 彼の不満の矛先がこちらに向く前に、「理解者」としての言葉を投げ掛けた。

 

「悠一さんも男の子ですもんね。わかりますよ、私もそうでしたから」

「……栞さん、女性じゃないですか」

「性別は関係ないですよ。私も十六歳のときは自分だけじゃ何も出来ないって見られるのが嫌でしたので、その頃から一人暮らしとか始めました。自立してやるって意思を見せれば、周りの見方も変わってくるんですよ」


 多少脚色はするが、彼に栞の真意は分かりえない。一人暮らしの理由はそんなことではないし、自立だってしたくてしたのではないのだ。

 嘘はバレなければ真実であり、自分と彼が同じタイプの人間だと思わせた上で、自分の都合の良いように誘導することが目的だった。


「一人暮らしをしろとは言いません。高校生のうちは大変ですしね。ですが、お姉さんや妹さんから離れてみるのも良いと思います。見え方も変わるでしょうし、世界も違って見えると思いますよ」


 心の中でけらけら嗤う。

 結局は家族のサポートなしで生きていけないのは変わらない。学費も生活費もどれだけかかっているのか知らないが、高校生のアルバイト代程度では賄えるものではないだろう。

 彼の意思を尊重しているようで、結果は姉妹から距離を取るということだけだ。それこそ栞の思う壺なのだが、初めて真摯に向き合ってくれる彼女の言葉に、悠一は疑いを微塵も持たなかった。

 

「離れてみる、ですか。でも、姉さんや栞がなんて言うか……」

「離れるって言っても、家を出るわけじゃないんですから。今まで一緒だったことを、ちょっとずつ一人ですればいいんです。最初はお姉さんたちも嫌がるでしょうが、それが悠一さんやお姉さんたちの為でもあると思いますよ?」


 姉妹の為、という言葉に、悠一は反応した。

 その様子を見て栞がにたりと嗤う。

 

「姉弟じゃ結婚できませんし。あそこまで悠一さんに付きっ切りだと、お姉さんたちに恋人なんか絶対出来ませんしね」


 些か直接的な物言いが、悠一の心を捉えた。

 彼自身、姉妹が持つ好意には気付いている。あそこまで剥き出しの感情が何を意味しているかは分かっているし、それを無視し続けるわけにもいかない。いずれ決着をつけなければならない事なのだと考えていた矢先の言葉だった。

 

「悠一さんにもいつか好きな人ができます。その時お姉さんたちがこのままだったら、どうなると思います?」

「……っ」


 千里の姿がフラッシュバックする。

 怒号と咆哮が木霊して、最後に涙した彼女が瞼に浮かんでは消えていった。

 

 思案する悠一に時間を与える。考えはどんどんと栞が狙っている方向へと進んでいく。

 僅かに顔を曇らせた悠一を見て、栞は頃合いだと話を切り上げた。

 

「まぁ、今すぐにって話ではありません。ただそういう事も考えて置いたほうがいいですよってだけですから」


 努めて笑顔でそう言い、栞は悠一を引き寄せた。

 俯き加減だった彼は抵抗する間もなく、栞の胸へと飛び込んでいく形となる。顔を包んだそれを咄嗟に触ってしまった


「んぅっ……」


 吐息と嬌声が耳を撫でる。押し付けられた胸の奥で心臓が鼓動していた。

 突然の行動に、暗い思考は一気に霧散していく。暖かい温もりが全身を包んでいた。

 以前から不思議ではあったが、彼女の体温は嫌いではない。もちろん姉妹にも同じことが言えるのだが、クラスメイトや露骨なスキンシップをしてくる友人ではこうはいかないのだ。

 

 しばらく抱き留められた姿勢のまま、雨音と雷鳴が部屋に鳴り響く。その合間にくすくすという笑い声が聞こえ、途端に恥ずかしくなった。恥ずかしくなって身を離すと、その笑い声が名残惜しそうなものへと変わった。

 

「もう……」

「すみません、でも……」


 仕方ないですね、と栞は笑う。


(嫌がりませんでしたし、いい感じになってきましたねぇ)


 時間はまだまだあるのだ。焦る必要はないし、今日はじっくりと確実に彼の心を絡め取っていけばいい。

 出会った当初から比べれば格段に進歩している。当時は目も合わせてくれなかったのだから、今の「部屋に来て泊まる」なんて状況は一万歩くらい先に進めたと言ってもいいだろう。

 無理矢理でなく彼の意思で、ということも重要な事である。少なくとも自分に対してはある程度の好意はあると見ていい筈だ。

 

(あの悪魔の言うとおりなら、悠一さんも今どういう状況か分かっているはずですし)


