まだイケる

マツムシ サトシ

まだイケる

男がラップに包まれたトレーを手に立ち尽くしている。

「…熟成…」

そう一言発し、笑顔ともなんともつかない曖昧な表情を浮かべる。


目線はトレーを包んでいるラップの一点に集中し全く動かない。凝視している。


――消費期限――

そう書かれたラベルが貼られていた。そこに記載された日付は一週間前。

ラップに包まれたトレーの中に入っているものは肉である。

男は肉を一瞥し、曖昧な表情のまま考えを巡らせた。


「…少し茶色くなっている…」

「鶏なら間違いなくヤバいのはわかる。だけどこの肉なら…」


これは、牛のステーキ肉である。


消費期限が一週間過ぎたこのステーキ肉だが、男が自分へのご褒美として、

ちょっとした贅沢を堪能するために買っていたものだった。


この男、悲しいことに管理能力が壊滅的であり、

このステーキ肉のことは今の今まで完全に忘れ去られていた。


金銭的に問題を抱えており、少なくとも三日後までは

新しく食料を調達することが出来ない。

金銭的な問題も管理能力に起因するのだがそれはまた別の話。


トレーの底には、一般的にドリップと呼ばれる肉から流れ出した汁がたまっていた。このドリップの色も茶色みがかっており濁っている。


男はおそるおそるトレーを包んでいるラップを剥がす。

ラップとステーキ肉、接していたお互いの面の間に軽く糸が引いた。

ステーキ肉の表面がすこし粘ついているのである。


「火を通せば…イケるか…?」


肉の匂いを確かめるため、ステーキ肉の少し上を手で仰いだ。

男の顔がゆがむ。生の肉の匂いにあってはならないものが鼻腔を刺激したのだ。


酸味である。


「…これは…火を通せば…まだ、イケるか…?」


男はまだ諦めようとしない。


ちょっとした贅沢をするために買ったステーキ肉であること。

新しい食材を調達することができないこと。

まさにいまこの瞬間おなかが空いていること。


それらの要素が「このステーキ肉を食べなければならない」という思いをさらに駆り立てていた。


ちょっとした粘つきなど許容できるものだと。

ちょっとした酸っぱい匂いなど些末な問題だと。


今認識している問題から目をそらし、本気でそう感じていた。

ゴクリ、という音をさせながら喉仏を上下させる。


「うん、火を通せば全然食べられるはずだ。これは鶏でも豚でもない、牛だしな」


背筋を伸ばし、真剣な面持ちを見せた。食べる覚悟を決めた様子だった。


「これはきっと表面が悪くなっているんだ。表面を取り除けばうまくいく。」


この男、食材はおろか調理の知識も曖昧であるが、根拠のない自信に満ちあふれている。ステーキ肉を食べたいというあまりある思いが、およそ知性を要するであろうありとあらゆる思考を劣化させていた。




――ピンポーン




玄関のベルが鳴ったが、男は反応を示さなかった。

この、酸味と粘つきを帯びた茶色く変色したステーキ肉を食べる覚悟を決めたのはいいが、そもそもどう調理すればいいかわからず、肉を見つめて止まっていたのだ。




コンコンコンコンコンッ

――ピンピンピンピンポーン、ピンポーン、ピンポーン




玄関のベルがノックとともに連打されている。

さすがの男もそれに気づいた。


「はーい、今開けます」


ドアを開けると、男の友人がそこに佇んでいた。

片手にスマートフォンを握り、もう片手にはスーパーの袋を掲げていた。

男はそこで初めて自分のスマートフォンに通知が着ていることに気づいた。


「よう。お前、無視してんじゃねえよ!まあ、いつものことだけどよ。」


声は荒いが、満面の笑顔で男に語りかける。


「お前、毎月この時期になるといつも金欠だろ。顔がやつれてきてるのに何の相談もねえしよ、そろそろ死ぬんじゃねえかと思ってな。差し入れ、持ってきたぞ。」


男の友人は、そう言ってスーパーのビニール袋を男のまえに突き出す。


「聞いて驚け。肉だ。安モンだけどな。一応牛のステーキだぜ?」


男の目に涙が浮かぶ。友人が自分のことを心配してくれているという事には感動を覚えているのだが、それよりも、奇跡的なタイミングで現れた救世主を前にしたことにより感情があふれ出してしまったのだ。


