走れ獣、振り返らずに

らなっそ

走れ、獣、振り返らずに

「今日はここまで」


 教師がそう言い切ると終業の鐘が鳴った。

4時間目の授業が終わり待ちに待った昼休みが来た。


 クラスメイトが散り散りに席を離れる中、僕はゆっくりリュックから弁当を取り出していた。

 アルミ製のシンプルな長方形の弁当箱。長年愛用する僕の相棒だ。

 今日はどんなおかずが入っているのだろうと内心楽しみにしながら僕は意気揚々と弁当箱を開く。


 ……お湯だった。


 もう一度蓋を閉めてまた開ける。

 なみなみに入ったお湯だった。


 おい、おい、どうした?空腹のあまり僕は幻覚を見ているのか?

 冷静に弁当箱に入ったお湯を見つめる。水面が僕の茫然とした顔をわずかに映していた。


 あっそうか、母が間違えてお湯を入れてしまったのか。

 それしか納得する方法はなかった。


 ただ悲しいことに今手元に財布もない。どうやら財布まで忘れてしまったらしい。困ったなぁ、とため息は出るものの、腹の音は収まらない。

 今日は昼飯を諦めて我慢することを決意し、僕は次の授業の準備だけして昼寝でもしようと、背黒板の時間割を確認する。よりによって体育か、腹減って動けないかもなぁ。

 僕はリュックから体操服を取り出そうと手を突っ込んだが、感触がない。手をパクパク開いて何かを掴もうとするも、掴むのは空気のみだ。

 恐る恐るリュックの中を覗き込み、僕は絶望した。

体操服がない。


 気がつくと僕は学校の校舎を飛び出し、自宅へと走っていた。

 弁当はなくてもいい、ただ体操服だけはなんとしても取りに行かなくては。

うちの体育教師は頭がおかしい程忘れ物に厳しい。体操服など忘れようものなら、我が身が危うい。軽い刑でグラウンドの草取り程度だが、ひどい時はビンタと放課後居残りで説教だ。考えるだけで身が震える。


 とにかく昼休み中に体操服を家から取って来なければ、最悪の午後になるのは間違いなしだった。

 学校から家までは、走れば間に合わなくもない距離で、徒歩30分といったところだ。こういう時、自分の家が学校に近くて良かったと思う。

 昼休みは45分ある。となると、あと15分以内に家について体操服を回収する必要がある。現在地は学校の敷地を抜けて交差点へと出たところだ。いきなり信号待ちで焦る気持ちがさらに高ぶる。


 太陽は高く位置し街を照らしていた。夏らしい積乱雲が青空を漂っていた。

 軽く走った程度なのに汗がボタボタと額から落ちてくる。やはり制服は走りにくい。家についたら体操服に着替えてそのまま走って学校へ戻ろう。


 信号が青になり僕は再び走り出した。



 5分ほど走っただろうか、僕は街中から山道へと移動していた。

 周りには雑木林が立ち込め、昼間なのに薄暗い。セミの大合唱が耳を制圧してくる。

 迷った訳ではない、僕の家は山の中にあるのだ。この道だって立派な僕の通学路なのだ。

 ただ、時間が怪しくなってきていた。僕の家はこの山を越えた先で、今いるのはまだ山の中腹だ。このままだとあと10分以内に家に到着しない可能性がある。


 仕方ない、ショートカットだ。

 普段の通学路から逸れて、僕は雑木林の中へと突っ込む。一見道無き道だが、一応通れる獣道がこの先にはあった。小さい頃、山で遊んでいた時に見つけた近道で、道は険しいものの、5分程短縮できる。

 夏場だけあって伸び放題になった雑草は腰のあたりまで容赦なく刺さってくる。僕は意も介せずひたすらに進むしかなかった。


 しかし、この獣道を通るのはいつぶりだっただろうか。小学生の頃、この道を通って家に帰った際に母親に強く咎められたのを覚えている。


「英治!あんた山の獣道を通ってきたでしょ!?ほら、付いてる!何でそんなこと……!もう二度とあそこは通っちゃだめよ!絶対よ!」


 今考えてみればどうして母親があれほど強く僕を責めたのか甚だ疑問だった。僕が山のどこで遊ぼうともほったらかしにしていた母親がこの道を通った時だけ異常なほどに過敏になっていたのを覚えている。道自体は斜面の傾斜がキツいものの、他の脇道となんら変わりはない。