 あの生意気な悪魔に操られているとは思わない。自分を利用しているつもりだろうが、そんなに簡単に掌で転がされるほどちょろい女ではないのだ。

 過程はどうあれ、一番重要なのは結果。悠一が自分のものになるという結果さえもぎ取れば後はどうでもいい。

 願いが叶った世界を想像して、栞は身を震わせた。気分が高まっていく。鎮める気もないまま、悠一へ向き直った。

 

「電気つくまでは、のんびりしてましょうか」


 その言葉に悠一が安堵の息を吐く。やはり性急に事を運んでしまったと栞が反省した。心を開いてくれているとはいえ、元は女性恐怖症だったのだ。距離感を見誤ってはならない。

 

「あ、違うんですよ。別に栞さんが嫌だってわけじゃなくて」

「分かってますから、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」


 意図して少し落ち込んだ声音を作り出す。暗闇の所為で細かな表情は分からないだろうが、優しい少年なら声のトーンに気付く筈だ。

 ほんの少し罪悪感を植えつければ、きっとこの後楽しいことが待っている。今はまだこれでいい。疼く身体を押さえつけて、栞は気丈な振る舞いを演じて見せた。

 

 雷鳴が轟き、雷光が瞬間を照らす。

 明日朝まで停電が復旧することはないと知っていた栞は、暗闇の中で唇を湿らせた。

 

 

 

 

 金髪紅眼の美女が、嵐の中に佇んでいる。

 横殴りの暴風と銃弾のような雨粒が彼女に襲い掛かっているが、そのドレスや美しい髪を濡らすことは無かった。

 異なる世界に生きているのだから、雨如きで濡れることもなければ髪が風に靡くこともない。彼女が心の底から本当に執着する物でなければ、触れることすら叶わないのだ。

 

 リリィはそれを不便だと思うことはなかった。

 生きていた頃に比べれば格段に便利であり、薬品の匂いが立ち込めるあの部屋では味わえない自由も得ることができた。

 注射の針にも、副作用で吐き続けることになる薬にも、味の無い吐寫物のような食事に怯えることもなくなった。

 

 悪魔となってからは、様々な時代を旅して好きなものを食べた。法律にも縛られないこの身体は文字通り自由に生きることができる。四角い部屋の中でなければ死んでしまう彼女にとって、外の世界はまるで御伽噺の中にいるようだった。


 そういう意味では、人から悪魔になろうが関係ないのだ。むしろ神に感謝すらしてやってもいい。

 それこそ手の施しようが無くなった自分を、胡散臭い魔術とやらで化け物に変えた両親に恨みなんて欠片も持っていない。

 

 だから彼らを八つ裂きにしたことだって、怨恨からの行為ではないのだ。

 生きるという地獄に縛り付けた両親も、人為らざる化け物に変えたあの男も、今では恨んでなどいないとはっきり言える。そもそも恨んでいたら、あんなに楽に殺してなどやるもんか。

 

 雷鳴轟く暴雨の下、そんな悪魔が見据える先には一人の少年がいた。隣には見知った女の姿。自分が初めて愛しいと思った相手が、自分以外の女の腕の中に納まっている。

 暖かい部屋で仲睦まじく過ごす二人を、嵐の中で見つめる自分。今まで感じたことの無い感情がリリィの心を蝕んでいった。

 

(何かしら……凄くムカつくわ、あの子)


 その矛先が悠一なのか栞なのかが分からない。ただ、胸がむかむかとして仕方が無かった。

 恋した相手にベタベタされることへの嫉妬か、自分以外の女にデレデレする悠一への怒りか。どちらにせよ、人であった頃から今に至るまでには感じたことの無い気分であった。

 

 難儀なことではあるが、だからと言って邪魔に入ることはできないのだ。

 約束事は守らなくてはならない。それが自分が自分でいられる為のルールで、絶対的に遵守しなければならない呪いのようなものだ。

 この嵐を朝まで維持することと、同様に一体を暗闇に落としてままにしておくこと。それが栞と約束したことだ。

 我ながら下らない約束だとは思うが、こればかりはどうしようもない。

 

(あーぁ、さっさと終わらないかしら。とってもつまらないわぁ)


 二人目の女は千里とは違った意味で強欲だ。

 千里は悠一以外は全て失っても構わない、という覚悟があった。だがこの女は全てを手に入れたいらしい。何も捨てずに全てを得たいというのだ。

 あまつさえ最後は二人揃って悪魔になりたいと言うのだから、全く救いようがない女である。なんの代償もなしに何でもかんでも叶うとでも思っているのだろうか。

 

「愚かな女……」


 ただで済ませるものか。

 このゲームが終わるときに、嫌と言うほど思い知らせてやる。


 ドレスを翻して、リリィの笑い声は雷鳴よりも高らかに響き渡った。

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