第5話 輝く贈り物

 目抜き通りに面したオープンカフェは薄雲に覆われた空のせいで日当りこそあまり良くないが、午前中の小一時間程度を人と会って過ごすだけであれば問題ない。良くも悪くもないそんな中途半端な日差しは今の胸中に皮肉なことによく似合う。

「なんていうかさ、君の表現方法は独特なんだよね」

 評価とも批判ともとれる遠回しのものの言い方は要するに演技が未熟だと言いたいのだろう。稽古後の恒例となった演出家の演技論は夜通し続いた。染み着いた疲労と終わらない二日酔いによって壊れかけた身体が熱いシャワーとベッドの温もりを恋しがっている。ついに寝不足と酔いの防波堤が決壊しかけた頃、ジーンズのポケットに入れておいたスマホの振動に気づいた。

「すごくいい子だから貴方にもぜひ一度会って欲しいの。大女優の原石かもよ」

 演出家の呪縛から解放され安堵したものの、マネジャーからだとばかり思った連絡は社長直々の役者志望者の面接依頼だった。しかもそれは緊急を要した。

「え、これからですか」


 朝から営業しているカフェで手早く身支度を整え、3杯目のコーヒーを飲み終えた頃、通りの向こうからこちらに歩いてくる人影に気がついた。その姿がクリアになるにつれ気持ちがしおれてきた。

──まさか彼女が?

 前髪を真一文字に切りそろえたポニーテールに黒ぶち眼鏡。黒のパンツスーツにプレーンの白いシャツ。面接は面接でも就活の面接と勘違いしていないだろうか。外見と身なりだけで判断することはできないが、そこからは女優のオーラどころか少なくとも演技のイメージすら感じられなかった。

──なんて冴えない子なんだろう

 新人発掘を自慢とする社長の審美眼も今度ばかりは狂ったようだ。そそくさと面接を終わらせて一刻も早く熱いシャワーを浴びたい。そっと溜息をつき、とりあえずはあいさつをと重い腰を上げようとしたとき、頭から浴びせられたのはまるで真水のシャワーのようだった。

「真崎ミサさんですね。春野日和です。よろしくお願いします!」

 耳を疑った。

 春野日和って、あなたも──。


 はるのひより──上京してきた頃、地方出身者というイメージを持たれないよう、本名は未公開にしていた。知っているのは本人と社長だけだ。それだけに本人すら久しぶりに耳にするその名前を初対面の相手に口にされるとは思ってもみなかった。

「えっと、春野日和さん、ね。どうぞ、掛けて」

「はい。ありがとうございます。あ、そうだ」

 日和はガサガサとバッグからきれいにたたまれた履歴書を取り出し、よろしくお願いしますと口を動かしテーブルの上に広げた。同姓同名との初対面の動揺を残したまま、今度は目が釘付けになった。それはおそらく今まで見たことのない美しい文字で書かれた履歴書だった。今日の日付けから、志望動機の一番最後の文字「す」まで、一糸乱れぬ美しさで白い紙の上に綴られていた。

「達筆なのね。何か習っていたの」

「はい、小学生の頃から、書道を習っていました」

「それは今も」

「はい、続けています」

 子供の頃から字はしっかりと書くことを躾けられていたせいで、そこそこ字には自信があった。パソコンが主流となる今こそ、希少な長所という意識も常に持っている。普段はがさつな人が伝票のサインやメモ書きなどできれいな字を書くのを見るとつい感心してしまうことすらある。もし自分が企業の人事担当者でこの履歴書を応募書類として目にしたら、間違いなく第一次審査を通過させ、ひと目会って見たいと思うに違いない。それだけ凛々しく気品に溢れた魅力ある字面なのだ。偏見を持ったことへの失礼を心で詫びつつも、視線はしばらく履歴書から離れなかった。


 面接を終え社長に連絡を入れると、社長は感想も聞かないうちに一方的に話し始めた。

「彼女にね、宝物は何って聞いたの。そしたら、名前ですって。考えてみたら名前って、親からの初めての贈りものなのよね。もしかしたら、この子は女優になったら初めてもらった役の台本なんかもずっと大切にとっておくんじゃないか。そう思ったらなんだか急に嬉しくなっちゃって。容姿や演技なんて、これからこれから。女の子なんてガラッと変わるから。まずは素性でしょ。そう思わない」

 台本どころか、親からの贈りものすら自分の都合で手放してしまったことを今頃になって少し後悔した。芸能界入りに反対していた親も言葉とは裏腹に、娘の名前がテレビに映ったり流れてきたりすることを心待ちにしていたかもしれない。芸名のことはまだ親に言っていなかった。それを聞いたら、きっとがっかりすると思ったからだ。けど、もうそんな言い訳はいらない。どう?と返事を乞う社長の声が聞こえてきた。

「あの子は本名でいきましょう」


 いつのまにか、二日酔いも熱いシャワーも頭の中から消えていた。二人の春野日和の時間は思ったより早く過ぎ、時刻は正午に指しかかっている。明け方の弱々しかった日差しには眩しさが戻っていた。

 テーブルの上の履歴書は光に同化して白い紙にしか見えない。その中で「春野日和」という文字だけがきらきらと輝いている。それは頼もしくもあり、少し悔しくもあった。

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たそがれフィクション 波流人 @HALTO54

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