 ただ、一点。気になる所はあった。僕は息を弾ませながら、木の根本に積まれた石を横目で見た。

 小石を7、8個程器用に積まれたものが大きな楠の根本にあった。これは僕が小さい頃からずっとある。母親に聞いても何も教えてくれなかったので今も分からず仕舞いだ。


 石を通過した後くらいだろうか。急に背中に妙な気配を感じた。背中にベッタリとまとわりつく汗とともに、ひんやりと感じる冷たい冷気。

 最初は山の冷気かと思っていたが、局部的な冷気は背中のみであり前からは微塵も感じられない。

 気のせいだろうとその時は思い込ませたが、直感は嘘をついていなかった。



 足元が危うい山林をようやく抜け出し、僕はいつもの明るい林道へと出た。

 息はとっくに切れていて苦しいが多少の安心感で気は楽になった。だが後ろの気配は消えていない。ぴったりと僕に付いている。一度足が止まりかけたが、後ろの気配に気づきまた走り出していた。

 もう汗で全身がびしょ濡れであった。だが後少しで家に着く、立ち止まる暇は無かった。


 ついに前方に林に隠れた我が家が視界に入った。周りをすぐ山に囲まれ、民家はここ一帯に我が家一軒しかない。山の中をわずかに切り開き窮屈に建てられた家だ。

 僕は家の玄関へ向かう。母はどうやら今は居ないらしい。車が停まっていないため、どこかに出かけたかもしれない。

 玄関に着いた際、やっと僕は足を止めることができた。


 僕はすぐさま玄関の戸を開き、中へと入る。すると、先程の気配は一瞬にして消え去った。安心し、大きく息を吐く。どうやら家の中には入れないらしい。

 セミが鳴く外とは打って変わって恐ろしいほどに静まり返った室内は、僕に緊張感を与えた。我が家は古い家で、畳が敷き詰められた居間を抜けた先、つまり一番奥に僕の部屋がある。

 ふと畳の居間を覗くと壁にかけられた振り子時計は午後1時10分を指していた。あと20分……まだまだ油断はできない。



 自分の部屋に着くと机の上に置かれた体操服を見つけ、すぐに体操服へと着替える。

 汗が染み付いた制服は触りたくも無かったが、体育の後は制服にまた着替える必要があったため、仕方なくナップサックに入れて持っていく。

 僕は制服が入ったナップサックを肩にかけ、自分の部屋を出た。



 ひとまず目的を終え安心した僕は腹が減っていたことを思い出す。何か食べて行っても大丈夫だろうか。

 僕は玄関より先に台所に寄り、すぐに食べられそうなものを探す。

 するとシンクの横におにぎりとおかずか盛り付けられた平皿がラップをかけられ置かれていた。

 おそらく今朝僕の弁当に入れらる予定だったおかずたちだろう。

 卵焼きに手羽先の唐揚げ、金平ゴボウにオクラの胡麻和え、そして冷凍食品の春巻き。おかずたちもまさか自分たちが弁当に入れられずに放置されるとは思いもよらなかっただろう。

 しかし、そんなおかずたちを見ていると腹が余計に減って来た。本当はこんなことをしてる暇はないのだが……


 腹が減っては走れぬ。

僕は我慢できずにラップを勢いよく剥がし、一気におにぎりとおかずを口に押し込んだ。口いっぱいに詰め込みすぎたせいで外に溢れ出しそうだった。

 すぐさま冷蔵庫からポットに入った麦茶を取り出し、そのままポットから口へと麦茶を流し込んだ。

 もはやここまでくると何の味がするのかもわからない。


 だが、立ち止まっている暇はない。今すぐにでも走り出し、学校へと向かわなければ。

 僕は口のものを飲みこまないうちに玄関へと向かっていた。玄関の引き戸を開け、僕は忙しなくセミが鳴く外へと一歩踏み出した。太陽はさらに高い位置に移動して容赦無く光を僕の全身に降り注ぐ。

