第24話(最終話) どちらにしようかな
部屋のインターホンが鳴った。日曜の午後だ、新聞の勧誘か何かだろうと桃子は無視を決め込んだ。そのうち諦めて帰るだろうと思っていたら、ドアの外からフルネームを呼ばれた。慌ててドアを開けると、亮平が立っていた。
「よっ。おっ、なんかよさそうな部屋じゃん」
ドアの隙間から亮平は部屋の中を覗きこんでいた。すぐに必要なものだけを取り出して残りは後回しにしてきたので、引っ越して一か月が経とうというのに部屋にはまだ段ボールが散乱したままだった。
桃子は後ろ手にドアを閉め、廊下に出た。
「なんで、ここがわかったの?」
「俺んとこのポストにまぎれててさ」
亮平は通販カタログを差し出した。転送指示として新しい住所が記されていた。
「それと、これ」
渡された封筒はずしりと重かった。口を開くと、小銭と札が数枚入っているのが見えた。
「借金ふみたおすところだった。スーツ代と、コーヒー代、蕎麦屋の勘定。ちょっと確かめてよ」
桃子は封筒から金を取り出し、亮平の目の前で金額を確かめた。金額があっているとわかると亮平は白い歯を見せて笑った。
「スーツ代はいいって」
「受け取っておけよ。もともとそういう話なんだからさ。じゃあな」
デニムのポケットに両手を入れ、口笛をふきながら亮平はエレベーターホールへとむかった。
エレベーターはなかなか来なかった。手持ちぶさた気味に、亮平はあちこちに視線をやっていた。金の入った封筒を手にしたまま、桃子は亮平を見つめて廊下に立ち尽くしていた。
借金を返してもらった今、ふたりをつなぐものは何もない。もう隣人でもない。エレベーターが来てしまえば、亮平とはこれきりだ。
手のうちをするりと抜けていきそうになる何かをつかもうと、桃子は一歩前に足を踏み出して、裸足だと気づいた。その時だった。エレベーターが降りてきて、亮平は吸い込まれていった。ドアが閉まる直前、亮平は桃子にむかって手をあげてみせた。
まだ間に合う。
弾かれたように桃子は部屋に飛び込み、靴をひっかけた。再び外に飛び出そうとして外出できるような服ではないと気づき、クローゼットにかけこんだ。
デニムをさがす桃子の目に、白いワンピースがとびこんできた。迷っている暇はない。ワンピースをひっつかむなり、早業で着替え、足元はスニーカーという出で立ちで部屋を飛び出した。
亮平に追いついたのは駅前にさしかかった時だった。
「ちょっと待って」
息を切らしながら亮平の背中にむかって声をかけると、亮平が振り返った。驚いたみせた表情はみるみるうちに歪んでいった。
「何だ、その格好」
亮平がそう口走ったのも無理はない。大きな襟ぐりからは肩がはだけ、膝までたくしあげている裾の下から見えている両足にはスニーカーという出で立ちの桃子なのだ。
「それ、あのワンピか?」
ハンガーにかかっているのを見たことがあるはずだが、人が着ていると別の洋服に見えるらしい。じろじろと、桃子の頭から爪の先まで眺めました後、亮平は「似合わねー」と叫んだ。通りすがりの人間が振り返ったほどの大声だった。
「まさか、その格好でマンションから来たとか?」
「うん……」
「うわ、なんか笑えるんですけど」
「うん……」
「で、何かオレに用?」
「……」
「あれ、金、足んなかった? てか、一緒に確かめたじゃんか」
息を整えようと大きく息を吸い込んだその時だった。改札の影から人が現れ、ふたりのもとへと近づいてきた。
「遅いぃ。待ち合わせの時間、何時だと思ってんの」
小走りにかけてきた彩花は、近くにきてようやく桃子に気づいた。
「桃子? 何、その格好」
「走ってきたんだってさ」
亮平がかわりに答えた。
「走ってきたって、その格好で? どこから?」
「マンションからに決まってんじゃん」
今度も答えたのは亮平だった。
「マンション? 桃子の引っ越し先のマンションてこの近くなの?」
「そうそう」
亮平はいつの間にか、桃子になったようだ。
「桃子がリョーヘイに何か用なの?」
彩花は怪訝な顔をしてみせた。
「話があって――」
桃子は彩花をみやった。亮平と二人きりで話をさせてもらえないかと無言で頼んだつもりだったが、彩花はきょとんとするばかりだった。それならいいと桃子は覚悟を決めた。いずれ彩花にはわかってしまうことなのだ。
「私、彼が好き」
一瞬の間の後、彩花と亮平の驚きの声が美しいハーモニーを奏でた。
「桃子は佐野さんが好きなんじゃなかった?」
彩花は悲鳴に近い声をあげた。
「佐野って誰?」
「同じ会社の人、桃子の先輩」
彩花が亮平に耳打ちした。
「リョーヘイが好きってどういうこと? 好きになったってこと?」
「うん」
「私の彼だって分かってて言ってるの?」
彩花の口調が次第に厳しくなりつつあった。
「もしかして、私の付き合っている彼だから好きになったの? 佐野さんにしても、リョーヘイにしても」
「それは違う」
自分でも驚くほどの大きな声が出た。
