二人目 栞Ⅵ

 以前一度だけ訪れたことのある部屋は、相変わらず綺麗で女性らしかった。多少インテリアは変わっているものの、シンプルかつデザインの映えた部屋だ。


 少し大きめの玄関に着くと、子猫が小さな声を上げて出迎えた。

 寂しかったのか小さな体を擦り付けて甘えている。ひとしきり栞にじゃれついた後は、初めて見る悠一にも恐れなく近づいてきた。

 

「あれ、猫飼ってたんですね。前に来たときはいませんでしたよね?」

「あの後に飼い始めたんですよ。いい子で可愛いんですよー?」


 ねー、とあやすようにして子猫を抱える。

 嫌な素振り一つ見せずに抱き上げられた子猫は嬉しそうに鼻先を寄せた。

 

「名前はなんていうんです?」

「ユウイチさんです」

「……へ?」

「ですから、ユウイチさんです。あ、カタカナでユウイチって書きます」

「いやそこじゃなくて。なんで僕の名前なんですか」


 自信満々に答えられても、自分と同じ名前であることには変わりない。悠一が訊きたいのは何故自分と同じ名前をつけたのかであって、表記の仕方の問題ではないのだ。

 

 ぐちゃぐちゃに濡れた靴を脱ぎ、丁寧に揃えておく。靴下は歩けば水が滲むくらいに浸っていた。

 栞は「構いませんから、上がってください」と言い、彼を浴室へ連れて行った。

 栞は断固として「私は後でいいです。先に入って下さい」と言って譲らなかった。こうなった彼女はてこでも動かないので、悠一は諦めて先にシャワーを浴びることにした。


 熱めのシャワーで不快感を洗い流す。

 浴室内には女性らしいシャンプーやボディソープが置かれていて、スキンケアに使うようなものまである。姉妹も同じようなものを使っているのだが、栞はその倍くらい使っているようだ。


(あんまり見るのも失礼かな……)


 興味はある。彼女を知る第一歩だ。

 だが使っているシャンプーがその一歩目だと思うと途端に恥ずかしくなり、悠一は頭からシャワーを被った。僕は変態か、と自身に突っ込みたくなってしまう。


 早々に体を流してシャワーを終えた。栞も入るのだろうから長居は無用である。既に用意されていたシャツとハーフパンツに着替えて(若干大きめだったことに自己嫌悪して)、悠一は灯差すリビングへ向かった。

 

「あら、もう出ちゃったんですか?ゆっくり入ってても良かったのに」


 部屋着に着替えた彼女が、子猫に餌をあげていた。髪がまだ濡れているのを見ると申し訳なくなってしまう。


「いえ、栞さんも早く入らないと風邪引いちゃうかなって」

「うーん、そうですねぇ……」


 少しだけ思案する様子を見せて、栞は結局シャワーを浴びることにした。栞は本当に風邪を引いてもいいと思っていたのだが、悠一は彼女に辛い思いはして欲しくなかった。素直に浴室へ向かう彼女を見てほっと胸を撫で下ろした。

 

 彼女がシャワーを浴びている間、足元をうろついていた子猫と遊ぶことにした。

 最初は自分の名前で呼ぶのに抵抗を覚えたが、ユウイチと読んで健気に返事をする子猫に頬が緩む。気に入っているなら仕方ないと諦めた。

 指を差し出せばくんくんと匂いを嗅ぎ、撫でれば気持ち良さそうに目を閉じる。そのまま甘えてきた子猫を抱きかかえ、胸で寝息を立てるのを見て心が和んだ。

 

(可愛いなぁ……うちも猫飼えないかなぁ)


 姉妹は反対するだろうかと考え、悠一は説得する材料を探しては子猫の頭を撫で続けた。

 


 

 

 冷水に近い温度のシャワーが火照りを冷まし、思考をクリアにしていく。舞い上がっていた気分が次第に落ち着きを見せた。

 柔らかな笑みの仮面が剥がれ、本性が顔を覗かせる。

 水が滴る長い髪の奥で、口端を大きく歪めては厭らしく笑う栞が浴室の鏡に映っていた。

 声が漏れないようにハンドルを強く捻った。叩きつけるくらいの冷水が肌を突き刺す。

 

