安息の荒廃
明里 好奇
眠り
退廃の風の匂いが鼻先を掠めていく。崩壊する瓦礫の悲鳴が耳に遠く届く。
吹きさらしの中に見つけた、スプリングのはみ出したベッドの上。はみ出たスプリングを穴の開いた毛布で覆って、眠れるようにしてくれたのは彼だ。
生物にとっては、過酷な寒さの中瓦礫の上に腰かけている。あんまりに落ち着いて腰かけている。ソファでくつろいでいるかのような様子をしているが、あくまでも瓦礫の上である。
何度か彼自身に相談してみたことがあるものの、返ってくる言葉は決まって「忘れてしまった」だ。彼は、厳密に言うと「生きていない」のだから、仕方のない話なのかもしれない。
ネイト、と彼の名前を呼んでみる。感情を映すことはないが反応は素早い。ゆっくりと首を傾げた。
「ネイトは、眠たくないの?」
これも何度もした質問だ。彼の答えは決まっている。数秒の沈黙のあと、
「まだ起きていたのかい」
少々驚いたような声音でそう言って、ようやくベッドのそばに降り立った。ブーツのヒールが、ひび割れたコンクリートを打ち鳴らす。あまり反響しないのは、部屋の半分程度が瓦解しているからだろう。むき出しの瓦礫や、ひん曲がった鉄骨が、さらされた夜空を切り取っている。
不自然に切り取られた深い闇の中を、黒い男の輪郭が影よりも濃く浮かび上がる。
彼がベッドに腰かけると、壊れたスプリングが軋んで鳴いた。ゆっくりと持ち上げられた手が僕の頭を撫でた。
「夜と言う時間は、眠って夢をみる君たちを慰めるためのものなのに。眠れなくても眠らないといけないよ」
優しい声音が頭の上から降ってくる。きっと彼は表情をわずかも変えていないのだろう。それを予測できるくらい、長い時間を過ごしてきたと言える。まあ、彼の感じる時間の感覚とは、違うだろうけれど。多分たった数か月程度の、出会いではあるけれども。
「ネイトにも、そんな夜を持っていたときがあったんだよね」
頭を優しく撫でていた手が、とんとんと刻むように動いてその度に軽い振動が伝わる。彼の表情は変わらない。変わらないまま、どこか遠くを眺めている。
彼の目が遠くをさまよって、一体いつの誰と「生きた」時代が見えているのか、気にならないかと言われたらわからない。
きっと彼にも「生きていた」記憶があるはずだと、遠い目をするネイトを見るたびに確信する。確信はしていても彼が「忘れてしまった」と言うものだから、それ以上追求できないまま、この数か月を過ごしている。
しばらくの沈黙ののちに彼は「そうだったような気もするよ」と、珍しく笑んだ。
「もうほとんど私自身の生きた記憶など忘れてしまったんだけれど、夜の眠りは甘やかであたたかだったような気がするよ。君が二回生きて死んでしまうくらいの時間を、その時から過ごしているから、定かではないけれどもね」
普段見せない表情をして、僕の顔にかかっていた伸びっぱなしの髪の一房を指に掛けた。少し弄ぶようにしている。彼の髪は短いから、少し珍しいのかもしれない。
「夜の眠りは甘やかで、あたたか、か」
彼の言葉を繰り返して唇に載せてみる。そうしてゆっくりと頭の中に染み込ませた。確かにそうだ。昔、幸せだったとき、夜はそういうものだった。信じられる人間とも出会うことも少なく、人間の命の軽くなってしまった、こんな世界になってしまうまでは。
しかし、世界がこうなっていなければネイトと出会うこともなかったろうと思うと、少々皮肉めいていてため息も出ない。彼に助けられて何とか命を繋いでいるのは事実だ。彼にとって、この生活にどのような意味を持っているのかは、僕にはわからないままだ。
「今の私には、よくわからないよ。もう記憶も相当あいまいだから。それでも君は眠らなくてはいけないよ」
ふかふかのベッドも、あたたかなブランケットも、ここにはない。レンガで作った暖炉もないし、見つけたのはかろうじて原型を留めているこのベッドルームとスプリングが飛び出ているベッドだけだ。
「何度も言うが、私には眠る必要はない。けれど君は違う。本当ならここでホットミルクでも拵えることが出来ればよかったんだけど、ミルクも砂糖も火もないから我慢してくれるかい」
ゆっくりと肩をベッドに押さえつけて、眠るのを促してくれる。ほとんど野宿のような状況に、安心して目を閉じようとしている自分に気が付いた。こうして眠ろうとできるのはまちがいなくネイトが眠らないから、安心して眠ることが出来る。眠っている間に何かがあったら、間違いなくネイトが起こしてくれる。そういう約束を彼としているからだけど。
彼はまた遠い目をして、小さくうなずいた。
「周囲には敵性反応も生体反応も検知できない。安心して眠ってくれて大丈夫、ホットチョコレートもホットミルクも出してあげられないけれど、観念して眠ってくれるかな?」
ネイトは僕の「探し物」を成り行きとはいえ、手伝いながら同行してくれている。彼のメリットが何かあるとは思えないけれど。毎日長距離を歩くことになる。彼と違って「生きている」僕にとっては、長距離を歩けば疲労し、眠らなければ歩けなくなるし、食事ができなければ動けなくなる。人間としての僕を見て、彼は僕の体調や体力を酷く心配するようになった。
どうやら彼自身が眠らず休まず生活しているから「生きている」ということに関して、失念していたようだ。
「ほら、目を閉じて」
彼の声を合図にしてゆっくりと目を閉じた。吹きさらしの野宿のようなベッドの中だ。はみ出したスプリングをよけながら、もぞもぞしてベッドの上に添えられた彼の手に触れた。
その行為に大きな意味はなかった。ただ彼の肌に触れたかった。
「仕方ねえな、お手をどうぞ。おやすみなさい、また明日」
きっと、生きていた彼の核のような部分が透けて見えた。普段は使わない雑な口調で、彼の優しい声が指先を包んだ。彼には体温はない。疑似的に生命維持をしている身体の温度は、ヒトのそれよりかなり低い。彼に僕の体温は届いているのだろうか。
微睡みながら、夜の底に沈んだ。彼の手を取ったまま。
安息の荒廃 明里 好奇 @kouki1328akesato
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