うしろのわたし

文月(ふづき)詩織

うシろのわたシ

 通学路が怖い。


 何か、いる。


 ひたひたと足音がついて来るの。


 けれど振り返っても見つけられない。気配はあるのに、姿だけが見えないの。

 そうするうちに、それは少しずつ近づいてきて、だんだん存在が鮮明になる。冷たい息を感じると、もう怖くて振り返ることもできないの。


 だって、もし振り返ってしまったら私は……


 ああ、もう耐えられない。


 私の、後ろに……


 そんな話をした後に、彼女は姿を消したという。


「いや、それ本当?」

「本当だよ。私の友達の友達のいとこのお母さんの弟さんの娘の話だもん」

「それ、他人じゃん!」


 どっと笑いが起こる。黄色くてかしましい。ごく普通の女子高生の昼食風景だった。その中に混じって食事しつつ、午後の授業をどうやり過ごすか考える。


 開け放たれた窓から生温かくて湿った空気が流れ込む。巻き込まれたカーテンがふわりと広がって、窓際で食事をしていた生徒たちに平和な悲鳴を上げさせた。


 帰りは雨かもしれないな。


 鞄に入っている折り畳み傘が、出番を予期して存在感を増している。文化祭の準備さえなければ降り出す前に帰れるかもしれないけれど……。


 お祭りを前に気もそぞろな生徒たちの囁き声や忍び笑いが漏れる中、教師は諦めたように淡々と午後の授業を進めてゆく。寂しげなセミの声に混じって、用水路に住み着いたウシガエルの野太い声がどこか物悲しく響く。


 ジイィ。ジイィ。


 ヴォオゥ。ヴォオゥ。


 午後の授業が終わると、待ちかねたように文化祭の準備が始まった。クラスのもよおしはお化け屋敷。寄ってたかって段ボールを黒く塗る。


 ペタペタ歩く生徒の裸足が、ペンキの缶を蹴飛ばした。こぼれた赤が、黒に飛沫の軌跡を散らす。


「このまま使えるね!」


 誰かの言葉に、教室に突発的な笑いの波が押し寄せた。


「手形付けよう!」

「足跡の方が怖いよ」

「嫌だよ、汚れる」


 意図せずして化粧を施された黒段ボールはそのままに、生徒たちは作業に戻る。


 次第に彼らは減ってゆく。帰宅を急ぐ者、部活に向かう者……。下校時刻まで残ったのは僅かに五人。


 帰宅を促す放送を聞いて我に帰れば、セミの声もウシガエルの声も止んでいる。代わりに雨の音がしていた。空を厚く覆った黒い雲の向こうで太陽が沈みつつあるらしく、辺りはどんどん暗くなる。


 男子たちは職員室に鍵を返すのも忘れて、はしゃぎながら帰ってしまった。困った人たち。ため息を漏らしつつ戸締りをし、職員室に鍵を返した。


 光が差し込まなくなると、校舎は異界の様相を示す。人の気配がしない廊下は延々と伸びて、呑み込まれるように闇に消えている。這い寄る恐怖心を振り払って、小走りに昇降口へと急いだ。


 靴を履いて、外に出る。夕闇に沈む校庭の向こうに、街の明かりが見えた。静かに雨が降っている。折り畳み傘を広げると、布に弾かれる雨音が、ぽつぽつと耳をくすぐった。


 歩くほどに影がぼやけて、黄昏へと溶けてゆく。ぼんやりとした街灯が点々と道を照らしていて、光の届かぬ場所を一層黒々とした闇に塗り潰す。


 閑静な住宅街の夜の姿を前にして、二の足を踏む。ずっと帰宅部だったから、暗い道を一人で歩くのに慣れていない。少しの距離だと自分に言い聞かせて家路を急ぐ。足が水をはじく音がした。


 季節には可憐な花を咲かせる街路樹も、側溝の隙間から顔を覗かせるエノコログサも、家族の晩餐ばんさんを包む家々も、全てが夜を巻き取って、通学路に重く影を落としている。