「……くふ、ふふふふ……あはははっ」


 浴室に響く笑い声。シャワーの音がそれを掻き消し、リビングにいる少年の耳には届かない。

 やっとここまできたのだ。万が一の綻びがあってはならないし、この機会を逃すことなんてあり得ない。悪魔に身を売ってまで得たチャンスはモノにしなければならない。


 (ほんッと長かったですねぇ……)

 

 嫉妬に身を焦がしながら、小細工をいくつも重ねてきた。

 いっそ面と向かって自分の想いを伝えられたらと何度思ったことか。

 その度に断られたらどうしようと考え、想像の中で冷たく拒絶する悠一が心を傷付けていた。結局冗談交じりに想いを告げられない自分が情けなくて笑えてくる。

 

 だが、今日は違う。

 悪夢のようにはならない自信と確信がある。あと少し我慢して、最高のタイミングで彼を奪うだけだ。


「はははッ……ぁあー、やばいですね、これ。頭沸騰しそう」


 冷やされていく身体の奥底に、マグマが蠢いているような感覚だ。

 冷たいシャワー程度では到底冷ませるものではなく、隙あらば噴火しようと脈動している。

 

 栞はシャワーを止め、身体を丁寧に洗った。

 お気に入りのシャンプーやボディソープで隅々まで磨き、丁寧に身体を拭いた後にとっておきのボディクリーム。薄く化粧を整えれば最高の状態に仕上がった。

 今まで一度もつけたことのないランジェリーで自身を飾り付ける。普段身に着けるものより格段に面積は小さいが、いざ事に及んだときにがっかりさせたくなかった。

 このままで戻るわけにも行かないので、小さめのTシャツとタオル生地のショートパンツで覆い隠した。

 

 スマートフォンに目をやる。入れ替わりに浴室へ入ってから一時間が経過していて、大分時間を食ってしまったと悔やむ。急いで彼の元へ戻らなければと心が逸った。

 

 廊下からリビングへ、ドアを開けても少年は反応しなかった。テレビもついていない無音のソファで、悠一は静かに寝息を立てていた。

 小さな身体を横たえ、腕に子猫を抱えている。仲良く寝ている様は栞の心を今日一番に締め付けた。

 

(悠一さん、猫耳とか似合いそうですね)


 明日絶対に買うと決めた。彼は嫌がるだろうが、やり方次第でどうにでもなるだろう。

 

 そっと起こさないように、眠る彼の隣へ座る。反発性の弱いソファはぐっと沈むが、彼は起きる気配もなかった。

 小猫は彼女の存在に気付いたようで、みゃあ、と小さく鳴いて身を起こした。前足で顔を擦り始める。何度か繰り返すその手が悠一の顔に当たり、子猫と同じように小さく呻いた。

 

「ん、ぅんん……」


 薄く瞼を開き、辺りを見回す。子猫が驚いてソファから飛び降りた。

 

「おはようございます」

「ん、あれ。おはようございます……」

「また寝ぼけてますね。ふふ、誰かにおはようございますって言うの、本当に久しぶりです。こんな良い物だったなんて」


 状況が上手く飲み込めていない悠一を尻目に、栞はくすくすと笑った。

 ぼうっとした頭がクリアになって、悠一は現状を理解した。栞に誘われ、彼女の家にお邪魔していたのだと思い出す。

 

「すっ、すみません……!」

「いいんですよ。寝顔、とても可愛かったです」


 くしゃくしゃと頭を撫でる。人の家に上がってシャワーと着替えを借りた上、勝手に寝てしまったという負い目があるためか、悠一は撫でるその手を受け入れるしかなかった。

 しばらく撫でられるがままの状態が続き、悠一は赤面する。子猫がじっとこちらを見つめているのも恥ずかしかった。


「ふふ、やっぱり悠一さんは可愛いですね」

「可愛いっていうのは、あんまり……」

「嫌ですか?私、可愛い悠一さんが大好きです」


 面と向かってはっきりと言われると照れてしまう。栞は笑顔のままだが、嘘は言っていないようだった。

 彼女はしばしば直接的に物事を言う。自分の感情をそのまま表現して伝える。簡単なようで難しいそれを容易く出来る彼女が、悠一は羨ましく思えた。自分には出来ない生き方をする彼女を尊敬していた。