「先輩のことはずっと好きだった。彩花が告白されて付き合うようになる前から。リョーヘイ……くんはただの隣人だったけど、気にはなっていたんだと思う」
「思う?」
「好きだって気づいたのは最近なんだ」
「私がリョーヘイと付き合っているって知った後?」
「はっきりした気持ちを知ったのはその頃」
頷いてみせた桃子にむかって彩花は大きなため息をついてみせた。
「私の彼だって知ってて何で告白するの」
「言わないと後悔すると思ったから――」
「告白したらリョーヘイが桃子と付き合うとでも思ったの?」
「それは――」
考えてもみなかった。望んでもいなかった。自分の気持ちを打ち明けることで頭がいっぱいだった。貴一の時には感情を内に秘め続けてきたその反動だったのかもしれない。
「あのさ、コクられたのはオレなんだけど?」
二人の間に挟まれるようにして亮平が立っていた。深刻な表情の桃子と彩花に対し、ひとりニヤついている。
「それで、どうなの? リョーヘイは、桃子に好きって言われて付き合う気はあるの?」
「うん」
即答だった。亮平は満面に笑顔を浮かべていた。血の気が引いた彩花の顔は真っ白になっている。
「私とは別れるってこと?」
「なんで? 別れないって。オレ、どっちも好きだもん。二人と付き合えばいいじゃん?」
とたんに桃子は噴き出してしまった。女ふたりが真剣な事柄に、亮平はいとも簡単に答えを出してしまった。割ってしまえば立たせることのできるコロンブスの卵。
「何言ってるの? 浮気を認めろってこと?」
「浮気じゃないって。二人とも本気で真剣に付き合うんだから」
蒼白だった彩花の顔色は今は怒りで真っ赤になっていた。
「二股ってこと? 私は絶対嫌だから! 桃子も嫌よね?」
昨日の敵は今日の味方。彩花の対戦相手は亮平にたちまち変わった。
「うん。私も嫌。私たちのどちらと付き合うか、選んで」
桃子はこれ以上ない魅惑的な笑顔を作ってみせた。
「選ばないとダメ? どうしても?」
亮平は食い下がったが、共同戦線をはった桃子と彩花はゆずらなかった。
「しょうがねえなあ」
ぶつくさ文句を言いながら、人差し指をたて、桃子と彩花との間で降り始めた。
「どちらにしようかな 天の……」
「ちょっと待って、そんなことで決めるの?!」
彩花が亮平の人差し指をつかんだ。
「もっと真剣に考えて。こんな選び方ってないわ。桃子も何か言ってよ」
「何をどうやったって納得しないんだろ? だったらこの方法でもいいじゃん。『天の神様の言う通り』なんだからよ」
彩花の手を振り切り、亮平は再び人差し指を振り始めた。
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り あっぷぷのあぷぷ」
指は桃子を指し示して止まった。
「あっぷぷのあぷぷって何。なのなのな じゃないの?」
「オレはあっぷぷのあぷぷでしめんの」
「『なのなのなすびの柿の種』だよね、桃子?」
「なのなのなすびの柿の種?」
桃子と亮平とは声をそろえて聞き返した。亮平はスマホを取り出し、調べ始めた。
「関東に多い『なのなのな』と全国にひろがっている『柿の種』がまじってんのな」
亮平はスマホの画面を彩花に見せた。額を付き合わせるようにして亮平と全国に広がるバリエーションをおもしろがっていた彩花は「ねえ、『なのなのなすびの柿の種』でしめてみて」
と言った。
「いいぜ」
言われるままに亮平は指を左右に振った。今度は彩花を差して止まった。
「『なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン』でもやってみて」と桃子。
亮平の指は桃子を指した。
「それで、どっちにするの」
彩花が迫った。
「ああ、もう、うぜっ! 『なのなのなすびの柿の種』も『なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン』も文字数が違うんだから、違う結果になるだろ」
亮平は頭を抱えて地面にうずくまり、助けを求めるように桃子と彩花の顔をかわるがわる見上げた。桃子も彩花も引き下がる様子がないとわかると、亮平は額が地面につくほど頭を下げて考えこんでしまった。
長くは感じられなかった。貴一の時には六年もの時間がかかった。その時間を耐えた今ならどんな長い時間でも我慢できる。
「いいこと思いついた!」
やおら、亮平は立ち上がった。水中から飛び出してきたイルカのように弾みがついていた。
「『天の神様の言う通り』までは全国共通だから、『天の神様の言う通り』の『り』で指が止まった方と付き合う。それで文句ねえだろ」
互いに顔を見交わし、桃子と彩花はうなずいた。
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り――」
亮平の指が止まった。
なのなのな あじろ けい @ajiro_kei
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