「お前、そんな目潤ませてどうしたんだよ気持ち悪い…とりあえず上がってもいいか?」


コクコクと頷く男。

男の友人はそれを見て玄関のドアを閉め、靴を脱ぎ部屋に上がった。


男の友人は視線をキッチンに移す。そこで、男が食べる覚悟を決めた酸味と粘つきを帯びた茶色く変色したステーキ肉、それに気づき目を見開いた。


「お前、まさかとは思うけど、あれを食うつもりだったんじゃねえだろうな…」


「火を通せばイケると思ったけど駄目だろうか」


「ああ、イケると思うぜ。きっとあの世にな。絶対に食うのはやめとけよ馬鹿野郎」


男の友人は、男が食べる覚悟を決めていた酸味と粘つきを帯びた茶色く変色したステーキ肉に歩み寄り、トレーごとゴミ袋に投げ捨てた。


男は複雑な表情を浮かべている。この期に及んでもなお、まだこの酸味と粘つきを帯びた茶色く変色したステーキ肉は食べられるのではないか、という思いを捨て切れていない様子だった。


その表情を見逃さなかった男の友人は、後頭部に手を当て、あきれた様子でため息をつく。


「お前、もったいないとか思ってないだろうな…こんな腐ってるもん食ったら病院行きだ。病院に行ったら金がかかることくらいは、さすがにわかるよな?」


男は驚いた表情を浮かべた。

ステーキ肉を食べたいというあまりある思いにより、知性をかなぐり捨てたことによって、正気ではなくなっていたこの男。


そう、わかっていなかった。腐っていることを。

頑なに認めようとしていなかった。


今、この瞬間、初めて、腐っていることを認識したのである。


「そもそも、まともに料理もできねえだろ。いい感じに焼いてやるから待ってろ」


男の友人はテキパキと料理の準備を始める。

男はその様子をぽかんとした様子で眺めていた。


まず肉をまんべんなく叩き、塩・こしょうを全体にまぶす。

それから、オリーブオイルをすり込んだ。


熱したフライパンに肉を落とし込む。

ジュウゥゥゥゥッという音ともに煙が上がる。


調理の知識がない男には、味付けと火を通すこと以外の細かい行程の意味はよく理解できていなかったが、美味しくできあがるだろうという確信があった。


程なくして、焼き上がったステーキ肉が皿に乗せられる。

肉の上にガーリックチップが、肉の脇にはマッシュポテトが添えられていた。

すでに香ばしい香りが鼻腔をついている。


「ステーキだ…」


焼き上がったステーキ肉を見て男は感動を覚えていた。

刃先がギザついたステーキナイフを左手に、フォークを右手に持つ。


「ステーキだ…」


「そりゃそうだ。いいから食ってみろ。」


刃先がギザついたステーキナイフで、ステーキ肉を一口大に切り離す。


一口大に切り分けたステーキ肉を口に含み、噛みしめる。

焦げすぎない程度に焼けた肉の表面のカリッとした層を破り、赤みがかった肉の層へと達する。


血が、脂が、汁が溢れ出す。

ともすれば甘くも感じるそれらの匂いは、

表面の香ばしさと混ざり合い、口の中に広がっていく。


飲み込み、一息つくと、鼻腔に匂いが広がり、

匂いの重厚感は説得力を増していく。


何度も、何度も、何度も、咀嚼を重ねる。

咀嚼のたびに、その食感が、香りが、味が、男を包み込んでいった。


男は表情筋を全面的に駆使し笑顔を作る。

とにかく、今、この瞬間に幸せを感じていた。


男の友人も、その様子を見ながら笑顔を浮かべていた。

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