 近づいてくるヘッドライトを見つけて、何となしに足を止めた。背後で水をはじく足音が、一つ。傘を傾けて、ふと、振り返る。


 ヘッドライトに引き裂かれた宵闇に、人の姿は見えない。


 誰かいたような気がしたのだけれど……。


 不思議に思いながら再び歩き始めた時、パシャリともう一つ、水音がした。自分の靴が立てる音にそっくりだった。


 もう一度、振り返る。


 誰もいない。何もいない。


 胸の中で膨らむ不安を押さえて、小走りに家を目指す。何度振り返っても何もいやしないのに、どうしても背後が気にかかる。


 家に飛び込んで鍵をかけた。LEDの灯の下に入ると、先ほどまでの不安感はすっかり鳴りを潜め、馬鹿馬鹿しくなってくる。


 昼休みに小耳に挟んだ怪談そのものではないか。ちょっとした物音と夜道への不安を怖い話に当て嵌めて、ありもしない気配を感じてしまったのだ。


 馬鹿馬鹿しい話だ。


「あはは、あははは!」


 妙に明るい笑い声が、空虚に響いた。季節に遅れ始めた風鈴が、チリチリともの寂しい音を立てた。



*****



 朝起きれば、夜道に感じた怯えは消え去っていた。


 いつもの通りに登校し、授業を受け、文化祭の準備をする。誰が気を利かせたのか、赤いペンキで足跡と手形を塗りたくられた黒い段ボールが一枚用意されていた。


「う、うわあ……」


 あまりのおどろおどろしさに、称賛の言葉もどこか不安げだった。


「誰が作ったの?」


 誰も名乗り出なかった。


「昨日最後まで残ってたのは俺たち四人だけど、あんなのなかったぞ」

「あれ、でもそういや、鍵は返したっけ?」

「俺は返してない」

「返したんじゃない? 今朝は職員室にあったよ」

「え、でも、誰が?」

「私だよ」

「ね、ねえ、今……!」


 何か言いかけた女子生徒に、皆の視線が集まった。彼女は気圧されたように固まった。


「な、なんでもない……」


 なんとなく不安になって、クラスメイトたちは視線を交わし合う。どこからともなく何かを誤魔化すようなくぐもった笑いが起きて、誰もがそれに追従した。


 赤ペンキの段ボールのことをそれ以上追求しようとする者はいなかった。クラスメイトはそれぞれに割り当てられた仕事に散った。


 ンモォオゥ。ンモォオゥ。


 時折響くウシガエルの声を聞きながら、一心に段ボールを塗った。時間の経過と共に、少しずつ教室から生徒が減ってゆく。

 西の空で赤々と燃える太陽が、教室に長い影を落とす。忘れたはずの不安がむくむくと膨れ上がって来た。


 夕日が街並みの向こうへと沈み、空を薄闇が包む頃、校内放送が全校生徒に下校を促す。何も起きるはずはない。自分にそう言い聞かせて帰路に就いた。


 ちかちか瞬く街灯に照らされて、はねの破れた蛾が身を震わせていた。真上から照らされた自分の影が、十字に滲んで揺れている。


 耳を澄まして、歩く。


 チリチリ、チリチリ……


 どこかで虫が鳴いている。自分の足音は聞こえない。当然だ。普通に歩けば足音なんてしない。アスファルトは革靴を優しく受け止める。昨日のアレは気のせいだ。確認するように一歩一歩、足を進める。


 ひたひた。


 かすかな音だった。凍り付いたように足が止まる。

 振り返る。何もいない。


 潜むように静かな、それでいてはっきりとした足音。アスファルトの上でそんな音を立てられるものだろうか?


 寒気が足先から這い上がって来る。すがるように鞄を抱えて、走り出す寸前の速度で家に戻った。


 玄関のドアを力いっぱい閉めて、座り込む。


 りぃりぃ、りぃり……。


 鳴き交わす虫の音が、葉のこすり合わさる音の中に消えた。


 ドアが音を立てて、小さく揺れた。



*****



 もう気のせいとは思えない。


 一日、また一日。それは着実に近づいてくる。


 お化け屋敷で流す予定の不気味なBGMを聞きながら、おどろおどろしい小道具を作る。


 日は少しずつ短くなり、夜が一日を覆ってゆく。闇が迫るほどにアレの気配が濃密になる。


 ひたひた、ひたひた。


 呼気を感じるほど近くにいるのに、振り返って探しても見つからない。正体を確かめたいのに、見つけてしまうのが恐ろしい。


 距離が近づくにつれて、振り返らなくなった。


 肩を縮め、やや前のめりになって、急ぎ足に帰宅する。


 もしも振り返ってそこにいたらどうしよう。


 家に帰っても、不安は消えない。


 家具の隙間、ベッドの下、箪笥たんすの中……。あらゆる闇にこちらを見つめる目が潜んでいる。そんな妄想に身を竦ませる。


 外から猫の喧嘩の声が響いた。


 ンなぁおん、いにああぁ……


 音の入る隙間から、何かが部屋に忍び込んでくるような気がした。窓に鍵をかけ、カーテンを閉める。ねっとりとした隙間風が部屋を通り抜けた。


 気を紛らわせようとスマホに指を走らせる。メッセージアプリに未読の通知が溜まっていた。クラスのやり取りが賑わっている。最近体験した怖い話で盛り上がっているらしい。


 人の気も知らないで……。


 スマホを切ると、周囲は暗闇に包まれた。慌てて電源を入れ直す。

 スマホのバックライトが部屋を照らす。色の薄い景色は白黒映画に入り込んだかのようで、そこはかとなく現実から浮き上がっていた。自分の息づかいが空気の中に溶けてゆく。心臓が、音を立てた。