「いいですよ、大人になったら可愛いなんて言わせませんから」


 大人になった悠一さんですか、と栞は笑う。

 拗ねるように目を背けた悠一のポケットで、スマートフォンが振動した。低く唸るバイブが会話を中断させる。

 見れば、真夜からの電話だった。時刻は既に午後六時を回っていた。


「すみません、ちょっと電話してきます」

「……いってらっしゃい。窓際の方が良く電波入りますよ」


 一瞬眉を顰めたが、すぐに笑顔に戻った。

 甘い時間を過ごせると思った矢先の横槍に血が熱を帯びる。窓際へ向かう悠一に聞こえないように溜息を吐いた。


「……ん、うん、分かった。ありがとう姉さん」


 数分話して、悠一は電話を切った。

 窓を叩きつける雨音のせいではっきりとは聞き取れはしなかったが、断片的に耳に入った内容から好ましい話ではなさそうだ。

 悠一は申し訳なさそうな顔でソファに戻った。彼女が部屋へ誘った理由と、きっと察しているのだろうという直感がそうさせるのだろう。


「すみません、姉が迎えにくると」

「……そうですか。仕方ありませんね」


 仕方なくなんかない。ここで彼を帰すなんて、有り得ない。

 心の中で舌打ちをして悪態をついた。約束が違うぞと、悪魔に中指を立ててやりたくなる。

 そんな胸中はおくびにも出さず、栞は努めて優しいお姉さんを演じた。


「お姉さんはウチに迎えにくるんです?」

「いえ、駅に迎えに来てくれます。一樹って友達と遊びに行ってることになってるので」

「うーん、この嵐の中駅まで行けます?」


 窓の外は酷く荒れていた。

 雨風は酷く、先程から遠方で雷鳴が轟いている。断続的にフラッシュする雷光が嵐の酷さを物語っていた。

 

「お友達と遊びに行ってることになってるんですよね?」

「はい、まぁ……」


 歯切れ悪く、彼女は言葉を止めてしまった。

 思案する様子で目を閉じてしまい、悠一ははっきりと答えを返すことができなかった。

 二人の呼吸音が部屋に流れ、数分が経つ。やがて目を開けると、栞は覚悟を決めて言った。内容はやっぱり、と言いたくなるようなものだった。


「悠一さん、今日は家に泊まっていってください」


 無理です、と言う前に、耳をつんざくような雷鳴が鳴り響いた。

 嵐は更に勢いを増し、とても外に出られるような状況ではなさそうだった。


 悠一の返事を待つ栞は、至って真剣に悠一を見据えた。

 悠一は突飛な提案にどもってしまい、言葉が出ない。ここで「はい、わかりました」と言うことがどんな意味を持つのか、悠一は必死に考えた。


 再び閃光。数秒経って大気が震えた。どこかでサイレンの音が鳴っていた。

 畳み掛けるように栞が言葉を続けた。身を寄せて、心配するお姉さんを演じきる。 


「ね?お姉さんにはお友達の家に泊まると言えばいいでしょう?このまま迎えに来てもらって、危ない目には遭わせたくないでしょう?」


 心に刷り込むように言葉を流し込む。

 優しい言葉のはずなのに、背筋にぴりぴりとした緊張感が走った。

 栞は嘘は言っていない。嵐がこの後ますます酷くなるのも事実だし、真夜が迎えに来れなくなるようになるのも事実だ。たった今、そう契約したのだ。


「大丈夫です。私も悠一さんに危ない目に遭って欲しくないんです。嵐が止んだら、ちゃんとお家に帰してあげますから、ね?」


 にこりと歪む目。口角が上がって、甘い囁きが耳を撫でる。

 そうですね、と辛うじて搾り出した声がかすれていた。


「ふふふ……じゃあ、お姉さんに連絡しましょうか。今日は友達の家に泊まるって。今日は帰れないって、言ってあげて下さい」


 笑顔が弾ける栞の言葉と同時に、部屋を暗闇が包んだ。街から光が消え、それが停電だと気付くのに時間はかからなかった。


 栞が悪魔に願った嵐は、彼女の願った通りに街を覆っていった。

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