 立ち止まっている暇はなかった。


 僕は再び走り出し、今度は山道を下っていく。さっきの上りの時よりはだいぶ楽に早く学校に着けそうだ。だが、山道は足元が悪く枝や葉っぱで足を滑らせるとそのまま転げ落ちるという危険性も伴っている。いくら慣れているとはいえ油断は大敵である。


 しかしその瞬間、肩に人の手のようなものが置かれた気がした。

冷たく小さい手、子供のものだろうか。力ない手がだらりと肩に置かれる。

 身の毛がよだつ思いとはこういうことを言うのだろうか、今まさに全身に寒気が襲う。先ほど感じた冷ややかさが再び僕の背中をつきまとう。

 そして、耳元に生き物が呼吸をする音が直に届いたのだった。


「スーッ、スーッ」


 僕は思わず耳を手で何度も払いどうにかその呼吸音をかき消そうとしたが、呼吸音は依然耳に張り付いたままだった。

 何者かが僕の背中にぴったりとついている。人か、まさか獣か。


 段々と好奇心と恐怖から後ろを振り向きたいという衝動に駆られるが、同時に危険な行為であると本能が訴える。そして立ち止まってもいけない。

 今は1分、1秒でも早く学校に着くことが最優先だ。一歩一歩慎重に足を地面に降ろし踏み締める。

 地面は日陰のせいか、湿っぽく柔らかかった。この一帯の山は太陽の光を求めて上へ高く伸びた木が多く、鬱蒼と地表を暗くさせていた。


 すると、ずっと後ろからの呼吸音が続いていた耳元に、小さな子供の声が聞こえた。子供の声は冷ややかにぼそりと呟いた。


「返して」


 その瞬間、僕は動揺したのか足が不意に小さな窪みに突っ込んでいた。

 しまった、と声が出る前に足は山の傾斜を滑り、体全体が転がり落ちていく。何度か石や木の根にぶつかり、痛みが走る。


 5m程転がり落ちたらしい。運良く斜面の途中の小さな平地に転がり止まったようだ。体の節々が痛み、吐き気がして起き上がる気力がなかった。

 瞼をゆっくり開くと、薄朧げに見覚えのあるシルエットが視界に飛び込んできた。


 ……積まれた小石。

 すっかり苔も生えて後ろの草木と同化したそれは、一見してもわかる異質さで浮かび上がってくる。


 なんで、よりによってここなんだろう。そういえば後ろの気配はどうした?追いつかれたか?

不思議なことに、先ほどまで僕の背後にいた謎の気配は転倒してからはすっかり無くなっていた。

 しばらくしてくると、全身の痛みと吐き気はひいていき、どうにか起き上がれそうになってきた。後頭部も足も血は出ていないようだ。よし、走れる。


 だが僕が地面に手をつき起き上がろうとしたその時、手は力を失い脆くも崩れ、全身が石のように硬直し動けなくなった。

先ほどの痛みと吐き気が戻ってきたかと思ったが、その倍の痛みと吐き気だった。

あまりの急激な体の変化に意識が朦朧とする。脳が回転しているかのようにグラグラと意識が歪んでいた。


 仰向けになった僕の目に飛び込んできたのは、遥か彼方に見える弱々しい太陽の光と、僕の顔を覗き込むぼやけた影だった。

 その影は僕の顔のすぐ近くにあるはずなのに、はっきりと輪郭も掴めず、顔にあたるはずの部分もモザイクがかかったようにぼやけていた。

色はあった。肌色にような色と黒い色があったから、おそらく人の顔だと判断したが、本当のところはわからない。人の顔のようにも見えるし、無機質な石にも見えた。


 影は僕の顔をじっと覗き込んだまま動かない。僕は今すぐにでもここから動きたかったが、体が金縛りに遭ったかのように動けない。まさかこれが金縛りというものなんだろうか。