 バックバックバック……


 こんなに不安だというのに、なんだって明かりを消しているのだろう。自分に呆れながら立ち上がり、壁のスイッチを押した。


 明かりは点らなかった。


 当然だ。たった今、スイッチをオフにしたのだから。逆に言えば、スイッチを押すまではオンだった。それなのに部屋は暗かった……。


 いつ、どうして、消えたのだろう?


 ブオオォオォオン……


 家の外を車が通る。


 ヘッドライトが、カーテンに一瞬の影絵を映し出した。


 人影のように見えた。



*****



 もう家路を急がない。


 家にいても安心感は得られない。


 むしろ確かに背後いると分かるだけ外の方がましだった。


 ひたひた。ひたひた。ひたひた。


 それはぴたりと背後について来て、冷たい体温すら感じられた。怯えて身を縮める自分をつぶさに見つめて、無音で笑う。


 そこに何がいるのかは解らない。


 だって、もし振り返ってしまったら……


 ああ、もう耐えられない。


 振り向こうとする自分を、懸命に抑えた。


 どうしてこうなってしまったのだろう?

 何の懸念もなく友人たちとはしゃいでいたあの頃が遠い昔のようだ。

 あの日、友人たちと過ごした昼休みに怪談を聞いてから、全てが変わってしまった。


 あれはどういう結末だったっけ?


――彼女は姿を消したという。


 怪談を披露した彼女の、友達の友達のいとこのお母さんの弟さんの娘の身に起きたことだと言っていた。

 そんな誰だか解らない赤の他人を襲った怪異が、どうしてここに現れたのか……。


 赤の、他人?


 確かに友達の友達の、と聞くと他人のことのように思われる。けれども、考えようによってはそれは……本人の話なのではないか?


 あの話をしたのは誰だった?


 スマートフォンを取り出して、震える手で友人に電話をかけた。

 繰り返す呼び出し音がもどかしい。なかなか応答がない。もうだめかと諦めかけた時、応答の音が鼓膜を打った。


『もしもし?』


 いぶかしげな声が電話口に出た。


「急に電話してごめん。あのさ、前に変な怪談話を聞いたの、覚えてる? 昼休みに! あれって、誰が話してたっけ?」

『えっと……ご、ごめん。覚えてないや』

「そっか。ごめんね、変な電話かけて」


 急いで別の友人に電話をかける。また応答までに長い時間がかかった。スマートフォンを握る手に力がこもる。背後の気配が膨れ上がる。


『はい……』


 不審げな声が電話口に出た。


「もしもし? いきなりごめんね。ちょっと前の昼休みに、変な怪談を聞いたよね? 誰が話したか覚えてる?」


 必死に問いかけると、しばらくの間をおいて「覚えていない」と返って来る。手の平にじっとりと汗が滲む。知らず息が早くなり、胸が苦しくなった。


 早く、早く……。両手でスマートフォンを握って、次の友人に電話をかける。ナニかが肩を掴んだ。制服の布地を通して体温が吸い取られてゆく。


 誰に問うても答えは同じ。


 ――シラナイ。

 ――オボエテイナイ。


 スマートフォンを持ったまま、立ち尽くす。


 誰も覚えていないのは何故だろう。

 日常の他愛ない話だから、忘れてしまった?

 もっと詳細に話せば思い出すだろうか。それとも……


 ダレかガうソをつイてイる?


 冷たい息が耳にかかる。泣きそうになりながら、初めにかけた友人にもう一度電話をかける。十数回目の呼び出し音の後に、ようやく応答があった。


「あのね、何度も電話してごめんなさい! さっきの怪談の話なんだけれど、通学路で、後ろにね――」

「あの!」


 恐怖混じりの友人の叫びに、息を呑む。


 ――アナタ、ダレデスカ?


 その言葉を受けた途端、意識の輪郭がぐにゃりと歪んだ。


 いつかの昼休み、私はどこカの学校で、ゆうジんたちに私ノ友達の友達のいトこのお母さンの弟サんのむスめの話をををお……


 ゆっくりと後ろを振り返った。


 そこには――


 通学路にスマートフォンが落ちた。


 ツー……ツー……ツー……


 プツンという音を残して、消えた。


 



おわり

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