 すると影は突然立ち上がり、視界から消えた。

 僕は頭を動かすことができず、目玉だけしか動かせない。今は仰向けになった景色しか見れないため、影がどこに移動したのかわからなかった。だが足音はまだ聞こえたので近くにいることはわかった。


 再び視界に影が戻ってきた。しかし影の手元には積まれた石の一つが握られていた。一番下に積まれていた一番大きい角のある石。その大きさは直径15cmほどで、重みも相当あるはずだ。まさか、それを……!

 影は石を持った片手を大きく振りかぶり後ろに振りかぶる。


 やめろ!

 声にもならない思い、全身に動けと命令を送った。影は容赦無く石を僕の顔面に叩きつけようとする。

 もう終わりか、そう諦めかけた時、体に一瞬だけ力が入った。

指先がわずかに動く。


 目の前に石が迫る刹那、僕は体を横にひねらさせ、影は僕ではなく地面に石を叩きつけた。

 僕はそのわずかな隙を見て、すぐさま斜面を駆け下りた。

 無我夢中だった。背後にあの影が追いかけていたかもわからなかった。飛び散った土を浴び、何度もつまづきそうになりながらひたすら地面を蹴った。まるで獣のように、一心の思いだけを胸に走り続けた。



 ふと気がつくと僕は山を抜け、市街地に出ていた。もうあの影の気配はない。少し安心して走る速度を緩めた。腕時計を見ると1時20分。よし、行ける。

 ラストスパートに気合を入れ直し、僕は学校への道を走る。


 横断歩道の信号が赤になり仕方なく僕は止まる。本当に後少しなのに焦ったい。

 だが待っている間、なぜかこんな時に突然思い出したことがあった。


 僕が初めてあの獣道を通った時……本当に小さかった頃だ。あの時、僕はさっきちょうど転んだ所あたりで小さな男の子とぶつかったことがある。

 なんでこんな山の中に人がいるのだろうと驚いた。その子は僕とぶつかった勢いで斜面を転がって、楠の木の近くに止まって倒れているのを見た。その時はまだ石も積まれていなくてただ楠がある平らな空間だった。

 あの後、僕はどうしたんだっけ?助けを呼んだ?そのまま立ち去った?

 いや、僕は


 ……近寄ってんだ。


 僕は再び走り出していた。嫌な記憶を頭から消し去るように、何も考えずに走り出していた。


 しかし、向こうの信号機は遠いままだった。

エンジン音とブレーキ音が連続で聞こえ、耳がはち切れそうに痛かった。それよりも、もっともっと、身体中が痛かった。

視界が白く、モヤがかかったようにぼやけていく。

 最後に見えた信号機は赤い光を灯していた。




「キーンコーンカーンコーン」


 始業の鐘が鳴り、生徒はグラウンドに集合し整列していた。

だが体育教師がまだ到着しておらず、生徒たちはそれぞれおしゃべりを始めた。


「さっき聞いたんだけど、猪がまた轢かれたらしいよ。しかも学校のすぐ近く」

「怖いね、なんでわざわざ山からこんな市街地に下りてきたのかな」

「放課後見に行こうぜ、猪の死骸だって」

「どうせ役所が回収して何にも残っちゃいないよ」


 雑談の輪が大きくなってきた頃、体育教師がようやく到着し生徒たちは再び静かになった。


「先ほど近隣住民の方からこの学校の生徒の忘れ物が届けられた。名札にこのクラスが書かれていたが、この体操服に見覚えのあるやつはいないか?」

 体育教師は生徒たちの前に体操服を掲げる。

「名前は書いてないんですか?」

 とある生徒が尋ねた。

「文字が潰れて読めないんだ。このクラスに忘れ物をした生徒はいないのか?」

 体育教師は生徒たちを見渡して言う。

「いませんよ。クラス全員ここに揃って体操服を着ているじゃないですか」

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